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『さよならを言う前に』10
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頭の中で審判の声が響いた。Allez! 試合の始まりを告げる声が。まさか探偵ごっこをするとは思っていなかったが、乗りかかった船か。
首筋に近かった彼女の包丁が静かに下された。どの道、後には引けない。引く事はもはや、許されない。
「何言ってんの? そこのフュージョナーにタカノさんは財布盗まれたんだよ? 何でタカノさんが犯人になってんだよ!?」
「財布は盗まれていない。網澤タカノは隙を見て財布を山祢さんの鞄に入れ、その後で盗まれたと騒ぎ立てた」
「……最初から説明してもらえますか?」
そう言ったのは、遠間レイジだ。
「出来るんでしょう? そこまで言う以上は筋の通った説明が」
抑えてはいるが感情的な口調だ。相方の先輩を侮辱されて怒ったのか。
筋の通った、か。ふん、いいだろう。
「そもそもあなた達二人がこの事件を知ったのは、当事者からの伝聞だった。全ての経緯を知る、公平な第三者からではなく、事件の渦中にいた人物からの。村木さんは親しい人間からの情報だから疑わず、そしてあなたは村木さんからの情報だから疑わなかった。
あなた達二人は提供者の都合に沿うように歪められた事件を信じ、そして動いた」
「俺は山祢を信じていますよ」
平然とした顔で、遠間レイジは言った。
「でも、エイリの先輩が悪い事をしたとは思えません」
――……そう思うのなら、そう思っていればいい。
事件は、この場で終わる。
「一つ目の失せ物から説明しましょうか。
山祢さんに窃盗犯の濡れ衣を着せる計画を思いついた網澤タカノは、まず手始めに自分を被害者にする事にした。それも初めから財布ではなく、事件性をより大きくするためにか、絵具という、盗まれたのか失くしたのかわかり辛い物から始めた」
この段階では、実際に物がなくなる必要はない。『物がなくなった事実』を周囲に知らしめればいい。事前に絵具を隠した網澤は、ターゲットである山祢に尋ねる。
『ついさっきまでそこにあったんだけど、山祢さん、知らないよね?』
『知りません』
絵具を盗んだ事を隠す犯人の反応としては、上々だっただろう。
「二つ目と三つ目の盗みは自作自演をカムフラージュするためと、先に言った事件をより大きくするために必要だった。だからおそらく、盗む物はどれでも、誰の物でもよかった。
でも、ちょうどタイミングよく、こんな出来事があった。出来事とは呼べない程の些細な事だけど」
――そういえば、一度席を離れた時、山祢が自分の絵を遠くから見ていた事を、後に一年生は思い出した。
「網澤がこのちょっとした事を実際に目撃したのか、それともたまたま標的に選んだ品物に、偶然そういう曰くがついたのかはわからない。いずれにせよ、後から人が聞けば、山祢に疑いを持たせるような、そういう都合の良い出来事があった」
そして、三つ目。
「コンクール用の作品を手掛けている三年生から、網澤は絵筆を盗んだ。
『窃盗犯山祢カオル』というストーリーを展開するなら、これもまた、あつらえたような材料だった。嫉妬からくる妨害工作でも何でも、辻褄を合わせる事が出来る。才能に嫉妬、という〝動機〟を用意するなら、スケッチブックを盗んだ理由とも辻褄合せが出来る。
さて、準備が整ったところで、彼女は最後の事件を起こした。
スケッチブックを盗み出したのと同じ要領で、さりげなく山祢さんの鞄に近付き、財布とそれまでの盗品を入れ、席に戻って、タイミングを見計らって財布がなくなったと言い出した」
ここで一度深呼吸した。頭をベストの状態に保たなければ。
周囲の反応を窺う。極端に言えば、本当に知りたいのは、レイジとエイリの二人だけだ。
レイジは、何とも言えない顔をしている。言いたい事はあるのかもしれないが、どうにも整理し切れていないようだ。
だがエイリは違った。意味不明だと喚き立てるのかと、そう思っていた。
