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第二章
消せない傷
しおりを挟むどくん、と。
自分の身体がまるごと心臓になったように、ひと際大きく脈打った、その瞬間。
それは、やってきた。
「……っぁ…!」
見開いた目には何も映っていない。焦点が定まらず視界が霞む。
突然自分の身体を襲う痛みに、恐怖と混乱で思考まで侵された。軽いパニック状態。呼吸すらままならない。
わけも解らずただ自分の腕を強く強く抱く。爪が食い込むのもそのままに。
痛みには慣れていたつもりだった。
だけどその苦痛は自分の想像以上で、別次元のもので。
ベッドの上をのた打ち回る。呼吸が上手くできず酸素を求めて必死に喘ぐ。
声にもならない悲鳴を上げて、だけど喉の奥でそれは潰えた。
そうして最悪の目覚めを経てどれくらいが経ったのか。
ベッドの隅で小さくなって蹲る、汗と涙で濡れた体に誰かがそっと触れた。
殺して、と。無意識にそう言葉にしていた。相手の顔も見ずに。
それはかつて一度だけ、最愛のひとに放った言葉と同じもので、その言葉でようやく我に返る。
あの時の、弱い自分もはもう死んだのだ。
わたしはもう誰にも委ねない。
わたしを殺すのは、わたしだけだ。
「……セレナ」
ノヴァの声だ。なんて哀しそうな声。
まだなお襲う痛みを堪え、ゆっくりと背後を振り返りその姿を確認する。
きっとわたしはひどい有様だっただろう。顔も身体も汗と涙でぐちゃぐちゃだ。
ノヴァの、哀しみに暮れるその瞳。歪められた綺麗な顔。
きっとノヴァはこうなる予感があったのだろう。
わたしを襲うこの苦痛の正体を訊ねることはしなかった。
だけどそれはわたしも同じだ。
冷えた体に体温が戻り、ようやく頭が冴えてくる。
ノヴァがわたしの手を強く握った。何も言わずに、泣きながら。
これが、呪い。
身体と心を蝕む楔。
ちょっとなめてた。苦痛には耐性があるからと驕っていた。これはちょっと、しんどい。
だけどこの痛みはずっと、ノヴァが背負ってきたものの一部。そう思うと少しだけ心を強くもつことができた。
「…ノヴァの、身体は…?」
「…っ、僕の、身体なんて…!」
「でも、まだ残っていたでしょう、呪いの痣…」
「…とても…とても少なくなりました。それに伴うように痛みも、殆どなくなりました。これまでに比べたら痛いとも感じません。ぜんぶ、貴女に…セレナに移ったからです」
「そっか…なら、良かった」
この呪いは、寿命を削ると言っていたっけ。
どのくらいのはやさだろう。もとからわたしの身体は長くはもたない。
だけど王家に代々受け継がれてきた以上、そこまで急速に侵し尽くされることはないはずだ。
あとどれくらい、生きられるだろう。
わたしの体に散った呪いが、ノヴァの触れた部分へと集まるように熱を持つ。だけど昨夜のような欲情の種火には程遠い。
「…確かに。ノヴァの呪いが、この娘の身体に移ったようね」
ノヴァの後ろから、聞いたことのない声がした。
だけど視線は未だ虚ろでその姿をはっきりと確認することはできない。窓から差し込む逆光で黒い影が浮かび上がるだけ。
ノヴァがわたしの手を離さずに、後ろに居た人物へと振り返る。縋るような泣き声で。
「…先生…! 何か…何か方法はありませんか…! せめて苦痛を和らげる、何か…!」
「それはこれまで散々探し尽くしてきたでしょう、ヘルメス・ノヴァ。気をしっかり持ちなさい。彼女を儀式の間へ。彼女は異世界の人間。これまでとは違った効能を示す方法があるかもしれないわ」
先生と呼ばれた人物の指示に、ノヴァは涙を拭って頷いた。
それからわたしの身体を抱き上げる。わたしは指一本動かせない。
抱き上げられたわたしの顔をその影が覗き込んだ。
「初めまして、夜伽聖女さま。アタシはルミナス。今からアナタのカラダを診させてもらうわ」
おぼろげな輪郭に、凛と響く声だった。
言葉遣いは女性のようだけれど、低く落ち着いた声音。
中性的というよりは全体的に男性よりだ。だけど放つ空気は不思議と女性を思わせた。柔らかくすべてを包み込んでくれるような。
それからノヴァを先導するように歩き出したその人の腕を、咄嗟に掴む。自分でも無意識で、体が勝手に動いた。動かないと思っていたのに。
