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第八章

ひとすくいの未来②

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 少しずつ温度が冷めていく湯の、それでも揺れる湯気にセレナの視界も滲んでいた。
 その心にも言葉にも、ひとかけらの嘘は見当たらない。
 彼の後悔と縋る贖罪の思い。
 そこに遠い過去むかしの自分の姿を見た気がした。

 ――きみはなにも、悪くない。だから自分を責めないで。もっと自分を、誇って良いんだ。

 かつて最愛の家族からかけられた言葉。
 慰めだったのかもしれない。同情と慈愛と惜別と。もう別れは迫っていた。
 持って生まれた弱い体。心が強くなるなんて綺麗事だ。希望も未来も夢見ることさえ許されなかった。
 父や母は自分の未来を諦めなかった。必死に傍に寄り添ってくれた。心と体を削ってまで。
 だから自分が諦めることなどできるはずがなかったのだ。
 もう本当はとっくに。すべて投げ出してしまいたかったのに。
 未来に希望は欠片もないのだと、おそらく誰もが知っていたのに。

 それに耐えられなくなったのは、やっぱり自分が一番だった。
 悪いのは紛れもなく自分自身。こんな風に弱い、わたし以外のなにものでもない。

「…そんなこと、ない。もしかしたら全部…わたしが、悪くて…この体と一緒に持ってきた、わたしの罪と罰なのかもしれない」

 いつからか。そんな風に思う自分が居た。
 この世界にくる前。自分の力では誰ひとり、倖せになどできなかった自分。
 周りのひとを哀しませて苦しませて。それに報いることも叶わなかった自分への、罰なのではないか。
 この世界で自分は。
 望むことも幸せになることも許されないような気さえしていた。

「…何を言っている。そんなわけあるか」

 熱のかさむ空気を変えたのは、目の前に居たアレスだった。ひやりとその声音に冷たいものが宿る。

「おまえがひとりで抱えているだけだ。いい加減それを寄越せ。以前も言ったろう、俺を頼れと。身勝手なのは俺の性分だ。嫌がったって俺はもう、踏み込むぞ。おまえだって勝手に上り込んできたんだから」

 先ほどまであんなにしおらしく見せていたアレスが、いつかと同じように自虐的なセレナに憤慨し、そしてまた差し伸べる。すくいの手を。
 もう何に対して怒っているのか、怒っていいのかも分からない。
 置いてきたはずの過去の残像は、いつの間にか湯気の霧に溶けていた。

 過去かぞくを捨てたのは自分なのだ。
 忘れてはいけない。
 帰れる道もあったのに、帰らないと決めたのは自分だ。
 自分が、生きる為に。
 それが罪なのかは今のセレナには分からない。
 身勝手なのは自分も一緒だ。
 おんなじなのだ、自分たちは。

 どうしてだかこのひとの前では、自分の情けない部分ところばかりを晒してしまう気がする。
 真っ直ぐ過ぎるそのの所為だろうか。たまに揺らしてみたくなる。そんなことを思うのは初めてだった。

「…決めた。あなたのことは、ずっと、許さない」

 滲んだ涙を拭いながら、改めてセレナはアレスと向き合う。
 セレナの言葉にアレスは先ほどまでの怒気を一瞬にして散らし、その言葉を呑み込んでを丸くした。
 複雑そうに表情かおを歪めて、みるみる覇気が薄れていく。その様子が少しおかしくてセレナは笑った。

「だからずっとそうやって、また俯くわたしを叱り飛ばしていて。それはきっとわたしには、必要なことだと思うから」

 おかしそうに言ったセレナの言葉の意味を、ようやく察したアレスが先ほどとは別の意味で目を瞠った。その瞳が大きく揺れる。セレナを映して。
 ごくりと、緊張からか喉が鳴った。思い違いも自惚れもできれば避けたい。もしそうだったらおそらく自分は立ち直れない。ここまで来るのにアレスにとって、計り知れない心の葛藤があった。そのすべての先にセレナが居た。
 だからあえて、口にした。彼女の真意を探るように。
 確かめなければ。淡い期待がまた、泡になって消える前に。

