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第一部 ご飯パトロン編

53. もう隠さなくていい

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 柘植野のもとに友人の結婚式の招待状が届いた。スーツを引っ張り出して確認すると、腹周りが少しキツくなっていた。
 柴田さんの料理はおいしすぎるな、と柘植野は苦笑した。

 ネクタイなんて久しく結んでいないので、練習のつもりで結び、鏡を見た。

「髪が……長いな……?」

 糀谷こうじやに開けられたピアスホールを隠すため、柘植野は耳が隠れる長さまで髪を伸ばしている。レディースヘアのショートボブくらいの長さだ。
 今までは気にしていなかったけれど、メンズスーツには合わない気がする。

 思い切って、右の髪を耳にかけてみた。
 柘植野には、動揺したときに耳たぶに爪を立てる癖があり、痛々しい傷が残っている。

 でも、直視しても恐ろしくはなかった。

 もう隠さなくていい。
 だって僕は、あのひととはずうっと離れた人生を歩んでいくんだから。

 耳たぶの傷を隠す化粧品はあるのか検索すると、コンシーラーというのがいいらしい。
 おすすめのコンシーラーを教えてほしいとしほりに連絡して、美容院を予約した。

◇◇◇

 思い切って髪を切った。柘植野はすぐに柴田に会いたくなって、連絡して大学に向かった。

 柴田に指定された場所にはピアノサークルの会員が集まっていた。柘植野は距離を取って、柴田が抜けてくるのを待った。

 背の高い柴田がこちらを向いて、ふっと顔を逸らして……もう一度バッと柘植野を見た。お手本のような二度見だ。

「柘植野さーん!」

 大きな声で呼んで、駆け寄ってくる。ほかの会員がざわついているが、いいのだろうか。

「髪を切ったんですか!」
「ええ。どうでしょう」

 特にこだわりもなく、長さを短くしただけのスタイルなのだが。

「とってもカッコいいです! でも、長いの触りたかったのに……。触っていいですか?」
「え? いいですけど……」

 柴田の大きな手が、柘植野の猫っ毛をさらさらと撫でる。
 ピアノサークルの集団から強い視線を感じて、柘植野はとても恥ずかしかった。

「お待たせしました。帰りましょ。夕ご飯は何にしようかな~」
「もうサークルはいいんですか?」
「いいんです。だべってただけだから」

 柴田は大きな声で「お疲れさまでーす!」とサークルの面々に叫び、柘植野と歩き出した。

「あの……ラブレター、どうでした?」

 88枚のラブレターを渡してから、柴田は何も言ってこない。
 分量が分量だから読む気が起きなくても仕方ないけれど、せっかく書いたから読んでほしいのも事実だ。

「すっごいです! 『ラブ』の言葉がこんなにたくさん世界にはあって、それをぎゅっと集めておれだけが読めるようにしてくれてほんとに嬉しいです! もったいないから1日1枚読んでます!」
「ありがとう。1日1枚。なるほどね」

 柘植野は可笑しくなって笑った。

「柴田さんは、クッキーとか1日1枚って決めて食べるタイプですよね」
「バレてましたか。柴田さんは付け合わせから食べて舌慣らしするタイプですよね」
「よく見てますね」
「好きなものは最後にとっておくタイプ」
「その通りです」

 柘植野の胸はじんわりあたたかくなった。

 僕たちはもうこんなにお互いのことを知っていて、これからもっと知ってゆくんだ。

「柘植野さん」
「なんですか?」
「手をつなぎませんか?」

 緊張した顔でまっすぐ自分を見つめる柴田が愛しくて、すぐに大きな手を精一杯包んだ。

 猛暑の日、恋人の手は気温よりも熱く火照ほてっている。でも暑苦しいなんて思わなかった。
 幸福の小さな泡がはじけるようで、ぱちぱちと恋心がくすぐられる。

「柴田さん。ちょっと大胆な手のつなぎ方をしてもいいですか」
「えっ!? いいです……」

 柴田の表情は驚きと、疑問と、期待を素直に表現していて、柘植野はまたこの青年が愛しくなる。
 手のひらを合わせて、指と指を絡める形にする。

「……大胆です、柘植野さん」
「気に入りましたか」
「とっても、気に入りました」

 幸福な2人は、少しずつ身体を寄せ合った。

 文学部棟の前を通りかかって、ふと思い出した。

「柴田さん、オープンキャンパスのときに会った『憧れの人』って、僕ですよ」
「えーっ!? ずっと前に出会ってたんですか!? それでとっくに再会してたんですか!? 確かにめっちゃイケメンでした!」

 柴田は大きな声で言葉を重ねる。柘植野は楽しくなって、ほがらかに笑った。

「じゃあ、柘植野さんは……おれの……う、運命の人ってことですか」

 よく動く目が、おどおどと柘植野をうかがう。

「『運命』って考えるより、偶然が重なって結ばれた縁を、お互いの努力でここまでつないできた、って考える方が、僕は好きです」

 柴田は泣き出しそうな笑顔で笑った。
 ひまわりのように笑うって、こういうことだろうと柘植野は思った。
 明るくてまぶしい、僕の恋人。

「柘植野さん、大好きです。最初っから大好きです」
「僕も、あなたが大好きですよ」

 柴田は感激したのだろう、柘植野にぐいぐい身体を押し付けて歩く。

 柘植野も嬉しかった。「憧れの人」なんて切り札を切るまでもなく、柴田さんが僕を選んでくれたことが。

 これからは恋人つなぎで柴田さんと歩こう。
 柴田さんが88枚のラブレターを読み終わるまで、ぼくたちは夕ご飯と言葉を交換して暮らそう。

 交換を続けて、柴田さんが「もうお腹いっぱいです」と言う日が早く来ればいいと思う。

 そのとき、僕の言葉でなみなみと満たされた柴田さんが、それでもまだ僕を選んでくれたらいいなと思う。そうであってほしいと思う。

 きゅっと手を握られて、大柄な恋人を見上げる。照れた笑顔を交わす。

 僕の願いは、きっと叶うだろうと、柘植野はその瞬間に思った。
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