村木エイリが浮かべているのは、笑みだった。どこから笑いを堪えているような笑み。
「すっげえ。探偵ドラマかよ。推理っての、初めて聞いっちゃった」
心底おかしくて仕方ない、という笑い方で、エイリは私を見る。
「でもおかしくね? 先輩が山祢を犯人にするためには、先輩の財布やら何やらが山祢の鞄から出て来るのを他の奴等にも見せなくちゃならない。タイミングよく持ち物検査があったから、山祢は疑われたけど、そもそも持ち物検査が行われる保証なんてどこにもない。山祢が全部持って帰ってたかもしれないし、仮に山祢が盗んだ物を捨てたりしたら、先輩ただの間抜けじゃん。そんな不確実な事、普通だったらしないと思うんだけど?」
挑むように、エイリは笑う。
ふうん。意外と考えるじゃないか。それなら、私の説を聞いていただこう。
「確かに、財布がなくなった時点で持ち物検査を行うだろうなんて、普通は予測しないでしょうね。でも彼女はわかっていたのでしょう。自分の物がなくなれば、教師はほぼ必ず、この場で真相を明らかにしようとするだろう、と」
「何、お前、タカノさんが自分は特別って思っていたとでも言いたいの?」
「そうね。そう言っても過言ではないでしょう。現に、ナユタ高校美術部において、彼女は特別な存在だった。それに関しては、私よりあなたのほうが、よく知っていると思うけど?」
一瞬、村木エイリがぽかんとした顔になった。
「……は?」
心底意味がわからないとでも言いたげな、小馬鹿にしたような目だった。
「ごめん、全然意味がわかんないんだけど?」
ほとんど予想した通りの言葉が、続いて飛び出してきた。
……少し、困った。本当に知らないのか。
まあ、いい。
「村木さん、あなた美術部の顧問が誰か、知っている?」
「知らねーよ。美術部じゃねーもん」
そういうものか。確かに、普段から関わりがなければ知らないかもしれない。
「仮にあなたは知らなくても、山祢さんは勿論知っている。だから、山祢さんは今日、網澤タカノに会いに行った。そうよね?」
様子を伺う意味も込めて、私は話を山祢カオルに振る。
青ざめていた顔に、少し生気が戻ってきている気がする。急に水を向けられた彼女は驚いたような顔をしたが、小さく、こくりと頷いた。
「おい、勿体ぶんな! どういう事か説明しろ!」
「網澤先輩は、顧問のアミサワ先生の娘だよ」
呟くように言ったのは、山祢カオルだった。
「あんたも知ってるはずだよ。アミサワが普段学校でどんな態度を取っているか」
――相手が被差別者と見るや、傲慢な態度を隠しもしない。
私は勿論、あの教諭の普段の姿を知らない。だが、見ず知らずの生徒にさえ、あそこまで悪意を込めて話をするのだ。
日頃は態度が違うというのは、考えづらい。
「いやいや。あたしはそのアミサワって先生知らないけどさ、タカノさん、めっちゃいい人だよ。仮にタカノさんが自作自演したとしても、原因はあんたにあるんじゃないの?」
村木エイリは折れなかった。
彼女にとって、悪いのはあくまでもフュージョナーであり、山祢カオルなのだろう。
どこで根付いたかもわからない、まるで当人にとっては常識にも等しい差別感情。
簡単に消えるわけがない。
「残念ですけどね、網澤タカノが差別感情を持っているのは事実ですよ。現に私達、言われましたから」
傍にいた小紋さんを軽く手で示しながら、奥鐘さんが言った。
「脇に退いてろ、半人どもって」
小紋さんがそっと頷いた。
村木エイリが口を噤む。何か言いたげだが、言葉が出て来る気配はない。
「――父親の性格を知っていた網澤タカノは、あらかじめこうなるであろう事を予測して、今回の事件を起こした。アミサワ教諭が普段学校でどういうふうにタカノに接していたかはわからないけど、自分の娘の財布を盗んだかもしれない容疑者の中にフュージョナーがいれば、どういう対応をするかは目に見えていたんでしょう」
疑わしきは罰せよ、だ。
さらにもう一つ、付け加えられる事柄があるが、それは黙っておく。確たる答えはないし、言っても、言わなくても事態はそんなに変わりはしない。
