元自衛官、舞台裏日報

旗本蔵屋敷

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1章

三話

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 ~ ☆ ~

 少しばかり緊張する。
 ミラノと入れ替わって、私はこれから彼を騙さなきゃいけないのだ。
 お薬をちゃんと飲んで、咳が出ないように気をつけてる。
 けど、高鳴る胸の鼓動は、私の体調を毒のように悪くしそうな気さえした。

「入るわよ」

 ミラノの部屋に私は入る。
 しかし、返事は無い。
 静けさに塗れていて、まるで誰も居ないようだ。

 少しだけ不安を感じて部屋に入ると、彼は居た。
 部屋の中で、床に寝転がって……まるで死んでいるようだ。
 一瞬だけ、兄を思い出した。
 ミラノを助けようとして、刺された兄の事を。
 息をしている感じがしなくて近寄ると、ものすごく静かだけれども息はしていた。

 一昨日から勉強の連続で、大分疲れてるのかもしれない。
 床で寝て、あまり休まらないのも関係していると思う。
 けど、だからと言って同じ寝床で寝るのは出来ない。
 彼は、兄ではないから。

「仕方が無い。明日の準備でもしようかしら」

 起きていたら色々と話をしてみようと思ったけれども、寝ているのなら起こすのは可哀相だ。
 明日はミラノとして授業に出るから、持ち物の準備くらいはしないと。
 えっと、たしかもう宿題を終わらせてるって聞いたけど。

「……どこ?」

 けど、見当たらない。
 綺麗に整理整頓された部屋の中で、見当たらないと言う事は先ず無い。
 少しだけ気になったのは、机周りが綺麗過ぎる事。
 ミラノはいつも勉強や読書に使う場所の傍は幾らか散らかってる。
 綺麗になるのは私や女中さんが片付けた時くらい。
 彼女に言わせると、使っているものや使うものは傍にあるのが当たり前なんだとか。
 私も勉強や読書はするけど、終わったら片付けるのでミラノとは違う。

 じゃあ、誰が?
 それを考えたら、やる人は一人しか居ない。
 寝床も、よく見れば女中さんがやったみたいに皺一つなく綺麗になってるのも気になる。

「起きて。ねえ、起きて」

 起こすしかない。
 寝かせてあげたいけど、それで私の持っていく宿題が無いままだと困る。
 ミラノには私の宿題をやらせて、私はミラノの宿題を無くしましたとか、そんなの無い。

 ドキドキしながらも声をかける。
 けれども、それでは中々起きない。
 ミラノはどうやって起こしたのだろうか?
 もしかしたら演技がまだ上手く出来ていないのかも知れない。
 咳払いをしてから、少しだけ語気を強める。

「起きなさい」
「ん……」

 強めに言うと反応があった。
 もしかしたら彼の中ではこれくらいの言い方だと効果があるのかもしれない。
 それでも、ノロノロと起き上がると彼は頭を抑える。

「……なんだろう。すごく、頭がボンヤリする」
「寝すぎじゃないの?」
「いや、まだ……一時間も──半刻も経ってないんだ。なんか、こう……誰かに薬でも飲まされたみたいな」
「じゃあ、少しだけ手伝ってくれたらまた休んでいいから。部屋を生理整頓してくれたのは貴方よね?」
「あぁ、うん。寝床も整えたし、机周りも綺麗にしたし……。なにか、問題が?」
「宿題……いえ、提出する課題がなくなってるの。何か心当たりは無い?」
「課題って、あの……紙の束だっけ。纏めて、机の上に置いてた筈だけど」
「それが無くなってるから起こしたのよ」
「……無い?」

 彼は、その瞬間に覚醒したようだ。
 机の上を見ると、それから化粧机の前や、寝床脇の小さな机、本棚等も見る。
 当然、そこら変は私も見ている。
 ミラノは宿題等をする時は机でやるけど、その見直しをする時は寝転がったり身嗜みを整えながらとか、”ながら作業”でやるからだ。
 教科書を読んで内容を予習や復習をする時も同じようにするので、教科書の置き場は定まっていない。
 唯一読書をする時だけ、寝床の傍に本は置かれる事も把握している。

