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第六章
聖なる羊
しおりを挟む――あぁ、みつけた
ようやくやっと、帰ってきたね
待っていた、ずっとずっと
きみがまたひとつになるまで
その約束が呪いに成り果てるまで
きみがこの血に繋がれるまで
待っていた
きみがここまで、落ちてくるのを――
待っていて
今からきみを、迎えにいく
------------------------------
ふと傍に感じる人の気配で、セレナは目を覚ました。
誰かがすぐそこに居た気がした。そこで自分に触れた気がした。
だけどここには自分ひとりだ。
寝返りを打ちながらぼうっと天井を見上げる。
外は既に明るい。日はもう充分高い位置まで昇っている。
随分慣れた体への痛みを僅かに感じた。
――でも。
「…あれ…?」
想定していた痛みとはぜんぜん違う。
むしろこんなの、痛みの内に等はいらないくらいだ。
「…どうして…」
むくりと起き上がり胸元をはだけさせ自分の体を覗き込む。
これまで王子たちから継いだ呪いの痣はある。だけど。
「…減ってる…?」
確か最後に確認した時は、胸元からお腹にかけて、そして背中に至るまで痣は広がっていたはずだ。
それなのに今は、明らかにその面積が少なくなっていた。
セレナはベッドから出て姿見の前に立ち、寝間着の釦をすべて外して上半身を露わにした。
そしてその体に、これまで見られなかったものが在ることに気付く。
「…なんだろう…何かのマーク…? 刻印?」
晒された自分のちょうど心臓の上。
見たこともない模様というか、刻印があった。
赤黒くはっきりと浮彫になるそれに、得体の知れない恐怖を感じる。
ゼノスからの呪いを多く身に継ぎ、なのに苦痛の低減と共に現れたそれ。
夜伽が関係していることは確かだろう。
これが良い兆候なのか悪い前触なのか分らない。
ただ、なんとなく、こわい。
セレナにいえるのはそれだけだった。
「ルミナスなら、分かるかな…」
「なにがだい?」
ひとり言にまさか、返事が返されるとは思うはずもなく。
背後から聞こえてきた声に、セレナは咄嗟に衣服を胸元で押えてがばりと振り返った。
そこに居たのは、この国の第一王子であるイリオス。
――なぜ。
蝶による訪問の確認は受けた。だけど返事はまだ返していない。
来て良いとも悪いとも言っていないのに、何故イリオスはなんの許可もなく、しかも部屋の中に居るのか。
眠る前のセレナの葛藤がまるで無駄になったその事実に、セレナは不満を隠すことなくイリオスに向けた。
自分の裸を鏡でまじまじと見ているところを見られたという点においてもこの上なく恥ずかしい。
イリオスはまったく動じることなくセレナから向けられる無言の非難を受けて流した。
「すまないね、一応何度かノックはしたんだけれど」
「…そういう問題じゃない気がする」
ノックして返事がないのなら、帰るべきだ。ゼノスはそうしていた。
不躾に押し入って良いというその無遠慮さは本当にいったい何なのか。
分かり易く不快を顕わにするセレナをイリオスは僅かに笑ってなだめながら、その藍色の瞳がさっと室内を隅から隅まで走った。
イリオスに背中を向け改めて衣服を整えるセレナにそっと近づいて、それからその体を半ば強引に抱き寄せる。やはりセレナになんの断りもなく。
「な…っ」
「――静かに」
言ったイリオスのその穏やかじゃない声音に、セレナは思わず口を噤んだ。
少し様子が変だ。自分を見下ろすその瞳はもう、笑ってはいない。
「…ひとりかい?」
「…見ての通り、あなたとふたりですけど」
分かり易く態度を崩さないセレナに、イリオスは思わず苦笑いを漏らした。
それから腕を解いてセレナを解放する。
「この部屋の結界が、誰かに干渉される気配を感じた。ルミナスは今神殿の儀式中で来られないから、僕が代わりに来たんだよ」
「…結界?」
そういえば、この部屋には特別な結界が張ってあると、以前イリオスが言っていたのを思い出す。
入ってこれるのは限られた者だけ、出られるのはセレナ以外。
ここは夜伽の為だけに用意されたセレナの檻だ。
「この部屋の結界は僕とルミナスのふたりがかりで施されている。そう容易く干渉できるものではないはずなんだけれど…」
ふ、っとその目が細められ、部屋の虚空でぴたりと止まる。
思わずセレナもそれを追うが、特に何も見つけられない。ただ真昼の虚空が在るばかりだ。
「少し見直す必要がありそうだ」
イリオスのいう不可解な干渉とやらと、セレナの体に突然現れた刻印。
その関連性は不明だけれど、同じタイミングで起こった出来事なだけに、何か意味があるのかもしれない。
