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第八章

心の在り処①

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 想像していたよりも、穏やかな再会だったようにセレナは思う。
 ようやく会えたと、たぶん無意識にお互いが思っていた。
 
 来客用のソファにディアナスを促して、ディアナスも黙ってそれに応える。
 明らかな緊張の見てとれるディアナスに、セレナは少し迷って温かいハーブティーを淹れた。
 異世界とはいえこの世界の薬草の効能はもとの世界のものと殆ど変らないらしい。

 湯気のたつカップをソファに座ったディアナスの前のテーブルに置く。
 ディアナスはそれにぎこちなく礼を述べながら、手をつける素振りはなく改めてセレナに向き直った。

「…あの、セレナ。一応、その…かたちだけ。挨拶をしても良いかな、形式的に」
「挨拶って…自己紹介みたいな? わたしもした方が良い?」
「や、セレナは大丈夫。ボクがやりたいだけなんだ。一応、というか…ボクが公式の場意外で誰かと会うのは初めてだから、ちゃんとしておこうと思って」

 想像以上の礼節の意識を見せるディアナスに、セレナも思わず姿勢を正す。
 見知った仲だし初対面ではないからと、あまり深く考えていなかった。それにそういった事柄には疎いのも事実だ。だけど彼がそれを望むなら断る理由はない。

 今度は黙って大人しくディアナスの挨拶を受け取る返事を頷いて返す。
 それを見てからディアナスは、ソファから立ち上がりセレナの目の前の絨毯に片膝を折った。そっとその手をとりながら。
 自分を見上げるかたちとなったディアナスの表情かおが真剣な王子の眼差しへと変わるのを、セレナはどぎまぎと見つめていた。まるで物語に出てくる本物の王子さまみたいだと思いながら。

「フィラネテス王国第五王子の、ディアナス・フィラネテスです。初対面の時、名乗り遅れた無礼をお許しください」
「…う、えっと、はい…」
「…ありがとう、付き合ってくれて。もう良いよ、セレナ」

 そこで、ようやく。
 ディアナスがふっと息を吐き出すように表情を崩し立ち上がった。その様子に思わずセレナもほっと息を吐き出す。握っていたセレナの手はとられたまま、あの日と同じようにまっすぐ見つめ合って対峙した。

「…嘘をついていて、ごめん」
「…謝らないで、だって嘘じゃないでしょう?」

 離すことのないその手をセレナもそっと握り返す。じんわりと汗ばんだそれはディアナスの緊張をそのまま伝えていた。自分が身構えていたよりもずっと、彼なりの葛藤や迷いがあったのだろう。ここに来るまでに、それを自分に言うまでに。

「あの姿もあの名前も、あなたにとって嘘はなにひとつなかった。だから謝ることなんてひとつもないよ」

 ほんの少しの戸惑いはまだある。
 だけどこうして会ってしまえば、やはり目の前に居る人物とセレナがそれまで接してきた人物に、嘘や偽りはなにひとつ無いのだ。セレナにとってはどちらも大切な友人だ。その面影はまだ色褪せない。

「“シンシア”の恰好も好きだけど、その恰好も似合ってる」

 初めてディアナスとして対峙した時のような仰々しい王子さまの恰好よりも、今日は流石に軽装だ。それでも美少女に見紛うほどの彼の美しさは健在だった。
 短くなってしまった金色の髪もまっすぐ自分を映す青い瞳も、いっそ神秘的に感じるくらい美しい。性別なんてさほど大きな問題ではないと思えてくる。

「…ありがとう。セレナはボクがあげたドレス、着てくれてるんだね。…嬉しい」
「本当は借りたつもりだったから、返そうと思ってたんだけど…せっかくだし。着るなら今日かなと思って」

 セレナが今着ているのは、濡れてしまった服の着替えにとシンシアが貸してくれたドレスだった。
 ひとりで着るのにはなかなか苦労したけれど、ルミナスに手伝ってもらった。皺や汚れやほつれも綺麗に直してもらった。ついでにまた髪も結ってもらって、王子を迎える準備は万全だ。

 ディアナスと蝶でやりとりをしている時にドレスは返すつもりだと伝えたけれど、ディアナスは頑ななまでにそれを拒否したので、大人しくもらっておくことにしたのだ。
 ここまで豪華で華やかなドレスは初めてなので、ある意味良い記念にととっておく事にする。おそらくディアナスと会う時以外に着るつもりのないそれは、もう着ることは殆どないだろう内心思っている。本人には言えないけれど。

