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第四章
哀色の残照
しおりを挟む「ノヴァはしばらく貴女の世話役を離れるわ」
わたしの顔を見るなりそう切り出したルミナスは、言った後で長く重たい息をついた。
それから小さく断ってから来客用のソファに腰を下ろす。
わたしはルミナスの言った言葉を上手く受け止めきれずに、その様子を黙って見送ることしかできなかった。
「……どういう、こと…?」
「詳細は言えない。でも早急に代わりの世話役を用意するし、アタシもなるべく様子は見に来るけれど、」
「どうしてノヴァがいないの?」
目を覚ました時。
いつも傍でわたしの目覚めを待つノヴァの姿はどこにもなかった。
夜にノヴァと一緒に眠ったのは覚えている。
それから朝を迎え痛みに苦しみ、その間もノヴァはずっと傍で手を握っていてくれた。
合間に水やごはんを分け合って、痛みの合間を縫って浅く眠り、苦痛に起きればそれを紛らわせる為に他愛のない話をして、耐えきれずに泣くわたしにはいくつもの口づけを体中にくれた。
そのひとつひとつ小さなことが、痛みを凌ぐ糧だった。
そうして日が落ちて痛みがひき、僅かに眠っていたわたしが目を覚ました時。
部屋に在ったのはただの静寂と暗闇だけ。
わたしはこの部屋に来てからはじめて自分で身なりを整えて食事を済ませ、ノヴァを待った。
きっとすぐに帰ってくる。そう信じて疑わずに。
そこから僅かな時間を置いて、ルミナスが部屋を訪問してきたのだ。
「…詳細は、言えないの。…ごめんなさい、水を一杯、頂けるかしら」
「……はい」
顔を蒼くするばかりのルミナスをそれ以上問い質すことはできなかった。
わたしはキッチンへ行ってコップと水差しを持って戻り、水を注いでルミナスに差し出した。かたちだけ微笑んで、ルミナスが礼を言って受け取る。
それからゆっくりとコップを仰ぐルミナスの向かいに自分も腰を下ろした。
「…ここからは…アタシの、ひとり言として、聞き流して欲しいんだけど」
「…はい」
コップをテーブルに置き、ルミナスがソファの背もたれに体重を預け天井を仰いだ。
いつも用事がある時しか訪れないルミナスは、神官長としてその節度を崩さない。だけど今は完全にその役割を放棄して見えた。
「ノヴァの母親は、才能ある魔導師だったわ。その世界での女性の活躍はまだ優遇されていなくて、それでも彼女は自らの信念のもと、その立場を確立していった。次第にその成果が認められて、王城への配属も決まった。特殊な術の研究員として、協力を要請されたの」
昔を懐かしむように、ルミナスの口調が少しだけ穏やかなものになる。その瞳は伏せられていて、おそらく思い出に浸っているのかもしれない。
ルミナスとノヴァの母親は、既知の仲だったという。それから、あの姿隠しのベールもノヴァの母親が開発したものなのよ、と。彼女の功績を誇らしげに語る顔が、今度はどこか苦しそうに歪められる。
「そこで、陛下と…ライナス様と出会った」
陛下――国王陛下。つまりはノヴァの、父親だ。
ノヴァの母親と父親の出会いをわたしに語るルミナスの、その心は分からない。だけど黙ってわたしは耳を澄ます。一言も聞き逃さないように。
「…本来なら、ライナス様は…民間人に手を出すようなお方ではなかった。きちんと分別のある方で、どうしてそうなったのか、誰も分からなかった。訊いても答えてくれなかったから。特にライナス様はその時まだ、呪いを身に宿していたから…王家が用意した女性以外に手を出すことなど…ありえないはずだった。王家の呪いは最大の秘匿事項だったから、それが外漏れるような行為を、自らするなんて――」
途中からもう、説明するというより本当にただのひとり言のように、ルミナスは片手でその顔を覆って深く息を吐く。それから普段とは比べものにもならないくらい覇気のない声で、言葉を続ける。
