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赤い月と白い檻
しおりを挟む三年は長い。
その間ずっと片想いで、ずっとわたしばっかりだった。
先生から向けられるのはただひたむきな庇護と親愛。むしろよくそこまで育てたなと思う。わたしにその気はなかったのに。
何度か自分の気持ちを伝えてみたことはあったけれど、根本的な部分の隔たりを感じて早々に説明を諦めた。
そもそも上手く説明ができないのだ。この世界の“番システム”の方がよほど合理的過ぎて。
はじめから無かったものを、知り得ないものを分かってもらうには、どうしたら良いのだろう。
そもそも分かってもらいたいだなんて傲慢過ぎるのかもしれない。
だけど好きなひとに振り向いてほしいのはもはや細胞レベルでの本能だ。
そう思うのにこの世界ではわたしだけが異端だ。
どうしたら好きになってもらえるのだろう。
“番う”愛とは違うけど、先生だけがただ、欲しかった。
このままじゃ傍に居られなくなる。
言葉にできないのなら――もっと直接的にぶつかるしかない。
伝えたかった。
どうしても。
わたしに星をよむなんて高度なことはできなくても、満月までを数えるのは簡単だった。
◆
「先生、クスリ、いつもより多くない?」
「……もうすぐ、満月ですからね」
満月が近づくにつれ先生のクスリの量は多くなり、そしてその時期は必ず傍に近寄ることすらやんわり拒まれる。伏せがちの耳がぴんと立ち、ローブの中の尻尾はいつもより存在感を増していた。
満月は月の魔力が最も満ちる時で、ケモノの血はその力にあてられやすい。
その中でも最大級の、“赤い月”がもうすぐ近くまで迫っていた。獣人たちは対策と準備で皆忙しそうだ。
『――いいか、ルーナ。おまえ、絶対に不用意に近づくなよ。部屋には鍵があるはずだ。必ずかけろ。結界にもなるから外からはそう簡単に開けられない』
そう警告したのは、わたしと先生の世話役である見習いのリオンだった。
わたしがこの世界に来てからまともに話すのは先生とリオンとわたしの存在を知るあと何人か。
どうせいなくなる存在だ。この世界ではわたしの存在なんていないに等しい。
先生は基本的に神殿かこの離れに居るかのどちらかだ。
王宮や街も近いらしいけれど、一度も“外”に出たことはないという。
生活をしていく上ではサポートが必要で、それがリオンだった。
リオンは主に生活用品や食料品、先生のクスリ等を定期的に持ってきてくれるネコ科の獣人だ。
確か、獅子族。明るい日向色のクセのある髪と、長い毛に覆われた耳と細長い尻尾をいつも不服そうに大きく振っている。
神殿に住まう見習いの中では一番わたしと年が近い。つまり一番下っ端で、だから面倒事を押し付けられたのだろう。
ちなみにわたしは勝手に毛嫌いされている。会う度いっつも睨まれるのだ。先生にやたら懐いていたみたいなので、突然現れたわたしが気に喰わないのだろうと勝手に思っている。
『迂闊にロードに近寄るな。ロードの為にも』
忠告などされずども先生自ら自室に引き籠ってしまっているののだからどうしようもない。
先生はどうしても“本当の姿”だけは、わたしに見せたくないらしい。
満月の日、最もケモノの血が濃く騒ぐ夜。すべての本性が暴かれて、本能に最も忠実に、欲を求めるようになる。
中でも“赤い満月”は、すべての抑制の箍が外れる魔力があるという。
先生は数か月も前から警戒して、苦心して、対策して、そして。
一時的にわたしはリオン達見習いの住まう神殿の宿舎に預けられる事になった。
残念ながらわたしに選択権も拒否権もなく、先生は少し寂しそうな、だけどどこか安堵したような顔でわたしを送り出した。
「……いい子にしていてくださいね、ルーナ。あまりリオンとケンカしないように」
まるで保護者気取りで言われて隠さず不機嫌顔を見せつける。いつも通り先生は優しく諭すように微笑むだけ。
いつも、乱されるのはわたしだけ。この気持ちは先生に伝わらない。せいぜい拗ねていると思われているくらいなのが余計に腹立つ。もっと複雑でいて厄介なのに。
離れたくないだなんて言えなかった。ただそれだけの事なのに。
「……帰ってきたら、大事な話があります」
――知ってる。
先生はギリギリまで隠したかったんだろうけれど、先生よりも上の位の偉いひとが教えてくれた。わざわざ先生が不在の時に離れまで来て。
どうしてわたしに直接それを伝えてきたのか分からない。善意だけではないことは、わたしが獣人じゃなくてもわかった。
悪意ととれるかは別だけれど、わたしを疎んでいたのかもしれない。
ほんの少しだけ傷ついたわたしの気持ちを相手は敏感に感じ取って満足げに笑って帰っていった。
その日は先生に気付かれないようにわざとリオンにつっかかって憂さ晴らしをした。
上書きされる感情で本心を誤魔化すことを覚えたわたしもずるくなった。
先生の哀しい顔は見たくなかった。
「……わかりました、先生」
いよいよその日がくるんでしょう?