――網澤タカノは、何故山祢カオルがフュージョナーだと知ったのか。
これは、勿論父親から聞いたという可能性があるが、あの男も一応教師なので、生徒が隠したがっている情報を、いくら娘とはおいそれと話すとは思えない。守秘義務くらいは、守るだろう。
では、もし仮に、父親から聞いたのでなければ誰か。
伝聞だとすれば、考えられるのは一人だ。彼女は今、何か言葉を言おうとしている。
「……しょ、証拠は?」
多少つっかえながら、村木エイリが言った。
「ロッカーに鍵はないんだから、鞄には誰でも触れるじゃん。理由がないとか差別主義とかじゃなくてさ、確実に先輩がやったっていう証拠はあるの?」
……来たか。
確かに彼女の言う通り、罪を追及するのであれば確たる証拠は必要だ。今まで私が挙げた状況証拠だけでは、結局、言いがかりをつけているようにもなってしまう。
「あの人は全部言ったよ」
力ない声で、山祢さんが呟く。
「だいたいは、今、そこの人が言った通りだった。全部網澤先輩が仕組んだんだよ」
「うるさい、黙れ。あんたには聞いてない。証拠がなければ誰が何言おうが全部デタラメかもしれないじゃん!」
喚くような声音だったが、間違ってはいないし、正直に言えば痛いところを突かれている。
それこそ探偵ドラマなら、絵筆やスケッチブックから指紋でも出ればそれが証拠となるが、これは現実だ。私達の誰も、そんな物を検出する技術も設備も持っていない。
あるいはこの場に網澤タカノがいれば、これまでの推論をぶつけるだけで、真実を吐き出してくれたかもしれないが、彼女はここにはいない。
手がかりは全て揃った。事件の内容も推理出来た。
でも証拠だけはこの場にない。タカノが事件に関わっていたという痕跡は、情報を集めただけでは決して手に入らない。
「ほら、どうしたの。黙ってないで証拠だせよ、証拠を」
エイリの口調に自信が戻ってきている。周りの者は誰も口を利かない。
皆、私が答えを出すのを待っている。
私は記憶を探って考える。本当に、何もないだろうか? 何かを、見落としてはいないだろうか。
………………ああ、待て。もしかしたら。
「証拠が欲しいのね」
私は村木エイリを見る。彼女は苛立たしげに私を睨み返す。
「そうだっつってんだろ。早くしろよ」
「……わかった」
私は頷き、それから山祢さんに向き直る。彼女は、びくりとした顔で私を見た。
左手には、例の黒い手袋をしている。その手には包丁が握られている。
右手は、特に何もしていない。手も、普通の人間の手だ。鞄を持っているから、指は握り込まれている。
「山祢さん、鞄を貸してもらえるかしら」
「え? ええ、いいです……けど」
「ありがとう」
彼女に近付き、鞄を受け取る。右手が引っ込められる時、私はちらと、その指を確認した。
――よし。
あとは、賭けだ。大袈裟に言えば、この世に神がいるかどうか、という具合の。
鞄をおろし、私はチャックを開けて中を見る。
「中の物、出すわね」
彼女が頷くのを確認して、私は慎重に、中に入った教科書などを取り出していく。
「おい、何やってんだよ! さっさと証拠――」
「黙ってて」
そう焦らなくても引導はすぐに渡るのだ。私か彼女、どちらかに。
……………………。
やがて、私は鞄の底にそれを見つけた。ポケットティッシュを取り出し、爪の先でそれを摘んで、慎重にティッシュの上に置く。
「待たせたわ」
ティッシュの上に載せたそれを、私はエイリに見せた。
「何だよ、見えねーじゃ……」
言いかけて、彼女の口は止まる。見えたようだ。そして気付いたのだ。
これが決定的な証拠だという事に。
ティッシュの上に置かれたのは、白いバラだった。よく出来た、ネイルシール。
「山祢さんは爪に何もつけていない。そしてこのバラのシールは……」
彼女の指が僅かに動いた。シールによって飾られた爪も。
「網澤タカノの自作、だったわね」
エイリが膝をついた。
賭けには勝ったようだ。だが、特に嬉しくはない。それに、まだ言うべき事が残っている。
「事件のほうはもういいでしょう。相談の件に、決着をつけましょう」
