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第一章 二〇二〇年 ナユタ 夏
第1章 5
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5
旧市街で仁と別れ、次の場所へと向かう。新市街へと。
天霧は新市街正木区九曲にモダンな外観の家を持っている。組長の屋敷のような派手さはないが、分をわきまえつつも力を見せつけるには十分なほどの大きさだ。車庫付き二階建てのその家は、一人と犬一匹が住むには少々広すぎるように思える。
今日の今日まで、天霧がペットを飼うような人間だとは思っていなかった。二年前に調べた時にわかったのは、隠されていないも同然の住所と、普段からあまりナユタにはいないという事くらいだった。
住宅街の中、密接した家々の間に、ごく自然にある天霧宅を見ながら、叉反は考える。
住宅街には広く緩やかな坂道があり、天霧宅はちょうど谷間の部分に位置する。叉反の他には誰もいない。夏の夕方。日が暮れるにはもう少しかかる。
先に見ておいた天霧宅の裏手には、話に聞いていた庭らしいスペースがある。庭自体はそこまで広くはなさそうだが、柵で囲われていて中は見えなかった。
仮に侵入者がこの家からレトリバーを連れ出したとして、どうやって侵入し、どうやってセキュリティに引っ掛からずに済んだのか……?
見知らぬ人物ならば、何よりもまず犬が吠えるだろう。無理に連れて行こうとすれば抵抗するのが自然だ。だが、争った形跡はないという。
――何となく閃くものはあったが、まだ根拠がない。
考えを深めるためにも、しばらくこの辺りを歩いてみる事にする。
天霧宅を離れ、中央区の方角へと進む。住宅街を抜け、スーパーマーケットや市営プールが見える十字路を直進し、買い物帰りらしい親子や、連れ立って歩く学生らとすれ違う。中央区には大学があるため、この辺りには学生向けのアパートも多い。
歩いていくうちに思い出した。確か、この少し先に石碑があるはずだ。
それは、かつてこの辺りで起きた出来事の証だ。まだこの国が、断続的な内戦を繰り返していた頃の。
ほどなくして、その姿が見えた。さながら怪談話の地蔵信号のように、短い横断歩道を渡った先で、それは静かに佇んでいる。
《正木町争乱死没者慰霊碑》
十六年前、治安維持軍を脱退した元軍人たちが自警団を組織、それが当時この辺りを縄張りにしていた組織に攻撃を仕掛けた。当時、この国には他国からの密輸ルートがいくつも確立されており、軍人崩れであれ一般人であれ、その気になれば簡単に武器を手に入れる事が出来た。
十分な武器の供給が、この時の二大勢力の激突を大規模な争乱とさせた。あらん限りの火力を叩き付け合う戦闘は、双方の勢力を壊滅させ、百人近い一般住民を巻き込んで終息した。
ナユタ新市街の一部となった今の正木区に、その面影はない。石碑が、遠くはない過去の悲劇を伝えるばかりだ。
定期的に手入れがされているのか、石碑自体は綺麗なままだ。ステンレスの花瓶らしい物が傍に置いてある。花は活けられていない。
手を合わせ、しばし黙祷する。決して信心深いほうではない。しかし、過去にこの土地で血が流れたという事実が頭に浮かべば、死者の鎮魂や冥福のために祈るべきだと感じる。何者も、誰かに殺されるために生まれたわけではない。
不意に叉反は、背後に人の気配を感じた。
今の今まで接近に気付かなかった事に内心戸惑う。気配に溶け込む事、気配を感じ取る事は師の教えと実戦によってこの身に叩き込まれている。だというのに直前まで感知出来なかった。
自然な動作で黙祷を止め、振り返る。背後の人はゆっくりと進んできて、叉反の横に並んだ。
派手ではないが、特徴的な衣服だった。立襟の上着は足首まで届くほどに長く、色は光さえ通さないような漆黒。それから、首元に覗くローマンカラー。
祭服。神父だ。おそらく六十を過ぎているだろう。白髪で、それなりに皺の刻まれた顔はさながら彫刻のようだ。石碑を見つめる目は青く、厳しげに細められている。
「珍しいですね」
ぽつりと神父が言った。完璧な発音の、この国の言語だった。
「え?」
「若い方が、この石碑に手を合わせているのは珍しい」
神父はそう言って、叉反のほうへ顔を向けた。
――銃を吊るしたわき下が、ぞわりと蠢いた気もしたが、それも一瞬だ。
「この辺りの方ですか?」
「いえ……たまたま見かけたものですから」
「これは失礼を」
軽く頭を下げ、神父はしゃがみ込むと、手に持ったビニール袋から花束を取り出して花瓶へと差し、次にペットボトルを出して水を注ぎこんだ。
神父は立ち上がった。
「不思議なものです。ずっと内戦は終わらないと思っていたのに、あの頃に比べればこの辺りも随分と落ち着いた」
「以前から、ずっとこちらに?」
「色んな国を転々としてきました。この国は二度目ですよ。さすがにもう、別の国へ移る事はないでしょうが」
