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最終章
巡愛②
しおりを挟む懐かしい名前を呼ばれた気がした。
それはかつての自分の名前であり、今はもう遠い過去の名前だ。
ひかれるように振り返るけれどそこには誰も居ない。
当たり前だ。ここがどこなのか自分でも分からないのに。
遠くで水の撥ねる音が聞こえた気がした。空っぽの左手がさっきからずっと熱い。
『戻っておいて』
再び水の向こうからその甘い声が自分を試すように誘っている。そろりと視線を戻すと変わらない笑み。何度でも胸は締め付けられた。
そうだ、呼ばれていただんだ。おにいちゃんに。
記憶の中の残像を掻き集めたかのようなその微笑みが誰かと重なる。
似ていたのはどっちだっけ。落とした疑問に水面がゆらりと波紋を描いた。
大好きで大切なひとに似ていた。はじめはただそれだけですべてを許せた。
いつもどんなに近くに居ても、どこか寂しそうな瞳をしていて、黙ってわたしの望みのままに抱いてくれたひと。
あぁ、似ていたのはどっちだったのだろう。わたし達もきっと似ていたんだ。
孤独がきっと惹かれ合った。その弱さは分け合うにも重過ぎた。
――でも。このままでは彼を殺してしまう。
彼がこの国の王になる。この国の王さまを滅ぼすのがわたしの役目。
ノヴァを、わたしが――
「――それだけは、嫌」
ゆらりと波紋が追って重なって水面を揺らす。微笑みを湛えたままその顔が歪んだ。
どこか哀しそうな顔のその向こう側に見覚えのない女の人の顔が重なる。誰、とは言葉にできなかった。
もうその面影はかつての最愛のひとのものではない。思い出すのは別のひと。
握りしめた拳には遠い温もりが残っていた。ずっとその温もり繋いでくれているひとが居る。
誰かが呼んでいる。もうひとつの確かな名前を。
『――…、小、』
掻き消されそうになりながらも、“向こう側”のおにいちゃんが自分の名前を呼ぶ。
もう別の名前で呼ばれることにすっかり慣れてしまっていた。
あの名前をもらった時に、わたしはもうひとりのわたしになれた。捨ててしまいたかったの。弱い体も心も。それを叶えてくれた。
わたしにはもう戻る資格もないし、楽になる為にその手をとることもできない。簡単に諦めることも投げ出すことも、もう。
腕にぐっと力を篭めて、傾きかけていた体を持ち上げる。伸ばしっぱなしだった長い黒髪は以前ゼノスにその一部を切って渡した時のまま不揃いな毛先が視界の端で揺らいでいた。自分の事になるとすぐに後回しにして忘れてしまう悪いくせ。だけどそれくらいにあの世界は、自分以外のもので溢れていた。
「わたし、もうその名前じゃないよ」
だけど忘れないでいてくれたことが嬉しかった。涙が出るほど嬉しかった。
わたしのこと全部を切り捨てたわけじゃないってこと。まだ僅かでもそこに何かが残っているということが。ただ嬉しくて幸せで涙が溢れた。
世界のどこかに残っている。折れそうな心も体もどこかで繋いでくれている。まだひとりでも立ち上がれる。
「……ノヴァ」
零れた雫が揺らすその表情が波間に滲んで輪郭すらも分からなくなった。隔絶された世界ではもうその手は重なり合うことはない。
哀しそうにその顔が歪んで水飛沫が上がる。飛び散る水と光の粒が重力に逆らってあちこち宙に浮いていた。夢のようなその光景。
“おにいちゃん”が掻き消えていく。言えなかったさよならを、やっと小さく呟いて見送った。
ここはおそらく自分の内側。もう会えないはずの人に容易く会える場所などない。すべて都合の良いまぼろしだ。誰かがわたしを追い出そうとしている。
わたしはこんな所でまでひきこもっているのか。せっかく自由に動く体をこの世界で手に入れたのに。