 ディアナスはまじまじと、改めて自分の贈ったドレスを身に付けたセレナを見つめる。
 頭の先から爪先までその視線が注がれて、それから至極満足そうに笑った。セレナは逆にいたたまれない気持ちでその視線を受ける。

「やっぱりよく似合ってる。前回の時はそれどころじゃなかったから、ちゃんと見れて嬉しいよ」
「そう…? ドレスは素敵だけど、似合ってるかは別な気がする」
「そんなことないよ。セレナを思って選んだんだから。男が女性に服を贈る理由、聞いたことない?」
「…? どんなの?」

 首を傾げるセレナに、ディアナスは年相応の少年の顔で笑ったまま続けた。部屋に着いたばかりの緊張はもう微塵も感じられない。かつてシンシアとして会話していた頃のように気さくな空気がそこにはあった。
 こうして会って言葉を交わし、互いに何も変わらないことを再確認した。
 だけど互いの持つ感情の僅かな差異に気付いているのはディアナスだけだった。

「自分で脱がせる為だよ」

 ディアナスの言葉に目を丸くするセレナに、「贈ったのは“シンシア”だけどね」と無邪気に笑って、その手をとったまますぐ傍のソファにセレナを促した。
 急にその異性を意識したセレナは一瞬躊躇するも、大人しくひかれるままディアナスの隣りに腰を下ろす。その手はまだ、離れない。

「会ったら何を話そうか、ずっと考えてた。まずは謝りたくて、それからとにかく会いたかった。会って確かめなければと思っていた」
「…なにを…?」

 ディアナスからの蝶の文章メッセージは、あれからいくつか届いていた。最初は返せなかったけれど、会いたいと言ってくれたのは彼の方からだ。
 セレナ自身も会う必要があるとは思っていた。すべて中途半端に別れてしまったからずっと気掛かりではあったのだ。
 ただ自分も隠し事をしていてそれが知られた後だったので、気まずい思いも拭えなかった。
 あの時のディアナスからの詰問は保留のままだ。その後の再会は叶わなかったから。今日のこの場まで。

「セレナという存在そのものを。その意味を、意義を、役割を」

 まっすぐに向けられる、まだ幼さを残す無垢な瞳。そこにはひとつの揺るぎない決意も湛えている。
 だけど彼はもう子どもではないし、セレナだってすべて誤魔化し通せるほど彼が幼稚だとは思っていない。

 ディアナスの訪問の目的は、セレナの様子の確認とこれまでの状況の説明の場を設ける為だとセレナは認識している。
 だけどルミナスを通じてディアナスから夜伽に申し出があるかもしれないことは聞いていた。
 “王子の立場”としてなるべく早急に、そしてそれはもしかしたら別の目的も兼ねられ、その場には第三者が居る可能性もあると。
 
 セレナは最初その話に当然のごとく戸惑った。可能なら断ることも考えた。
 それが夜伽であればセレナは立場上断れない。そもそもの約束も破綻しつつあるが、現状イリオス(本物)から謹慎以外の処分は今のところないし、むしろ本人とまだ話していない。
 だからルミナスからの本気の叱責だけをひたすら受けて謹慎中は大人しく過ごしていた。
 それから少しずつ以前と同じ何もない日常のなか、ルミナスからディアナスの夜伽の件を伝えられたのだ。
 王子たちの通過儀礼である“禊”のことも、その立会人をイリオスがアレスに命じたこともあわせてすべて聞いた。

 その上で、もう一度考え。
 ディアナスとアレスのふたりに返事の蝶を送った。
 それからディアナスの返事ははやかった。ちなみにアレスからの返事はまだ受け取っていない。
 
 ディアナスがここに来た目的。彼はそれを確かめに来たのだと改めて悟る。
 あの日、自分たちの最後となった祭事の日。隠し事の一部を彼に見られてしまった。
 穢れがこの身に移ったところを。自分がそれを受け入れたさまを。

「セレナはボクたちだけの聖女だと…ボクらはそう思っていた。だけどセレナがサラの穢れを祓ったのは疑いようのない事実だ。そしてその痣を…あなたの体が引き継いだのも」

 ずっと、とられたままだった手。その手にディアナスは力をこめる。意図をもって離さずに、セレナを決して逃がさないように。
 そのことにようやく気付いたセレナは、ゆっくりと表情かおを曇らせてディアナスを見つめ返した。
 ディアナスはその瞳を受けながら、自らの胸元の留め具をもう片方の手で外しながら肌を晒す。
 少女のように白いその肌に、思わずセレナはドキリとして体を捩った。だけど自分の手を掴み動じないその腕は、紛れもなく男のものだった。
 