「──いや、そんな……。君が──」
「君?」
「あ、う……。部屋の中では、勘弁して欲しい。女性を名前で呼ぶのは、結構しんどいんだ」

 どうやら、外とは違って部屋ではミラノの事を「君」と呼んでいるみたいだ。
 性格も態度も、外に居る時とは違う。
 仕方が無いけれども、優先しなきゃいけないのは宿題を見つけること。
 探しては見たけれども、そのまま夕食の時間まで見つかる事は無かった。

 部屋に運ばれてきた食事を前にしながら、彼は居心地が悪そうにしている。
 まるで自分が悪いと、あるいは自分が犯人と思われているのではないかと心底怯えているようだ。
 ここまで考えている事が分かりやすい人は、兄以来だ。
 外に居る時とは違い、感情表現が豊かな人だなと思う。

 外に居る時は、こういった弱みに繋がるような表情は見せない人だと、そう思っていた。

「……最後に確認するわ。貴方は、机の上に置いたと。それで、寝て起きたら無くなっていたと……そういうことね?」
「──疑われても、仕方が無いと思う。だって、君が居なくなってから部屋に残っていたのは自分だけで、その間に誰かが出入りしたら分かるはずだから……」
「私が戻っても起きられなかったのに何言ってるの。けど、貴方がやったとは思ってないから」
「……どうしてさ」
「疑われやすいと分かっていて、その上で自分の状況を理解してるのなら嫌がらせにしても課題をどっかにやるなんて、ただの悪手じゃない。使い魔だから逃げられない事を踏まえれば、自分の首を絞めるような馬鹿げた事をしないと思うのはそんなに不思議な事?」
「……やったと、そう言われるかと」
「あるいは、私が部屋を空けて貴方が寝てから誰かが侵入して、私を困らせるためか……あるいは、貴方を陥れるためにやったと思ったほうが説明がつくもの」
「けど、それだったら”どうやったのか”の説明がつかないと」
「潔白じゃないと、それが証明できないといけないと思うわけね」
「──……、」

 彼は、食事に手をつけないままずっと俯いていた。
 それが例えありあわせのような物でも、食べないよりは食べた方がいいのに。
 誰が、どうやったのかをずっと考えてるみたいだった。

 そして今は、私が無罪を主張すると潔白じゃなければと主張する。
 そこは拘る場所なのかな?
 信じると……それだけじゃ、ダメなのかな。

「貴方を締め上げても、問題が解決しないのなら意味は無いわ。ほら、食べましょう。課題が無くなったなら、それは仕方が無い事だわ。こういうことも、別に珍しい事じゃないもの」
「そう、なんだ……」
「イタズラが好きな生徒もいれば、誰かを困らせるのが好きな生徒も居る。勿論、誰かを貶めるのが好きな生徒も居れば、課題に困った生徒がやった可能性すらあるんだけどね」

 そう言うと、彼はまだ納得し切れてない様子だった。
 けれども、仕方が無いと消え入るような声で「頂きます」と言って、食事に手をつけた。
 私はもう殆ど食べ終えてる中で彼が食べ始めれば、食事なんて冷めてる。
 それでも、彼は気にかけることなく俯いたままに食事を食べるのだった。


 ~ ☆ ~

「起きて。ほら……起きて」
「ん~……」

 朝、ゆさゆさと揺さぶられるのを感じて目が覚める。
 聞き覚えのあるような声で、兄さんと言ってしまう。

「兄、さん……?」
「兄さん?」

 しかし、相手の疑問をもつような声に現実へと引き戻される。
 慌てて起きると、そこには兄と似た男が居る。
 既に暖炉には薪が足されて室内は暖かく保たれ、机の上にはお茶の用意がされている。

「……おはよう」
「おはよう」
「──ん~、やっぱり起こされるのは慣れないわね」
「慣れて欲しいなあ……なんて──」
「……お茶も、おいしそう」
「言われたとおりに淹れたんだ。少なくとも、間違った手順はやってないと思うけど……」

 そう自信なさ気に言うが、口にしてみれば美味しい。
 記憶の中にある兄のお茶と比べるのは良くないけど、私達が淹れるのとそう変らない。

「うん、目が覚める」
「それは、よかった」
「……自分の分は?」
「それは……ほら、許可がないからさ」

 そう言って彼は、自分のお茶どころか席にすらつかない。
 直ぐに給仕できるように、世話が出来るようにと距離を幾らか保ったままに立ったままだった。

「じゃあ、許可するから飲んでいいわよ。それと、席に着くのも許可してあげる。これから不便を強いるかも知れないのに、朝から疲れてたら仕方が無いでしょ?」
「──有難う」

