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最終章

迷いの森

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 お伽噺も真実も、いつだって一番遠いところにある。
 自分の興味はもうそこにはない。
 ただ目の前の現実があるだけだ。


「行ってください。イリオス様」
「……ノヴァ?」

 いつだって自分には優しくない現実が。
 それでも生きてきた中で、残酷な現実ばかりではなかったはずだ。

「あなたは最後まで話してくれませんでしたが、この森の王とあなたが深く関わっていることくらい僕にも分かります」

 言って差し出したノヴァの手には、青い果実が乗っていた。
 つるりと丸い側面には齧られた痕。それでもそこに顕在するそれは効力の顕れだろう。
 イリオスが僅かに目を瞠り、離れた位置ではエレナも小さく息を呑む。

「僕は、ずっと…この国を導くのは、あなたしかいないと思っていました。僕が滅ぼしても、残るあなたがきっと正しい方へと導いてくれる。だから僕は安心してその罪悪と望みを捨てずに生きてこられました」

 次期国王候補筆頭ともいわれその座も確実だったこの兄が、自分に肩入れする理由はずっと分からなかった。
 ただイリオスの国への猜疑心と揺るぎのない目的。そこに突き動かされるものに自分が同調したのも確かだ。
 彼が自分以外の誰かの為にすべてを捨てようとしていることを、自分は知っている。時折差し出すその優しさや弱さも。

 ならば、せめて。彼の真の目的くらいは果たされるべきだ。
 イリオスはこれまですべて自分以外を優先させてここまで来たのだから。
 
「行ってください。あなたの心がここに無いことくらい分かります」
「…しかし僕がこの場を離れるわけには」
「魔の森の暴動は、もはやこの場を抑えること以外に為す術はありません。後はあなたにかかっている」
「……」
「夜明けまではなんとかもたせます。ここは僕ひとりで大丈夫です」

 魔力の底が見えかけているけれど、努めて表情かおには出さず平静を装いノヴァはイリオスの背を押す。
 自分がその背を押す機会などあるとは思ってもみなかった。

 イリオスには大きな借りと恩がある。ひとりでは到底叶えきれなかった望みをあそこまで貫き通せたのは間違いなく彼のおかげだ。
 その借りと恩を返せるとしたら今しかない。

 形だけ見れば手を組んできたふたりだけれど、イリオスは結局その本心を殆どノヴァに見せてこなかった。
 ただ互いのひとつの目的の為に。どちらかが命を懸けてこの国を滅ぼす為に手をとった。
 その理由は血の繋がった兄弟というものよりも余程確かな絆に思えた。

 その望みも目的も、結局為し得なかったけれど。
 だけどこの国はもう。


「ここはセレナの生きていく国です。この国を、守ってください。――兄上」



 ***


 鬱蒼と茂る薄暗い森は、遠い木々の隙間がぼんやりと白く光るだけだった。
 夜の森にしては不自然な明かりがあちこちに散っている。その正体も理由も不明だ。

 アレスが前方に魔法で小さな明かりを灯す。白い蝶を照らすその明かりを見失わないよう気をつけながら、ふたりは荒れた草道を走った。
 途中何度か太い樹の根につまづくセレナをアレスがその度に抱きとめてくれた。「いっそ抱えた方がはやいんだがな」と憎まれ口ももれなくついてきたけれど、本当にそれを実行されることはなかった。息の上がるセレナに反論する威勢は出てこない。
 時折その軽口すらもほっとする場面がいくつかあった。軽口でも悪口でもなんでも良いから何か会話がないと、ぽっかりと口を開けた静寂に呑み込まれそうだったからだ。

 不気味なほどに静まり返った森にふたりの荒い呼吸と足音だけが響いている気がした。
 姿の見えない何かにずっと見られながら。セレナは意識を向けないよう努めてその存在を無視する。