口調こそ落ち着いていたが、神父の表情はどこか硬かった。特に目が。叉反と言葉を交わしながらも、視線は石碑へと向けられている。
「故郷で過ごしたのと同じくらいの時間を、この国で過ごしました。私の人生のいくらかはこの国で作られたと言ってもいい」
「内戦の頃から、この国におられたのですか」
「九九年の夏、第二次関東紛争が始まる三日前に、初めて赴任して来ました。それより以前でも、戦時の国にいなかったわけではないのですが、当時の異様な空気は今も思い出します」
この国の内戦は一九八〇年に起こったフュージョナー差別を発端に、一九九三年の東京崩壊まで続く。その後、小康状態を保つも、九九年に第二次関東紛争が勃発し、それが原因で再び対立が露わになり、二〇〇六年まで各地で断続的に争いが続く事になる。
「誰もが疑い合い、誰もが誰かの敵となり得た。得体の知れない憎しみと疑心が増幅し、際限なく広がっていく。私が見た焼け野原の光景は、ある意味当然の帰結と言えます。一度攻撃性を剥き出しにすれば、人は、行きつくところまで行ってしまうしかないのかと……」
叉反に語るようで、半ば神父の独り言のようにも聞こえた。自身もその事に気付いたのか、取り繕うように笑って、神父は言った。
「妙な話をしてしまいましたね。たびたび、失礼を」
「いえ、そんな」
「いや余計な話でした。忘れてください」
頭を下げ、神父は踵を返した。その先の道を真っ直ぐ行くと丘があり、確かその辺りには教会があったはずだ。
「すみません」
少し迷ったが、叉反はその背中に声をかけた。不思議そうに神父が振り返る。
「何でしょう?」
「妙な話ついでにもう一つ。この辺りで犬を見掛けませんでしたか? 飼い犬のゴールデンレトリバーなんですが」
「犬……ですか」
「ええ。実は私、調査会社の者でして。この辺りで飼われていたそのレトリバーを探しているんです」
名刺を渡し、それからツクモの写真を取り出す。飼い主でなければ写真だけで見分けなど、まずつかないだろうが、それでも一応見せておく。
写真をじっと見つめた神父は、案の定、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、普段は教会にいるものですから……」
「そうですか。……ありがとうございます」
仕方あるまい。では、もう少しこの辺りを歩いて他の人間に声を掛けてみるか――……
「いなくなったのですか、その犬は?」
「ええ。詳しい事は言えないんですが」
無表情な神父の目が、何か別の感情を見せたようにも思えたが、一瞬の事で断定出来ない。
「……そういえば、若い方がその犬と散歩していたのを何度か見た気がします」
少し間を置いて、神父がぽつりと言った。
「若い方?」
「二十歳にも満たないような若者です。生憎それくらいしかわかりませんが」
「確かにこの犬ですか?」
「首輪が同じです」
ではと言って、神父は歩き出す。礼を言おうと口を開きかけた時だ。けたたましいサイレンの音が響き渡った。パトカーのサイレン。近くはないが、そう離れてもいない。
サイレンは鳴り止まない。パトカーが少なくとも三台。それに救急車も来ているようだ。
焼けていく空の下で響き渡るサイレンは、どこか異様なものに思えた。空が赤い。まるで原色を塗りたくったかのような赤。サイレンが響くたび、赤が色濃くなっていくかのよう。
神父もまた、サイレンが聞こえてきた方向を見ていた。沈痛そうな面持ちで。
「……平和は遠く、ですか」
車に戻り、ラジオをつける。ニュース番組を探す。サイレンの原因を把握しておきたかったが、それらしい情報はない。ニュースを流しながら背もたれに体を預け、フロントガラスの向こうの夕焼けを見つめる。そうして、これまでに得た情報を頭の中で並べる。もっとも核心に近そうなのは、次の二つだ。
一つ、ツクモは知らない者には懐かず、自宅のカメラにも不審者の姿はなかった。
一つ、ツクモは男に連れられて散歩していた。二十歳にも満たないような若者に。
犬には世話係がいた。
当然と言えば当然の話だ。ヤクザ稼業に忙殺され、ナユタに戻るのも月数度という天霧が、毎日ツクモの面倒を見られるはずがない。ことに、レトリバーはかなりの運動量が必要と聞く。ならば、散歩に限らず身の回りの世話を誰かに頼むはずだ。
ヤクザの世界ならば、そんな雑事を押し付ける相手はすぐに見つかる。若衆だ。行儀見習いという名目で、事務所や邸宅の掃除、給仕、車の運転、煙草の火つけ、何でもやらされる。
世話係の若者がツクモを連れ出したのだとすれば、ややこしい侵入方法など必要なくなる。いつも通り散歩に連れていけばいいのだ。セキュリティを破る必要などない。カメラに不審者も映らない――そもそも、天霧宅にとって不審者ではないのだから。
だが……
「何故、攫う」
それが疑問だ。何故若者は……いや、というよりは、そもそも何故、ツクモは攫われなければならなかったのか?
