フラワーガールズ 『さよならを言う前に』

安田 景壹

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『さよならを言う前に』7

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 奥鐘さんとは北駅で別れた。用事があるのだそうだ。
 家に戻ると、私は着替えてランニングに出かけた。運動は好きだ。それに体を鍛えていないと、いつか、何かに負けてしまう。そんな漠然とした不安がある。
 何かとは何か、と聞かれると困るが、たぶんそれは恐ろしいものだ。怪物めいた恐怖ではなく、背後から追われるような、油断すると私を引き摺り込む真っ黒な闇だ。


 闇は、きっと私を離さないだろう。一度捉えられれば、私はきっと闇に捕らわれるだろう。
 そして私もまた、闇の一部となるのだ。
 ペースを上げる。呼吸が苦しくなる。筋肉を使い、走っている事を実感する。
 鍛えていると、自己の存在を感じる。普段何気なく過ごしている自分というものが、体が追い詰められる事で認識を取り戻す。
 鍛えている限り、私は私である事を実感する。闇と戦う自分、戦える自分を確信する。
 何で、こんな事を考えてしまうのか。決まっている。兄と話したからだ。
仲の悪い兄――心を許せる兄弟などいないが――私を下等と言って憚らない、あの春治と。



『珍しいじゃないか、忍』
 電話口で、数か月ぶりに兄の声を聞く。兄は今、この家に住んでいない。ナユタ市新市街の中心部、ナユタの富裕層が多く集う螺合らごう区の高級マンションにアトリエを構え、そこで暮らしている。
『お前から俺を呼び出すなんて。何の用だ?』
『伝言よ』
 約束は守る主義だ。何が禍根になるかわからないし、すぐに終わる用件だ。
『ナユタ高校のガンリュウ教諭が、今年のナユタ芸術コンクールの選考委員に立候補したいそうよ。伝えろと言われたから、電話した』
『ガンリュウ教諭だ?』
 兄の反応は鈍い。


『誰だ、そいつ』
『前に、兄さんを美術部の講義に招いたって言っていたけど』
『……ああ、思い出した。あの画家崩れか』
 兄が他人を見る際に気にする点は、基本的に二つだけだ。
 容姿が美しいか、醜いか。
 芸術的な素養を持つか、持たないか。


『あいつに伝えろ。自分の絵を見てから言え、とな』
『自分で言って。私は頼まれただけだから』
 それじゃ、と言って電話を切ろうとすると、おい、と脂ぎった声で兄が呼び止めた。
『何か?』
『《バース》を読んだか? 最新号だ』
 バース。確か、科学雑誌の一つだ。生憎とそれしか知らない。
『読んでないわ。じゃあね』
『そのバースに最新の学説が載っている』
 自然と兄の声が張り上がった。私に何か聞かせたいのだ。どうでもいいような何かを。


『フュージョナー論だ。何故お前達フュージョナーが、何の前触れもなく突然に人間の腹から生まれるのか、という点に迫っている』
『どうでもいいわ』
 兄がその言葉を聞いた様子はない。兄はたぶん、思い付いた事を思いついたままに喋りたいのだ。怒りに任せて絡んでくることはなくなったが、たまに話すとこれだ。
『大雑把に言えば、学者はストレスが原因だと書いている。フュージョナーが生まれた家庭で、子供が生まれる前後の家庭環境を調べたらしい』
 私は黙って聞く事にした。早く終わるならそれに越した事はない。


『結果、フュージョナーが生まれる家庭のほとんどが、妊娠中に何かしら深刻なトラブルが起こり、母親の精神状態が著しく不安定になっていたらしい。頷ける話だ。確かにお前が母の中にいた頃、一時的に会社の経営が悪くなって母親が随分気を揉んでいたのを覚えている』
『ただの傾向でしょう。根拠に乏しいわ』
『かもしれん。まあそうでなくても、忍冬の家は呪われた家系だ。何が起こっても不思議じゃない』
 科学雑誌の次は呪いか。節操のない男だ。