簡単に諦めたりしたらまた怒られる。赤い瞳の彼の名前はなんだっけ。それからまっすぐ自分を求めてくれた青い瞳。不器用にもがいて愛を乞う藍色の瞳。それから、それから――
自分から手を伸ばした琥珀色の光。ずっと手を握ってくれていた。傍に居てと自分から願った。願ってもゆるされることを彼が教えてくれた。いっしょに、生きていこうって。
そして愛してると言ってくれたのは。
戻らなくては。はやく目を醒まさなくては。ここに居ても世界は何も変わらない。
だけど方法が分らない。それに目を醒ましたら――抑えきれないのだ。自分の内側から溢れるこの呪いを。傷つけたくない。もう誰も――
「――大丈夫ですよ」
その声にどくんと大きく心臓が鳴った。息を呑んで目を瞠る。顔は、上げれない。
光る飛沫がやがて止んで視界が晴れる。地面についていた手に重なる温もりに体が撥ねた。先ほどまでのとは別のそれ。
いつの間にか目の前には黒い影が自分にも多い被さっていた。ゆっくりとようやく顔を上げる。薄い眼鏡のレンズ越しに懐かしい碧の瞳がまっすぐ自分の姿を映していた。
「…ノヴァ…?」
茫然と呟いた言葉に微笑むその碧の瞳。
どうして、だってここは――
それに、その姿は。
「目が醒めても大丈夫です。僕は死にません」
「…本当に…?」
僅かに離れていた距離がゆっくりと埋まっていく。重ねられたその手に縋るように自分の指を絡ませた。同じ分だけの強い温もりが返ってきて泣きそうになる。
殆ど無意識に震える声でそう訊いていた。彼がここに居る理由よりもその事のほうがずっとずっと大事だった。
「本当です。もう僕はあなたの傍を離れません。――絶対に」
霞む視界でノヴァは綺麗に微笑むけれど、嗚咽で喉が詰まってそれ以上上手く言葉が出なかった。
ノヴァはそれまでとは異なる風貌に変わっている。本当にノヴァ本人なのかちょっと怪しいくらいだ。また先ほどまでの“おにいちゃん”のように、自分を惑わしにきた誰かなのではないか。
だって、お日様のように綺麗だった金色のノヴァの髪が――
「…ほんとうに…ノヴァ…? 髪が、黒いよ、どうしたの…? それに、気配が今までと違う」
「…分かってしまうんですね。僕の内から“王家の血”が失われたんです。女神の報復というところでしょうか…持っていかれてしまいました」
どういうこと?
それだけの何かをノヴァがしたということだろうか。
ノヴァはなんてことないように答えてみせるけれど、自分の知らない間に何かとんでもないことが起きているのだと悟る。
「それでも僕にはまだ、母が残してくれたものがあります」
「でも、あんなにきれいな、髪だったのに…」
「あなたがそれを覚えていてくれれば、それだけで十分です。それにあなたとお揃いの色になりました」
ノヴァはふと頭を傾けて自分の黒くなった髪を指先で撫でつけ、それからそのままわたしの額と合わせた。触れる感触は確かなもの。ほんとうに本物のノヴァだ。
ノヴァが迎えに来てくれたのだ。こんなところまで。
「…セレナ、もう目覚めても大丈夫です。彼女を解放してあげてください。あるべき場所へ…彼女の本当に望む場所へ」
「…でも、呪いが…」
「大丈夫です。彼女はただ、帰りたいだけ」
諭すようにゆっくりとノヴァはわたしに語りかける。重なったままの手に力が篭り、額を合わせたままわたしもその瞳をまっすぐ見つめ返した。
大丈夫だとノヴァは言う。だけどいまいち信用できない。彼の命の秤はとても軽いのだ。簡単に自分を差し出してしまうひと。
「本当に…? ノヴァを、傷つけたりしない…?」
「はい」
「死んじゃったり、しない…?」
「大丈夫です。約束します。僕は僕のままで、生きていきます。これからも」
