フラワーガールズ 『さよならを言う前に』

安田 景壹

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『さよならを言う前に』6

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「どういうつもりですか?」
 二杯目の紅茶が来ると、奥鐘さんがたまりかねたように口を開いた。
 今後の事の行動を検討すると伝えて、遠間達には先に帰ってもらった。事実話を整理したかったし、一緒に店を出るという選択肢はない。
「どういう、というと?」
「相談の事ですよ。他校の問題には関われないって渋っていたじゃないですか」
「あそこまで話を聞いた以上、何もしないというわけにはいかないわ」
 人の痛みがわからない、だのと、人格まで否定されて黙っているわけにはいかない。
 奥鐘さんが不満そうな顔をしている。


「まあいいですけど……。それで、具体的にはどうするつもりなんです?」
「さて、ね」
 奥鐘さんの顔がたちまち呆れへと変わった。
「さてって……」
「まず出来る事を検討してみましょう」
 盗難の嫌疑と、差別感情に晒された他校の女生徒に対して、我々が出来る事は何か。
「――……どう考えても、真実を探り当てる他にすべき事はないかと思いますが」
「そうね。やるべき事はそうだと思う」
 さっきまでの会話を思い返す。事件の成り立ち。遠間レイジと山祢カオルの関係。
「というか、何で私達がこんな風に考え込んでいるんです。相談されたとはいえ、元はと言えば、さっきの二人が持ち込んだ問題じゃないですか。なのに部長はさっさと帰してしまって」
「傍でうるさくされても面倒でしょう」
 店内の様子を何となく眺めながら、私は言う。


「ちょっと、関係を整理してみましょうか」
 ノートを取り出して、私は今回の件に関わる人物の名前と簡単なメモを書いた。

 ・山祢カオル――事件の容疑者。過去にいじめを受け、遠間に助けられている。

 ・遠間レイジ――相談者。山祢を過去に助けている。事件を直接は知らない。

 ・村木エイリ――レイジの友人。山祢と同じ学校で、遠間の情報源。

 あらかた書き出すと、奥鐘さんが顔をしかめていた。


「情報源って……」
「何か?」
「もっと言い様がありません?」
 ふむ。言い様か。情報源は情報源な気がするが。
 私は情報源の上に二重線を引き、情報提供者と横に書く。
「硬い……」
 何が不満だというのか。
「ていうか、友人じゃなくてどう見ても彼女でしょう、あれ」
「それはわからないわ。明確に交際しているという証拠がないもの」
「何でこだわってるんですか……。あんなにベタベタしていて彼女じゃないなら逆に変ですよ」
 まあいいですよ、もう、と何だか諦めたような口調で奥鐘さんは言った。
 私としては引っ掛かるが、まあ、いいと言うのなら追求すまい。


「ねえ、奥鐘さん。そもそも何故、遠間レイジはこのタイミングで相談してきたのだと思う?」
「……何が言いたいんです?」
「事件が起こったのは入学から二週間後、四月の中旬辺り。でも今は五月。発生からかなり時間が経過している」
「言っていたじゃないですか。事件の話を聞いたのは三日程前だって」
「そうね。では何故、相談相手に私達を選んだのか」
 たとえどんなに選択肢がなかったとしても、こういう場合頼るべきは大人だろう。
「信頼出来る大人がいなかったんでしょう。現に山祢カオルが在籍していた美術部の教師は、あんまりな人柄だったようですし。案外、相談部の名前を見てとっさに連絡してきたのかもしれませんよ」
 完全に印象からの推測だが、そんなところかもしれない。


「一体何が気になるんです?」
「いえ、その……何となく引っ掛かるのよね」
 かつては自分が身を挺して助けた相手だ。
 危害を加えていた者を追い出してまで、助けた相手だ。
 その者が再び困難な立場に追いやられた。だというのに、今度は対応が遅く、どうにも雑だ。
「なんにせよ、今は山祢カオルの現状を確かめるほうがいいわね」
「聞き込みでもするんですか」
「そんなところね。実はナユタ高には知り合いがいるの」
 本当はそんなに気安い仲ではないが、一応顔見知りだ。


