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第十章
暁と黎明
しおりを挟む隠された秘密を目の前に、セレナのその瞳が大きく揺れていた。
ゼノスは目の前でそれじっと見据えてその心を推し図ろうとする。
『…読んでみますか…?』
その日記は、おそらく王家の呪いを持つ者と、それを解こうとする者へ宛てられたもの。セレナも充分関係者だ。だからゼノスは、それをセレナに確認した。
中に何が書かれているかは分からない。だけど確実に呪いに関する、これまでとは異なる情報が期待できる。それは今やセレナに直結するものだ。
その呪いの大半はもう。彼女の身に宿るものとなってしまったのだから。
努めて平静を装いゼノスはセレナの返事を待つ。知るも知らないも彼女の判断だ。ただ、状況があまり宜しくないことだけは事実としてあった。
新しく知る情報すべてが希望に繋がる保証はない。ただでさえセレナの身に宿る呪いの悪質な影響を、ふたり身をもって思い知ったばかり。この先に待つ恐怖にセレナが身を竦ませるのをゼノスは確かに感じた。
『…今は、やめておきましょう。これはおれが預かります』
『……ゼノス』
答えを出せずにいたセレナを、ゼノスの優しい声音と腕がすべて抱きしめて包みこむ。
彼女の意志は確認している。呪いを解きたい気持ちは明確なずだし、もはや彼女の方が一番の当事者と言っても過言ではない。
自分の呪いは解かれたのだから。
ただし、呪いの本質に王家が関わる事実に揺るぎはない。自分たち王子の不始末を、彼女ひとりに押し付けるわけにはいかない。なにより。
呪いなんかに彼女の人生が蝕まれることも苛まれることも許せない。自分がこれまで味わってきたあの絶望よりももっと怖いものを、彼女に抱えさせてしまった。体だけでなく自我までもが侵されそうとしている。それは想像を絶する恐怖だろう。
セレナの怯える心が触れ合った肌越しに伝わりゼノスは唇を噛んだ。
今度は自分が捧げる番だ。この身も心もすべて彼女に。その覚悟がゼノスにはあった。
『……こわい、の』
ぽつりと、セレナが零した。
少しずつその心を自分にも明かすセレナをゼノスはただ抱き締める。頑なに閉ざされていたその本心の、これまでとは異なる変化を感じゼノスは内心優越に浸るも、その心を思えば表には出せない。なにより怯える彼女の初めて聞く不安に胸が痛んだ。
これまでセレナは自分から望んで呪いを解いてきた。どこか割り切って自ら求めて受け容れて。だけど事態はいつの間にか最悪の一途を辿っているようにさえ思える。
もしも、全部。その呪いが、集まってしまったら。
“彼女”が完全に、目覚めてしまったら――
セレナはどうなるのだろう。そこまで考えて身震いする。内臓をひやりと氷が滑った。
そしてそう考えたのは自分だけでなく、目の前のセレナも同じだったらしく。ゼノスの体にまわした腕に、知らず力が篭められる。その様子にゼノスの視線が気遣わしげにセレナを見つめた。
セレナは微動だにせず、言葉を紡いだ。
『…わたしという、受け皿の中で…呪いがもとの形を、取り戻そうとしてる…』
『…もとの、形…?』
『呪いがひとつになってしまうと…完成してしまうと、たったひとりに向けられるの…その目的は、“国王”を葬ること』
『…!』
その言葉にゼノスは思わず目を瞠る。
それは呪いに関して研究してきたゼノスでも初めて知る衝撃の事実だった。
呪いに関する資料も情報ももとよりそう多くはない。だけどそんな事実は一切どこにも載っていない。
だけどセレナの話が事実なら、少なくとも“国王”はその事実を認識していたと予想がつく。
その為に複数の妃を迎え血と呪いを分けてきたのだとしたら――呪いを分散する理由があったのだとしたら。
だけど“夜伽聖女”を召喚したのは、国の、ひいては国王陛下の命のはずだ。
代をおいて増す呪いの影響に、懸念してだと関係者の間ではそう認識している。
だけど、そこまで考えて。
ゼノスは思わず浮かんだ自分の考えに息を呑んだ。
――もしも。
もしも、最初から。王家が夜伽聖女を召喚した目的が、呪いを解くことのその先にあったとしたら。
呪いがすべて集まる前に、本懐を遂げる前に――呪いごと彼女を葬る目的が、あったとしたら――
