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第九章
“セレナ”
しおりを挟む本当はずっと。
会いたかった。
だけど会いたくなかった。
会うのがこわかった。
自分が傷つけた相手を、まっすぐ見る自信がなかったのだ。
「……ゼノス…」
堪えきれずに零した本音に、目の前のセレナの戸惑う気配が閉ざされた夜の空気をそっと揺らした。
困らせるだけだ。わかっている。自分には泣く資格などないのに。
なのに弱い自分はまた。彼女に縋ってしまう。彼女のその優しさを利用して。
「…すいません。もっと、ちゃんと…話をして、それからきちんと、謝るつもりだったのに…」
零した分だけほんの僅かな落ち着きを取り戻した心で、ゼノスは長い息を吐いて顔を上げた。
それから目の前のセレナをまっすぐ見据える。今度こそ逸らさないように。
セレナの瞳にはまだ情けない表情をしたゼノスが映っていた。
彼女には情けない姿ばかり見せている気がする。初めて出会ったあの夜からずっと。
「…王家の呪いが、夜伽によってあなたの身に移る事実を聞きました。おそらく、その大半はおれの持っていた呪いのはず。あなたを一番、傷つけたのは」
「違う、ゼノス…、確かに一番多く継いだのは、ゼノスのものかもしれない。だけどもう、痛くも苦しくもないんだよ。だからゼノスが気を悪くする必要なんて…」
「…それでも。あなたに傷を…苦痛を与えたことに違いはありません。自分が最も忌むべきものを、あなたに押し付けて、自分だけが安寧を得ていたなんて…」
「でもそれは、ゼノスの意思じゃない。知ってたらゼノスはきっと、夜伽を受け容れなかったでしょう? だからこれは、わたしが自分で望んで…」
必死に弁明するセレナの言葉は、傷ついたゼノスに届かない。ゆっくりと頭を振るゼノスはセレナの言葉を受け容れる気など毛頭ないのだ。
ただ自分が犯した事実にのみ、罪悪感で眩みそうになる。
「…ごめんなさい、セレナ」
また、一粒。
その琥珀色の瞳から透明な雫が零れる。
降り注ぐ月の光を吸い込むそれは、金色の雫だ。ゼノスの輪郭をなぞるように滑り落ち、懺悔の夜に溶けていく。
――できるなら。
一番、彼には…知られたくなかった。
彼の優しさを知っていたから。彼の弱さを分かっていたから。
他人の傷に自ら傷つき涙する彼を、自分なりに大切だと思っているからこそ。
彼を傷つけたくないが為に、隠してきた事実だった。
だけどディアナスとアレスを通じてその事実が暴かれ、そしてそれがゼノスにも通じるものだと知ったとき。もっとちゃんとすぐにでも、自分の気持ちを伝えるべきだったのかもしれない。彼がここまで思い悩まないように。
それでもゼノスはきっと今と同じように、セレナの言葉をすべて拒否する気がした。
誰よりも呪いに傷つき苦しんできた彼だからこそ。どんな経緯や理由があっても、許せないのだろう。自分で自分を。
「……わかった。ゼノスが、そう言うのなら…わたしはもう、否定しない」
小さく息を吐いて零したセレナの言葉にびくりとゼノスが体を揺らし、罰を待つ子どものように固く目を瞑った。
何を待ち望んでいるのかセレナには分かる。だけど彼を罰するものをセレナは持たない。いっそ罰を与えたほうが、彼は楽になれるのかもしれない。でも。
「確かに、呪いは痛かったし苦しかった。眠れない夜もあったし、覚えておくことすら体が拒絶する時もあった。痛みには慣れている方だと思っていたけれど、別の次元の痛みだった」
口にしながら、何故か懐かしさが込み上げる思いがした。
初めて呪いを継いだ夜。その痛みに呻き泣き喚く自分の、ずっと傍に居てくれたのはノヴァだった。
痛いのも苦しいのも分かっていた。それでも望んで継いだのだ。王子たちに、抱かれたのだ。自分の望みの為に。
互いに利用し合うだけの関係だと、割り切れていたならどんなに楽だっただろう。
そう思うのはきっと、自分の方だけではないはずだ。
だからこんなに、苦しいのだ。
「だけどこれはもう、全部わたしのものだから。同情も憐みも罪悪感も要らない。わたしを勝手に、不幸にしないで」
