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第七章
ひだまり讃歌②
しおりを挟む温かいひだまりの中を、誰かに抱き締められて揺れていた。
早足で歩くそのひとの、抱かれた胸の鼓動がはやい。
上がる息が苦しそうでかわいそうだった。そんなに急いで、どこに行くのだろう。
自分をどこに、連れていくのだろう。
しっかりと自分を抱き締める、その腕。微かに香る甘い匂いは覚えのあるもの。
「……セレナ…?」
自分の呼びかけに、一瞬だけ相手の体が強張りだけどすぐに緩められる。
その姿を確認したかったけれど、体に上手く力がはいらない。瞼すら持ち上げられない。
だけどそれでもちゃんと分かった。
自分を抱いているのがセレナだって。
会いたかった。
やっぱりちゃんと、来てくれた。
だけど言葉にはならなかった。
「…大丈夫。もう、大丈夫だからね、サラ」
更に強く抱き締められて、何故か涙が零れてきた。
どうしてだろう。
哀しいことなんか、何もないのに。
セレナはちゃんと約束を守る為に来てくれた。
だから、あとはもう。自分の役目を果たすだけ。
もう思い残すことは何もない。
「大丈夫だよ、サラ…! わたしが、必ず…! あなたの未来は守ってみせるから……!」
うん、わかっているよ。
大丈夫だよ、セレナ。
疑うことなんて何もない。
女神さまはちゃんと、願いを聞いてくれている。
だから何もこわくない。
きっと忘れない。
出会えた奇跡を疑わない。
だから、セレナも。
忘れないで。
ここに居たこと。
------------------------------
式典のはじまりは、讃美歌からだった。
柔らかな日差しの降り注ぐ中、歌の余韻と共に司祭を務めるアルベルトが祭壇につく。
通常より多くの席が設けられた会衆席は、層の差はあれど一般客で埋め尽くされていた。最前線の一部はまだ空席で、賓客用に空けられている。
それから司祭の一言で扉が開けられ、会衆席に挟まれた通路をイリオスを先導に四人の王子たちが進み、用意された椅子に腰を下ろした。
反対側に用意されている席はまだ空席で、国王の入祭は機を見てからになる。
王都で一番の歴史と広さを持つセントヴェロニカ修道院とはいえ、出入口は限られているので場の混雑と混乱と万が一の危険を避ける為だ。
要所要所に騎士団の護衛が配置されてはいるが、今回は民衆と王族の距離が近い。王家がかかえる優秀な魔導師たちも傍に紛れて控えている。
民衆たちは先に並んだ王子たちの、その貴重な四人並んだ光景に思わず息を呑み、また知らず溜息を漏らした。
第一王子のイリオス。第二王子のアレス。第四王子のゼノス。そして本日の主役のひとりでもある第五王子のディアナス。
その丁度真ん中に、ひとつの空席が設けられている。だけど当然の暗黙のように、そのことには誰も触れない。
「此度の祝福に駆け付けられた、我らが聖女をお迎えしましょう」
アルベルトの声に応えて、再び扉が開かれ白いヴェールを纏ったエレナが登場した。
会衆がわっと一気に湧く。今日の日の為に用意されたセントポーリアの花弁が勇壮に舞う道を、エレナはゆっくりと用意された先に向かった。ヴェールの向こうの顔は隠されたままだが、誰もがその聖なる姿に歓喜した。
それから式次の通りに式典は進み、数人の来賓の挨拶が滞りなく終えられる。
そしてディアナスの出番がくる。
本日の主役でもある末の王子の登場に小さく歓声が上がるも、式典の最中なのでそれはすぐに小さく収められた。
ディアナスは勧められた祭壇で用意されていた挨拶の文と定型文を読み、それからその青い瞳を会衆に向ける。
その美貌にある者は息を呑みある者は呼吸すら忘れた。
美しいものには力がある。今この場においてディアナスに惹かれない者はいなかった。
だけどそのディアナスの視線を奪ったのは、開け放たれたままの扉の向こうを掠める見覚えのある色だった。
“シンシア”が彼女の為に選び彼女に貸し与えたドレス。
見間違えるはずのないその色。
「……っ」
一瞬顔色を変えたディアナスに、最前列に居た者たちが気付いて首を傾げる。
それに気付きディアナスは努めて冷静に表面上取り繕い、そして結びの言葉を述べて自分の席に戻った。