もうすぐすべての条件が揃って、わたしはようやくもとの世界に帰れる。
赤い満月がその軌道を開く。
先生はきっと、笑ってわたしを手放すのだろう。
心からの安堵と共にわたしを見送るのだろう。
寂しさだけを押し出して、この気持ちがばれないように胸にしまう。
大人しく離れる気なんて毛頭ない。
大事なことはまだなにも、伝えられていない。
◇
その夜は不気味なくらいに静寂に満ちた夜だった。
宿舎を抜け出して先生の居る離れへと向かいながら、空に浮かぶ赤い月を見上げる。
おそらく心も身体もさざめく獣人たちと違って、わたしの心はひどく凪いでいた。
星読みが好きな先生と見上げる満天の星空はあんなに優しいのに、今夜はどこか息を潜めている。
頭上高くにはまぁるい赤い月。大きくて呑み込まれそうなほど。
不思議とこわくはなかった。
わたしにとって赤は、運命の色だから。
離れを出る前に先生のクスリはすべて隠してきた。一体何種類飲んでいるんだろうすごい量。
命に関わるものはないはずだ。この時期だけのトクベツなクスリも多い。
必要時以外の外出を避けている先生は、定期的に届けられる以外にクスリを手に入れる手段を持たない。
特にここ数日は他の獣人たちも不用意な外出を避けているから余計に。ただじっと引き籠るしか自衛する術はない。
息を切らして辿り着いたのは、宛がわれた自室の窓の外。
鍵を開けておいた部屋の窓から慎重に室内に滑り込む。
開いたままの窓に気付かれていないことにまずはほっとした。鍵をしめられていたら入れなかった。
さっと薄暗い室内に視線を巡らせると、見た目的には出た時と寸分違わぬ沈黙を守っている部屋に、微かに違和感を感じる。
先生の匂いが残っている気がした。先生は滅多にわたしの部屋には来ないのに。
もしかしてわたしの部屋までクスリを探しに来たのだろうか。先生のクスリを隠せる場所はこの部屋以外になかった。先生は鼻が良過ぎるから。
そっと本棚に近づいて一冊の古い本を取り出す。装丁部分が分厚く二重構造になっている本で、クスリを隠す為に細工した。
そこに匂いを消す薬草と誤魔化す為の香袋を、あくまで不自然にならない分量で一緒にいれてある。
片側の装丁をめくると、クスリはきちんとそこにあった。ほっと胸を撫で下ろし、本を閉じて再び同じ場所に戻した。
この部屋の壁紙も机も調度品もほとんどが最初からあったもの。いつか帰る身を思うと、あまり自分のものは増やせなかった。
もう二度とこの部屋に戻ることはないのかと思うと思わず感慨に耽ってしまう。でもここに先生との思い出はほとんどない。
自嘲混じりに笑って頭を振る。
それから先生の部屋へ足を向けた。
先生の声がする。ひとのそれとは外れた、ケモノの唸り声にも似た。
家中が異様な空気で満ちている気がした。
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