『何が言いたいの、兄さん』
『要するにフュージョナーとは、因果をその身に引き受けて生まれた存在だという事だ。この世界の邪念、わざわい、不条理、そういうものを体現すべく生まれたのだ。遺伝子の螺旋に呪いが刻まれている』
 もしかして、酒でも飲んでいるんだろうか。この男は。
『フュージョナーだけじゃない。この世に特異な存在として生まれた者はどこにでも必ずいて、そういう奴等は皆、数奇な運命を辿るように仕組まれている。運命とは螺旋だ。この世この時代という一種の〝生命〟を織り成す、無数の遺伝子なんだ。俺達は螺旋の上を転がりながら動いているに過ぎない』
『……せいぜい良い絵を描く事ね、兄さん。仕事がなくならないうちに』


『お前が何故ガンリュウに会ったかは知らないが、何をするにしても気を付ける事だ。忍冬の家は他者を蹴落とし踏み躙って生き永らえた。お前にも俺にもその血が流れている。自分だけは違うと思うなよ。お前もいずれ必ず、自らのために人を傷つける』
 私は電話を切った。最初からこうすれば良かったのだ。支離滅裂で、気味の悪い話だった。やはり、酒でも飲んでいるのだろう。


 思い出すだけで気分が悪くなる。私は走り続ける。近くに海が見えるコースだ。ここ最近は街中を走っていたから、少し、良い景色を見たかった。
 そうやって進んでいくと、久しぶりにナユタ港に辿り着く。
 ちょうど夕暮れ時だった。
 真っ赤な夕日が、今まさに水平線へと沈んでいく。
 赤く照らされるナユタ湾は、まるで炎に燃えているかのようで。
 ――いっそこの身を沈めてやろうかと、そんな事を思った。


「……なんてね」
 死ぬのは、怖い。仮に私が海に飛び込もうとしても、直前で足が竦むだろう。
 呪いだの何だの、わけのわからない話を聞かされたからだ。こんな妙な気分になるのは。
 やはり春治はろくな人間ではない。
 息を吸って吐く。波止場の先まで行ってみよう。そこで夕日が沈むのを見届けてから、戻る事にしよう。
 ペースを保ちながら、私は前方へと進んで行く。
 港のほうに船が見えた。あれは確か、ナユタと旧東京都に当たる島々とを繋ぐ連絡船だ。


『――――わよッ!!』
 思わず立ち止まってしまった。誰かの怒声が聞こえてきた。
 波止場のほうだ。誰かと誰かが言い争っている。……いや、興奮しているのはどうやら片方だけだ。遠目からはわかりづらいが、あれは女の子だろうか。
 一人は、埠頭の端にいる。ともすれば、すぐにでも落ちてしまいそうな位置だ。
 もう一人はそこから少し離れたところで、何かを話しているようだ。
 端にいる子は度を失っているように見えるが、もう片方はほとんど身動ぎせず、口だけを動かしている。
 やがて、端にいた子は小さく何かを呟くと、傍らにあった鞄を掴み、せかせかと歩いて、そのままもう片方の子の傍を通り過ぎて行った。



 残された子はしばらくぼうっとしていたが、やがてふらふらと波止場の先へ歩き出す。
 何か考え事でもしているのか、夢遊病めいた不安になる歩き方だった。まるで自分の行き先など見ていないかのようだ。
 そうこうしているうちに、女の子は波止場の一番端へと辿り着いた。そのまま顔を下に向けている。その姿勢のまま、じっと動かない。
 そうして――……


 ――――――――――――――――――――――――――――――――…………ボッチャン。


 大きな水音がして、水しぶきが跳ね上がった。何が起こったのか、目では見ていても理解は出来なかった。波止場の先に、もう彼女の姿はなかった。
 次の瞬間、全速力で私は駆け出していた。