僅かに空けた隣りの席のゼノスが小さく労いの言葉と瞳を向けてくれる。ディアナスは取り繕った笑みを崩すことなく緩く笑って応えた。
ディアナスがゼノスと対面するのは久しぶりだ。時折手紙のやりとりと、つい先日は魔法の蝶を使って彼の依頼を聞いたことはあったけれど、顔を合わせるのは数年ぶりと言っても過言ではない。
その特異さ故に自室から出ることもままならない兄がこの場に居るのはとても珍しい。何年か前の公式行事以来、表の行事には殆ど顔を出さなくなったからだ。
表向きの理由はよく知らないが、兄弟たちの中でならこのゼノスが一番心許せる兄だった。幼少の頃の一時期を、共に過ごした事がある。
だけど、今は。ゼノスの向こうに座るアレスに、ディアナスは熱い視線を向ける。かたく拳を握りしめ、逸る鼓動を押えながら。
アレスは気付いただろうか。それとも自分だけだろうか。
あまりにその存在を無意識に気にかけ過ぎて、神聖なる空気が見せた真昼の幻だったのだろうか。
だけど幻などではなかったことを、アレスの横顔が物語っていた。そっと、その赤い視線が。自分に応える。熱を孕みながら。
──セレナが、来たのだ。
祭事は滞りなく進められていく。
また何人かの祝辞を受け取り、そこで国王陛下が入場し挨拶を述べ、祭事の大半は終了となる。
それから場所を移して聖堂での立食形式の休憩を挟み、中庭で“聖女の祝福”が行われる予定だ。
サラがその加護を受け取る出番。正午を告げる十二回の鐘が、その合図だ。
動けるとしたら礼拝堂を出た後しかない。
本当は今すぐにでも確かめたい。こんな所でじっとしていられない。
だけどすぐ傍に…アレスの座るその向こうには、イリオスが居る。
勝手は許されない。少なくとも、今は。
「――国王陛下のお出でです」
アルベルトの静かな声にひかれるように、国王陛下が扉の入口に姿を見せた。
皆が一斉に息を呑みながらそれでも静寂を保ちそれを受け容れる。
礼拝堂内の空気が変わり、それから一瞬の間を置いて民衆の戸惑う気配が礼拝堂内を揺らした。ざわざわと、明らかに色めき立つ空気。
はじめディアナス達はその理由が分らなかった。無礼にもあたるそれは、国王の登場にゆるされる空気ではないからだ。
だけど父である国王陛下が祭壇に立ち、そしてその後から現れた者に皆思わず息を呑む。努めて、その心を表には出さずに冷静に。それでもごくりと喉が鳴った。誰のものかも分からずに。
そして陛下がそっと右手で会衆を制す。
途端に静まり返る室内。
それを認めて、陛下は口を開いた。
「いろいろ気にかかることはあるだろう。まずは、この場に集まってくれた皆の者には礼を。今日の佳き日に無事祝いの場を設けられたことを嬉しく思う。女神と聖女の恩恵だろう。それから末の王子であるディアナスが無事成人を迎えられたことにも」
ただの挨拶であるがはずのその言葉に、ディアナスは思わずびくりと体を揺らした。
国王陛下はこちらを見ていない。なのにどうして、ここまでその威圧を感じるのか。
どうして。
膝の上の拳を握る。だけどもう俯くわけにはいかない。
「そしてこの場に居る者を証人とし、私からひとつの宣言がある」
言った陛下が、自分の隣りへとその者を促した。
そっと、その背に陛下の手が添えられて、関係性が伺える。また、広がる喧噪。誰の目をも逸らせない。
王子の正装を身に纏った、金色の髪と碧い瞳。薄い眼鏡のレンズの向こうにその表情は押し込められている。
「この者はヘルメス。生まれてより長く病状に伏せていたとされる第三王子のヘルメス・フィラネテスだ。死の淵より甦った彼に、正統なる王位継承権第三位の位を与えることを、ここに宣言する」
ざわりと。空気が変わる。言葉にできない衝撃がその色を纏って。
そしてヘルメスが陛下に視線で促され、王子たちの席の並ぶなかでひとつだけ空いていた席に腰を下ろした。
更にざわめく民衆を、もう制することを陛下はしない。
それどころか気にする様子もなくそのまま続ける。
「すべての王子が成人し、そして戴冠の資格を得た。私は直にこの座を、ここに居る五人の王子たちの誰かに明け渡すだろう。いづれかの王と聖女がその力を合わせ、この国の憂いをすべて吹き飛ばし更なる発展と希望を叶えることを望み、此度の祭事の結びとする」