「随分都合の良い話ですね」
「昔、お世話になった先生でね。さっそく訪ねてみるわ」
 別に、ただの偶然だ。ナユタ高の名前を聞いて思い出したのだ。
「なら、御一緒させてもらいます。部長がどのようにこの件に対応するのか、見ておきたいですから」
 言って、奥鐘さんは紅茶を飲み干すと、鞄を持って立ち上がった。
「今日私に付き合ったのは、そういう目的?」
「ええ。同学年とはいえ、私の上に立つ人ですから」
「部活くらいで大袈裟ね」
 思わず笑ってしまったが、奥鐘さんの表情は変らなかった。むしろ、さっきよりもずっと硬くなったような気がする。


「見てみたいんですよ、実際。こういうケースに対して、忍冬の人間がどういう振る舞いをするのか」
 奥鐘さんの目が冷たく私を見据えていた。
 わざわざ人の苗字で呼び捨てられれば、さすがに込められた意図に気付く。
「何が言いたいの?」
「歴史の勉強はよくするんです。将来のために」
 伝票を持って、彼女は私に背を向ける。
「あなたが忍冬家の中でただ一人のフュージョナーだからといって、私は見方を甘くしたりはしませんよ。見届けさせてもらいます、部長」
 言うだけ言うと、彼女はすたすたとレジへ向かってしまう。
 言い様のない感情で、全身が総毛立つ。まさか、こんなところで家の事を持ち出されるとは。


 目を閉じ、顔を天井に向け、私は頭の血が下がるのを待った。
 ――かつての忍冬の人間が行った蛮行など、私には関係ない。
 ――彼らが積み重ねてきた因縁など、全く関係がない。
 息を吐いて、私は歩き出す。集中しよう。今はとにかく、山祢カオルの事からだ。
 会計を済ませて、私達は店を出た。
 ウインドストリートには、学生の姿が多くなっていた。ここからナユタ高に行くためには、ナユタ北駅にまで行かないといけない。


「駅なら、こっちから出るほうが近いですね。行きましょう」
 言って、奥鐘さんはさっさと先に進んでしまう。まだ暗い気持ちが残っていて、動作が鈍る。目を閉じ、今一度深呼吸して、私は何となくストリートの人ごみに目をやる。
 視界の隅で、何かが動いたような気がした。
「どうかしました?」
 奥鐘さんが言う。私は彼女のほうは振り向かず、視界に引っ掛かった何かを探す。
「どうしたんです」
 奥鐘さんが近付いてきた。私はそれでも答えられずにいたが、すでに何かの姿は見えない。
「……いえ。ごめんなさい、いきましょう」
 そう言って、今度は自分から歩き出す。
 歩きながらも、私は今の光景を思い返す。目に残る、黄金に近い色の何か。
 見間違いかもしれない。たぶんそれは、女の子の腰に揺れる、長い豹の尻尾だった。


 それなりに期待していたものの、私の当ては外れた。
 私が昔お世話になったかの先生は、ここ何日か病欠しているとの事だった。何でも、質の悪い風邪にかかったらしい。
「残念でしたね」
 職員室を出たところで、奥鐘さんが言う。嫌味っぽい調子ではなかった。
「仕方ないわね。一番話を聞きやすかったんだけど」
 まあ、よく考えてみれば、仮に会えたところでこの事態をどう説明するのか、という問題に突き当たる。相談部云々の話をして、さて細かい事情を話してもらえるかといえば、実際駄目だろう。話が思いのほか複雑だったせいか、ちょっと私も動転していたのかもしれない。