 海に落ちた少女の名前は、咲分花桃。今日、ナユタに着いたばかりだという。
 お祖父様の主治医に診てもらったから問題はないだろうが、とにかく元気そうだった。飛び上がって驚く程に。
 紅茶を振舞い、少しばかり話をすると彼女はフレンドリーに応じてくれた。どうやら、人柄は悪くなさそうだ。
 話を聞くと来週から、何と三ツ花に通うという。期せずして、転校生に会ったわけだ。
 彼女と話している間、私はずっと先刻の出来事が頭を離れなかった。
 海から引き揚げた彼女が少しの間だけ目を覚ました時。燃えるような彼女の琥珀色の瞳を見た、あの時。
「じゃあ、また学校で。気を付けてね、咲分さん」
「はい。ありがとうございました」
 咲分さんはぺこりと頭を下げた。


 本当はあの時の事を詳しく聞きたかったのだが、仕方がない。私は笑って、家のほうへと戻る事にした。
 坂道に足がかかったその時だった。ポケットの中で、携帯電話が震えだした。
 振動の感覚から、電話着信だとわかる。取り出して、画面を見た。
 意外な相手からだった。
「もしもし?」
「……よう」
 ぶっきらぼうな声音の女の子。一瞬、少しだけ身構えてしまう。
「……どうしたの、芳崎さん」
 彼女、芳崎フェンネルは、少しだけ答えるのに間を空けた。


「昼間、あんたと奥鐘が会ってたカップルだけどさ」
「え?」
「あんまり信用しないほうがいい。彼氏のほうはあんたとの約束があったのに、女に誘われるまま、ぎりぎりまでへらへら遊んでいやがった。悩んでいるって感じじゃなかったぜ」
 男っぽい、だが落ち着いた口調で芳崎さんは言った。
 脳裏に昼間の光景が甦る。ウインドストリートから去る時、私は確かに見た。雑踏に揺れる、黄金の尻尾を。
「あなた、何でそんな事を……」
「別に。何もしない奴だと思われるのも癪だからさ。少し手伝ってやっただけだよ」


 じゃあな、と言って電話が切れる。
 画面を見つめたまま、私はしばらく今の電話の意味を考える。
 彼女の真意はわからない。だが、ひとまずまた、考える手がかりを手に入れた。
 考えるべき課題を一つに絞ってみよう。今、出揃っている要素を元に、思考をまとめてみる。


 ――彼は、悩んでいるふうには見えなかった。
 だが、相談のメールは送ってきた。
 ――かつて、いじめの主要メンバーを放校処分にまで追い込んだ。
 だが、当初は彼女が同じ学校にいる事さえ知らなかった。
 ――事件後、彼女と連絡は取れていない。
 ……本当に?
 事件をいつ知ったのか、と聞いた時、彼は言った。三日前だと。素早く。勢いよく。
 部活でここ最近はバタバタとしていた。電話をかけても出ない。従って連絡が取れない。
 いいや、違う。
 彼にはまだ連絡を取る手段がある。聞いた通りの話なら、単にそれを実行していないだけだ。それは何故なのか。
 私はさらに、三つの疑問を思い出す。



 一つ、何故、山祢の鞄から全ての失せ物が出て来たのか?
 二つ、何故、持ち物検査はすぐに行われたのか?
 三つ、何故、山祢がフュージョナーであるという事が生徒の間に知れ渡ってしまったのか?