「……まだ、何かあるんですか?」
口を開いたのは遠間レイジだった。
ええ、あるとも。
「私にとってはこちらが本番よ」
そう言って、私は彼に向き直った。
首筋に近かった彼女の包丁が静かに下された。どの道、後には引けない。引く事はもはや、許されない。
「何言ってんの? そこのフュージョナーにタカノさんは財布盗まれたんだよ? 何でタカノさんが犯人になってんだよ!?」
「財布は盗まれていない。網澤タカノは隙を見て財布を山祢さんの鞄に入れ、その後で盗まれたと騒ぎ立てた」
「……最初から説明してもらえますか?」
そう言ったのは、遠間レイジだ。
「出来るんでしょう? そこまで言う以上は筋の通った説明が」
抑えてはいるが感情的な口調だ。相方の先輩を侮辱されて怒ったのか。
筋の通った、か。ふん、いいだろう。
「そもそもあなた達二人がこの事件を知ったのは、当事者からの伝聞だった。全ての経緯を知る、公平な第三者からではなく、事件の渦中にいた人物からの。村木さんは親しい人間からの情報だから疑わず、そしてあなたは村木さんからの情報だから疑わなかった。
あなた達二人は提供者の都合に沿うように歪められた事件を信じ、そして動いた」
「俺は山祢を信じていますよ」
平然とした顔で、遠間レイジは言った。
「でも、エイリの先輩が悪い事をしたとは思えません」
――……そう思うのなら、そう思っていればいい。
事件は、この場で終わる。
「一つ目の失せ物から説明しましょうか。
山祢さんに窃盗犯の濡れ衣を着せる計画を思いついた網澤タカノは、まず手始めに自分を被害者にする事にした。それも初めから財布ではなく、事件性をより大きくするためにか、絵具という、盗まれたのか失くしたのかわかり辛い物から始めた」
この段階では、実際に物がなくなる必要はない。『物がなくなった事実』を周囲に知らしめればいい。事前に絵具を隠した網澤は、ターゲットである山祢に尋ねる。
『ついさっきまでそこにあったんだけど、山祢さん、知らないよね?』
『知りません』
絵具を盗んだ事を隠す犯人の反応としては、上々だっただろう。
「二つ目と三つ目の盗みは自作自演をカムフラージュするためと、先に言った事件をより大きくするために必要だった。だからおそらく、盗む物はどれでも、誰の物でもよかった。
でも、ちょうどタイミングよく、こんな出来事があった。出来事とは呼べない程の些細な事だけど」
――そういえば、一度席を離れた時、山祢が自分の絵を遠くから見ていた事を、後に一年生は思い出した。
「網澤がこのちょっとした事を実際に目撃したのか、それともたまたま標的に選んだ品物に、偶然そういう曰くがついたのかはわからない。いずれにせよ、後から人が聞けば、山祢に疑いを持たせるような、そういう都合の良い出来事があった」
そして、三つ目。
「コンクール用の作品を手掛けている三年生から、網澤は絵筆を盗んだ。
『窃盗犯山祢カオル』というストーリーを展開するなら、これもまた、あつらえたような材料だった。嫉妬からくる妨害工作でも何でも、辻褄を合わせる事が出来る。才能に嫉妬、という〝動機〟を用意するなら、スケッチブックを盗んだ理由とも辻褄合せが出来る。
さて、準備が整ったところで、彼女は最後の事件を起こした。
スケッチブックを盗み出したのと同じ要領で、さりげなく山祢さんの鞄に近付き、財布とそれまでの盗品を入れ、席に戻って、タイミングを見計らって財布がなくなったと言い出した」
ここで一度深呼吸した。頭をベストの状態に保たなければ。
周囲の反応を窺う。極端に言えば、本当に知りたいのは、レイジとエイリの二人だけだ。
レイジは、何とも言えない顔をしている。言いたい事はあるのかもしれないが、どうにも整理し切れていないようだ。
だがエイリは違った。意味不明だと喚き立てるのかと、そう思っていた。
村木エイリが浮かべているのは、笑みだった。どこから笑いを堪えているような笑み。
「すっげえ。探偵ドラマかよ。推理っての、初めて聞いっちゃった」
心底おかしくて仕方ない、という笑い方で、エイリは私を見る。