「どうします。思い切って他の生徒に話を聞いてみますか?」
「……いえ、やめておきましょう。変な噂が立てば迷惑するのは山祢さんだわ」
 ――事件を知って、他校生まで様子を伺いに来る。口さがない連中にしてみれば良い話のタネだ。どんな尾ひれがつくか、わかったものではない。
下手に動いて、これ以上事態を拗らせるのは御免だ。
「今日は帰りましょう。月曜までに今後の方針を考えておきます」
 特に異論はないらしく、奥鐘さんは頷く。
 収穫がないのは残念だが、仕方がない。私は昇降口のほうへと足を向ける。と――
「部長」
 奥鐘さんが私を呼んだ。


「どうしたの?」
「これを」
 奥鐘さんがA3くらいのサイズの紙を見せる。
受け取って眺めてみる。紙は何枚かが重なっていて、さながら新聞のようだった。『ナユタ市報』と見出しにある。
「市報紙。へえ、こんなものがあるのね」
「下のほうを見て下さい」
 言われた通り、私は下部の記事に目を向ける。
 と、見つけた。芸術欄だ。


第二回 ナユタ青少年芸術コンテスト 絵画部門


○最優秀賞 『火祭』         新郷学園中等部三年      小紋瑠璃

・選評
『小正月に行われる祭「どんど焼き」の風景を切り取った作品。雪が積もった中、燃え盛る炎と、それを見る人々の、息遣いさえ感じさせる筆致が素晴らしい』



○優秀賞  『ともだち』         ナユタ市立中学校三年     山祢カオル

・選評
『人物が漫画的ではあるが、温かみのある作品。作者の友人に対する思いがよく表れている』



○芸術賞  『キマイラの肖像』    ナユタ市立高等学校一年    網澤タカノ

・選評
『ライオン、鮫、鷲といった様々な動物達を伝説上の怪物キマイラの如く融合させた意欲作。筆使いはかの巨匠フランシス・ベーコンを思わせるアプローチだが、いささか意識しすぎか』


「山祢カオルと……小紋さん?」
 受賞者は名前と写真が掲載されている。間違いなくそこには、小紋瑠璃その人の写真が載っていた。中学時代から、あの無表情は変っていないらしい。
 そして、その横に並んでいるのが山祢カオルだ。二本結びの黒髪。顔には特にフュージョナーらしい特徴――鱗だとか体毛だとか――は出ていない。彼女の目元はきつく、カメラを睨み付けているような気さえする。
「小紋さんが美術関係で有名なのは聞いていましたが、山祢さんも実力者だったようですね」
 相談の件とは直接関係ないものの、山祢カオルの顔がわかったのは進展だろう。
 記事によれば、これらの作品は市役所の中で、今も展示されているらしい。市役所は北駅から歩いて十分ほどの位置にある。


 ――と、記事の終わりに、ある名前を見つけて私の気持ちは急速に落ち込む。
『選考委員 忍冬春治はるじ
「……兄さん」
 あまり見たくはなかった名前だ。春治は二番目の兄で、ナユタに限らず、世界的に見ても有名な芸術家なのだそうだが、性格は傲慢そのものな上に、承認欲求の塊のような男だ。今でこそ離れて暮らしているから顔を合わせる事はそうないが、まだ私が幼かった頃、作品作りに行き詰った兄が八つ当たりのように絡んできたのは一度や二度ではない。


「どうしたんです?」
「……いいえ。何でも」
 まあ、兄の事はいい。
 市報は職員室の入り口のすぐ傍にある棚の上に置いてあった。見ると、そこにはさらに手書きのポップのようなものが立ってあり、雲状に切り抜かれたピンクの紙に、マジックでこう書いてあった。『当校美術部、二年C組網澤さんと一年B組山祢さんの記事が載っています☆』と。
 私は山祢カオルの次に選評が書かれた人物を見た。網澤タカノ。
 ……タカノ先輩、か。


