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『群虫』

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 私ことかささぎ八代やしろは、昨年二冊目の著書を上梓した新人の怪奇ライターである。著作はどちらも実話怪談集であり、掲載されている話は全て取材で得たものだ。ライター業は副業なので、次に本を出すのはいつになるかわからないが、三冊目の出版に向けて取材を続けている。
 最近の取材で知った怪異体験談の中には、以前には見受けられなかった特徴がある。
 話を聞く十人に一人の割合で、どうも同一人物らしい人間が登場するのだ。
 その人物は、どうやら霊能力者らしく、除霊を生業としているらしい。

 そういう肩書を持つ人物が怪異体験談に出て来る事自体は珍しくないが、縁もゆかりもない人々の体験談に、同じ人物が出て来るとなれば異例だ。
 私は、三冊目のテーマをこの人物に絞ろうと思った。完成すれば全国津々浦々の怪異体験を集めた本であると同時に、この奇妙な霊能力者の足跡を追う記録となるだろう。
 その人物は、常に同じ格好で人々に目撃されている。

 先の折れた黒いとんがり帽、足元まですっぽり隠す黒いマント、そして腰まで伸びた黒い長髪。見た目は少女のようであるが、実のところは不明。
 目撃者からは、『魔女』と呼ばれている。
 これから紹介するお話は、ある女性が恐るべき怪異と、件の『魔女』に遭遇した話だ。
 人物名や場所などは仮称を用いさせていただくが、言うまでもなく、実話である。

      〇

 その日の夕方、歩実さんは、Sヶ丘駅への道を失意のまま歩いていた。
 三年間付き合っていた彼氏の浮気が発覚し、こじれた別れ話を終えたあとの帰り道だったからである。
 これまで誠実な人間だと信じていたのに、浮気が歩実さんに知れるや、元彼のメッキは剥がれた。
前日、「ちゃんと話したい」という電話があり、もしかしたらやり直せるかもしれないという淡い期待と、体の内で煮えたぎる怒りや憎しみを抱えながら、歩実さんは話し合いに応じた。
自分で言うのも何だが、彼氏の浮気を知った時から、歩実さんはおかしくなっていた。彼を殺して自分も死のう。そういう考えが頭を離れなかった。二千円する包丁を新たに買い、厚手のタオルにくるんで鞄に忍ばせ、待ち合わせの喫茶店まで向かった。

 自分が刃傷沙汰を起こせば、親や友人が悲しむ。喫茶店で事件を起こせばその後処理で、お店の人も困る。そんな事は容易に想像出来たが、包丁を持っていけば落ち着いて話す事が出来る。歩実さんは当時そう思ったのだという。
結局、包丁が鞄から出て来る事はなかったが、落ち着いて話し合う事も出来なかった。元彼の話は、言い訳に始まり、歩実さんの至らなさを責め、こうなったのは君のせいだ、というところに着陸した。そこからは怒鳴り合い、叫び合いになり、周囲の人が止めに入って、二人とも店を追い出され、元彼は代金を地面に投げ捨てると、そのまま去っていった。

 悲しい。悔しい。恥ずかしい。そんな思いでぐちゃぐちゃになりながら、歩実さんは帰路についた。
休日の夕方だが、駅の周りには親子連れが多い。Sヶ丘駅にはショッピングセンターがあるためだ。
そして、そのショッピングセンターの白い外壁の前に、その男は座り込んでいた。
酷く痩せた老人である。頭は剥げていて、僅かに残った白髪が産毛のように生えている。襤褸を着たその外見に、歩実さんは学生の頃の日本史の授業を思い出した。ガリガリのお坊さんの木像。目の前の老人は、それによく似ていた。

 だからといって、特に関わる理由はない。一瞬見てしまったものの、歩実さんは特に何をするでもなく老人の前を通り過ぎようとした。
「幸運、買いませんか」
 老人の声が、歩実さんの足を止めた。
 すぐ近くにほかの人間はいない。老人が声をかけたのは、明らかに歩実さんだ。
「幸運、買いませんか」
 しゃがれ声で老人が言う。

 何もかもが信じられず、なげやりな気持ちになっていた歩実さんは、思わず振り返って、聞き返してしまった。
「幸運が買えるんですか?」
 老人は頷いた。
「一匹一万円で買えます。買いますか」
 一匹? それに一万円?
 高いし、一匹という数え方は何だ。幸運は、生き物だとでも言うのか。
「どういうものか見せてもらってもいいですか」
 歩実さんは言った。

