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『さよならを言う前に』4

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4


 その日、久しぶりにナユタ港まで走りに行った。
 夕日が落ちていくナユタの湾景は、まるで炎に燃えているかのようで。
 いっそこの身を沈めてやろうかと、そんな事を思った。



 四月になり、新しく入った高校で、私は生まれて初めて部活動に入部した。
 ……いや、果たして入部「した」と言うべきか。
 それ以前に、これを『部活動』と呼ぶべきなのか。
 私にしてみれば自ら進んで入ったのではなく、強制的に入れさせられた活動であるし、そもそも提示された活動内容は、どう考えても十六の娘の手に負える物ではない。
 言うなればカウンセラーや、それこそ教師の役割だろう。
 少なくとも生徒にやらせる事ではない。私の常識の中ではそうだが、この学校の理事と私の両親の中では、どうやら違ったらしい。


『相談部へ入りなさい、忍』
 お付きのメイドに爪と髪の手入れをさせながら、母は私の顔を見ずにそう言ったものだ。
「……何故ですか?」
 聞いても無駄な事だとは承知しているが、それでも私は尋ねずにはいられなかった。
 私に背を向けて座っていた母は、窓の外から目を離す事なく言った。
「学園への貢献のためよ。あそこの理事長とは懇意にしていてね、以前から、私の子供が入学する事があれば、学園生活において多少は、便宜を図って下さると言ってくれていたの」
「……それで、何故私がその部活動に?」
 メイドが手入れした自らの爪を眺め、母は目だけでメイドに指示を送る。メイドはしゃがみ込んで母の足の爪を手入れし始める。


「向こうが融通を利かせてくれると言うのだから、こちらも何かでお返ししなければいけないでしょう。その部活動は理事の発案だそうだから、あなたが進んで入って盛り立てなさい」
 ……この話が出た時、私はまだ入学して三日目で、『理事が図って下さる便宜』とやらの恩恵を受けた覚えはなかったのだが、母にはさしたる問題ではないらしい。
 そもそも母に言われて入ってしまえば、私が進んで入部した事にはならない。
「もう一度聞きますが、本当に私がやらなければならないのですか?」
 止せばいいのに、と振り返って思うのだが、その時の私はとにかく食い下がった。


「そう言ったはずよ」
「得られるかどうかもわからない利得のために、私の身の自由を捧げろと?」
「……馬鹿な子ね」
 あからさまに失望のため息をついて、母は手振りでメイド達を下がらせると、椅子から立ち上がり、冷たい目で私を睨んだ。
「あなたのような子はそうでもしないと、自分の身を守れないでしょう?」
 母の瞳が私を見つめる。私の耳と、私の尻尾を。
「件の部活は生徒会の一部よ。つまり、かの部に身を置く限りあなたは生徒会の一員であり、有象無象の他の生徒とは一線を画する事が出来るわ。存在意義は、本来自らの手で勝ち取らなければならない物。それを与えてあげようと言うのよ、有難く受け取りなさい」


 こんな母の物言いにも、もはや悲しくはならない。
 母の言う通り、私のような存在は立場や技能がなければ、どこへ行っても厄介物なのだ。
 私のような、《フュージョナー》は。
「手続きはもう済ませておいたわ。入部希望者はあなたが一人目だそうだから、部長はあなたがやりなさい」
 母はそう言うと、再び背を向けて椅子に座った。メイド達が再び手入れを始める。
『もう良い。下がれ』の合図だった。誰に向けたものか、考えるまでもなかった。



 通常カリキュラムでは土曜は五限までだが、今日は試験準備のために四限で終わりだった。
 とはいえ、部活はしなくてはならない。我が相談部の部室は生徒会室のある三階の、一番端にあった。
 扉の上部に吊り下げられた表札には、《学園生活相談部》の文字がある。どうやら手書きだ。毛筆で書かれている。誰が書いたのかは知らないし、あまり興味もない。
 母の指示から一か月。いい加減見慣れてきたこの表札だが、見る度に胃が重くなる。
 今日は鍵を預かろうとしたら、すでに誰かが先に持って行っていたようで、その事実がまた私の気分を暗くさせる。
「お疲れー」
 扉を開けると無愛想な声が、私の耳に飛び込んできた。声のほうに目をやると、これまた、この一か月で見慣れた長い茶髪の女子生徒が、コの字に並べられた長机の一つに突っ伏して、スマートフォンを弄っているのが見えた。
 部員の一人だ。同学年。どうやら理事長が手を回したか何かで、私以外にもこの部活に参加させられた者が何人かいたのだった。