「ノヴァの母親はしばらくして王城での任を解かれ、街で静かに暮らしていたと職場の仲間たちは言っていたわ。それから病に倒れ亡くなったと。そのことがライナス様の耳にもはいり、ライナス様は自ら城を抜け出て彼女の住んでいた家に行き…そしてそこに、ノヴァが居た。彼女はノヴァの存在をライナス様には知らせていなかった。だけどノヴァの身に宿る呪いの痣が、王家の血を継いでいることの何よりの証。そうしてノヴァは秘密裏に、王城へと引き取られた」
ぐっと、いつの間にか握っていた拳。
ノヴァの生立ちなど自分には関係ないと、知らなくて良いとそう思っていたはずなのに。
今は少しだけ、聞けたことに感謝する。
いなくなってから気付く。わたしは本当にノヴァのことを、何も知らなかったのだと。
「最初は…まだ幼かった彼は、アタシ達の神殿で預かっていたの。彼の処遇は判断に時間が必要だった。城の中には王位継承者が増えることに良く思わない者も多い。だからノヴァは…自らそれを放棄することで、身の安全をはかってきた。そうして自分で生き方を身に付け、それでもその血筋から自由を制限され…公式な王子たちの誰かが正式に王位を継ぐまでは、王城で隠されてきた。そういう、約束で」
「…じゃあノヴァは、誰かが次の王様になったら、自由になれるってこと…?」
「…そういう、約束だったのよ。…なのに、イリオス様がノヴァに余計なことを」
そこまで言って、はっとルミナスが慌てて口元を覆う。言葉が過ぎたことを誤魔化すように、その身を起こして乱れた身なりを整えて。そして自らテーブルの上の水差しから水をコップに注ぎ、勢いよく飲み干す。
「とにかく、しばらくノヴァは不在よ。夜伽に関しては直接アタシに何でも相談して頂戴。貴女の世話もなるべく顔を出すようにするから」
「…いい、です。要らない。自分でします」
緩く首を振って、拒否を示す。
ノヴァの不在についてこれ以上言及はできないと悟り、握っていた拳をゆっくりと解いた。
「…様子だけでも、見にくるわ。貴女の体も心配だし、貴女は見た目よりずっと、何をしでかすか分からない性格みたいだから」
苦笑いを零しながらそっとルミナスが、わたしの頭に触れた。泣きだしそうになるのを必死に堪えて頷くだけで精いっぱいだった。
それからふと視界の端に白い影。ルミナスとふたり部屋を仰ぐ。
蝶、だ。すっかり忘れていた、その存在を。
ゼノスからもらった白い薔薇は、ノヴァが用意してくれた一輪挿し用のガラスの花瓶に挿してベッド脇のサイドボードの上にある。蝶は室内をふらふらと飛び回ったあと、その白い薔薇にふわりととまった。
「…ゼノス王子の蝶ね」
「そうだ、忘れてた…詳しいことは、ルミナスに聞いてって」
わたしはそっとソファから立ち上がって、薔薇の花瓶を手に同じ場所へと腰を下ろす。ルミナスがその様子を見つめながら、場所をわたしの隣りに移す。それから手の中の薔薇を見つめて一瞬複雑そうな顔をして。少しの間を置いて説明を始めた。
「この薔薇と蝶には、王子たちと、それから貴女の血が術の過程で込められているの」
え、いつの間に。思わず隣りのルミナスの顔を凝視するもあえて無視される。わたしもたいしたことではないかと追及はしない。
「王子たちの気持ちに呼応して蝶は呼ばれる。蝶はその気持ちを仲介する為の道具。薔薇は蝶がとまると色を変えるけれど、それはつまり、王子が貴女に用があるという合図みたいなものなの」
蝶がとまった薔薇はしばらくして、白からゆっくりとその色を変える。
つまりは今、誰かが。わたしへの用があるということ。
「だけど突然の訪問は禁止しているはずよ、色はあくまで相手を判別する為のもの」
言ってルミナスはどこからか取り出した紙とペンに、それぞれ王子たちの名前と、その横に色を書き出した。まだこの世界の文字が読めないわたしは、一通り説明が終わるまでとりあえず待つ。
薔薇にとまっていた蝶が、ルミナスの差し出した紙へと場所を移す。よく見ると白いばかりだと思っていた蝶の羽に、黒い文字が浮かんでいた。確かゼノスも、短い文章なら伝えられると言っていたっけ。
そして蝶の羽に浮かんでいたその文字が、するすると紙の上へと移動する。文字自体が生きているみたいでちょっと面白い。