 そういった彼は、心底嬉しそうだった。
 それは心からの感謝なのか、安堵なのかは分からないけど。
 少なくとも喜んではくれたみたいだ。
 ……お茶を飲んでいいと、座っても良いと言っただけなのに。

 そして、お茶を飲んだ彼は眉間を揉む。
 それから何度か「あ、あ゛~」と声を出していた。

「何してるの?」
「外に出るから、声の出し方とか、喋り方を変えないといけない……だろ? 流石に外でまで今と同じことをしてたら舐められるし、そんな情けない使い魔を持ってるのかと思われると、ミラノたちに迷惑が掛かる」

 あ、ミラノって言った。
 中に居る時はずっと「君」と言ってたのに。

「それと、何でそういう時だけ名前で呼ぶのよ」
「それは……。名前で呼べって言ったのはミラノの方だろ? そうしろと言ったのに、外でやらなかったら不従順になる。それに、名前で呼ぶことを許してると認識させた方が手出ししづらくなるだろうし」
「なのに部屋の中では君呼びなわけ?」
「勘弁してくれ……。これは、自分がどう振舞えば良いのか分からないから、とりあえず試行錯誤してる中で出してる虚勢でしかないんだ。何が出来て、何を持って評価されるか分からないのに、普段からこんな横暴で粗野な態度をしてたら、俺が潰れちまう」

 独特な考え方をしていると思った。
 けれども彼の言い分も幾らか納得はできる。
 私も、アリアを演じるのに疲れたらミラノに戻る事が今まであった。
 それと同じで、彼は外と中で演じる事を切り替えているんだと思う。
 外に居る事自体が戦いの場で、中に居る時は負担から切り離されると言う。
 ただ、人より極端なだけなんだ。

「その話し方の方が顰蹙を買うと思うけど」
「どうかな……。そこも難しいけど、少なくとも眉間に皺を寄せて粗暴で粗野っぽい相手にわざわざ喧嘩を売るなんて、よほど腕っ節に自信が有るか、家柄に自信があるかのどちらかしかないだろ。そこに関しては悪いけど、公爵家の令嬢たる二人の名前を借りる事になる。ただ、ひ弱で絡まれやすいような相手だったら、二人の目がないときに与し易しと判断されてちょっかい出されやすい。だから、この口調と態度の方が直接的な危害は少ないと判断した」

 ミラノが言ってたけど、理屈っぽい人。
 けれども、理路整然としていると言う見方もできる。
 確かに私達の家が公爵家だから、下手に手出しできない。
 その上で──少なくとも、普段と違って眉に力を入れて睨むような引き締まった顔をしていれば、誰もチョッカイを出さないと思う。
 皆は……変な格好をしてるから、からかうと思う。
 そうじゃなくても、変だから馬鹿にしてもいいと……そう考える。
 私も、身体が弱いから一年生の頃に虐められてたし。
 そうなるだろうなって、直ぐに分かる。

「調子には乗らないこと。その範囲で、うまくやって」
「分かった。所で、今日は食堂に行くからそろそろ着替えなくちゃいけないだろ」
「あぁ、そうね。混む前に行って、授業前にまた一息ついてから行くのは結構得してると思わない?」
「違いない。と言うわけで、下着をかえたら教えてくれ」

 下着……下着!?
 そういえば、そんな話をミラノから聞いたような……。
 え、残るの? この状態で着替えるの?
 う、うぅ……。

「見たらコロス」
「あのさ……」

 チラと見ると、彼は既に背中を向けたままだった。
 どうやら素肌を見ないようにしてくれているらしい。
 ゆっくりと、寝巻きを脱ぐ。
 チラリと見ると、彼はこちらを見ていない。
 下着の上を外す。
 同じように、彼はこちらを見ていなかった。
 それどころか、眠そうに欠伸を漏らしている。
 下着の、下を……外した。
 彼は──見ていなかった。

 もしかしたら興味がないのかも知れない。
 それはそれで助かるけど、なんだか複雑な気分。
 そういえば、17歳とか聞いたし、歳が離れてるからあまり気にならないのかも。
 
「き、着替え終わったわよ」
「了解。それじゃ、シャツから」
「ッ!?」

 そう言って、彼は服を持ってきて、袖を通させた。
 そして一つずつボタンを留めていく。
 お腹や、その下、あるいは隠れていない胸周りなどを間近で見られて──凄く恥ずかしい。
 え、ミラノはこれをやらせたの? 嘘でしょ?