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真昼の日差しに後押されるように、ちゃぷりと小さな水音をたてて、セレナは抱き締めたサラの体ごと泉にその身を沈めた。
太陽のおかげか以前感じたほどの冷たさはない。そのことにほっと安堵する。
既に泉にはセントポーリアの花や花弁が敷き詰めるように浮かんでいた。
今日の祭事の為に育てられたと言っていたので、子ども達があちこち溢れさせたのだろう。
セレナが修道院に着いた時、サラの居場所が分からず心当たりの場所を探す中、押し寄せる民衆の誰もがその花を携えていた。
修道院の至る所にその花弁が散っている。どこもかしこも真っ白だ。
サラを探すその途中でミルヒを見かけた。塀の上で日向ぼっこをするように寝そべり、いつもと異なる修道院の喧噪を距離をとって眺めていた。
目が合ったけれどそっぽ向かれてしまった。
前回会った時にこわい思いと寒い思いをさせてしまったので、仕方ないのかもしれない。
サラの居場所は一般客たちに花を配る顔見知りの子ども達が教えてくれた。
はやく行ってあげて、と。
だからセレナは走ってきた。
それから部屋に居たアリシアに少しだけサラと話をさせて欲しいとお願いし、サラを裏の泉まで連れてきた。サラの出番が始まる頃に、そこまで迎えに来て欲しいと言付けて。
「…セレナ…?」
「寒い? 少しだけ我慢してね、サラ」
サラを抱いたまま泉の真ん中までいき、白い花弁と水を纏う。
あの日と違って月夜ではないけれど、泉自体は絶えず月の魔力を蓄えてきた神聖なる水であることに変わりはないはずだ。
あとは女神の“代理”であるセントポーリアと、“対象”。そしてそれを繋ぐ自分が居れば、儀式は成立するはずだ。
もしも、しなかったら。
サラの穢れを取り除けなかったら。
一抹の不安が胸を過ぎるもあえて考えないようにする。
できるはずだと信じながら。
「セレナ、わたし…」
「大丈夫、サラ。間に合うよ、きっと」
お願い。応えて。
サラを抱き締める手に力を込めながら、固く目を瞑り祈りを捧げる。
できるはずだ。自分なら。疑っている暇はない。
「セレナに教わったあのおまじない、すごく効いたの」
「……サラ」
サラは瞼も開けずセレナにすべてを委ねながら、小さく微笑んでみせる。
その儚さに思わず涙が滲んだ。
サラの小さな体中に黒く広がるその痣が、セレナの心をも絶望に染めていく。
やめて、と心の内で願いながら。
「ほんとうに、痛くなかった。こわくも、なかった。ちゃんとセレナが来てくれるって、信じてたから」
「……サラ、まって、きっと、大丈夫だから…!」
一瞬だけセレナの腕を掴んだサラの手から、力が抜けてゆっくりと落ちた。
小さな水飛沫を上げてその手を掴み、セレナは思わず叫んでいた。
「まって、サラ…!」
ぎゅう、とその体を抱いて、確かめるように隙間を埋めて。
零れた涙が吸い込まれる。サラの肌に、そして泉に。
サラは返事を返さなかった。泉は静かに、揺れている。
修道院に背を向けて泉に腰まで浸かるセレナに、その背後の人影に気づく余裕はなかった。
祭事の一部が終わり礼拝堂を抜けて来たディアナスだ。
サラが居たはずの部屋に残っていたアリシアに事情を聞き、すぐにここまで追ってきた。
アリシアも一緒だ。だけどディアナスとは違い目の前の光景に戸惑いながら、距離を置いて様子を伺っている。
ディアナスは息を呑みながらそっとその後ろ姿に歩み寄る。
セレナは振り返らない。自分にまだ気づかないのだろう。
小さな叫び声が、ディアナスの心を激しく揺さぶった。
「…っ、サラ…?!」
咄嗟に駆け寄ったセレナの腕の中で、サラはうっすらと目を開けた。
日の光に包まれて、きらきらと輝くその輪郭。
ゆっくりとセレナがかたく抱き締めていた体を離す。
涙で溺れるその視界に、サラのきょとんとした顔が映った。
サラのその瞳はしっかりと、目の前のセレナを見つめている。
セレナの背後でディアナスがほっと息を漏らした。
セレナのただならぬ様子に、最悪の事態を覚悟したのだ。
もしかしたらサラの体が、保たなかったのではないかと。
だけどサラの口から出た言葉は、ディアナスの想像していたものとは異なれど、だけど確かに最悪な結末だった。
「…お姉ちゃん、だれ…?」
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