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第2話 まぶしい
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衣真くんとの読書会が始まった。毎週水曜日の4限は二人とも授業が入っていない。その時間にラウンジに集合することにした。
その前に、哲学の入門書を衣真くんが選んでくれた。そしてお茶目な上目遣いで「宿題がありますよ」と言うんだけど、そんな仕草も衣真くんによく似合う。なんて思ったんだから、僕はそのときから衣真くんの魅力に絡め取られていたんだろうなあ。
衣真くんの「宿題」というのは、第一章を読んで分からない部分をリストにすることだった。僕は張り切って、1ページ目の最初の文を目で追う。
……どういうことだろう、分からない。普段から使う語彙が、この本ではどういう意味で使われているのかさっぱり分からない。僕はたった1文から3つもの単語を抜き出してリストに加え、へこたれそうな気持ちでため息をついた。ここから第一章を読み切るまでに、どれだけの分からない単語があるのだろう。
単語だけではない。2文目を読もうとして僕はほとほと嫌になった。文が長くて構造が複雑で、日本語のはずなのに意味が頭に入ってこない。入試の現代文を読み解くように、補助線を引きながらちびちび読み進める。
ああ、衣真くんはこんな難解なものを難なく読めるんだ。僕とは別次元の存在なんだ。そんな彼にライバル意識を持っていた自分が恥ずかしくてたまらなくて、「あ~~」と意味のない声を上げて顔を手で覆う。
恥ずかしい。
1時間かけて2ページしか進まなかった。僕の頭が悪いんだろうか? 衣真くんの宿題は「第一章まで」。哲学にこれから入門するような人でも、簡単に第一章のリストアップを終えられると思ったから、衣真くんはそういう宿題にしたんじゃないか?
有名大学に入ってから、やっぱり周囲のレベルは変わった。衣真くんだけじゃなく「敵わない」と思う人に何人も出会った。それだから、入学して1ヶ月、僕の自信はふにゃふにゃに萎えてしまって、怠惰な気持ちが「どうせ敵わない」を言い訳にぶくぶく太る。どうせ僕なんて……。
意識が逸れてしまった。入門書をにらんでも、すっかり集中が切れてしまって視線がツルツルと滑るばかり。
読書会の前々日の夜までに、衣真くんに分からない部分のリストを送ることになっている。つまり明後日の夜までに第一章を読み終えなければならない。でも1時間に2ページじゃ到底無理だ。無茶を承知で、大学の講義の課題を犠牲にしてやり遂げるプランを考えてみて、やっぱり無理だと匙を投げた。
読めたところまでのリストで許してもらおう。そう決めたけれど、本当は衣真くんの前ではいい格好をしていたいから、心がじゅくじゅくする。ジャムみたいだ。腐った果物で作った、とても食べられないジャム。
僕の心には、よくそういうのが湧いてくる。腐ったジャムを心に隠していること自体が恥ずかしい。ああ、恥ずかしい。じゅくじゅく。じゅくじゅく。
一旦ジャムが心に湧いてくると、放り出したい気持ちになってしまって、翌日になってもやる気は湧いてこない。結局、3日かけてたったの5ページだけ読んで、内容にはさっぱりついていけないまま、衣真くんにリストを送った。
『ごめん、難しくて全然進まなかった』
チャットで言い訳を添えて。
やっぱり僕はばかなんだろうか。ばかならばかなりに、こんな難しい本を読もうとしなければよかった。僕の身の丈を超えていたんだ。恥ずかしい。ぶくっ、ぶくっ、とジャムが沸き立つ。
『こんばんは。リストありがとう!』
衣真くんからのメッセージを見ると、なぜかいつも衣真くんの明るい声が浮かぶ。それだけで僕の縮こまった心が明るさを取り戻す。
『僕の宿題が悪かった! ごめん!』
『こんなに丁寧に読んでくれると思わなかった』
『伊藤くんはすごいよ。どうすごいかは読書会で説明する!』
『おやすみなさい。よく休んでね』
衣真くんは4つのメッセージで会話を切り上げた。僕はなんと返信したらいいかわからなくて、『こちらこそありがとう。おやすみ』と挨拶だけ返した。
心がもやもやに支配される。「こんなに丁寧に」読まなくてよかったんだろうか。馬鹿正直に読もうとしたから僕は5ページしか進められなかったんだろうか。
衣真くんに「すごいよ」と言われた。でもその文字はなんだかスマホの画面の中で居心地悪そうにしている気がした。それは今の僕の心に、衣真くんからの「すごいよ」を受け入れる場所がないから。
敵わなくていいって思ったのに、敵わないことにへこたれてしまう。でも僕が2ページで放り出さずあと3ページ進めたのは、合宿のとき優しくしてもらったからだ。あの出来事がなかったら、僕はとっくにむくれて衣真くんから距離を取っていただろう。
敵わない。かっこいい。
——衣真くんはかっこいい。
この一文は、僕の心にストンと落ちてきて、そのままそこに落ち着いた。
ああ、衣真くんを「かっこいい」と思えばいいんだ。そうすれば、きっと僕のこのぐじゅぐじゅも溶けていく。
もう一度トーク画面を見返す。
『伊藤くんはすごいよ』