 学年は、全員同じく一年生。
 選定基準は、私を含めてその姿を一目見れば、概ね察する事は出来る。
 挨拶したにも関わらずスマホを弄り続ける彼女の茶髪の間からは、ネコ科動物の耳が飛び出し、スカートの中からは先端が丸みを帯びた長い尻尾、さらに彼女の膝から下の、斑紋模様の逞しい獣足が見える。
 しなやかなる、豹のフュージョナーだ。
「お疲れ様、芳崎さん」
 彼女――芳崎フェンネルは私の言葉を聞いているのかいないのか、曖昧に頷いただけだった。
「お疲れ様です、部長」
 芳崎さんの態度に何かを思う間もなく、部室にいたもう一人が私に声をかける。


 パソコンの画面に向かっていたらしい顔を上げ、眼鏡の奥の理知的な瞳が私を見ている。
 一見すればどこにでも居そうな女子高生だが、彼女にもまた普通とは違う点があった。彼女の髪は人間の毛髪ではなく、淡いチョコレートのような茶が混じったフクロウの羽毛で、おそらくは翼らしい部位が頭の両側で畳まれているのがわかる。
「お疲れ様、奥鐘おくがねさん」
 当《学園生活相談部》の書記を務める奥鐘文目あやめにも、私は挨拶を返した。
「……おつかれ」
 ぼそりとした声が聞こえた。窓際からだった。私は視線をそちらに向ける。


 声を発した三人目もまた、話しかけておいて顔は向けないタイプだった。というか、彼女の場合は、コミュニケーション全般に表面的なものしか感じ得ない。礼儀だから一応挨拶しておく、というような。
 何より集中しているのだ。今自分が手掛けている作業に。
 彼女が座っているのは、正確に言えば窓と机の間の空間だった。彼女は椅子に座り、その前にキャンバスを置いている。
 彼女とキャンバスから少し距離を置いて机が置いてあり、その上に、鉛筆やらカッターやら色ペンやらは無造作に突っ込まれたペン立てと、これまた無造作に重ねられた何冊かの本があった。


 彼女は絵描きだった。何故美術部に入らなかったのかは知らない。興味があるかと言われれば微妙なところだが、たぶん聞いても答えてくれないだろう。彼女はいつでも、こうして自分の絵に没頭しているのだ。
 彼女もまたフュージョナーだった。髪はさらさらとしたショートヘアだが、その色は鈍く光るメタリックめいたブルーだ。両のもみあげの下には細長いヒレが垂れ、手の甲には髪と同じく青色の鱗があった。
 タキシードグッピー、だ。普通、自分が何のフュージョナーかなんて自己申告はしないから――初対面の相手に自分の人種を申告する者がいないように――わざわざ特徴を覚えた上で調べてしまった。


「お疲れ様。今日も精が出るわね、小紋こもんさん」
 私はそう言ったが、彼女、小紋瑠璃るりは返事をせず、やはり自分の作業に没頭していた。
「重役出勤とは暢気なもんだね、部長さん」
 スマホを仕舞った芳崎さんが私を見て口の端を歪める。笑っている風だが、目元は笑っていない。
 挑発しているのだ。俗っぽく言うならば、喧嘩を売ってきている。
「ええ、ちょっと先生と話し込んでしまって。ごめんなさい」
 どうせ時間通り行っても誰もいないだろう、と思っていたらこれだ。今日に限って、皆真っ直ぐに部室に来ている。


 ……いや、一人いないな。いつもなら芳崎さんの隣に座っている子の姿が、今日はない。
「えーそれってどうなの。部長さんなら責任ってものがあるじゃん? 遅刻とかまずいんじゃないの?」
「いつも遅れてくる人が言うセリフじゃないわ。ところで、北園さんはどうしたの?」
「ちっ。コマなら今日はレッスンで来ないよ。あんたには関係ないじゃん」
 不機嫌ぶりを隠す事無く、芳崎フェンネルは敵意を剥き出しにする。
 いつもこうだ。挨拶を交わす程度ならいいが、ちょっと話が長くなると途端に雰囲気が悪くなる。初対面の時に些事で揉めてしまって、それ以来、彼女との仲は険悪だ。