 ディアナスのその意図が分らずに、セレナは何の抵抗もできずに晒される肌を見つめる。
 てっきり脱がされるのは自分の方だと思っていたので、ディアナスが自ら脱ぐのは想定外だ。
 だからその時のセレナに、ディアナスの本当の目的はまだ知る由もない。
 隠したかったほんとうのこと。
 それは誰の為だったのか。

「穢れと呪いは違う。だけどあなたはそれを繋ぐ存在なんじゃないかというのが、ボクらの見解。ボクらがそうしてどんなに抗っても、見えない鎖で繋がれてしまうように」

 そっと、ディアナスが。セレナの握っていた手を持ち上げて、自分の心臓の上に導いた。
 直接素肌に触れるセレナの手は冷たかった。ディアナスの肌が熱かっただけかもしれない。
 触れた瞬間に、たぶん互いが同時に目を細めた。
 目の前にある現実はどこか空想めいている気がする。
 友人だと思っていたのは、もはやセレナだけだった。
 目の前に居るこの体の持ち主は、紛れもない異性だ。
 
「ボクの呪いは、ここ」

 ディアナスが導いた肌には傷痕があった。それに気付いてセレナは思わず息を呑み目を瞠る。
 質感の異なるそれが火傷の痕だと気付いたのは、自分の体にも残る治療痕に似ていたからだ。
 切って縫われたもの以外に焼かれて不自然に抉れた肌は、見目も肌触りも良いものではない。
 それでも自分の、一部なのだ。そうしてここまで来たのだから。

 呪いに触れて、僅かにセレナは怖気づく素振りを見せる。この先に待つのはひとつしかない。 

「……夜伽を、望むなら…わたしは、拒まない。だから、」
「ボクが望むのは夜伽じゃない」

 セレナの言葉を切って、ディアナスは続ける。
 じわり、と。その時ようやく感じる確かな欲の火種。
 ゼノスとアレスから聞いてはいたが、それはディアナスの予想をゆっくりと覆す得体の知れない初めての感覚だった。
 それに必死に抗いながら、それでもディアナスは押し付けたセレナの手を離さない。

 今、ディアナスがここに居る理由。その意味と意義。
 確かめなければいけない。
 兄たちの呪いはどこにいったのかを。
 彼女セレナはどこに行こうとしているのかを。

 ――呪いは、体を交えなくても解かれるはず。

 ゼノスの言葉。
 ディアナスは兄弟の中でも一番その量と影響が少ない身だ。
 今まで直接セレナに触れたことは何度かあった。抱き締めたこともある。
 だけど体が反応しなかったのは、その関係性が稀薄故だったのだろうと想像する。
 今まで自分たちは、男と女ではなかったのだ。心も体も繋げるには不十分な関係だった。

 おそらく自分が夜伽を受ければすぐに呪いから解放されるだろう。
 でも、そうしたら。
 終わってしまう。自分たちがの繋がりがそこで途切れてしまう。
 自分はそうならない為のはじめのひとりにならなければいけない。

 ――だったら、おまえが確かめてこい。その目で

 あのひみつの協定の場で。兄であるアレスが自分にそう命じた。
 言い換えれば託されたのだ。彼女の秘密を暴く役を。
 解かれた呪いが、本当はどこに在るのかを。

「…ディアナス」

 その意図をようやく理解したセレナが、小さく縋るように自分の名前を呼んだ。
 欲の膨れるこの身には、脊髄にまで響く甘い声にも感じられる。ずっとその声で自分の名前を呼んでいてほしい。だけどもっと違う声が聞きたい。思考が溶けてしまうほどの甘い声を。
 火の点いた体が本人の意思に反して男の本性を暴くようにじわじわと身を焦がす。それを顔には出さないよう、必死に隠して距離を詰めた。

 いつの間にか上がる息。言葉はもう上手く出てこない。だから代わりに唇を乞う。どうか拒まないでと願いながら。
 口づけを拒まれたらもう生きていけない気がする。そんな弱気なディアナスを、セレナは拒むことはしなかった。

 触れた、つぎの瞬間には。
 その痣も欲も本性も。
 ディアナスの手を離れていた。

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