 白い蝶は薄闇をまっすぐ迷いなく突き進み続ける。

「くそ、どれだけ奥まで行くんだ……!」

 見失うわけにはいかないので足を止めることもかなわない。それでも繋いだ手の先に居るセレナの辛そうな様子が気にかかる。
 休ませてやりたいがそうもいかない。いっそ本当に担いでやっても良い。本人が嫌がることは明白なのでそれはできなかったけれど。

「ア、レス…たぶん、もう、近い…」

 苛立ちの混じるアレスの呟きに答えたのは限界が来てとうとう足を止めたセレナだった。
 ぜいぜいと肩を息をしながらもその目は蝶の進むその先を見据えている。
 掴むその手に一層力が篭められた。

「わかるのか?」
「ここまで来てようやく、なんとなく、だけど…」
「ならあとは蝶なしでも行けるか?」
「…た、ぶん…」
「それならいったん休め、気になってしょうがない」

 言ったアレスが崩れかけていたセレナの体を有無を言わさず抱きかかえる。セレナは文句を言うこともなく大人しく抱かれたまま小さく頷いて浅い呼吸を繰り返した。
 体が悲鳴を上げている。内側と外側から両方だ。痛いを通り越して苦しかった。日頃の運動不足がこんな所で試されるとは。
 はやく行かなければならないのに体が気持ちに追い付かない。焦る気持ちと不安ばかりが募る。

 場所を見繕ったアレスが辺りで一番太い木の根元にセレナを下ろした。
 ようやく落ち着いてきたセレナの呼吸を見届け、汗ばむ額に張り付いた髪をそっと指先ですいてやる。

「答えるのは落ち着いてからで良い。一応確認だが…目的の場所に着いたとして、どうするつもりだ。おまえは何がしたい」
「……わたし、は…」

 この目的の先に、ゼノスが言っていた通り森の王が居る。そしてそこには“セレナ”の亡骸がある。彼女の魂はここにあるのに。
 彼女をそこに帰すのか? そんなことができるのか?
 だけど一度は肉体を離れた魂と、本来なら朽ちるはずだったうつわだ。

 既に死んだはずの“セレナ”の亡骸が何故残っているのか。
 それこそが森の王――ルシウスの執着であり未練だったからだ。

 ――戻ってきてと。そう願って望んでやまなかった。
 その執着が“約束”を“呪い”にした。

 捕らわれている。その愛ゆえに。

「“セレナ”の…亡骸を、どうにかしないと。でなければ、彼の魂もそこから離れられない」
「…どうにか、とは」

 あるべきものではないものを、ただしい形に戻すために。

「壊すか、燃やす。それしか方法がないのなら、ぜんぶ森ごと焼き尽くす」
「…なかなか物騒なこと言うなおまえ。…だが」

 答えたアレスは何故か笑っていた。セレナの口にしたその言葉が、かつての自分の望みでもあったことを思い出したからだ。
 
 いつか自分は魔の森を焼き尽くす。心の中でそう掲げていた。亡き友の敵討ちの為に。
 その正しさは誰にも量れない。だけど手段を選んでもいられない。
 戦いにも不慣れなはずの、それでも躊躇いのないその決意にアレスは僅かながら胸を打たれた。


「いいだろう、その役は俺が引き受ける。おまえの手は汚させない。それは、俺の役目だ」
 

 ***


 母が生きていた頃、国の西にある森――通称“魔の森”については何度か聞いたことがあった。
 ノヴァもたまに出る外で時折耳にする程度の場所。しかし母は森をそれなりに良く知っているという。

『あの森はすべてのはじまりの場所で、すべての還る場所なのよ。だから魂が引き寄せられてしまうのね』

 森の真意をなにひとつ知らなかったノヴァは母親の言葉を理解できなかった。自分が森に赴くことはそう無いと思っていたし、さして興味も湧かなかったのだ。
 だけど、もっとちゃんと聞いておけば良かったと今更ながらに後悔する。母が森を知っている理由を、あの時の自分には想像もつかなかったのだ。