目を丸くするルミナスの腕を、わたしは意地でも離さずその顔を見つめる。震える腕は今にも零れそうでも。
「ノヴァの…ノヴァの呪いは、どれくらい残ってるの…? ちゃんと、生きられる…? これから、先を…」
わたしが聖女だと認められたなら。もうノヴァへの夜伽はゆるされない可能性がある。
ノヴァの事情は知らないけれど、たとえ王家の血をひいていてもノヴァは、王子と認められていない。
その血はきっと後回しだ。仮に他の王子たちの呪いをすべて解けたとしても、わたしの身体がもつ保証はない。
まだノヴァの呪いは解けていないのに。
「…大丈夫。この呪いは元々、宿主を食い殺すほどの効力は確認されていない。それをどう捉えるかは本人次第ね。ただ食われた命は戻らない。これからどう生きるかは、この子次第よ」
そう微笑むルミナスの言葉を、上手くは呑み込めずただ、詰めていた息をようやく吐き出す。
おそらくわたしが想像するよりも、ノヴァには未来と時間があるのだと、前向きな答えだと解釈して。
わたしはルミナスの腕から手を離す。それからルミナスに促されるままにノヴァが歩き出した。
「…聖女さまとは、よく言ったものね」
隣りに並んだルミナスが、わたしを見下ろしながら小さく漏らす。
その言葉の意図になんとなく気付いたわたしは「嫌味ですか」と悪態をつく。口だけで。
ノヴァの身体を気遣うわたしの良心が、すべてに向けられるとでも思っているのか。
この先、すべての王子たちにも同じものを向けられるとでも。
だとしたら勘違いも良いところだ。そんなわけない。ノヴァだから、だ。
聖女だなんてそんなもの。偶像でしかない。抗いようのない困難に苦しむ人々の心の拠り所。
つまりは決して、存在しないものだ。少なくともわたしはそう思う。
ノヴァの少し困った顔が視界の端に映った。それでもわたしの気は治まらない。
「聖女なんか、本当はどこにもいないくせに」
都合よく呪いを受けるその捌け口を、ただそう呼んだだけ。
何か言いたそうにノヴァが口を開いたけれど、それを聞く前に目的地に着いたらしい。
着いた場所はわたしが初めてこの世界に降り立った場所。
薄く水の張られた洞窟だ。相変わらず岩肌自体が熱を持ち、淡い光を放っている。
わたしとノヴァが初めて会った場所。
「中央へ」
ルミナスの指示に従い、わたしは泉の中央に寝かされる。纏う水は不思議と温かく、人肌に似ていた。
少しだけ苦痛に慣れてきたのか、呼吸は楽になってきた。あののた打ち回るような苦しみは、いまは感じない。
「服を脱がせるわ。ノヴァはアタシの薬箱から一段目の薬をすべて出して」
「分かりました」
わたしの脇に膝をつきながら、ルミナスとノヴァがやりとりを交わす声と、ガラスや瓶のぶつかるような音だけが響いている。
ルミナスの手がわたしの衣服に触れそっと開き、その手が一瞬止まるのを感じた。その横でノヴァが息を呑む気配も。
痛みをやり過ごそうと必死に歴代プレイしてきた乙女ゲームの神エンドを思い出していたわたしだけれど、その空気に引き戻される。このまるで正反対の現実に。
「…これは…夜伽でできたものでは、ないわよね…?」
確認するようにルミナスが、遠慮がちにわたしに問う。
しまったなぁ。暗闇でなら多少はやり過ごせたのにな、と。
ここは明る過ぎた。誤魔化しや言い訳を考える気力も今はない。
答えるのが億劫なわたしは首だけ動かして返事した。
だけどどうもそれだけでは納得してくれないらしい。わたしからの明確な答えを、待っている。
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「もとの世界でわたしは、重い病気だった。身体も殆ど動かせず、ただ死ぬのを待つばかりの。痕が残るのも覚悟で、手術もたくさんした。だけど駄目だった」
それが前の、七尾小夜子という人間。
弱くてずるくてとても小さな人間だった。そんな自分が嫌で仕方なかった。
消したくて殺したくてでもできなくて。
この世界にきて、別の人間になったつもりでいたのに。その願いが叶ったと思っていたのに。
どうしたって消せない。
わたしがわたしの身体である限り。
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