「はい、スカート」

 スカート……も?
 足を通し、彼は素足から少しずつスカートを上げてくる。
 そして服の裾を入れて、スカートを止めるために腰へと触る。
 ミラノ、恥ずかしくなかったの!?

「それと、外套──。ん? なんか、顔が赤くないか?」
「赤くない!」
「そ、そうか……なら、行こう。たしか、朝は合流してから食堂だったよな?」
「そうよ!」
「……やっぱり、課題がなくなったことで怒ってるだろ」
「怒ってない!」

 この人は、何で平気なの?
 見飽きてる? それとも慣れてる?
 よく分からないけど、良くも悪くも”変な人”だ。

 ~ ☆ ~

 入れ替わって授業にまで出たけど、どうやらバレてないみたいだった。
 彼は余所行きの口調と態度になっていて、それが強がりなのか、あるいはそれも彼なのか判断がつかない。

「ふあ……」

 昨日からずっと眠そうにしている。
 それでも昨日よりはマシな筈なのに、眠いままなのだと言う。
 もしかしたら、誰かが彼に睡眠魔法をかけたのかもしれない。
 課題がなくなっていることを考えれば、安全面を考えて眠らせるのは当たり前だろう。
 けど、使い魔として授業にまでついてきた以上はわたし達に関係する。
 ここは念を押さないといけない。

「これから授業だって言うのに、その欠伸はなんとかならないのかしら」
「ふ……悪い。寝冷えてさ」

 きっと、寝冷えたと言うのは、眠気を増徴させたのかも知れない。
 昨日のうちに異状を察知していれば、触れて体温が下がってないかを確認できたのに。
 睡眠魔法を深くかけると慢性的な眠気だけじゃなく、いわゆる冬眠に近い症状が現れるらしい。
 伝承には睡眠魔法を強くかけてしまい、氷のように冷たくなって眠り続けるお姫様と言うお話がある。
 呼吸も浅く、体温は氷のように冷たいままに、何百年と眠り続けたって書いてあった。
 後で解除魔法をかけられるか試してみよう。
 あれなら詠唱も短いから、私の体調にも関係なく使える。

 鐘が中央広場から聞こえ、それとほぼ同時にメイフェン先生がやってきた。

「はい、朝一番から眠くなる授業にようこそ、みんな。先週末に出した課題、ちゃんとやってきた? やってきてない人は素直に報告すれば、軽い罰で済ませるわ。持ってくるのを忘れた人は、今から走って取ってくる事」

 あぁ、嫌だなあ……。
 さっき念のために夢じゃないかって部屋の中をもう一度だけ調べたけど、やっぱり見つからなかった。
 気が重いけど、だからと言って黙ってるのは”ミラノ”じゃない。
 
「すみません、先生」
「どうしたの? ミラノさん」
「課題を紛失しました」

 どこかに行きましたとも、誰かに持っていかれましたとも言うのは簡単だ。
 けど、それは”ミラノ”と言う人物らしくない。
 なぜなら、課題を与えられて管理するのは与えられた本人の責任だからだ。
 なら、理由は分からずとも無くしましたと言うのが正しい。
 ”ミラノ”が、驚いた顔で私を見ていた。

「……後で罰を言い渡すので、とりあえず座ってて良いわ。他に、忘れたりなくした人はいる?」

 ”ミラノ”は、当たり前だけど宿題を提出しに行く。
 その顔は「なんで?」と言っているように見えた。
 けれども、そんなものは私が聞きたいくらい。
 誰がやったのか、何があったのかを知りたいのは私自身なのだ。
 ゴメンね、”ミラノ”……。

「あ~、グリムさん?」
「がんばった」

 なんだか、少し先生が困惑している声が聞こえた。
 どうやらグリムさんが課題を提出したみたいだけど、それが何か問題があったらしい。
 本人は自信満々に見えるけど、先生は変な顔をしている。