 一つ目の疑問については、ある程度見当がついている。決め手には欠けるが、状況から見ればこの方法が当てはまるはずだ。
 二つ目は一つ目よりもわかりやすい。何しろ、持ち物検査をした当の本人に会って来たのだ。まず間違いあるまい。
 残る三つ目。これは事件が終わった後の事だから、一見事件そのものには関係がないように思える。


 だが隠していたはずの秘密がいつの間にか暴かれているという状況は、やはりおかしいのだ。
 自身がフュージョナーであるという秘密を山祢自身がずっと隠しておけたなら、秘密は秘密のままだっただろう。だが、秘密は暴かれた。そしてさらに言うなら、秘密が人目に晒される原因は大体二つだ。全く無関係の第三者が秘密の内容を目撃してしまうか、あるいは秘密の共有者が、その内容を人に漏らすか。
 前者なら、今、手元にある情報では想像しようがない。後者なら、動機が必要だ。


 ――そう、動機だ。
 今回の事件、もし仮に山祢が犯人だと結論付けようとしても、彼女には動機がない。
 生徒達の間で噂になったような動機は、私の考えではあり得ない。
 だから、私は彼女が犯人ではないと思っている。犯人は恐らく別にいて、彼女を貶めるためにこんな事件を起こしたのだ。
 埋まらないのはやはり、動機だが。


 ……いや、待て。動機?
 閃くものがあった。もし、一つ目の疑問の答えが、私の考える通りだとすれば。
 そして、もしこの閃きが正しいものであるなら。
 偶然の可能性はあるが、もし考える通りなら、動機はおそらく――……。
 …………………………ブウン、ブウン。
「――っ?」
 ポケットの中で再び振動が起こった。またしても電話だ。
 またしても、意外な相手からだ。


「もしもし」
「……っ、はあ、はあ、部長、ですか」
 随分、息が切れている。全力疾走をした後のような。
「どうしたの? 奥鐘さん」
「……っ、はあ、突然、すみません。でも申し訳ないんですが、すぐに北駅まで来ていただけませんか」
 彼女はそこで、一度大きく深呼吸した。
「緊急事態です」



 私は急いで家へと戻った。今の時間なら、駅から電車に乗るよりこっちに来たほうが早い。
 案の定、屋敷に近付くと、敷地の中からバイクのエンジンがかかる音が聞こえてきた。
須恵入すえいり!」
 今にも発進しそうなバイクに駆け寄りながら、私は叫んだ。
 バイクに跨っていた女性が、たちまち驚いて顔を上げる。ヘルメットを外して、彼女は私を見た。
「お嬢様……! 一体どうしたんです?」
 須恵入は私付きのメイドの一人だ。普段から離れで暮らす私の生活を助けてくれている。いや、今はそんな事はいい。


「ごめんなさい。急ですまないんだけど、一緒に北駅まで乗せていってもらえる? 急ぎなの」
「へ? いや、まあ、それは構いませんけれど」
「ありがとう。上着を取って来るから!」
 中央道を使えば下手に電車に乗るよりは早く北駅に着けるだろう。私はそのまま離れへと直行し、自室まで駆け上がった。
 部屋の中では、メイドの一人である籠掛かごかけが、さっき出した紅茶を片付けていた。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「ちょっと出かけるわ。少し遅くなるかも」
「かしこまりました。お戻りの際は、重々お気を付け下さいませ」
「ありがとう」


 こういう時、籠掛は何も聞かない。普段から無表情で、私の言う事を何も言わずに受け入れてくれる。
「お嬢様」
 手頃な上着を見つけ、袖を通した時だった。籠掛がじっと私を見ていた。
「何?」
 急ぐあまり、多少ぶっきらぼうになりそうな声音を何とか抑える。
「これを」
 そう言って、籠掛は私にある物を差し出した。
「先程のお客様の御召し物に入っておりました」
 考えるより先に、私はそれを手に取った。用件が一つ増えてしまったかもしれない。とにかく、今は急がないと。
「預かっておくわ。じゃあ、行ってくるから」
「行ってらっしゃいませ。お気を付けて、お嬢様」
 そう言って、籠掛は深々とお辞儀をした。



 夜風が物凄い勢いで私の体を通り抜けていく。バイクに乗せてもらうのは初めてではないが、正直、まだこの寒さに慣れない。
 須恵入の体にしがみつきながら、私は先程の奥鐘さんとの会話を思い出す。

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