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第一章
ひみつの王子と夜伽の聖女
しおりを挟む伸ばされた手に腕をとられ、あっという間に抱き上げられ、そして腫物でも扱うようにそっと置かれたベッドの上。
広くて大きなベッドはどこもかしこも柔らかく、あっという間に沈む体重。
そこにノヴァの分が加わった。
ギシリと、鳴るのはどこのベッドも同じらしい。
だけど押し倒した側がどこか泣きそうな顔をした濡れ場など、おそらく誰も求めてないだろう。
――18年間ずっと、ベッドの上だった。
僅かに外で過ごした記憶はあるけれど、それより遥かにベッドの上で過ごすことの多い人生だった。
今いるベッドの厚みは半分くらい。転院も多かったので自分の物なんて殆ど置かず。
いついなくなっても良いような、そんな空間でずっと。その時を待っていた。
「…わたしの、名前を訊かないのはどうして…?」
「…それは…」
もとの世界で。
身体の自由なんて殆どなかった。
痛みと苦痛しかなかった。
それから虚無と絶望。
望みはただひとつ。
予想していたのとは少し違うかたちだけれど、それが今叶ったのだ。
――この人の、ノヴァのおかげで。
「…優しいひと。あなただけが悪役になることなんてない。あなたの望みは叶えてあげる。だからお願い…わたしの敵には、ならないで」
わたしの言葉にノヴァの瞳が丸くなる。その瞳が滲んで揺れる。
まだ幼さを残しながら、だけど感情はその使命感に殆ど押し込められていた。
必死に押し隠して、そしてわたしを傷つける覚悟を決めて、その身を犠牲にしようとしていたひと。
おそらくこの、呪われた王国の為に。
誰も知らない、ひみつの王子さま。
決めた。
“わたし”のはじめても最後も、彼にあげよう。
「大丈夫。あなたの望む、“聖女”になってあげる。できる限りのことはしてあげる。だからあなたは…あなただけは。覚えていて欲しいの。やっぱり少し、未練はあるから」
そっと、今度は自分から。
手を伸ばしてみる。ノヴァの冷たい頬に指先だけ。
それからそっと露出した肌をなぞる。黒く蠢く“呪い”に向かって。
びくりとその細い身体が一瞬撥ね、それから頬が一瞬だけ赤くなった。
ようやく覗いたノヴァの感情。不慣れと戸惑いに揺れるその様子が少しだけかわいいと思った。
もちろんわたし自身も慣れているわけではないし、れっきとした処女である。
二次元で培った知識だけは山ほどあるけれど、現実はそう簡単ではないことくらい解っている。
何より怖くないわけがない。
初めてのその行為も、わたしとノヴァの身体を利用しようとしているその相手も、そして彼らを侵す呪いに触れるのも。
怖い。わかっている。でも。
「わたしの名前は、小夜子。今日ここで居なくなる。新しい名前はあなたがつけて。なんでも良いよ、聖女さまっぽいやつ。…ノヴァ。“わたし”のはじめても最後も、あなたにあげるわ。あなたのその心の為に」
「…まだ、なにも。ぼくはちゃんと、貴女に説明していません…説明してからでは…遅いからです。拒否権は、ないから。ぼくも、貴女も…」
「拒否しない。わたしはもうここでしか、生きられないのだから。だからせめてお互いもう少し、歩み寄るのはどうかな。協力者として…いっしょに生きて、いく為に」
両の手でノヴァの頬をやさしく包んで、まっすぐ目を合わせて見つめ合う。
手の平で感じる肌の温度も感触も、自分たちが今ここにいるという証だ。
ずっと震えていたノヴァの身体が、ようやく熱を取り戻す。その瞳にわたしを映して。
「……小夜、子」
「この世界であなただけが、わたしが七尾小夜子という人間であったことを、知っていてくれれば良い。あとはほんの少しの自由があれば…そしたらわたしはいくらでも、聖女として夜伽でもなんでもしてあげる」