「一応は部長だから……。部員の出欠を確認しておきたかったんだけど」
「一人休んだからってどうって事ないだろ。相談なんて来ないんだから」
 そう言って芳崎さんは私を睨みつける。私もその目を見返してやる。
 彼女の言葉は、まあ、間違ってはいない。
 実際この一か月、相談部に寄せられた『相談』といえば、三件が冷やかし、二件が極めて個人的な領域に関する問題(恋愛とか、そういう)、あとは『教室から体育館までの距離が長い』だの、『部の予算をもっと上げてほしい』だのという、相談する所を間違えているようなものだ。


「毎日毎日大した事もしないのに部室に集めてさ。意味あるの? ホントにこの部活」
 苛立ちのままに言葉を放って来られると、やられたこっちは疲れてしまう。
 嫌々入った私が言うのも何だが、この部活は待機も活動の一部で、何もなければそれに越した事はないのだ。私は一応責任者なので、部員達には、可能なら放課後毎日部室に来るように指示している。あり得ない事だとは思うが、もし何か人手がいるような事態が発生した場合に、人がいないと困るからだ。というか……。
「そう思うなら帰ってもらっていいのよ、芳崎さん」
 思ったままに、私はそう言う。
「部員であるなら、ある程度私の指示に従ってもらわないと困るけど、我慢してまでいる事はないわ。他にやりたい事があるなら、いいから早く帰りなさい」


 たちまち芳崎さんの顔が怒りに歪む。
「何を……。こっちだって、別に好きで入ったわけじゃないっつーの!」
 じゃあ一体どういう理由なのか、と聞こうとして、私はやめる。
 無駄な事だ。ここで問いただそうとしても、争いに発展してしまうのだから。
「――いいですか? 部長」
 低く唸った芳崎さんが私から目を離したタイミングで、落ち着き払った声が聞こえた。
 振り返ると、奥鐘さんがこっちを見ている。
「……ええ、何か?」
「メールが一件来ています。相談部宛ての」
 あくまで淡々と奥鐘さんは報告する。私と芳崎さんの諍いなど見ていなかったかのようだ。
「……相談のメールという事?」
 奥鐘さんは頷いた。


「見せて」
 奥鐘さんが席を立つ。私は鞄を机に置いて、パソコンの前まで回る。
 画面には、今日の日付で、この相談部宛てのメールが一件届いていた。
 ――《学園生活相談部》
 三ツ花学園に通う生徒達の悩み事を、同じ生徒が聞き、時に助ける事で互助精神を養い、学園生活をより豊かで円滑にするための団体。
 もっと言ってしまえば、今年から入ってきた一五〇人余りいるフュージョナーの生徒と、残る新一年生、及び在校生である『普通の人間』達との関わりを、少しでも穏やかにするための緩衝剤だ。
 それならそれで、もっと人数がいるべきでは、と思うのだが、なにぶんこの部活動自体が実験的なものなのだ。今いる人間を集めるだけでもかなり大変だったようで、理事長が何やら愚痴っぽく言っていたのを思い出す。
 と、いけない。メールを読まなくては。
 メールを開くと、次のような文章が書いてあった。



《初めまして。
最近、少し悩んでいる事があったので、メールしました。
実は他の学校にいる知り合いが、部活のほうで問題を起こしてしまって、
今、立場が非常に悪いようなんです。
一応、昔からの知り合いなので、何とか助けてあげたいんですが、周りだと相談出来る人がいなくて……。
ぜひ、相談部さんに助けてもらいたいです。よろしくお願いします。
追伸 知り合いはフュージョナーです》

…………。
見るんじゃなかった、というのが率直な私の感想だった。
差出人の名前を見ると男子生徒らしい。学内にあるパソコンから自分用のアドレスを使って送ってきている。
「K組か」
この生徒用アドレスには使用者の名前の後ろに所属するクラスが記載してあり、差出人は『1k』、つまり一年K組の男子生徒だ。
同学年、というのが気に入らなかった。こんな馬鹿げた文章を書く人間が同じ学年にいるというのが耐え難い。