だけどそれを今イリオスに報告することはできない。
セレナが継ぐ呪いの痣のことを、イリオスに言う気はないからだ。
それよりの部屋の結界を見直すというその言葉のほうがセレナには気掛かりだった。
「これまでとは、何かが変わるの?」
「本質は変わらないよ。強化する必要はありそうだけれど…変わると何か、不都合でも…?」
明らかに自分の態度が不審だったのだろう。イリオスの藍色の瞳が細められる。
セレナはその瞳にわずかにたじろぎながら、ふるふると首を振って応えた。
イリオスの本意はまだ見えない。迂闊な言葉と態度は逆効果だ。
これ以上余計なことを言わないよう口を閉じるセレナに、イリオスは意地の悪い笑みを向けた。
「心配せずとも、以前よりは抱き心地は良くなったようだよ。血色も良いみたいだしね」
一瞬なんのことを言っているのか分からずきょとんとするセレナに、更にイリオスのくつくつと喉で笑う声が向けられて、ようやくセレナは先ほどの行為――鏡で自分の裸を見ていた行為を持ち出されたのだと理解してかっと頬に熱が走った。
さっき抱き寄せられた時やけに胸元に押し付けられた気がしていた腕も、わざとだったのだと気が付き思い切りイリオスを睨みつける。
「そんなんじゃないから! ていうかすけべ! しれっと胸触るとか、紳士的な王子さまとは思えない…!」
「失礼だな、もちろん偶然だよ。きみの安全確認が最優先だったからね。だけどもう少し大きい方が僕の好みだけれど」
「あなたの好みなんてわたしにはまったく関係ないから!!」
セレナの胸はそれほど大きくはない。無いわけではないけれど、一般的にはもう少しあった方が世の男性には喜ばれるだろう。
この世界に来て夜伽なんて始めるまで全く気にもしていなかったのだが、ここに来て唐突に恥ずかしくなる。
イリオスが変なことを言うからだ。もう他の人にさんざん見られたり触られたりもしているのに。
「ひとまず君の無事も確認できたことだし、僕も戻るよ」
一通りセレナをからかって、腰を落ち着けることもなくイリオスが言った言葉に思わずセレナは目を丸くした。
「…それだけ…? 蝶でわたしの都合を訊いたのは、何か用件があったからじゃないの…?」
「こう見えて僕も、忙しいからね。君の様子は定期的に見にくると言っていただろう。顔が見れて良かった」
確かにそう言っていた。
だけどわざわざ夜明け前に蝶を寄越したのだから、もっと何か大事な要件があるのだと思っていたのだ。
まさか顔を見る為だけにわざわざ来るとは。
今回の急場はそれ以外のこともあったようだけれど、それでも本当にイリオスはこれ以上セレナに訊くことはないようだった。
僅かな違和感が、胸を掠める。
「…イリオスは」
それに、そうだ。イリオスは言っていた。
少なくとも弟の内の誰かの呪いが解かれるまで、夜伽を請うことはしないと。
現状はふたり、呪いが解かれている。
「イリオスは呪いを、解かないの…?」
思わずそう口にしたセレナに、イリオスは僅かに目を細める。
その瞳が何を考えているのかはセレナには分からない。
だけどなんとなく分かるのは。
イリオスには自分の呪いを解こうとする意思が、まるで感じられないということ。
「…もちろんいずれ、解いてもらうさ」
言ってイリオスが、距離を詰めてそっとその綺麗な顔をセレナに寄せる。
思わず身構えて一歩退いたセレナとの距離を一瞬で詰めながら、イリオスは目を合わせたまま笑った。
「…“聖女”とは。すべての穢れを払う存在だ。だけど僕らの呪いを解けるのは、“夜伽聖女”と呼ばれる存在だけ。これがどういう意味か、きみには分かるかい? セレナ」
いつの間にか。自分の背後にはベッドがあった。だけどセレナがそれに気付くには遅すぎた。
イリオスに気圧されるまま逃げた先にあったベッドに、体勢を崩して背中から倒れ込む。
勢いよく軋んでベッドが鳴り、そこに別の体重がゆっくりと加わった。
「イ、イリオス…?」
「永く王家に継がれてきたこの呪いが、解かれて終わりだなんてあるはずがない。呪いには必ず術者が存在する。悪意をこの国に向けた相手が。この呪いは、誰にかけられたものなのか…僕はずっと、それを探っている」
倒れたセレナの上に覆いかぶさるように、セレナの体はイリオスの内側にすっぽりおさまってっしまう。
自分を見下ろす藍色の瞳はひどく冷たい色だった。セレナは思わず唾を呑み身構える。
こわいと思った。だけどセレナは目を逸らさない。その挑戦をイリオスは笑って受ける。
「…どうして。僕らの呪いを解くのには、“夜伽”でなければならないのか」
互いに視線を逸らさずに、そっと触れるだけの口づけをイリオスは繰り返した。