「……ずっと?」
「ずっと」
「…一生?」
「…一生。でもアレスの気が、変わるまでで良いかな。もしくはわたしがちゃんと、強くなれるまで」

 ならなくて良い。そう思ったけど口にはできなかった。
 水を絡ませながら思わず片手で顔を覆う。それから長い息が漏れた。
 息を吐き出さないと、そのまま。泣き出しそうだったのを必死で堪える。
 これ以上無様な姿は見せられない。
 それから顔を拭ってセレナを見る。濡れた髪の先から滴る雫。その波紋が彼女まで届いた。
 目の前に要る、小さくて弱くて無鉄砲で無防備で、なのに時折どうしようもないくらいに手を伸ばさずにはいられない、ひとりの少女。

「わかった。ずっと、おまえに報いる。おまえがいつか俺を許しても良いと思えるその日まで」

 その瞳に自分が映る。
 ずっとそれが、見たかったのだ。

「…ついでに。ひとつ、お願いがあるんだけど」

 一瞬のささやかな幸福に浸るアレスを、セレナの苦笑い混じりの懇願がぶち壊した。
 今胸の内を満たしていた感傷があっという間に霧散した。もう少し余韻に浸りたかった。

 複雑さを顕わにアレスは長く息を吐いて答えた。
 この状況下でそのお願いとやらを、断れる者はそういないだろう。いくらアレスであっても。

「…おまえは本当に、良い度胸だな…それだけは褒めてやる」
「アレスが頼れって言ったんでしょう。今すぐにじゃなくて…その時が来るのかもまだ、分からないんだけど」

 僅かに声音を落としたセレナの、潜める声にアレスは耳を澄ます。
 内緒話は隠し事の証。相変わらずセレナはまた、隠したいようなことを考えているらしい。
 すっかりこの仲が定着しているようでいささか不満ではあるが、そう無下にはできない。悔しいけれど。

「いずれ必ずまた、わたしは外に出る。その時が来たらわたしを、西の森まで連れていって欲しい」

 セレナの口から飛び出した要望に、アレスは眉根を寄せ目の前の相手を凝視する。
 どこまで本気で言っているのか。一度その禁を破りセレナ自身もなんらかの罰は受けたはずだ。それなのに。
 それでもセレナのその表情かおも、軽い気持ちで口にしたものではないことが伺える。
 彼女はそこまで愚かではない。おそらく意味が、意義があるのだろう。

 一瞬怒鳴り出しそうになった気持ちを抑え、落ち着けるように浅く呼吸する。その間もセレナの視線はアレスを容赦なく突き刺した。

「…必要なことなのか。どうしても」
「…うん、どうしても。行かなきゃいけない。それがわたしにとって、最後の賭けになる」

 最後という言葉の孕む意味に、アレスは思わず唇を噛んだ。
 アレスはそういった未来を狭めるような言葉が嫌いだ。周りの者がそれを口にしたら容赦なく睨んで説き伏せている。
 未来は信じる者のところにしか来ない。それがアレスの信条だ。
 望むから与えられる。それはただしく、平等に。

 だけどアレスがこれまで歩んできた道は、既に平等から外れたものだった。
 自分の価値観は他人に押し付けるものでも強要するものでもない。自分だけが心の内に持つ信念の旗だ。他人に掲げてもそれを持たせるものではないはずだ。これから下す決断は、その信念にどう報いるのか。

 今の自分の本心は、とにかく目の前の少女をひとりにしないこと。
 自分とは異なるかたちで自らの信念の為に茨の道へと突き進む彼女を、自分の手で守ることだ。かつて傷つけた贖罪として。
 それが本来の王子としての責務から外れようと。
 為すべきことは目の前にある。

「…良いだろう。約束してやる。だから必ず、俺を呼べ」
「…理由は、訊かないの…?」
「訊いても無駄だ。どうせおまえは言わないし、俺の心が変わるわけじゃない」
「…ありがとう、アレス」

 予想外にあっさりと頷いてくれたアレスの答えに、セレナは胸を撫で下ろして微笑んだ。
 アレスは王族であり王子であり、そして夜伽聖女じぶんを管理する側の人間だ。互いの責務上の繋がりは切れてしまったとしても、その立ち位置に変わりはないだろう。
 だから断られる可能性だってあった。もしかしたらイリオスに報告される可能性だって。そうしたらおそらく、セレナの望みは叶わない。でも。
 何故かアレスは、断らない気がした。彼の存在をいつかの拠り所にしても良い気が。