「課題の内容は、なんだか覚えてる?」
「ん?」
「なんで誰かの宿題を持ってきてるのかな……」
「なにを言ってるのかわからない」
「……えっとね、昨日の課題は『自分の特性にあった魔法の講師に関する所見と、現段階で自分の目指す魔法使いとしての姿』というものだったはずなんだけど。グリムさんは無の魔法は使えないわよね?」
「──……、」
「無の特性となると、ミラノさんかアリアさんくらいしかいないんだけど……」

 ……犯人が、分かった。
 ”ミラノ”はアリアとして課題を提出している。
 となると、必然的に犯人は絞られる。

「それとね、筆跡って分かるかな? ミラノさんの特徴がすんごくよく出てるし、グリムさんの特徴がどこにも見えないんだけど」
「──……、」
「説明、してくれるかな?」
「愚か者め……」

 主人であるアルくんの深い声が聞こえてくる。
 それは心底溜息を吐いているとも、頭が痛いともいえるような声だった。
 同時に、後ろの席から溜息が聞こえる。

「なんでバレないと思ったんだ……」

 彼の深い安堵とも哀れみとも言えるような声。
 そうか、一緒に居たんだから課題の内容は知ってる筈。
 それを考えれば、そういう感想にもなるのかも知れない。
 ”ミラノ”はいつも宿題の内容を独り言でも口にする性格をしている。
 同室に居れば、宿題をやる事のない彼でも分かるわけか……。

「グリムさん、後で私の部屋にちょ~っと来てね? ミラノさんは、課題は受け取ったからさっきの話は無しで」
「分かりました」

 助かった……。




 ~ ☆ ~

 助かってなかった。
 神様は、もしかしたら私をちゃんと見ているのかもしれない。
 仕方が無いから、身体が弱いから、嘘をついてるから……。
 ”ミラノ”に全てをやらせて、自分は言い訳をして何もしてないのを知ってるのだろう。
 入れ替わったその日、彼はアルくんに決闘を挑まれた。
 それを聞いたのは、ミナセくんが授業中であるにも拘らず、こちらに来たからだった。

「ヤクモ!」

 闘技場に踏み込んだ時には、もう終わった後だった。
 私が踏み込んだから静かになったのか、それとも決着がついたから静かなのかは分からない。
 ただ、座り込んではいても起きているのはアルくんで……。
 倒れているのは、彼だった。

 修練場から走ってきたから、今にも倒れそう。
 胸が苦しくて、死にそうなくらいに辛い。
 それでも、自分でも分からないくらいに必死になって彼のところに向かった。

「ミラノ。いや、我は……」

 アルくんが何か言おうとしてる。
 けど、私は倒れている彼を見る。
 ……酷い怪我をしてる。
 変ってるけど綺麗だった服は、今じゃ色々なところがボロボロになってる。
 服にも、頭にも顔にも血がついてる。
 今ここに来たのが”ミラノ”じゃなくて良かった。
 あの子だったら、血をみていたら倒れてただろうから。

「その、だな。我は──」
「ッ!」

 乾いた音が、静かだった闘技場に響いた。
 それは叩かれたアルくんの頬と、叩いた私の手から出た音だった。
 痛い目にあったのは兄に似た彼で、痛い目にあわせたのはアルくんだ。
 けど、今じゃ叩かれただけなのに自分が被害者のような顔をしている。
 それを見て、私はもう一度手を振った。

 その手は、アルくんを叩く事はなかった。

「二度目は、ダメ」
「グリム……!」
「彼が倒れてるの、私のせー……。けど、こうなったのはアルが決めた事」
「貴方が──」
「今は、急いで運ぶ。私も、頭に血が上ってた。手伝う、から」

 そういうと、グリムさんは彼を背負った。
 少しだけ悩んで、迷ってから「部屋に」と言う事が出来た。
 すると、彼女は「わかった」と言って早足に歩き出す。

 彼女が寝床に彼を寝かせると、私は覚えている治癒魔法をかける。
 けど、上手くいかない。
 焦って、走ったせいで、胸が苦しくて。
 
「けほっ、えほっ!」

 グリムさんは魔法ではなく、包帯などを用いた手当てを行っている。
 彼女は的確に処置が出来るのに、私だけが出来ないなんて──そんなのありえない。
 私は──ミラノ・フォン・デルブルグ。
 兄さんの妹で、あの子の姉なのだから。