 母がずっと王家の呪いに関して死ぬ間際まで調べていたことなど、当時の自分にはなにも。

『いまは絶望の森かもしれない。だけど始まりと終わりがいっしょなら、いつか必ず出会えるはずよ。運命とはそういうものなのよ、ノヴァ。私たち魔導師はそれを輪廻と呼んでいる。すべてを廻して命は巡る。そうして新しい世界が彼らを導くの。だからあなたに、それを託すのよ』

 だけど自分は導けなかった。母のそんな言葉など忘れていた。
 目の前のことにいっぱいで、先のことなど見えるはずもない。
 自分に導けるものなどもう何も。


 光る閃弾と爆風の向こうでは人の形をもたない異形のモノたちが雄叫びをあげて荒れ狂っている。
 ここを突破されたら国はその脅威に呑まれるだろう。

 異形のモノたちはアレス達騎士団によって定期的に討伐されその数は減っているものだと思っていた。そういう認識だった。
 しかし目の前に押し寄せるその光景はノヴァの想定をかるかに超える数だった。こんな数が今まで森に抑え込まれていたのか。

 森の結界が解かれたことにより境界を越え溢れ出したのだとしたら、その責任は間違いなく自分にある。
 国など滅びてしまえば良いと思ってはいたけれど、民を犠牲にしたかったわけではない。
 それに自分の命ひとつで滅ぼせる国などないことをノヴァとて知っていた。解っていた。
 一時王を失い国は傾いても、この国には王子たちが居る。共謀してきたとはいえイリオスが民を見捨てるはずがないことも解っていた。

 だから自分の復讐は所詮自分の為にしかなかったのだ。
 イリオスはそんな愚かな自分に付き合ってくれていただけだったのか、彼なりに別の目的があったのか。最後までそれは訊けなかった。

「…夜明け、は」

 指先が震える。それを必死に抑えながら魔法陣を展開して魔法を発動する。魔力の供給が追い付かずに威力が落ちてきたことは明白だった。
 脳が酸欠を起こしたかのように思考が鈍くなり術式の簡略化ももう追い付かず、発動にだんだんと時間を要するようになる。その隙にも魔のモノたちは侵略の歩みを止めない。
 希望の夜明けまではまだ遠い。他の魔導師達ももう限界を伝えていた。

 異形の魔のモノ。もとは森に捨てられた魂のなれの果て。
 このような状態でも救われるのだろうか。

 救うのは誰なのだろう。ずっとそれを考えていた。考えたけれど答えは出ないままだった。
 その前に自分が食われる未来がすぐそこまで迫ってきている気がした。まだ目覚めたセレナにも会えていないのに。

「…そうか」

 死などおそろしくなかったはずなのに、未練や執着があるとこんなにもおそろしいものなのかと初めて思い知る。
 目の前に迫るそれはまさに死の恐怖が具現化したもの。今ここに立つことでようやく気付けた。

 終わることが救いなのではない。また始めることが、救いなのだ。
 そうして希望を繋いでいくことが――ひとりでは為し得ない、それこそが。


「――何をしているんですか」


 ふっと背後から聞こえてきたその声は、ノヴァの霞んだ思考を切り裂くようにはっきりと響いた。

 まだ幼さの残る声ながらにしっかりと芯を持つ落ち着いた声音。足音と共にそれが自分に近づいてくる。
 最前線に立つ自分の隣りに並ぶ覚えのある魔力の気配。ちらりと視線を向けると輝く琥珀きんと銀の光が見えた気がした。

「…ゼノス殿下」
「また無茶をひとりで引き受けて…あなたに今死なれては困ります。死ぬ時はきちんとセレナと別れてからにしてください。そうしたらおれが彼女をしあわせにします」

 不機嫌さを滲ませたゼノスの、銀の髪が風に翻る。
 そうして彼の周りにいくつもの魔法陣が浮かび展開したかと思えば、次の瞬間にはそれが前方の魔のモノたちへと向かっていった。
 爆音と爆風が視界を攫う。体のどこかでどっと力の抜ける感覚がした。まだ折れるわけにはいかないけれど。
 
