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最終章 アイよりカナし
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しおりを挟む―――――――…
「アレには太刀打ちできない。要求をすべては呑めない以上、戦いを仕掛けてもただの無駄死にだ」
そう言い捨てたのは、シエルだった。
場所はアクアマリー号の一室。
一番広い名目上の迎賓室に、シェルスフィアからは四人、そしてアズールフェルからは五人。九人もの人間が押し込められた一室。
テーブルを挟んで向かい合うように、おれとシエルは座っていた。その後ろにそれぞれ従者を従わせながら。
開戦したばかりの両国の代表の決議の場。
奇しくも現れた共通の敵に対策を練る為、アズールフェルの代表として現れたのは、シェルスフィアのかつての王族、シエルだった。今は敵であり味方でもある半分だけ血の繋がった自分の義兄。
「手持ちの駒で一番力のあるセレスはリュウがいない今は使えない。あとは眷属神や精霊を使うにも、相手が格上過ぎる。取り返されて、終わりだ」
「…だからといって。易々と国を、陸を手放せるはずもない。そもそも相手はシェルスフィアだけでなく、すべての大地を奪う気でいるんだぞ。まさか無抵抗で奪われる気でいるのか…!」
「そうは言ってないだろう、シアン。僕は客観的に事実を述べているまで。まずは今の現状をただしく冷静に並べること。でなければ道筋は見えないよ」
「……っ」
飄々と。表情も声音もまるで変えず、シエルは部屋の隅で埃をかぶっていた盤上遊戯用のいくつかの駒を、その細い指先でテーブルの上に並べていく。
それぞれの役目を象った駒が応戦の構えをとったその先は、広げた海図の上。ふたつの国の国境海域。今自分たちが居る場所だ。
そしてここは、今。
ひとりの絶対的なる神によってすべてが支配下に置かれ、我々は身動きができない状態。
それはほんの一瞬。開戦直後の出来事だった。
そのすべてが、海神エリオナスに奪われたのは。
「要求が身勝手で一方的過ぎる。あちらはそもそも、和解する気も退く気もないのだろう。なんせすべてを壊す気なのだから」
「…それでも。国を、民を…守るのがおれ達王族の義務であり責任だ」
「今のおまえには、それはできない。守る術もないどころか、己の身すら危ういのに…真っ先に自分の身を犠牲にしようとする。責任という便利な言葉に縋っておまえはただ、国の為に命を捨てた“善い王”になりたいだけだろう。独り善がりも良い加減にしなさい」
「…!」
言うのと同時にシエルの指先が、王冠のついた駒をぴんと弾く。
小さな音をたてて転がる駒は、向いのおれの手元で止まる。シエルの鋭い瞳がおれに釘を刺していた。
言い捨てたシエルの、その言葉の。正論さに何も返せず言葉に詰まる。
後ろで反論しようとしたリシュカを手で制し、おれはようやく感情のままに上げていた拳をおろし、椅子に深く腰掛けた。
シエルの言うとおりだ。おれはただ咆えているだけ。
守りたいと、できもしないことを。した気になっているだけなのだ、所詮。
ただの望み。無力なおれの今際の願望。
おれの命はもう保たないだろう。
ならば、せめて。この国の為に少しでも使いたい。そう考えて何が悪い。
そんな身勝手な願望しか、もうおれにはすがるものがない。
思うだけでは…咆えるだけでは。
現実は動かない。何も変えられない。
分かっていても、それでも。
言葉にしなければ、虚勢でもなんでも咆えていなければ。
おそらく今のおれには、立っているのもやっとな状況なのだ。
「…まさかアレが出てくるとは、想定外だった。ぼくはあの海の覇権さえとれれば良かったのだけれど…マオを帰したのが仇となったか」
「……シエル…?」
シエルの落とした呟きを聞き逃したおれは、ひかれるように視線を上げる。
聞き逃せない名前が出てきた気がした。だけどおれの食い入るような視線にも、シエルは態度を崩さずテーブルの上の海図を見つめている。
シエルのその瞳は、当然のように変わらない。
そう、こんな最悪な状況においても。
その信念は揺らがないのだ。この義兄は。
「リュウは必ず帰ってくる。彼の生きる場所はここ以外ないからね。セレスはリュウに最後まで従うだろう。例え相手があのエリオナスといえども、セレスも高位の海神。何よりセレスはリュウを見捨てることはしない。セレスの配下の精霊もある程度はあてにできる。それでもアレには、勝てない」
「…じゃあ、どうすれば…」
「一番妥当なのは、勝つのではなく退けること。相手の要求を呑めれば穏便に済んだのかもしれないが…あちらの要求は、裏を返せばつまりは結局すべてを無に帰すこと。失ったものすべてを還せるはずもない」
「……」
エリオナスの要求は、かつての戦争と契約において、シェルスフィアにもたらした加護と力と約束とを、すべて彼に還すということ。
だけどつまり、それをすると、この国は滅びゆくだけだ。
何よりこの国の歴史こそが、彼のもたらした一番の功績だといえるだろう。
「建国時の戦争において…シェルスフィア初代国王が契約したのは“女神リズ”だ。そしてリズの膨大な魔力と加護は、すべてシェルスフィアに注がれ、国を支えてきた。しかし、もう。リズはいない。それにおそらくリズは。エリオナスの元には還らないだろう」
「…何故、それが分かる…?」
思えば、シエルは。裏でリズと繋がっていた。
しかし、いつ、どこで。