ぞくりとその残酷な考えにゼノスは背筋を凍らせた。
ただの可能性だ。何が真実かは分からない。
だけど捨て置ける可能性ではなかった。
かつて、一度だけこの国に現れ国を救ったという、先の“夜伽聖女”。
そうだ。国は救われたが呪いは消失に及ばなかった。こうして自分たちの代まで血に継がれている。完全には消せなかったのだ。
本当に、彼女は。自分の世界に、帰ったのだろうか――
『…ゼノス?』
呼ばれて飛んでいた意識を引き戻し、ゼノスは弾かれるように顔を上げる。僅かに瞳を濡らしたセレナが自分の腕の中から心配そうに見上げていた。
ぐ、っと思わず。背中にまわしていた腕に力が篭る。そこには確かに命の温もりと厚みを感じ、ほっと小さく安堵した。
『…すいません、びっくり、してしまって…』
暗くなる表情を必死に押し隠しながら、小さく呟いた。笑うことはもうできなくて、顔を見られないようにただ腕に力を込める。
セレナは大人しくゼノスの温もりに頬を寄せて瞼を伏せた。耳が拾うゼノスの心臓の音にほっと安堵する。ひとりで抱えるには流石にもう重過ぎた。今彼の存在にどうしようもなく救われるのを感じる。
『…セレナは、そのことをどこで知ったんですか…?』
『…それは、言えないの。ごめん、そういう約束をしちゃったから』
『…誰と、ですか?』
『…言えない』
『…わかりました。今は、これ以上は訊きません』
『ありがとう、ゼノス』
永く王家を苦しめてきた呪いのその目的が、国王の命。
そして“夜伽聖女”はその目的の為の器として存在していた。呪いを集めてひとつにする為の。
呪いを血で分けたのは王家にとっての窮策だったのだろう。だけど呪いを成就させようとする誰かが、“夜伽聖女”をつくったのだ。そしてその人物は。そこまでして王家を…国王を憎んでいる。
情なくて申し訳なくて馬鹿馬鹿し過ぎて。あまりの理不尽さにわらう他なかった。腹の底が焼けるようだった。
彼女はただ巻き込まれただけなのだ。陰湿な王家の積年の恨みに。彼女の命を賭す価値などどこにあるというのか。
そして頭に浮かんだ人物に抱いていた疑念が、ようやくすとんと身を落ち着けるのを感じた。
そうか、だから。彼はそれを知っていた。
ミラルダ・フィールスの息子。彼が受け継いだのはその素質だけではなかったのだ。
――だから、彼は。
セレナを手離したのだ。自らの望みの為に。
ヘルメス・ノヴァは王位継承権の為に、自分の居場所を手離した。そして彼女の呪いをその身で受ける為に王位を望んだ。かつて求めた安寧と自由を捨てて。
何故か妙な確信があった。
本心からセレナの傍を離れるはずがなかったのだ。あれだけ求める意志を捨てきれずに残しておいて。
流石血を分けただけあってか、自分の思考回路とあまりに似ていて得体の知れない感情が喉元を鈍く下る。もしも自分が同じ立場であったなら――自分も同じことを、望む気がしたのだ。
例え彼女が望まなくてもそれで傷つけて泣かせても。それで彼女の心を手に入れられるなら本望だ。
命など、もう。惜しくはない。一部とはいえ許されて、彼女の心を手に入れたから。
そうして自分の身を犠牲にすることで、彼女の心に自分の存在を刻むのが彼の本懐だ。
それを遂げさせてしまったら――きっとセレナの内から彼は決して消えないだろう。
一生、死ぬまで。その心の一部を独占し続ける。もしかしたらその生涯を閉じる時に、思い浮かぶのは彼の顔かもしれない。
“死”とはそれだけ心を繋ぎ止める力がある。一度心を通わせ合った仲なら、尚更だ。
――そんなこと。
させはしない。絶対に。
初めて自分の身に沸く感情は、ゼノス自身の手に余るほどに膨れ上がっていた。
嫉妬に駆られる男の本性がこれほど醜いものだとは知らなかった。おそらく相手が彼だからこそ。
割り切ったつもりで居たのに、それでも良いと思っていたのに。
彼にだけは、渡したくなかった。セレナの心も体もひとかけらも。
『…セレナ。なるべく、ひとりになるのは避けてください。アレス兄様やディアにも情報を共有しておきます。誰かが会いに来ても…ひとりの時に扉を、開けないように』
囁くようなゼノスの警告に、セレナは間を置いて素直に頷いた。良い子ですね、と頭を撫でて唇を寄せる。
それから今腕の中に居る彼女を抱き締めた。確かめるように、閉じ込めるように。