「セレナはここに居ないのですか?」
「…まさか、来てるんですか? セレナが…?」
「…聞いてませんか? おかしいですね、兄上には伝わっているはずですけど…」

 現場についてからイリオスは常に指揮の最前線だった。それを伝える余裕がなかったか、もしくはあえて自分の耳にはいれなかったのかもしれない。

「アレス兄様と共に既に森にはいったはずです。こんな所で足止めをくらっている場合ではありません」
「…ですが、あれには通常の魔法は効きません。武器も本来なら女神の加護を受けたもののみ有効とされていましたが、現状はその加護も有効か――」

 ノヴァが城の地下のあの秘密の部屋で犯した女神への反逆。その報復は想像以上のかたちで国へと大きく作用した。
 森の結界のもとでもあるあの樹は王家の支柱であり女神への信仰の象徴でもあったのだ。
 あの樹が女神自身だとルミナスはいう。あくまで人間目線であっておそらくそこに女神は居ないのだろうけれど。
 
 それでもノヴァの意志を持った一閃後、その存在をノヴァ自身も初めてはっきりと感じたのだ。
 そうして自分のなかからその代償とばかりに王家の血と関わる魔力を奪い去った。それが自分の内のどれほどを占めていたかは分からない。
 不思議とノヴァはそれを嘆く気持ちは微塵もなかった。それで済んだだけで幸運だったと思うくらいだ。

 しかし王家において女神からの恩恵が消えた事だけは確からしい。
 ルミナスが顔を蒼くして言葉を落としたのと西の森から魔のモノが溢れ出した暴動と化した報せが届いたのはほぼ同時だった。

 紛れもなくこの瞬間が、国の大きな節目だろう。
 自分はもうそこから大きく外れてしまったが、出来る限りの責任は負う気でいる。
 
「おそらく、あの場所で清められた武器のみが有効だったというのは、女神の力というよりあの樹に準じていたように思います。おれ自身はこうなってもまだ、女神というものを信じていませんし…目に見えないものに縋る心は持ち合わせていません」
「…“生命いのちの樹”、ですか」
「日記によるとあの樹はもとは西の森を守護していた聖なる樹。あの樹こそが浄化の樹だったのです。その資質と力に目をつけた王家が半ばむりやり国の支柱に据えた。そして女神はそこに降り立ち国に加護を与えるようになった。女神の加護は後付に過ぎず、魔のモノを浄化する力があったのは樹の方だったのではないでしょうか」
「…あの樹が」

 だとすればいよいよ絶望的なのではないのか。あの樹を断ったのはノヴァだ。
 その効力を残すものはもう――

「…“果実”とは、つまり種です。それは新しい生命いのちの象徴でもある」

 周りの音すべてを遠ざけるように、ゼノスの言葉は静かな熱をはらんでいた。
 “生命いのちの樹”はもうない。だけれどその種も同じ性質を持つことは明らかだ。そのかたちで王家がその力を受け継いできたように。
 
「その欠片が、今は彼女のなかにある」
「…!」

 彼女、とは。間違いなくセレナのことだろう。
 セレナに果実を与えたのはノヴァだ。
 ゼノスの憶測通りセレナはそうして目を覚ました。そこまでは自分も知っている。
 そして残りは先ほど託したばかりだ。

「女神は信じられずとも、彼女への絶対的な思いならここにあります。おれ達“呪われた王子”はその慈愛と加護を受けここまで来ました。その繋がりはまだここにある。――試してみましょうか。彼女がなにを救うのか…」

 その琥珀色の瞳が煌めいてここには居ない彼女を見据えていた。
 薄闇の中その足元に淡い光を放つ魔法陣が浮かび上がる。大抵の魔法陣は覚えているが見慣れぬかたちだ。ノヴァは思わず目を瞠る。
 ――それはつまり新しい魔法。

 ノヴァは咄嗟にその魔法陣と浮かぶ術式を脳裏に刻む。ゼノスもあえてそのすべてを晒しているようだった。残るすべてを振り絞る。

 風が強く吹いていた。世界を色を塗り替えていく。


「“夜伽聖女”が本物の聖女になりえるのかを…ここで証明してみせます」


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