何度目かで反射的に目を瞑ったセレナにイリオスがその口づけを深くする。
約束した通りイリオスは、唇以外は決して触れようとはしない。
突然のその行為に思わずセレナは塞がれた口の中で抗議の声を上げた。
だけどイリオスは唇ひとつでセレナを黙らせる。きつく吸われたその舌先に、悲鳴も抗議も奪われた。
それから唇を離してイリオスは続ける。その瞳の奥に僅かな欲情を映して。
だけどそれ以外のすべてが、夜伽聖女を否定しているのを全身で感じた。
「触れると欲情を煽るのは何故なのか…どうしてこの呪いは、僕ら呪われた王子たちと“夜伽聖女”を繋げようとするのか」
イリオスが何を言っているのか、セレナにはよく分からない。
どうしてイリオスがそれを知りたいのか、そして知ってどうするのか――
ただイリオスが夜伽を望まない理由が僅かに垣間見えた気がした。
イリオスが呪いそのものをひどく憎んでいることも。
「その答えがきみを抱くことで手に入るなら、僕はいくらでも夜伽を受けよう。だけど今はまだ、おそらく望む答えは手にはいらない。だから、僕は。一番、最後だ」
イリオスの本心は、いつだって見えない。
以前は弟たちの誰かひとりでも呪いが解かれたらと言っていたのに。
ただ単純に夜伽が…セレナを抱くのが嫌なだけではないかとさえ思えてしまう。
それでも、それなら、どうして。
あんな風に求めるような口づけをするのか。
離れると思っていたそれが、また自分に触れるのか。
セレナには分からない。だから何も返さなかった。
「口づけをしない約束は、ちゃんと守れているのかい」
「……イリオスには関係ない」
「その様子じゃ守れていないようだね。これじゃあ僕がキスする理由がなくなってしまう」
「だったらしなければ良いじゃな…ん、」
「…そうしたらここに来る意味が、なくなってしまうだろう」
先ほどまでの鋭い空気をようやく潜めて、イリオスはまた笑ってそれを繰り返す。境界を脅かすことはもうしない。セレナの反応を面白がるように、まるで子猫で遊んでいるかのように。
セレナにもその様子は伝わって、不機嫌を全面に押し出すもイリオスにはまったく効かない。
それでもその“約束”があるうちは、イリオスがそれ以上セレナに触れないことをセレナ自身もわかっていた。
どこまで本気でどこまでふざけているのか。
ほんとうに読めない、その心。
ただひとつ分かるのは、そうしてイリオスはセレナを守っているのだということ。
それだけはセレナにも分かった。
イリオスは“約束”を破らない。
それだけは確かだ。
「…ちゃんと、わたしがわたしの役割を、果たせたら…」
「…うん…?」
「守って、くれるんだよね…約束」
「…どの約束のことかな」
きちんと交わしたわけではない。でも。
セレナが夜伽を決して断らないと、誓ったのは――
「…ノヴァを…ノヴァの血を利用しようとする、悪いひと達から。守ってあげて、わたしは絶対に…夜伽を拒んだりしないから」
公には認められていない。だけど確かに王家の血を受け継ぐ“王子”であるノヴァ。
その血は争いの種になる。そう言ったのはイリオスだ。王家の難しい事情はよく分からないけれど。
ノヴァの居場所がもう自分の傍にないとしても。
…傷つかないでほしい。
また、こんな時に。
眠気に襲われる。まだ話している途中なのに。
大事な話を、しているところなのに。
落ちる瞼を止められない。
「…ノヴァを、巻き込まないで」
その呟きだけを残して、セレナは落ちるように意識を手離した。
この状況で寝入るセレナにも驚いたが、それよりもセレナの言葉にイリオスは複雑そうな笑みを浮かべる。
「…少し、遅かったようだね」
その横顔に落ちる影。もう何の反応も返ってこないセレナにそれでも触れようとしたイリオスに、どこからかこの場に居るはずのな人物の諌める視線を感じた気がして顔を上げる。
当然ながらそこには誰もいない。
ゆっくりとイリオスはセレナから距離をとって、自分の唇に残る余韻を指先で拭って舐めとった。
「まったく、仕方のない子たちだ」
セレナの傍を離れたのは、ノヴァの自らの意思だった。
自身の呪いが解かれたことに気付いてすぐ、ノヴァが一番に訪れたのはイリオスの前だった。
そしてセレナとまるで同じ言葉を自分に言った。
『――これ以上、彼女を巻き込まないで欲しい』
そうして、ノヴァは。その身と命を王家に捧げた。
古より女神の加護を受けた神聖なる場所で“聖女”からの祝福を受け、彼は本物の王子となる。
夜伽聖女の自由と引き換えに。
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