「財布と絵具を盗られたという人ですね」
 奥鐘さんも気付いたようで、市報を眺めながら言った。
「順番的には一番目であり、四番目の被害者、ですか。まあ、品物は見つかっていますけど」
「財布を盗られた事には、かなりご立腹だったみたいね」
 当たり前か。財布を盗られて平然としてる女子高生、というのも想像しがたい。私だって盗られた腹が立つ。
「展示には、行ってみてもいいかもしれないけど……」
「いえ、部長。展示は今日の三時までです。もう間に合いません」
 なるほど。まあ仕方がない。元よりどうにもならなかった事だ。
 とりあえず市報を一部ずつ取って、私達は校舎を出た。


 まだ明るいものの、夕暮れが近い。校庭では、野球部らしい生徒達が練習に励んでいる。
 その中に、特に目を引く者はいない。服の下がどうなっているかはわからないが、おそらくは皆、普通の人間だ。
 背後にある校舎を振り返る。
 三ツ花とは違って、特徴的ではないのが特徴のような、どこの街にもありそうな普通の校舎だ。普通の人間のための、普通の場所。
 山祢カオルはここに通った。昔からあるような普通の学校に。
 隠すための手袋を嵌められているのだから、おそらく手の形状は大きく変化していまい。考えられるのは皮膚に変化が起きたか。いずれにせよ、『普通人らしい日常生活』を送るぶんには問題なかったはずだ。


 私の場合、フュージョナーの特徴が表れているのは両側頭部より生えたイングリッシュ・ポインターの耳と、骨が尾てい骨にならずに発生した尻尾だけだ。足や手は普通人と変わりない。耳も人間の物が人間の位置に付いている。
 犬耳は聴力がほとんどないし、座る椅子に気を付けていたりさえすれば生活に支障はない。
 ――『やっぱりおかしいんだよ。フュージョナーっていうのは』――
 ……実に、奇妙な言葉だった。
「――不思議ですね」
 ふと、奥鐘さんが言った。


「何の話?」
「山祢さんの事件です。どうにも腑に落ちない点がいくつか」
「……私も、そう考えていたところ」
 その言葉に、奥鐘さんの目が光ったような気がした。
 立ち止まった彼女が、私の目を見ながら口を開く。
「一つ。何故、山祢カオルの鞄から全ての失せ物が出て来たのか?」
 彼女の指が、一本立つ。


「二つ。何故、教師はすぐに持ち物検査を行ったのか?」
 私もまた疑問を口にする。奥鐘さんが二本目の指を立てる。
「三つ――」
 私と奥鐘さんの口が、ほとんど同時に動いた。
何故山祢カオルがフュージョナーだという事が、生徒の間に知れ渡っていたのか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 奥鐘さんが三本目の指を立てていた。
「一つ目の疑問から考えましょうか」
 奥鐘さんが頷く。私は、これまでの道すがら考えていた事を口にする。
「発見された失せ物は、全て山祢さんの鞄に入っていた。ちょっと考えてみれば、おかしい状態よね」
「真っ当に考えるなら盗んだ物をいつまでも持ち歩いているはずはない。絵具にせよスケッチブックにせよ、もし彼女が犯人なら、盗んだその日に鞄から出しておくはず」
 そうだ。自分が犯人であるという証拠を持ち歩くはずがない。必ず、自分の身から遠ざけておくはずだ。


「そうなると、次に問題になるのは二年生の財布」
 落ち着き払った奥鐘さんの言葉を引き継ぎ、私は言う。
「もし山祢さんが犯人でないのなら、残る絵筆も財布も彼女の鞄に入ってはいない。でも彼女の鞄からはその二つが見つかっている。彼女が盗ったのでないなら、誰かが彼女の鞄に盗品を入れた事になる」
「犯人はあらかじめ絵筆や財布を盗んでおいて、隙を見てそれらを山祢さんの鞄に忍ばせた」
 三年生の絵筆は、描かれている絵の近くにあった。
 二年生は、普段から財布を鞄に入れていた。
 絵筆は勿論、財布もその在り処を知っていれば、盗み出す事は容易だろう。鞄は普段、美術室前の廊下に設置された鍵なしロッカーに、信頼関係を前提に入れられている。