言い放つセレナの強い声音とその瞳に、弾かれるようにゼノスは息を呑む。
心臓が痛い。ぎゅっとその小さな掌で掴まれたみたいに、一瞬鼓動を忘れるほど。
――自分は。
不幸だったのだろうか。
この呪いを宿して生まれてきて、良かったと思うことなどひとつもなかった。
苦痛に苛まれる日々は地獄のようだった。少しずつ仮初の安息を手に入れても、心休まる時は無い。
そうして生きていく未来にはとうに絶望していた。許されるなら自ら命を絶つことも考えた。だけど生まれ持った身分と立場がそれすら許さなかった。
自分を残して先にいってしまった母を恨んだこともあった。どうせなら、一緒に。連れていって欲しかった。
それでもそうして引きずるように生きてきて。
生まれて初めて、幸せを感じた。
知らないまま生きてきて、それでもその名前を知っていた。疑うことなく辿り着いた。
魂に染みついた人間の求める本能だったのかもしれない。人がひとりでは、生きてゆけないように。
それが、セレナだ。
彼女に出会えたからだ。
「…セレナは、今…不幸せでは、ないんですか…? ひとりすべてを背負わされ…他人の傷を、痛みを負って。本当はそれは…あなたのものでは、ないはずなのに…」
「…ゼノスはわたしに、不幸になってほしいの?」
自分ひとりではかなえられなかったもの。心からの安息。
初めて心から望んで欲した。それがセレナだった。
だからこそ彼女だけは。
傷つけたくなかった。絶対に。
守りたかったのだ。
できればこの手で、なにに代えても。
「…いえ。…いいえ、セレナ…」
例え出会いがどんなかたちでも。
呪われたこの身であったが故に、自分たちは出会ったのだ。
そうして重ねたこれまでの時は、否定することなどできやしない。例え自分自身であっても。
自分の望みは、ひとつだ。
「…幸せに、なってほしいと思っています」
「だったらもうわたしを置いて泣かないで。ゼノスが笑ってくれれば、わたしはそれなりに幸せだよ」
「……それなり、ですか」
「できればみんなに、幸せになってほしいから、ね」
「…それは、随分…」
途方もない、夢に思えた。
呆れるくらいにお人好しだなと、それが本心でもあった。
だけど口にする前に呑みこむ。
その心に自分が救われたのも事実だからだ。
誰かひとりを見捨てられない彼女だからこそ、すべてを受け容れようとする彼女だからこそ。
自分の心に光指すそれは、同じようにいつかの誰かの希望になり得るのかもしれない。
それはもしかしたらこの国にとっても。
彼女は自分だけの“聖女”では、ないのだから――
「随分遠くに、行ってしまった気がしますね…」
「…わたしが…?」
「いえ、すいません…ひとりごと、です」
眩しそうにセレナを見つめ、ゼノスはようやく涙を拭う。
そっとセレナの指先がそれに続き、乾きかけていた涙の痕を辿る。
触れることを躊躇していたように拙いその感触が、ゼノスの心をも濡らすようだった。
思わずその手をとって唇を寄せる。その瞬間セレナは慌ててその手を引き戻そうとしたけれど、すぐに折れてゼノスの意思を受け容れてくれた。
「…もしも」
「…うん…?」
「もしも、すべて終わったら…」
終わりが何を指すのか、ゼノス自身にも分かっていない。
だけど彼女が“夜伽聖女”である内は、きっと何も終わらないのだろう。
この心が、言葉が。届くこともかなうこともない。それだけは確かだ。
すべて、終わったら。
いなくなるのだろうか。彼女は。
この体はこんなにも容易く彼女にまた反応して、こんな時でも本能に忠実に熱を灯すのに。
呪いが、解かれたら…これも自分の内から、なくなってしまうのだろうか。これもすべて、呪いのせいだったのだろうか。
最後に残るものはなんだろう。
それでも消えないこの痛みは。
繋がろうとするこの思いは。
もしも、彼女が“聖女”でなくなったら。
自分ひとりだけのものに、なってくれるのだろうか。
「……いえ、やっぱりやめておきます」
「…よく分からないけど、そのほうが良いかも。死亡フラグっぽかったよ、危ない」
「…? 死亡フラグ、ですか…?」
「なんでもない、こっちのハナシ」
言っておかしそうにくすりと笑うその表情に、ゼノスはまた心臓が締め付けられる思いを必死に堪える。努めて顔に出さないように。