今度は、素直に嬉しく思えた。思わず頬が緩んで、スマホをきゅっと握りしめる。回り道をしたけど、僕は衣真くんの言葉をそのまま温かく受け取ることができた。
その前に、哲学の入門書を衣真くんが選んでくれた。そしてお茶目な上目遣いで「宿題がありますよ」と言うんだけど、そんな仕草も衣真くんによく似合う。なんて思ったんだから、僕はそのときから衣真くんの魅力に絡め取られていたんだろうなあ。
衣真くんの「宿題」というのは、第一章を読んで分からない部分をリストにすることだった。僕は張り切って、1ページ目の最初の文を目で追う。
……どういうことだろう、分からない。普段から使う語彙が、この本ではどういう意味で使われているのかさっぱり分からない。僕はたった1文から3つもの単語を抜き出してリストに加え、へこたれそうな気持ちでため息をついた。ここから第一章を読み切るまでに、どれだけの分からない単語があるのだろう。
単語だけではない。2文目を読もうとして僕はほとほと嫌になった。文が長くて構造が複雑で、日本語のはずなのに意味が頭に入ってこない。入試の現代文を読み解くように、補助線を引きながらちびちび読み進める。
ああ、衣真くんはこんな難解なものを難なく読めるんだ。僕とは別次元の存在なんだ。そんな彼にライバル意識を持っていた自分が恥ずかしくてたまらなくて、「あ~~」と意味のない声を上げて顔を手で覆う。
恥ずかしい。
1時間かけて2ページしか進まなかった。僕の頭が悪いんだろうか? 衣真くんの宿題は「第一章まで」。哲学にこれから入門するような人でも、簡単に第一章のリストアップを終えられると思ったから、衣真くんはそういう宿題にしたんじゃないか?
有名大学に入ってから、やっぱり周囲のレベルは変わった。衣真くんだけじゃなく「敵わない」と思う人に何人も出会った。それだから、入学して1ヶ月、僕の自信はふにゃふにゃに萎えてしまって、怠惰な気持ちが「どうせ敵わない」を言い訳にぶくぶく太る。どうせ僕なんて……。
意識が逸れてしまった。入門書をにらんでも、すっかり集中が切れてしまって視線がツルツルと滑るばかり。
読書会の前々日の夜までに、衣真くんに分からない部分のリストを送ることになっている。つまり明後日の夜までに第一章を読み終えなければならない。でも1時間に2ページじゃ到底無理だ。無茶を承知で、大学の講義の課題を犠牲にしてやり遂げるプランを考えてみて、やっぱり無理だと匙を投げた。
読めたところまでのリストで許してもらおう。そう決めたけれど、本当は衣真くんの前ではいい格好をしていたいから、心がじゅくじゅくする。ジャムみたいだ。腐った果物で作った、とても食べられないジャム。
僕の心には、よくそういうのが湧いてくる。腐ったジャムを心に隠していること自体が恥ずかしい。ああ、恥ずかしい。じゅくじゅく。じゅくじゅく。
一旦ジャムが心に湧いてくると、放り出したい気持ちになってしまって、翌日になってもやる気は湧いてこない。結局、3日かけてたったの5ページだけ読んで、内容にはさっぱりついていけないまま、衣真くんにリストを送った。
『ごめん、難しくて全然進まなかった』
チャットで言い訳を添えて。
やっぱり僕はばかなんだろうか。ばかならばかなりに、こんな難しい本を読もうとしなければよかった。僕の身の丈を超えていたんだ。恥ずかしい。ぶくっ、ぶくっ、とジャムが沸き立つ。
『こんばんは。リストありがとう!』
衣真くんからのメッセージを見ると、なぜかいつも衣真くんの明るい声が浮かぶ。それだけで僕の縮こまった心が明るさを取り戻す。
『僕の宿題が悪かった! ごめん!』
『こんなに丁寧に読んでくれると思わなかった』
『伊藤くんはすごいよ。どうすごいかは読書会で説明する!』
『おやすみなさい。よく休んでね』
衣真くんは4つのメッセージで会話を切り上げた。僕はなんと返信したらいいかわからなくて、『こちらこそありがとう。おやすみ』と挨拶だけ返した。
心がもやもやに支配される。「こんなに丁寧に」読まなくてよかったんだろうか。馬鹿正直に読もうとしたから僕は5ページしか進められなかったんだろうか。
衣真くんに「すごいよ」と言われた。でもその文字はなんだかスマホの画面の中で居心地悪そうにしている気がした。それは今の僕の心に、衣真くんからの「すごいよ」を受け入れる場所がないから。
敵わなくていいって思ったのに、敵わないことにへこたれてしまう。でも僕が2ページで放り出さずあと3ページ進めたのは、合宿のとき優しくしてもらったからだ。あの出来事がなかったら、僕はとっくにむくれて衣真くんから距離を取っていただろう。
敵わない。かっこいい。
——衣真くんはかっこいい。
この一文は、僕の心にストンと落ちてきて、そのままそこに落ち着いた。
ああ、衣真くんを「かっこいい」と思えばいいんだ。そうすれば、きっと僕のこのぐじゅぐじゅも溶けていく。
もう一度トーク画面を見返す。
『伊藤くんはすごいよ』
今度は、素直に嬉しく思えた。思わず頬が緩んで、スマホをきゅっと握りしめる。回り道をしたけど、僕は衣真くんの言葉をそのまま温かく受け取ることができた。
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