「問題は、何故そんな事をしたか、です」
 絵具、スケッチブック、絵筆。この三つなら理由を想像出来なくもない。何かしらの理由からの嫌がらせだとか、こじつける事出来る。
 だが、財布は毛色が違う。事はお金が絡む。相手に損害を与えるのだ。
 さて、金銭狙いで財布を盗んだのなら、何故わざわざ他人の鞄に入れたのか。回収出来る手立てがあったか。いや。
「目的は財布ではなかった」
「犯人は最初から山祢さんに汚名を着せるために盗みを働いていた」
 ご丁寧に持ち物検査の段階では、それまでなくなった物全てを、山祢さんの鞄に突っ込んでいる。
 まるで、彼女が盗人である事を、強調するかのように。


「そう考えると持ち物検査がすぐに行われたのは、犯人にとっては幸運でしたね。山祢さんは部員全員の前で名誉を損ねられたんですから」
 二つ目の疑問だ。『何故、教師はすぐに持ち物検査を行ったのか?』
「教師には、すぐに持ち物検査をする根拠があったはずです。調べれば何かしらの事実を明らかに出来る、と考えるだけの根拠が」
 それが思想的なものであれ、感情的なものであれ、実際行動に移すには理由があったはずなのだ。
「でもそれは、今までの話だけだと考えようがないわ」
 材料がない。今のところ聞き集めた情報だけでは、教師の人となりが少し伺えただけだ。手がかりが揃っているわけではない。


 私は校庭のほうへ目をやった。何人かの生徒が、手を止めてこっちを見ている。一応警備室に話は通してあるし、ナユタ高校内にいるのに問題はないが、騒がれるのは面倒だ。
 奥鐘さんも気付いたらしい。私達は自然と校門へと歩き出す。とにかく、ここは一度学校を出よう。考えるのは、外でも出来る。
「――何だ、君達は」
 前方から声をかけられたのは、その時だった。
 よれよれのワイシャツに、少し曲がった背中。痩身の男だった。手に書類か何かを持っている。おそらく、ここの教師だろう。


「他校生が何でこんなところにいる? 一体何の用だ」
「……いえ、実は私達、西ヶ谷先生に会いに来たんです。中学の頃にお世話になったものですから」
 正直に私は言った。誤魔化す理由もない。
「西ヶ谷君に? 彼女はここ数日病欠している」
「ええ、伺いました。もう帰るところなんです」
「ああ、そうか。なら早く帰りなさい。他校生がよその学校をうろつくんじゃない、全く」
 低い声でぶつぶつと呟くように、男が言った。


「ええ、すみません。すぐ行きます」
 言いながら、私は男の傍を通り過ぎようとした。
 ……しかし、どこか見覚えのある男だ。どこで見たのだろう。最近ではない気がするが。
「……うん? 君、少し待ちなさい」
 不意に、男が言った。振り返ると男がじっと私を見ている。
 あまり気持ちのいいものではない。
「君は、確か忍冬さんの御息女ではなかったか。春治先生の妹さんだろう」


 ――ああ、そうか。どこで見たのか、思い出した。
 今年の一月。屋敷のホールを使って開かれた新年会。そこに集まった数多くの客の一人に、いたような気がする。私は挨拶を済ませてから早々に離れへ引き上げたが、その時何となく見た中に、春治と話していたこの男を見つけた気がする。
「ええ、忍です。忍冬忍」
「そうか、忍君だ。思い出したよ」
 そう言った男の顔が、笑みに歪んだ。気味の悪い笑い方だった。
「こう言うのも何だが、あまりご両親や春治先生に迷惑を掛けない事だ。君が何かをしでかせば、忍冬の家全体の傷になるのだからね」
 ――……ああ、この手の輩か。