はやく手を離さなければ。今日は“夜伽”の為に待ち合わせたのではない。ただでさえ自分は慰めてもらってばかりだというのに。
わかっている、それでも。
もう自分からは決して、離せないのだ。この手は。
「…それに、ね。呪いが与えるのは、苦痛だけじゃないはずだよ。ゼノスも知っているでしょう…?」
セレナの言葉にゼノスはびくりと肩を揺らして思わず顔を赤くした。
自分がセレナに欲情していることがばれたことの気まずさから、思わず視線を逸らしてしまう。
触れるだけで体が反応してしまうのはセレナも知っていることだ。だけど見境がなさ過ぎて自分でも恥ずかしくなる。だったら今すぐ手を離せば良いのにそれもできない。
「…すいません…でも、今日はちゃんと、弁えています。ちゃんと、自重しますから」
言い訳を述べるゼノスにセレナは小さく笑みを零す。
握られた指先に熱い吐息。月夜に半分解けた輪郭が、僅かに震えている気がした。
ディアナスとアレスには、まだ言っていない隠し事。
それを今言う気になったのは、彼がまだその身に呪いを宿している王子だからかもしれない。自分たちはまだ、それぞれにひとつの呪いを持つ共有者なのだ。分け合ったものが苦痛だけではないことを、伝えたかった。
「触れられて、気持ち良くなるのは…王子たちだけじゃないんだよ」
セレナの言葉を、最初ゼノスは理解できていないようだった。
きょとんと目を丸くして、セレナの言葉の意を探るようにまっすぐ見下ろす琥珀色の瞳。
そこに映るセレナは、何故だかセレナの知る自分とはどこか違う自分に思えた。
体に散るゼノスの痣が、触れた場所へと這い上がる。彼を求めて、欲を纏って。
「わたしの体に移った痣は、元の持ち主だけにただしく反応して欲情を煽る。一緒なんだよ、あなたがわたしに触れると、嫌でも反応してしまうのと」
「……!」
その事実に思わずゼノスは耳を疑う。
ディアナスとアレスからの報告にはそんな話はなかったはずだ。彼女が意図的に隠したかったことなのだろう。
確かに夜伽聖女に触れられると欲情を煽られるのは呪いの特性のひとつだ。だけど苦痛だけではなく、それまでもが彼女に引き継がれるなんて。
咄嗟に思わず離そうとした手を、握り返したのはセレナだった。
「だから、これは、ゼノス…あなたがくれた快楽だよ」
「…セレナ…?」
一瞬の違和感が頭を掠める。
だけど距離を詰めるセレナにゼノスはたじろぎ身を退くことしかできなかった。
すぐ傍の机に行き当たって体勢を崩すゼノスを、セレナは更に追い詰める。
床に倒れこんだゼノスの腹の上に馬乗りになって、整えられた服の隙間から覗く素肌に手の平を寄せた。欲情をまだなお繋ぐように。
バサバサと、ぶつかった衝撃で机の端に積んでいた本が音を立てて床に散らばる。薄くたつ埃が月の光に煌めいていた。
「ぜんぶ、わたしのもの」
――月が綺麗で心が躍る。
それなのに疼く、空っぽの腹の底。
痛みより快楽に疼くのは本能だ。
本能のすべては生き残る為。
わたしは、生きたい。
彼の為に。
「取り戻さなくちゃ…」
セレナの両手がゼノスの頬を掴んで上を向かせる。
琥珀色の瞳が月の光を宿して、金色に輝いていた。
ゼノスはただされるがまま、セレナの縋るような瞳を見上げている。
恍惚とした表情を浮かべて自分の上に乗るセレナは、ゼノスの知る彼女ではなかった。
「…セレ、ナ…?」
「……なぁに…?」
「違う、あなたは…、」
遠い昔に焦がれたもの。
心臓から別のだれかが囁いた。
「わたしは、セレナよ。ただひとりの聖女――西の森の魔王に捧げられた生贄」
――愛おしい、金色の瞳。
忘れられない。忘れない。
愛してくれたのは、あなただけだった。
「帰らなくちゃ…彼のもとへ」
彼をあの森に縛り付けている、この血の王。
その心臓を捧げてようやく彼は自由になれる。
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だから、わたしは、ここへ来た。
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