力強く答えたノヴァの言葉に自然とまた涙が溢れてきて、ノヴァが懐かしい笑みを自分に向けるのにそれをちゃんと見ることができなかった。
その声音も瞳も触れる気配も手の平も。ずっと待ち望んでいた。ようやく帰ってきた。ずっとその言葉が聞きたかった。
死ぬことよりも生きることを選んで欲しかった。
「…わかった。信じる、ノヴァのこと」
今度はちゃんと信じられる。彼の瞳が遠い過去や途方もない未来でもなく、今ここで自分を見てくれていると感じられたから。
そっと、後は触れるだけだった互いの唇の隙間。それがどちらからともなく触れてなくなる。
押し付け合う温もりと涙の味の隙間から、何かが口の中に押し込まれた。熱いノヴァの舌先で。
疑うことなくそれを受け取って、小さなその欠片をごくりと呑み込む。例えこれが毒でも同じことをしただろう。そんなわたしにノヴァは柔らかく笑った。
「みんな、貴女の帰りを待っています」
ゆっくりと自分の内側から何かが剥がれ落ちていく気配を感じる。
真っ白だった空間にひび割れるような亀裂がはいりボロボロと壁が崩れ始めた。
そこから差し込む光にノヴァの姿が眩んでいく。繋いだ手は離せないまま。だけどその感触は薄くなっていく。
不安で思わず見上げた先でノヴァが迷いなく笑ったから、たぶんわたしも笑えていた。
「必ず帰るから、待ってて」
わたしの言葉にノヴァは小さく頷いて、そしてその輪郭が光に溶けていく。遠ざかる温もりに寂しさを覚えたけれど哀しくはなかった。待っていてくれると言っていたから。
そうして残されたひとりの世界。終わる世界の片隅で、最後に自分と向き合ってみる。
辛いことも苦しいことも哀しいこともたくさんあった。だけど全部わたしのものだ。
例えばこの先にはまた同じように、苦難や困難や別れが待っていたとしても。
人生はそれだけではない。わたしはひとりじゃなかった。最後まで。
『…また、失うかもしれなくても…?』
小さく問いかけてくる声に苦笑いを漏らす。嫌なこと言うなぁと思いながら。
先ほどまでノヴァが居た場所に今度はべつの人物がいた。
ちがう、はじめからずっとそこに居たのだ。わたしが気付かなかっただけで。
薄いヴェールを引き剥がすようにその姿がはっきりと顕わになる。
その相手にも、ちゃんと笑って答えてみせた。
「失っても良い。失わない努力はするけれど、それで何かが終わっても、そこからまた始めてみるよ」
茨の森に捕らわれたお姫さま。まるで物語みたいに救いを待っている。
真に捕らわれているのは誰だろう。
森の王様か、それを継いだブランか、それともこの彷徨う“聖女”の魂か。
いろんなものを受け容れてきたわたしの身体。
呪いが剥がれて最後に残ったその魂。彼女が欲しいのは彼の刻印が残ったこの身体。だけどこれだけはもう譲れない。
長い長い夜だった。終わらなければ始められない。終わらせてあげたい。
きっとまた巡り会えるから。
「わたしの身体は諦めて。代わりに必ず、連れていってあげる。あなたの愛したひとのもとへ」
------------------------------
目を開けるとそこには見慣れた天井があった。
本当にすっかり見慣れたな、とセレナは内心溜息をつく。目覚める度にいろんな感情で見上げたその光景には感慨深い思いが宿る。どうして今感傷に浸っているのかは分からない。
それからゆっくり体を起こそうとするも自分の腕に絡む重みに視線を向けた。
「…ディアナス…?」
セレナの手を握ったままベッドの脇に突っ伏すディアナスの金のつむじ。“シンシア”の頃からいつも綺麗に整えられていたそれが今はやけに乱れて見えた。
それを見つめながら彼がここに居る理由やそれまでの自分の状況を思い出そうとしてみるけれど、なかなか上手くいかなかった。
どうしたんだっけ。なんでディアナスがここに?