「ええ、そうですね。ご忠告をどうも」
「立ち振る舞いには充分注意なさい。君らのような半人はんじん……いや、失礼フュージョナーは、ただでさえ、立場が悪いのだし」
 胸の奥で血がごった返した。反射的に手が出そうになるのを、ぐっと堪える。
 『半人』は明確な差別用語だ。内戦以前、フュージョナーという言葉が定着する前に、侮蔑的な意味を込めて使われていたこの国の言葉。
 君「ら」のような半人ときたか……。
 たちまち怒りに目が吊り上がってきた奥鐘さんに目で制し、私は言う。


「私達も常識のある〝人間〟なのですが」
「だが、悲しいかな世間はそうは見てくれない。疑わしきは罰せよ、という奴だ。ナユタはフュージョナーとの共存を主眼に置かれて造られた街だが、私に言わせればその共存という表現自体が差別的だ。人間とは違う生き物だと、認めているようなものだ」
「……長い、争いの歴史がありますから。それでも、共に生きていこうという目的は素晴らしいものだと思います」
「ふん。皆が皆そう考えていると思うのかね。ナユタは、いわば第二の東京だ。この街に集まるのは、新しい首都にいち早く住まおうと考えている連中だけだ。フュージョナー云々は関係ない」
「失礼ですが、あまりにも無礼な物言いですね」
 ついに、奥鐘さんが口を挟んだ。


「差別感情を隠そうともせず、よく平気でいられますね」
「私の父も、そして祖父も、内戦時代はフュージョナーと戦ったのだ」
 全く怯む事無く、男は言う。
「私自身も幼い頃にフュージョナーに襲われた事がある。そういう過去がある以上、残念ながら君達を公平に見る事は出来ない。扱いはきっぱりと分けるべきだし、私はいつでも人間の側に立つつもりでいる。はっきり言っておこう。フュージョナーは人類進化の過程で生まれた突然変異種であり、人間に比べれば劣るものだ。争いは決してなくならないし、我々人間が敗れる事はあり得ない」
 堂々とした、一つの揺らぎもない言葉だった。あまりにも堂々とし過ぎていて、いっそ呆れるくらいだった。
 ならば、もう話す事はあるまい。


「失礼します」
 頭を下げて、奥鐘さんの袖を引っ張り、私はその場を辞そうとした。
 と、またしても男の声が足を止める。
「ああ、そうだ。いずれ連絡するつもりだが、君から春治先生に伝えておいてくれたまえ。今年のナユタ芸術コンの選考委員に私も立候補するとね」
 一瞬、考えを巡らせた。私は振り返った。
「――ええ、承りました。ごめんなさい、先生のお名前をお伺いしてもよろしいですか?」
「私なら、ガンリュウだ」
 ガンリュウ……。随分と厳めしい名前だ。苗字だろうか。たぶん、そうだとは思うが、名前にせよ苗字にせよ、あまり聞かないのは確かだ。
 名前について咄嗟に考えてしまったせいで、結果的に私は反応するのが遅くなってしまった。それが面白かったのか、男が若干頬をほころばせた。


「はは、いやなに、雅号だよ。これでも画家の端くれだ。宮本武蔵が好きでね。先生にはこの名前を伝えてくれればわかる」
「……生憎と兄は職業柄人付き合いが多く、またあのような性格ですから、ほとんど人の顔など覚えておりません。出来るだけ正確に先生の事をお伝えしたいのですが、お名前以外には何か」
「だから、ガンリュウだ。ナユタ校美術教諭。先生とはそれなりに長い付き合いだ」
 自分の認知度を否定されたのが気に障ったのか、男の声音に険が混じった。
「以前、担当している美術部にお招きして、講義をしていただいた事もある。とにかく、アミサワガンリュウが選考委員に立候補するつもりだと伝えてくれ。わかったね?」


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