 老人は、枯木のような指で、自身の背後を指差した。
 はじめ、歩実さんはどういう意味かわからなかった。
 老人の背後は、ショッピングセンターの外壁である。
 だがじっと目を凝らすと、老人が何を指しているのかがわかった。わかったと同時に全身に鳥肌が立った。
 ショッピングセンターの外壁だと思っていた箇所は、周りの壁と比べてずいぶんと白かった。しかもよく見ると、動いている。

 それは、白い体のクワガタだった。百匹以上はいるであろう白い体のクワガタが、ショッピングセンターの外壁に張り付いていたのだ。
 大声を上げそうになるのを、歩実さんは何とか堪えた。曲がりなりにも他の人の目があるのだ。異常事態を見たにも関わらず、歩実さんはそう考えた。
 ふわっと、一匹のクワガタが壁から離れ、羽ばたきながら歩実さんに近付き、肩にかけていた鞄に止まった。
 どうしようもない不快感が込み上げる。

「幸運、お買い上げありがとうございます。一匹一万円です」
 老人が皺だらけの掌を差し出した。
 代金を請求しているのだ。
「いりません!」
 思わず強めに言って、歩実さんは鞄を叩いた。衝撃に驚いたのか、クワガタがそくささと離れていく。
 何も言わずに、歩実さんは老人から離れた。悪い事は重なるものだ。とにかく早く帰ろう。
 ――バタバタバタ。
 まるで近くでヘリコプターでも飛んでいるかのような音がした。
 嫌な予感がして、歩実さんは振り返った。
 果たして、その予感は当たった。壁に張り付いていた白いクワガタの群れが飛び立ち、歩実さん目がけて向かってきていた。

「っ、――」
 堪え切れず叫び声を上げて、歩実さんは走った。大群の羽音はすぐ後ろに迫ってきている。
「助けて、助けて!」
 歩実さんは必死にそう叫んだが、周囲の人の反応は薄い。歩実さんに目を向ける人がいても、後ろのクワガタの群れに気付く人はいない。
 電車に乗れば逃げ切れる。そう考えた歩実さんはSヶ丘駅へ走った。他の人にぶつかりそうになりながら、改札に定期入れを叩きつけ、ホームへの階段を駆け下りる。
 だが、動転していたせいか、一段踏み外してしまった。派手に転んだ歩実さんは、そのまま踊り場に倒れ込んだ。
 まずい。すぐさま顔を上げると、階段の上にクワガタの群れが見えた。

 もう駄目だ。
 そう直感した。
 クワガタの群れがもうすぐそこまで迫っていた。
 ゴロゴロゴロッ! と雷鳴が響き渡った。激しい光が、クワガタの群れを通過する。
 白いクワガタが、次々と階段に落ちていく。どれも何かで焼かれたかのように真っ黒だった。地面に落ちたクワガタは、そのまま灰のように体が崩れ落ちる。
 たちまち駅の階段は灰だらけになった。

「立てる?」
 後ろから階段を上ってきた誰かが、歩実さんにそう言った。
 その人は奇妙な格好をしていた。顔立ちからして、まだ少女と呼ばれるような年齢だろうが、黒いとんがり帽に黒いマント、それにとても長い棒のようなものを持っている。
 先端に刃物がついているのを見て、歩実さんはそれが槍だと気が付いた。
 少女が差し出した手を取り、歩実さんは立ち上がった。

「残りもやっつけておくからね。安心していいよ」
 魔女のような格好をした少女は、歩実さんに語り掛けながらも、視線は階段の上に向けていた。
 その先に、誰がいるわけでもない。
 だが、歩実さんは、彼女はあの老人の事を見ているのではないかと思った。
「ゆっくり休んでね」
 そう言って、少女は立ち去った。
 少女の姿が消えるまで、歩実さんはただ、呆然としていた。


 さすがに数日は悪夢にうなされたものの、あれ以来、歩実さんの前にあの老人が現れる事はない。
 クワガタだけでなく、昆虫自体が苦手になったが、弊害といえばそれくらいである。
 今は、新しい彼氏と同棲しているという。あの時鞄に忍ばせていた包丁は、処分せずに使っているのだそうだ。


                    了
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