リズのことは、王位継承者のみに受け継がれてきた。シェルスフィアが海の神々を従える国だということは周知の事実だったが、神々に関する詳細は最重要秘匿事項だ。
他者に知れ、その存在を奪われるのを避けるため。神々に関する詳細はその殆どが外に漏れることはない。
おれも幼い頃に父上から、城の地下の部屋とリズの存在を知らされた。それから時々、父上が呪いに倒れるまでは父上と共にあの部屋を訪れるようになり、リズと会話を交わすようになった。
それまでずっと、リズの存在は地下に隠されてきたはず。
シエルはその血筋から継承権を持たず、リズのことは知らなかったはずだ。
いったい、いつ――
「…ぼくとリズが知り合ったのは、おまえよりもはやくだよ」
「……!」
自分の心の内をただしく読まれ、思わず動揺が滲み出る。
そこまで分かり易く表に出ていたのか。もうそれほどまでに余裕がないのか。
どちらにせよ口を噤むほかない。自分の疑問に答える素振りを見せるこの義兄の、話の続きを聞く為に。
「生まれつき持つぼくの魔力の相性が、彼女ととても合ったのがきっかけだった。妾の子だったぼくが、血筋故に王城に迎えられた日から城の地下の存在を察知し、そしてそれを父上に教えられたのは、ちょうどぼくが王位継承から正式に外れたとき。だからこそ父上も同情からか…地下の彼女の存在を、教えてくれた。決して会わせてはくれなかったけれど…“おまえと同じく、孤独な運命と共にの在る者だ”と」
――父上が。
厳格で格式高く何よりも国と民の為に心を砕き、国を治めてきたあの父上が。自ら秘匿を侵したというのか。
「ぼくがリズと対面を果たせたのは、ぼくがシェルスフィアを追放される時が初めてだった。彼女の力により、ぼくの魔力の殆どは封じられるはずだった。だけど彼女はそれをしなかった。体面だけを整えて、ぼくを国外へ逃がしてくれた。だから、ぼくも。彼女の望みを叶えると約束したんだ」
…それが。
リズとシエルとの、共謀の始まり。
その間リズはずっと、おれを騙していた。
おれの呪いをおさえ、国の為にその力を注ぎ、冷たい素振りを見せながらも時折優しい瞳で。
「ぼくとリズの望みがはからずも一致し、ぼくとリズは手を組んだ」
シェルスフィアの崩壊を、シエルと共に望んでいた。
おれを助けるふりをしながら、本当はずっと。
おれの味方ではなかったのだ。
もうずっと。
「……どうやらそれも、ここまでのようだね」
ふ、と。小さく吐く息と共にシエルが、左手の手首をテーブルの上で晒す。
無意識に促されるように視線がとまり、そこに見える赤い紋様。
――神々の契約との印の赤。
シエル手首の内側にあったそれが、徐々に薄れていく。淡い光を放ちながら。
「彼女の最期の願いは、無事叶えられたらしい」
その言葉と同時に。心臓がひと際強く脈打った。
――発作だ。この身に受けた呪いが、リズの力によって僅かながらおさえられてきたその毒が。堰を切ったように全身に広がっていくのが分かった。
心臓を押えてテーブルに伏すおれに、僅かな距離をとっていたリシュカが慌てて駆け寄る。
呪いの反動。それを抑える術をいま、失ったのだと無意識ながら理解する。残りはリシュカが抑えてくれている僅かばかり。
それは、すなわち。
「…リズが、逝ってしまったようだ」
「……!」
――リズ。
もう保たないと、そう言っていた。神々も万能ではないと。
永く身勝手に縛り付け、真名と自由とを奪い、この国の為だけに心身を削られてきた。
父から継いだリズの詳細も、リズから聞く話もごく僅かな情報ばかりで、リズという存在の本質がどこにあるのかを、結局おれは理解できないまま。
リズの力に、優しさに。甘え続けてきた。それが偽りだとも気付かずに。
それでも。
シエルの言うことが本当なら、彼女は最期自らの望みを叶え、そしてようやく解放されたのだ。永きこの呪いの血から。
その血を吐きながら不思議とおれは笑っていた。
最期に会えなかったことは寂しいし哀しい。
裏切られたことは悲しいし悔しい。
でも、この心にあるものこそが、きっと本心でありおれとリズとのすべてに他ならない。
「…感謝する。リズ。最期まで本当の名を、呼べなかったが…おまえが繋いでくれたこの命、無駄にはしない」
リズの意図も真意も分からない。リズは教えてくれなかった。大事なことは、なにも。
だけどそのお陰で、本来ならとうに呪いに灼かれていただろうこの命が、今この時まで生きながらえることができた。
まだおれは、死んでいない。
まだこの国は、亡んではいない。
そこにきっと意味はあるはずだ。
「…あくまで、おまえは。あの国にすべてを捧げるというのか」
「……ならばなぜ、おまえは。そうまでしてあの国を滅ぼそうとする。恨みがあるのは分かる。だが、民には何の非もな――」
「あの国などどうでも良い。今となっては民さえも、好きに生きれば良いと思っているよ。ぼくはもうシェルスフィアの王族ではないからね。でも」
そこで言葉を区切ったシエルの、瞳が鋭い光を放つ。
「シェルスフィアには滅びてもらう。そしてそれをするのは――ぼくの手でだ」
窓の外で稲光が空を割き、そして沈黙を貫いていた海が突如荒れ狂う。
船が大きく揺らだ。波も風もとうに奪われたはずなのに。
室内に居た者たちが壁や椅子に手をついてなんとか体勢を保つも揺れはなかなか止まない。
窓の外――昏い海。
そこに蒼い竜が居た。
すべてを焼き尽くすように咆哮を上げながら。
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