体がものすごく軽い気がする。良い意味と悪い意味で。お腹の奥がひんやりと空洞に感じるこの感覚は貧血に近いものに感じた。あまり宜しくは無い状態だ。
眠気はないけれど体はだるくて起き上がるのもどこか億劫だった。だけどお腹は空いているしできればシャワーを浴びたい。とにかくさっぱりすっきりしたい。
生きる為の本能に背中を押されるようにセレナはゆっくりと体を持ち上げる。あちこち錆び付いたようにぎこちなく動く体が違和感に固まった。
「い、いたた、なに、痛い…!」
体中が痛い。内側からと外側その両方だ。
思わず声を上げて涙目で上半身を折るセレナが視線を感じて顔を上げると、そこには目を覚ましたらしいディアナスの顔があった。
どこか憔悴しきったような、驚きの入り混じる呆然とした表情。こんな表情珍しいなとセレナは思う。それでもディアナスの顔は美少年のままだけれど。憔悴してても様になるなんて羨ましいかぎりだ。
「ディアナス、起きた? どうしてこんな所で寝てるの、風邪ひいちゃうよ」
「……セ、レナ」
握られていた手に力がこもる。それは普段のディアナスからは想像できないほど弱々しいものだった。
くしゃりとその綺麗な顔が歪められる。
「もう一度。呼んで、ボクの名前」
「…ディアナス…?」
「…っ、う、え…っ」
その青い瞳から涙が零れるのとほぼ同時にディアナスがセレナを抱き締めた。
震える腕の細さと力強さにセレナは戸惑いながらもなんとか受け止める。その尋常ではない様子に何かまた自分がやらかしたのだと感じながら。ぎゅうぎゅうと抱き締められると軋む体が痛いのだけれど。
だけどその温もりに触れて少しずつ記憶が戻ってくる。
ずっとずっと眠っていた。イリオスの夜伽をしてすべての呪いを受け容れたその後。
それから懐かしき過去との邂逅と自分の内側まで自分を連れ戻しに来てくれたひと。そのひとの姿は見当たらない。今この部屋に居るのは自分とディアナスだけのようだ。
「ディアナス、状況を教えて。わたし、どうなってたの…?」
そっと抱き締め返しその震える背中を撫でながらセレナは嗚咽を零すディアナスに問う。だけどどうやら彼にその余裕はないらしい。ただ必死にセレナを抱き締めて縋り付くその様子にセレナはただ胸が痛んだ。これだけ傷つく何かがあって、もしかしたらその原因は自分なのだろうかと。いたたまれなくなる。ディアナスは泣き顔も綺麗だけれど笑ってくれていた方がずっと良い。
その時、部屋の扉の開く音にセレナは顔を上げて視線を向ける。
鮮やかな赤の残像にその人物を確認してセレナは思わず名前を呼んだ。扉からベッドへ近づくにつれその相手もセレナの異変とディアナスの泣き声を察知し早足になる。あっという間に目の前だ。
「アレス」
「…! セレナ……!」
天蓋から垂れさがっていた薄い布を引き千切らんばかりの勢いでひき、その赤い瞳がこれでもかというくらい見開かれる。そのまま数秒固まるアレスになんと声をかけていいか迷いセレナは思わず口を噤む。ディアナスの掠れた泣き声だけがふたりを繋いでいた。
そしてセレナの姿をしっかりと映したその赤い瞳からは、ぽろりと一粒だけの雫がこぼれた。
「…ア、レス…?」
「…ッ、くそ…っ」
言ってアレスは一瞬だけセレナから顔を背け、袖で乱暴にこぼれたものを払う。
それからすぐに視線を戻しいつもの勝気で強気で無遠慮な顔でセレナを見下ろした。大層不機嫌そうな顔つきで。
「ようやく起きたか、今の状況は分かるか」
先ほどまでの顔が嘘のように平常通りの体面でアレスが問いかける。それにセレナはふるふると頭を振った。状況をまるで理解できていないと顔に出しながら。
アレスはため息をつきこそすれど、呆れることも怒ることもしなかった。ただまっすぐセレナを見つめて瞳を細める。その瞳が濡れているように感じなくもないけれど、流石にそれは指摘できなかった。
「なら俺が教えてやる。まずは離れろディアナス。ぶっ飛ばすぞ」
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