 どれくらい時間が経ったのかはわからないし、何度詠唱を失敗したのかは分からない。
 気がつくと、グリムさんが腰から下げている水筒を私に差し出していた。

「少し、休む。ミラノ……なんだか、体調わるそー」
「あり……」
「ううん、これくらい……当たり前」

 水筒を受け取ってから、その中身を飲む。
 使い魔の力を借りているのか、その中身は冷や水のように冷たくて、私の身体を思考ごと冷やしてくれる。
 大分飲んでから、彼女は水筒を受け取った。

「……ほんとーは、アルが負けてた。けど、私……横槍を入れて、引き分けにした」
「グリムが?」
「……ヤクモ、強かった。7人も、自分で倒した。アルにも勝つところだった」

 話を聞いてから、それが中々飲み込めない。
 7人を自力で倒して、アルくんにも勝ちそうだった?
 8人を相手にして勝つところだったって事?

「なんで──なにをしたのよ」
「──あのまま勝ってたら、ヤクモ、敵が沢山。それに……アルを殺そうとしてる……みたいに、見えたから」
「そんな事が出来ると思う?」
「できそうな、顔をしてた」

 戦ってる時の彼が、どんな顔だったのかは分からない。
 元兵士だったと言うことは聞いているけれども、戦いに入って本当に兵士のような戦い方をしたとか。
 もしそうなら、グリムさんが殺そうとしたと誤解して横槍を入れたのもうなずける。

「……後で、起きたら謝りに来る。アルにも、謝らせる」
「だから、問題にするなって言いたいわけ?」
「──その方が、お互いにかしこい」

 分かってる。
 それが”当たり前”なんだって。
 けど、それでも……。
 私は、かつて兄さんを失った時を思い出してしまった。
 まるで、もう一度兄さんが死んじゃうんじゃないかって思ってしまった。
 別人なのに。
 それを考えると、グリムさんの言葉を受け入れるのは難しい。
 一方的に都合の良い提案を受け入れることなんて出来ない。

 けれども……”当たり前”なんだ。
 身許が分からないから、貴族には逆らえない。
 貴族がなにをしても、平民は泣き寝入りするしかない。
 物語の中だけのお話かと思ったけど、現実にもある話だった。
 だから、私がここで躍起になっても、それは”ミラノ”だけじゃなく、家にまで問題を持っていきかねない。
 召喚したとは言え、使い魔にしたとは言え平民をそこまで庇うなんてと、勘繰られるかも知れないから。

「……分かった。けど、絶対に謝りに来なさい。それと、あのバカにも同じことをさせること。グリムだけ来るとか、あいつだけ来ないとか、そういうのは絶対に認めないから」
「わかった」

 グリムさんは聞き入れると、深く頭を下げて部屋から出て行く。
 静かになった部屋の中で、私は意識を失っている彼を再び見た。
 ……そこには、眉間に皺を寄せた余所行きの顔も、部屋の中で見せる気弱な表情もない。
 ただ、全てから解放されたかのように、静かに眠る顔があった。
 さっきまでは幾らか血に濡れた顔だったけど、不利な決闘を受けたことなんて無かったかのように眠っている。

 それを見ていると、兄さんと同じだなと思った。
 普段は物腰が柔らかくて、色々な失敗をしても苦笑したり溜息を吐いたりしていた。
 それでも、訓練をしている時や……あの日、誘拐した賊を相手に戦っている時は、別人のように見えたのだから。
 そして、同じ顔で永遠の眠りについていた。

 父さんはまだ生きているというけれども、あれから兄さんの姿を見た事はない。

「……神様」

 神様、お願いします。
 私が罪深く、あの子を身代わりにしている事は理解しています。
 けど、できるのなら、叶うのなら……。
 兄に似たこの人が、目を覚まして何事も無かったかのように戻ってきますように──。

「……行かなきゃ」

 授業をすっかり抜け出してしまった。
 けど、これ以上は良くない。
 あの子にも、カティアちゃんにも伝えないと。
 一度だけ、額に触れる。
 すると、呻くような声が聞こえる。

「──嫌だ」

 それは、何に対してだろう?
 その続きは聞くことが出来ないまま、私は部屋を後にした。
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