ノヴァが一度だけかたく目を瞑り、それからようやくわたしの上に覆いかぶさっていた体を避けて身を起こした。
添えられていたわたしの手をとったまま、温もりだけをまだ、繋いだまま。
「…どうして。貴女にはこの世界の…この国のことなど、まるで関係のないことなのに」
「だから、かな」
今自分はこの世界で、自分でも驚くほど身軽なのだ。
引き受けてしまった以上できる限りのことはするけれど、ぜんぶ自分の思うままで良い。
無関係だから、無関心だから。
それでこの国が滅びても、たぶんわたしの胸はそれほど痛まないだろう。ノヴァには申し訳ないと思うくらい。
でも、だからこそ。
「身体は好きにして良いけど、心だけは最期…わたしが持っていく。だからその時までは…本当にわたしが、聖女なら。少しくらいは役にたってみせるよ」
わたしの答えに目の前のノヴァは未だ納得していないようで、どこか考えこむ素振りを見せる。
本来なら彼の役割は、その呪われた身体に本当にわたしという存在が有効であるかを確かめる、いわば毒見のような役目だったのだろう。
王子という身分とはかけ離れた人身御供。おそらく誰かにそう、命じられて。
本当にわたしの夜伽で王子たちの呪いが解けるのか。正統なる王子たる身に不確定なままの得体の知れない存在を交わらせることはゆるされない。
それを確かめる為に、ノヴァはわたしを抱く必要がある。わたしという存在を確かめる必要が。
得体の知れない、本当に聖女かも分からない、会ったばかりの女を、だ。
憐れだと思うし同情する。
相手がわたしであることにも、それを命じられ断れない彼の立場にも。
「どうせなら痛くないほうが良いし、何か他にやりようがあるかもしれない。もう少し、いっしょに。探してみようよ、傷つけず、傷つかずに済む方法を」
受け容れる覚悟ならできているのだ。
だけど痛いのも苦しいのもできればもうイヤ。
やると決めたなら、やりたいようにやる。
少しでも自由に、悔いの残らないように。
「…わかりました」
小さく、ノヴァがそうこぼし、そっとわたしの手の平に唇を寄せた。
冷たい手の平と、濡れた唇の感触がわたしの手を包み込んで。
その碧い瞳がまっすぐとあたしを見つめる。その瞳にまだ迷いは揺れているけれど。
「…セレナ、と。そう呼ばせてください」
「いいね、素敵な名前。わたしは今から、夜伽聖女のセレナね」
新しい名前が決まった。
いま、この瞬間。
新しい人生が始まる。
不安は多いけれど。
なかなかの再スタートではないか。
満足げに笑うわたしに、ノヴァもどこか仕方なさそうに困ったように、だけどようやく小さな笑みを見せた。それだけでわたしも嬉しかった。
「貴女の身体を使わせて頂く代わりに、ぼくも自らの意志をもって、この身体を差し出します。兄上たちの呪いを解きたいのはぼくの心からの本心でもある。だから、セレナ。貴女の力を、ぼくに貸してください」
はっきりと、ノヴァはわたしの目を見て心の内を告げる。
握った手は繋いだまま。おそらく彼の、決意と共に。
「ぼくもぼく自身の望みの為…この国の為。貴女は、ぼくが守ります。この身にかえても」
守るものは、多くないほうがきっと良い。
そう思ったけれど言葉にはしないでおいた。
彼は彼の心のままに、動くだけ。
たぶん彼に、わたしは守れないだろうけれど。
「よろしく、ノヴァ」
わたしのひみつの王子様。
いつか彼の毒が、わたしを侵す日がきても。
わたしはこの選択を悔いたりしない。絶対に。
この日――夜伽聖女セレナが、誕生した夜。
月明かりだけがふたりをそっと包み込んでいた。
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