「でもおかしくね? 先輩が山祢を犯人にするためには、先輩の財布やら何やらが山祢の鞄から出て来るのを他の奴等にも見せなくちゃならない。タイミングよく持ち物検査があったから、山祢は疑われたけど、そもそも持ち物検査が行われる保証なんてどこにもない。山祢が全部持って帰ってたかもしれないし、仮に山祢が盗んだ物を捨てたりしたら、先輩ただの間抜けじゃん。そんな不確実な事、普通だったらしないと思うんだけど?」
挑むように、エイリは笑う。
ふうん。意外と考えるじゃないか。それなら、私の説を聞いていただこう。
「確かに、財布がなくなった時点で持ち物検査を行うだろうなんて、普通は予測しないでしょうね。でも彼女はわかっていたのでしょう。自分の物がなくなれば、教師はほぼ必ず、この場で真相を明らかにしようとするだろう、と」
「何、お前、タカノさんが自分は特別って思っていたとでも言いたいの?」
「そうね。そう言っても過言ではないでしょう。現に、ナユタ高校美術部において、彼女は特別な存在だった。それに関しては、私よりあなたのほうが、よく知っていると思うけど?」
一瞬、村木エイリがぽかんとした顔になった。
「……は?」
心底意味がわからないとでも言いたげな、小馬鹿にしたような目だった。
「ごめん、全然意味がわかんないんだけど?」
ほとんど予想した通りの言葉が、続いて飛び出してきた。
……少し、困った。本当に知らないのか。
まあ、いい。
「村木さん、あなた美術部の顧問が誰か、知っている?」
「知らねーよ。美術部じゃねーもん」
そういうものか。確かに、普段から関わりがなければ知らないかもしれない。
「仮にあなたは知らなくても、山祢さんは勿論知っている。だから、山祢さんは今日、網澤タカノに会いに行った。そうよね?」
様子を伺う意味も込めて、私は話を山祢カオルに振る。
青ざめていた顔に、少し生気が戻ってきている気がする。急に水を向けられた彼女は驚いたような顔をしたが、小さく、こくりと頷いた。
「おい、勿体ぶんな! どういう事か説明しろ!」
「網澤先輩は、顧問のアミサワ先生の娘だよ」
呟くように言ったのは、山祢カオルだった。
「あんたも知ってるはずだよ。アミサワが普段学校でどんな態度を取っているか」
――相手が被差別者と見るや、傲慢な態度を隠しもしない。
私は勿論、あの教諭の普段の姿を知らない。だが、見ず知らずの生徒にさえ、あそこまで悪意を込めて話をするのだ。
日頃は態度が違うというのは、考えづらい。
「いやいや。あたしはそのアミサワって先生知らないけどさ、タカノさん、めっちゃいい人だよ。仮にタカノさんが自作自演したとしても、原因はあんたにあるんじゃないの?」
村木エイリは折れなかった。
彼女にとって、悪いのはあくまでもフュージョナーであり、山祢カオルなのだろう。
どこで根付いたかもわからない、まるで当人にとっては常識にも等しい差別感情。
簡単に消えるわけがない。
「残念ですけどね、網澤タカノが差別感情を持っているのは事実ですよ。現に私達、言われましたから」
傍にいた小紋さんを軽く手で示しながら、奥鐘さんが言った。
「脇に退いてろ、半人どもって」
小紋さんがそっと頷いた。
村木エイリが口を噤む。何か言いたげだが、言葉が出て来る気配はない。
「――父親の性格を知っていた網澤タカノは、あらかじめこうなるであろう事を予測して、今回の事件を起こした。アミサワ教諭が普段学校でどういうふうにタカノに接していたかはわからないけど、自分の娘の財布を盗んだかもしれない容疑者の中にフュージョナーがいれば、どういう対応をするかは目に見えていたんでしょう」
疑わしきは罰せよ、だ。
さらにもう一つ、付け加えられる事柄があるが、それは黙っておく。確たる答えはないし、言っても、言わなくても事態はそんなに変わりはしない。
――網澤タカノは、何故山祢カオルがフュージョナーだと知ったのか。
これは、勿論父親から聞いたという可能性があるが、あの男も一応教師なので、生徒が隠したがっている情報を、いくら娘とはおいそれと話すとは思えない。守秘義務くらいは、守るだろう。