今、傍に居るのは自分だ。それだけが紛れもない事実だ。
そうしてようやくゼノスは自分の為すべきことを心に決めた。
『守ります。――必ず』
誰にも、なにも。奪わせはしない。これ以上。
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書庫で見つかったミラルダ・フィールスの日記と絵本は、そのままゼノスが保管することになった。
日記に呪いを解く方法は書かれていなかった。呪いの起源と本質、そして王家の秘密が書かれていただけ。
彼女がその真実にどうやって辿り着いたのかも謎のまま。日記は途中で途絶えている。
イリオスへの報告は保留だ。だけどゼノスは、もしかしたら、と零す。
「兄上は、知っていたかもしれません…」
「イリオス兄様が?」
「兄上はずっと…呪いの正体を、探っていました」
ゼノスが呪いに関する研究に身を置くことを願い出た時も、イリオスは快く応じてそれ以外の殆どをサポートしてくれた。その成果を一番に報告するのが第一条件。すべての情報は必ず彼を通る。そこから国王陛下へどう報告されているのかをゼノスは知らない。
すべて間にはいっていたのはイリオスだ。
以前まではその存在に感謝していた。だけど現状はどうしても不審が勝る。
どうして、本来なら一番にでも夜伽を請うべき立場の彼が、一番最後なのか。
隠された意図を疑わずにはいられない。脳内を掠めるのは先日の最悪の想像だ。
――夜伽聖女を召喚した王家に、呪いを解くその先の思惑があったとしたら。
呪いがすべて集まる前に…本懐を遂げる前に、呪いごと彼女を葬る目的があったとしたら――
夜伽聖女召喚は、呪いを解くことが第一目的のはずだった。
だけど日記の内容が、そしてセレナの言葉が真実であるなら。
呪いをすべて解かれて困るのは、現国王だ。
その国王が、先日の祭事で示した譲位の意思。
候補筆頭は第一王子であるイリオスに他ならない。それだけの功績と素質がイリオスにはある。民衆からの信頼も厚い。
だけど、そこへ来て国王陛下直々からの、王位候補が現れた。
ヘルメス・ノヴァ。彼の望みは間違いなく王位を継ぐこと。国王陛下はその後ろ盾を暗に示した。あの祭事の場で。
イリオスの口から王位に対する言葉を兄弟たちは聞いたことがない。
アレスこそ敵対意識を持ち自ら王位の野心を抱いてはいたものの、イリオスはそれに対してのらりくらりと躱すだけだった。
望むとも望まざるとも彼は口にしない。表には決してその本心を、見せることはしてこなかった。
「ヘルメス・ノヴァが一度は放棄した王位継承権を再び手にすることは、そう容易くなかったはずです。それを後押しする存在が…承認を得るべき高官を黙らせるその存在が、後ろに居たはず」
「…陛下ではなくて?」
「陛下の思惑は分かりません。ただ、陛下自ら動くことはあり得ない気がします。私情を挟める立場でも、お方でもない」
「…じゃあ、一体だれが…」
疑念にその綺麗な顔を歪めるディアナスの呟きに答えたのは、先ほどから表情を微動だにしないアレスだった。
「イリオスか」
目を丸くするディアナスとは対照的に、表情を変えずにゼノスが頷いて返す。
「まだ推測の域を出ません。ですが…あながち外れてはいないとも思います。兄上と、ヘルメス・ノヴァ双方の利害関係が一致し、取引がなされたのではないでしょうか」
「…取引…?」
「当然のことながら、現国王である陛下は呪いの矛先を回避すべく、早期退位を考えたはずです。呪いは次期国王に向かうでしょう。おれ達の中で紛れもなくその第一候補は兄上でした。陛下が兄上にその真実を話していた可能性は十分にあります。兄上が、呪いを回避する為に…それを望むヘルメス・ノヴァを仮初の国王に仕立て上げる策を講じた。一時で、良いんです。“呪いを受け止める国王”が居れば、それで。そしてその身を差し出す覚悟が彼にはあった。“病弱な第三王子”が去しても言い訳はたちます。呪いが、本懐を遂げれば…永く王家を蝕んできた脅威はなくなる。本当の意味ですべてから…解き放たれる。それは王家の悲願でもある」
「…でも…民衆が、受け容れるとは思えない。ぽっと出の王子が即位だなんて、王家の信頼が揺らぐ」
「その為に彼女が…聖女エレナが、居るのではないでしょうか」
――“聖女、エレナ”。
