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第二部 「優しいお正月」作戦編

19. 先の約束

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「うーん。ねえ、文渡あやとさん。ご飯パトロン、やめにしない?」
「……え。どうして? 嫌になった?」

 柘植野は混乱して、サンマの身を皿の上に取り落とした。

「おれ、今文渡さんが教えてくれたことで、心が満タンになった気がする。もう全然空っぽじゃない」
すぐるさん……」

 柘植野は、喜んでいいのか分からなかった。
 2人の奇妙であたたかい契約がなくなっても、今まで通りの2人でいられるか、自信がなかった。

「文渡さんが言ったんじゃん。『もうお腹いっぱいですよ』って笑えるまで、言葉を贈るって。おれ、今笑ってる」
「じゃあこの涙はなんなの。目を閉じて」

 柘植野は、指先で丁寧に柴田の涙をぬぐった。

「涙は……。文渡さんが、言い方を変えて、おれにずーっとこれを伝えてくれてたんだって分かったから。おれ、時間をかけちゃったけど、今、すごく大丈夫になった」
「……そっか」

 柘植野は、卒業生を送り出す教師はこんな気持ちなんだろうかと想像した。

「あ、安心して! 今まで通り、自炊する日は夕ご飯を一緒に食べよう」
「え? それじゃ、今までの格下げになってしまうじゃない! やっぱり心配だよ。お金に余裕はあるから、このままでいようよ」

 柘植野は、2人が契約で結ばれていない状態が、急に不安になってしまった。

「ええー。じゃあ、ファンレターだけでいい」
「そんな!」
「おれ、家族に強制されてたわけじゃなく、料理が好きなんだ。それも文渡さんのおかげで分かった。だから全然負担じゃない」

 柘植野は困って、眉を寄せて笑った。

「優さん。お金というのはいいものだよ。なんにでも交換できるから」
「それはそうだけど、仕送りも結構あるし、バイトもしてるし」

 柘植野は微笑んで、柴田の目をまっすぐ見つめた。

「ファンレターは、僕とあなたの間で閉じている。でもお金は、あなたと世界を結ぶもの」
「おれと、世界を……」
「お金は、あなたという人間の素晴らしさが、世界と結びついていることを証明するもの。だから、お金を払いたいな」

 柴田は腕を組んで、うーんと考える顔をした。

「確かに『これは文渡さんがおれに価値があると思ってくれたお金なんだ』と思ってる」
「そういうこと。あなたは賢いね」
「ん~~!! じゃあ、だんだんやめていこう。来年になったら、お金を減らしてみる。3ヶ月ごとにお金を減らして——」
「ファンレターはやめないよ。僕の職業訓練になってるからね」
「そっか~!!」

 柴田は、今日一番の笑顔を見せた。もう涙は残っていなかった。

「文渡さん。来年になるまで一緒にいて、3ヶ月後も、そのまた3ヶ月後も、一緒にいてくださいね」
「……! うん。ずっとそうしよう」

 柘植野は、柴田が先の約束をしてくれたのに感激した。
 本当は今日、何か口実を作って、数ヶ月先の約束を作るつもりだった。

 柘植野はさっきまで「長続きするカップルの秘訣は?3つのコツとNG行動を紹介」という記事を読んでいた。
 そこには、少し先の約束を作ることで、少しずつ将来を意識できると書いてあったのだ。

「僕は、年が明けても優さんと一緒にいて、3ヶ月後も、その3ヶ月後も、優さんと一緒なんだね」
「そうだよ!」

 柘植野はたまらなく幸せで、柴田に肩を寄せた。

 こうやって少しずつ約束を積み重ねて、優さんが大学を卒業するまで、誠実なお付き合いを続けよう。
 途中で破局したんじゃ意味がない。
 せっかく与えられた4年という時間をゆっくり使って、優さんとの将来を考えていこう。

 そのあとは、プロポーズを……。

「文渡さん? どうしたの?」
「ハッ。妄想してた。食べなきゃ」
「何の妄想?」
「いや~しかしサンマおいしいな! ちょっと冷めても、脂が乗ってるからパサパサしないね!」

 柘植野は薔薇色のプロポーズを妄想していたので、全力でごまかした。

「酢の物おいしい~! 口がキュッとならない絶妙な酸っぱさで最高です! お酢の味できゅうりも気にならず食べられる!」
「よかった~」
手毬麩てまりふ、もちもちしておいしいなあ……」
「おれもお麩が好きだな」
「金沢はお麩が名物だよ。実家に遊びに来たときには、ついでに金沢観光もしようよ」
「したい! 兼六園けんろくえんがあるとこでしょ」
「そうそう」

 柘植野は、またひとつ約束が増えたことに頬をゆるめた。

「おれ、文渡さんとご飯を食べられて、ほんとにラッキーだなと思ってる」

 やわらかく笑って、柴田が柘植野を見る。

「優さん……!」
「だって見て!? 削りたての大根おろしだよ?」

 柴田は、声に力を込めて、サンマの皿に添えた大根おろしを指した。

「1人分だったら、大根半分買ってきて大根おろしに使うなんて贅沢できないよ? 残りの大根を使いきれないもん」
「なるほど……」
「2人だからできる贅沢! 文渡さん、本当にありがとう」
「ふふ。こちらこそ。僕の方がいろんなものをもらってるよ」

 柘植野は柴田の両手を包んで、花が咲くように笑った。

 素敵な献立の夕ご飯が終わった。
 柘植野が洗い物を担当する。柴田はベッドでダラダラしている。
 大学の課題もないし、ピアノは明日練習すればいい。
 柴田は柘植野とイチャイチャしたかったし、柘植野も同じ気持ちだ。

 はやる気持ちがわざわいした。
 柘植野の手から、柴田用の茶碗がつるりとすべり落ち、シンクの中で真っ二つに割れた。

「文渡さん!? 大丈夫!?」

 柴田に肩を叩かれて、柘植野はハッとした。ショックで呆然としていたのだ。

「あ、ごめん……。優さんのお茶碗、割っちゃった……」
「全然いいよ、手は大丈夫?」
「うん、怪我はしてない……」

 柴田が手伝ってくれたおかげで、破片はすぐに片付いた。
 しかし、柘植野の不安は消えていかない。

 ——なんか、不吉な感じがする……。

「文渡さん、おいで」

 ベッドに座った柴田が、両腕を広げて呼んだ。
 柘植野は柴田の肩に顔をうずめて甘えた。
 好きな人のにおいで身体が満たされる。少しずつ大丈夫になっていく。

「そういえば、さっきスマホでなに見てたの?」
「……ええ~。恥ずかしいな」
「やっぱりエッチな記事だ」
「違うよ~!」

 柘植野はスマホを手に取った。
 チャットアプリの通知が目に入ったので、何気なく開いた。
 柘植野の色白の顔が、さらに色を失って、蒼白になっていく。

「文渡さん? 真っ青だよ!? 大丈夫!?」
「ちょっと……1人になりたい」
「そっか……。分かった」

 柴田は優しく柘植野の髪を撫でて、自室に帰っていった。

 柘植野はアプリを見返した。
 新大久保を案内した3人組のうち、柴田の妹の結芽ゆめに続いて、高田からも連絡が来た。
 メッセージは3通。プレビューで見えるのは最後の1つだけ。

『早く鍵をかけてください!!』
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