「……あぁ、そうだったわ。こっちの件も、あったんだったわ…」
その文章を確認したルミナスが、再び脱力するようにソファに項垂れた。ようやく戻った“神官長”の顔つきが、また蒼く歪められる。
「…誰が、なんて言ってるの…?」
わたしの言葉にルミナスは、振り絞るように体を起こしわたしの手をとった。その瞳に滲む懸念の色。
薔薇の色は赤く染まっていた。
「本来なら、次の対面の順番はディアナス王子だったのだけれど…急きょ変更されて、アレス王子からの対面の申し込みよ。明日の夜、ここへ来たいと」
「あまり宜しくはないけれど、日を改めてもらうこともできるわ」と、わたしの様子を気遣ってルミナスが提案してくれる。本来なら中立の立場であるルミナスが、わたしの気持ちばかりを憂慮していてはいけないことはわたしにだってわかる。わたしは首を振り笑って答えた。
「…大丈夫。その申し出を、受けます。明日の夜お待ちしていますと、返事してもらって良い?」
蝶は便利だけれど、現状わたしに文字の読み書きができない限り、誰かに頼ることになってしまう。
空いた時間は、勉強しよう。せめて簡単なやりとりができるようにならないと、不便だ。本当は、ノヴァが教えてくれるって言っていたっけ。
思わず滲んだ涙にルミナスは表情を曇らせ、そっとわたしを抱き締めて了承した。
白い紙の上に書いた返事を蝶が受け取り、ふらふらと飛びたつとふっと闇夜にその姿を消した。そういうつくりに、なっているらしい。
「貴女から用がある時も、望めば蝶はくるはずよ。この部屋でのことならアタシにも届く用になってるから、何かあったらすぐに呼ぶのよ、良いわね?」
ルミナスはしつこく念を押して、「また様子を見にくるから」と部屋を後にしようとしたその時。思い出したように足をとめ、こちらを振り返る。
「…貴女は…ノヴァの体の異変に、気付いた…?」
その問いに、たぶんわたしは笑って答えた。泣かないように必死に堪える。それが原因だとは、思いたくなかったから。
「…ノヴァの呪いが、解かれたこと…?」
ルミナスは無言でまた顔を歪め、一度だけ瞼を閉じ。それからそっとまたわたしの頭に触れて、おやすみなさいと部屋を後にした。
それを見送って、やけにゆっくりとした動作で広いベッドに横になる。
いつもなら痛みのおさまる夜はそれなりに好きなことをする。ゆっくりとお風呂にはいってごはんを食べて、ノヴァが用意してくれた挿絵の多い本を眺めたりして。わたしの知っているおとぎ話を聞かせたこともあった。
食事や掃除の手伝いもする。料理や裁縫もほんの少しだけ習った。できることは自分でしたいと言ったわたしに、ノヴァがちゃんと仕事を残しておいてくれて、体調をみながらこの世界のことを学んでいく。
その殆どにノヴァが付き合ってくれていた。
だけど流石に今日は何もする気が起きない。気持ちばかりが疲弊して、起きていてもつらくてさっさと寝ることにしたのだ。
だけど上手く寝付くことができない。痛みはおさまっているいるし体は疲れているはずなのに。
理由も分からない感情が、涙が。体の底から後から後から湧いてくる。滲んだ涙が流れてシーツに吸い込まれた。
いつもそれを拭ってくれる手が、今日はわたしに触れることはない。明日も明後日も、もしかしたらずっと。
この世界にきてはじめて、わたしはひとりで眠りについた。
かたくかたく目を瞑り、ひとりだと意識しないように、気付かないように。
ただ何も考えないように必死に頭をからっぽにして、眠った。
――灯りの消えた室内に、ふわりと白い蝶が舞い戻る。
その蝶が薔薇にとまり色をかえたことに、だからセレナは気付かなかった。
淡く紫色に輝いた薔薇は、セレナが目を覚ます頃にはまたもとの白に戻っていた。
そして出しっぱなしだった紙に残された文字の意味を、セレナが知るのはまだ先の話。
何も知らないセレナに、“聖女”に傷つけられたアレスとの対面が迫っていた。
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