では、もし仮に、父親から聞いたのでなければ誰か。
伝聞だとすれば、考えられるのは一人だ。彼女は今、何か言葉を言おうとしている。
「……しょ、証拠は?」
多少つっかえながら、村木エイリが言った。
「ロッカーに鍵はないんだから、鞄には誰でも触れるじゃん。理由がないとか差別主義とかじゃなくてさ、確実に先輩がやったっていう証拠はあるの?」
……来たか。
確かに彼女の言う通り、罪を追及するのであれば確たる証拠は必要だ。今まで私が挙げた状況証拠だけでは、結局、言いがかりをつけているようにもなってしまう。
「あの人は全部言ったよ」
力ない声で、山祢さんが呟く。
「だいたいは、今、そこの人が言った通りだった。全部網澤先輩が仕組んだんだよ」
「うるさい、黙れ。あんたには聞いてない。証拠がなければ誰が何言おうが全部デタラメかもしれないじゃん!」
喚くような声音だったが、間違ってはいないし、正直に言えば痛いところを突かれている。
それこそ探偵ドラマなら、絵筆やスケッチブックから指紋でも出ればそれが証拠となるが、これは現実だ。私達の誰も、そんな物を検出する技術も設備も持っていない。
あるいはこの場に網澤タカノがいれば、これまでの推論をぶつけるだけで、真実を吐き出してくれたかもしれないが、彼女はここにはいない。
手がかりは全て揃った。事件の内容も推理出来た。
でも証拠だけはこの場にない。タカノが事件に関わっていたという痕跡は、情報を集めただけでは決して手に入らない。
「ほら、どうしたの。黙ってないで証拠だせよ、証拠を」
エイリの口調に自信が戻ってきている。周りの者は誰も口を利かない。
皆、私が答えを出すのを待っている。
私は記憶を探って考える。本当に、何もないだろうか? 何かを、見落としてはいないだろうか。
………………ああ、待て。もしかしたら。
「証拠が欲しいのね」
私は村木エイリを見る。彼女は苛立たしげに私を睨み返す。
「そうだっつってんだろ。早くしろよ」
「……わかった」
私は頷き、それから山祢さんに向き直る。彼女は、びくりとした顔で私を見た。
左手には、例の黒い手袋をしている。その手には包丁が握られている。
右手は、特に何もしていない。手も、普通の人間の手だ。鞄を持っているから、指は握り込まれている。
「山祢さん、鞄を貸してもらえるかしら」
「え? ええ、いいです……けど」
「ありがとう」
彼女に近付き、鞄を受け取る。右手が引っ込められる時、私はちらと、その指を確認した。
――よし。
あとは、賭けだ。大袈裟に言えば、この世に神がいるかどうか、という具合の。
鞄をおろし、私はチャックを開けて中を見る。
「中の物、出すわね」
彼女が頷くのを確認して、私は慎重に、中に入った教科書などを取り出していく。
「おい、何やってんだよ! さっさと証拠――」
「黙ってて」
そう焦らなくても引導はすぐに渡るのだ。私か彼女、どちらかに。
……………………。
やがて、私は鞄の底にそれを見つけた。ポケットティッシュを取り出し、爪の先でそれを摘んで、慎重にティッシュの上に置く。
「待たせたわ」
ティッシュの上に載せたそれを、私はエイリに見せた。
「何だよ、見えねーじゃ……」
言いかけて、彼女の口は止まる。見えたようだ。そして気付いたのだ。
これが決定的な証拠だという事に。
ティッシュの上に置かれたのは、白いバラだった。よく出来た、ネイルシール。
「山祢さんは爪に何もつけていない。そしてこのバラのシールは……」
彼女の指が僅かに動いた。シールによって飾られた爪も。
「網澤タカノの自作、だったわね」
エイリが膝をついた。
賭けには勝ったようだ。だが、特に嬉しくはない。それに、まだ言うべき事が残っている。
「事件のほうはもういいでしょう。相談の件に、決着をつけましょう」
「……まだ、何かあるんですか?」
口を開いたのは遠間レイジだった。
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