 それからアレスは僅かに背を持ち上げて、神妙な顔でセレナと向き合う。
 冷めて温くなった湯が撥ねて、セレナは思わずどきりとした。眩暈にも似た感覚に浴槽の縁を掴む。

「…ただし。それ相応の対価を寄越せ。こちらも少なからず失うものがある以上、要求する権利はあるはずだ」
「…対価? 何か差し出せってこと? わたし何も、持ってないんだけど」
「…おまえに物は要求しない。だからその心を示せ。ここで、だ」
「え、今…?」
「約束の誓いみたいなものだ。無いより示しがつく。そろそろのぼせるぞ」

 平然と言っているけれど、セレナがのぼせたとしたらそれは間違いなくアレスのせいだ。
 だけどここで倒れたら文字通り丸裸を晒すことになる。流石にそれは嫌だ。絶対に避けたい。

「何を、差し出せば良いの? わたしにあげれるものなんて、何もないよ」
「…あるだろう、おまえには。――聖女の加護。おまえにしかできないことだ」

 アレスの答えにセレナは一瞬目を丸くする。
 もっと無理難題を要求されたら(しかもここはお風呂だし裸だしアレスだし)どうしようと思っていたけれど、流石に警戒し過ぎだったのかもしれない。あからさまにほっと、警戒に竦んでいた身を緩める。

「そんなもので良いの? 正直あまり、あてにはできないよ。わたし自身まだ信憑性は見込めないし…」
「…それで良い」
 
 それが、良い。その言葉は呑み込む。目の前の何も疑わない少女を前に。

「…イリオスとの約束で、俺からはおまえに触れられない。だから、おまえから。俺に与えてくれ。その慈悲の心を」

 ――そうなのか。そういえばディアナスもそんなことを言っていたっけ。
 その経緯はよく分からないけれど、アレスにその約束を侵す気は無いことは伺える。

 アレスからは決して自分に触れられないという事実がセレナにひとすくいの安堵をもたらした。それからほんの少しの意地悪な心も。

「…なんかアレスにそんなかしこまられると、ちょっと調子狂うし気持ち悪い」
「…ッ、おまえ本当に俺にだけその態度はなんなんだ、こっちだっていろいろ我慢してやってるんだぞ、かわいげないと言われないか」
「…ディアナスは可愛いって言ってくれた」
「そんなこと…!」

 自分だって、思っている。
 それが言えたらおそらくこんなにも苦労はしないのだろうが。

 喉の奥で呑み込んだ言葉と食いしばる歯にアレスはおそらくひどい表情かおをしていたのだろう。
 セレナがおかしそうに噴き出して、くすくす笑って水面を揺らす。その振動がアレスにも届く。
 セレナが微かに身じろぎして、ほんの僅かに距離が埋まって、その分だけふたりの心が近づいた気がした。

「ごめん、わかった。目を瞑って」
「……ちなみに」

 促されるままにアレスが瞼を伏せる。耳に届く水音。ひとの動く気配に過敏になる。それでも自分は身動きひとつできない。動かせるのは、口だけ。

「以前おまえに噛まれた場所が、あれからずっと痛い。慈悲の心があるのなら……慰めてくれ」

 ぴくりと、自分に近づいていた気配が僅かな距離の先で止まる。その意味を理解して。おそらくそのままだったらひたいに触れていたであろう唇は、まだどこにも触れていない。
 以前アレスが噛まれた場所。セレナが、噛みついた場所。そこにセレナの視線と熱が宿る。

「…え、っと…」

 セレナの戸惑う気配にアレスは無言を貫いた。それがアレスの意思表示でもあった。
 おそらく躊躇していてもアレスは退かないだろうと感じ取り、セレナは思案した後に覚悟を決める。
 不思議とその心に、想像以上の抵抗はなかった。

 小さく、波紋が広がって。
 触れた場所が濡れて離れた。


「……先に、出ろ。見ないから」
「…わかった。アレスも、のぼせないようにね」

 目を瞑ったまま顔を伏して片手で覆いセレナを視界から外したアレスの呟きに、セレナも気恥ずかしげに湯から上がる。のぼせたのかその顔色は赤い。
 水音と気配があっという間にかき消えて、アレスはひとり長く長く息を吐いた。

 今はとても出られそうにない。
 見られたくないし立ち上がること自体が今のアレスにはひどく困難に感じた。


 口の中に残る雫。
 あの日とは違う、涙の味がした。


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