その存在は先日の祭事の場において、民衆からの支持は確かなものとなった。
修道院の噂は城にも届いている。あの場所が浄化され穢れを宿した子ども達に起きた奇跡は、聖女エレナがもたらしたものであるという噂が。
王家はその噂を否定も肯定もしていない。ただ事実があるのみだった。
「式典での陛下の言葉を覚えていますか?」
――『いづれかの王と聖女がその力を合わせ、この国の憂いをすべて吹き飛ばし更なる発展と希望を叶えることを望む』
「国民は…特に王都に住まう民は、魔の森の瘴気と穢れに生活を侵され疲弊しています。彼らが求めるのは確固たる救い。今彼らの中には女神と聖女の存在が絶対的な救いの象徴としてあるはず」
「は、女神の意志とでも言うつもりか。己の身かわいさにひとりの血を生贄に、国民を丸め込む気でいるのか、あいつは」
吐き捨てたアレスの表情は、ようやく忌々しげに歪められていた。
王族であるアレスも女神信仰に準じてはいない。おそらくここに居る三人は、女神なんて存在を信じてはいない。
何よりアレスはずっとイリオスを王位争いの相手として敵視していたことは周知の事実だ。彼にしか分からない胸中があるのだろう。
「おれは、ヘルメス・ノヴァを犠牲にする気はありません。そんなことをしたらセレナの中に彼の存在が永遠に刻まれてしまう」
ぴくりと、視線を伏していたふたりの、肩がその名前に反応して揺れる。
ゆっくりと顔を上げる兄弟に、ゼノスの琥珀色の瞳は揺るがない。
そこにひとつの決意があった。
「残りの猶予があるとすれば、陛下が王位を退き新王が即位するまで。それより先に、呪いをセレナの身体から引き剥がさなければなりません。どんな手を使ってでも」
無言で頷いてふたりがそれに応えた。
最優先事項があるとすれば紛れもなく彼女の身だ。
彼女の身に呪いがある限り、王家の――少なくとも“国王”にとってセレナの存在は脅威といえる。
「おれはひとまず、王家の歴史を辿ってみます。“彼”が…ルシウス・カイン・フィラネテスが本当に王家の血統に連なる者なら、呪いに関する情報が何か見つかるかもしれません」
セレナの体に刻まれた刻印は、かつての王家の紋章でもあった。血が分かたれるその前の。日記にも同じ紋様が描かれていた。
おそらく闇に葬られたはずのそれをミラルダ・フィールスが知ることのできた手がかりが、何かしらどこかにあるはずだ。
「…ボクたちに何か、できることは…?」
神妙な顔つきで訊いたのはディアナスだ。
ゼノスの力になるには戦力外だと己を心得ているのだろう。
無力さに浸るよりも先に、自分のなすべきことを求める気概が見てとれる。
それを感じてゼノスもまっすぐ向き合ってそれを託した。
「できるだけ、セレナの傍に居てあげてください。理由なんて後付で良い。なるべく彼女をひとりにしないで欲しいんです。そして…」
「イリオスをあいつに近づけさせない」
ゼノスの言葉を継ぐように、鋭い声音でアレスが答えた。
互いの見解を確かめ合うように視界の端で視線を合わせる。
それにゼノスは頷いて応えた。
「記憶が正しければ、兄上の身に残る呪いの量は多くはありません。夜伽は、体を繋げるだけがすべてではない。なるべくふたりを接触させないよう…今はそれしが術がありません」
一番の脅威はセレナの内に潜むもうひとりの“セレナ”だ。
彼女には魔法が効かない。おそらくセレナの部屋に結界や術を張っても効力は見込めない。
呪いを求めてセレナの身体をまた奪うことがあっても、彼女を止められないのだ。現状誰にも。
万が一イリオスがセレナに夜伽を求めた場合、セレナには拒否どころか自衛もできない。
「…守らなければ。もうこれ以上、なにも失わせない為に」
それが、この場に居るすべての者の思いだった。
そうして、三人の協定会議より時を空けずして、ゼノスの予想を裏付けるような報せがフィラネテス王国国内を衝撃と共に駆け巡った。
現国王より次期国王として、ひとりの王子の名が挙げられた。
次期国王は――第三王子ヘルメス・フィラネテス。
同時に聖女・エレナとの婚約も公式として確約され、聖女を正妃として迎える報せが王都を舞った。
戴冠式は僅か一ヶ月後。
国の夜明けが迫っていた。
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