「奥鐘さんは、これを読んだの?」
「はい。先程目を通しました」
「で、どう思ったの?」
 淡々と奥鐘さんは答える。
「果たして学外の事にまで口出ししていいものかどうかと」
「相談に乗るつもり?」
「相談部の領分を越えなければ、学園の生徒から持ち込まれた相談ですので、話を聞かなければなりません。どうしますか、部長」
 芳崎さんと違って挑発的ではないものの、奥鐘さんの言葉は固く、冷たい。
 何となく、試されているような気さえする。


「どうも何も、相談の内容というのは他校の生徒について何でしょう? だったら、私達が口を挟むのはまずいわ。何より、何も出来ない」
 時には助ける、とは言ったもの、限度がある。さすがに他の学校で起きた問題にまで関われない。
「では、断りを入れますか?」
 表情を変えず、奥鐘さんは言う。眼鏡の奥の瞳が静かに私を見ている。
 思わず、ため息が出た。ひどく心にのしかかるものがある。
「……そういうわけにも、いかないでしょう」
 相談という依頼がきた以上、撥ね退ける事は許されないのだ。相談部が生徒の相談に乗る事を義務付けられている以上、話だけは聞かなければならない。その上で、それ以上の事は出来ないと、きっぱり伝えるべきなのだ。
「冷やかしの可能性がないわけではないけれど……」
「悪戯だとしたら、すぐ身元がばれる学内のメールは使わないでしょう」
 どうだろう。より上手く私達を引っかけるために、あえて学内のメールを使ったという可能性もある。
「悪戯だったら、文章が変」
 囁くような声が聞こえてきたのは、その時だ。


「え?」
「わざわざ、『他の学校の生徒が起こした問題』なんて嘘を、考えないと思う。気紛れに悪戯を考えたのなら、もうちょっと身近な題材にする気がする」
 そう言いながらも、小紋瑠璃は絵筆を動かしている。
「小紋さん、このメールを読んだの?」
「最初に部室に来たの、わたしだから」
 パソコンを立ち上げたのも自分だと、そう言いたいのだろうか。
「……まあ、もうちょっと違った手口にはなりそうですね」
 奥鐘さんがぼそりと呟く。
 と、不意に、後ろのほうでガタッという音がした。


「はあ……くだらねえ。あたしは帰るから、あと好きにやって」
 芳崎さんはそう言うと、男子のように鞄を肩に担ぎ、乱暴に扉を開けて部室を出て行く。
 苛立ちが心の中に募るが、わたしは再び息を吐き、不快感を追い出そうとする。
「――相談を受けましょう」
 そう言って、私は簡潔に返信メールを書く。相談依頼のメールが来たのは一時間前だ。悩み疲れている人間なら今もパソコンの前で待っているかもしれないが、そうでなければ、実際に会うのは来週になる。
 送信して、しばし待つ。私は天井を仰いだ。奥鐘さんは椅子に座り文庫本を読んでいる。小紋さんは鉛筆を動かしていた。
 画面が、動いた。
「……来たか」
 私は新たに来たメールを確認する。差出人は、一つ手前のメールと同じだ。



《ありがとうございます。
 では、直接会って話したいので、ウインドストリートにある喫茶店で待ち合わせしませんか?
 三時にボヘミアンの前でどうでしょう?》

「ボヘミアン?」
 文から察するに店の名前か。ウインドストリートというのは、この三ツ花学園がある風戸かざと区の通りの一つで、雑貨屋や洋服屋、それに喫茶店などが集まっている。この辺りの学生が主な客層だが、私はあまり行った事がない。
「部長、そのお店でしたら場所はわかります」
 奥鐘さんが言った。


「なら、一緒に来てもらえる? 私はあまり詳しくなくて」
「わかりました」
 意外にも、奥鐘さんは頷いた。相変わらず感情は見えないが、少なくとも今回は協力してくれるようだ。
 私は了承の返信を打つ。手早く送信して、言った。
「小紋さん、あなたも――」
 声を掛けようと彼女のほうを向くと、小紋さんはすでに片付けを始めていた。私のほうをちらと見て、言う。
「ごめんなさい。今日は用事があるの」
 そうして、キャンバスと向かいの机の上に、白い大きな布を掛ける。


 そう……まあ、そう言うのなら仕方ない。
「わかった。じゃあ、鍵だけは返しておいて」
 私のほうを見ず、小紋さんは小さく頷いた。
 時計を見る。もうすぐ二時半だ。ウインドストリートなら、ここから歩いて少し掛かる。
「では、行きましょう」
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