さらに挙げるなら、仮に若者が連れ出したとすると、今度は庭にあったという首輪が妙だ。争う事なく犬を攫ったのなら、何故わざわざ首輪を庭に置いたのか? 何らかの偽装――例えば、誘拐は邸内で行われたと見せかけるため――だろうか。だが、それならばカメラに不審者が映っていないのは、むしろ不都合ではないだろうか。
天霧が世話係の存在を伏せていたのも気に入らない。まるでツクモが独りでに消えてしまったかのような話し振りだった。若者の存在を、何故隠す必要があったのか……。
『……下らん話だ』
頭の中に声が響いた。久しく聞いていなかった、あの声が。
『よりにもよってヤクザ者が犬探しとはな。退屈極まる。お前の体に入ってからひと月余り、来る日も来る日もこの調子だ。この世で退屈ほど死に迫るものはない』
「……もう二度と喋らないのかと思っていたよ、俺は」
『馬鹿を言うな。お前も退屈していたはずだ、俺と同じように』
声の主は面白くもなさそうに言った。叉反は目を閉じる。
この、頭の中に声を響かせる奇妙な同居人と話す時は、視界を閉じていたほうがやりやすい。
意識の深層へと落ちていく。どこまで広がっているかもわからない、黒い空間。白い靄が足元に漂うその空間の奥には、一匹の巨大な影が寝そべっている。
そいつは獅子のような赤銅色の胴体を持ち、その体には巨大な蝙蝠の翼が生え、尾は蠍のそれだった。頭部に黒い鬣があるが、顔はまるで人間のようだった。
《怪物》。ひと月前のとある事件で叉反の身体と心に住み着いた、意識下に潜む化け物。
『せっかく手に入れた力を振るう機会に恵まれない。不快だろう? 体が鈍っていく感覚に恐れを覚えないか?』
「俺は仕事で忙しい。無駄な体力を使うつもりはない」
怪物の口の端が吊り上がる。気味の悪い笑み。この怪物がもっとも見せる表情。
『虚勢を張っても俺にはわかる。お前が闘争を求めている事が。銃を分解掃除している時の苛立ちを、俺が察知していないとでも?』
「苛ついてやったんじゃ手元が狂う。いいからもう黙れ。車を出す」
『あの神父を覚えておけ、探偵』
ひと際大きな声で、怪物が言う。
「さっきの神父を?」
『お前も薄々感じただろう。あの男から漂う隠し切れないほどの暗い冷気。それに、こびりついた血の匂い……』
あいつは……。
次の瞬間、叉反は目を覚ましていた。深層から引き戻されると必ず眠りから醒めたような感じになる。それもあまり良くない眠り方をした時のような。
顔を拭い、息を吸って頭の中をはっきりさせる。やるべき事を思い出す。
――ひとまずは世話係だ。その人物を追おう。
「……妙な事を吹き込むな、怪物」
吐き捨ててアクセルを踏む。車が動き出す。気分が悪い。ひどく気分が。
――怪物の言葉が、べったりと頭の中にこびりついている。神父が叉反の銃に気付いていた事はわかっている。だがしかし、それだけだ。何の根拠にもならない。だが、あの目は。叉反に気配を悟らせずに近付いたあの手腕は。
怪物が深層でにたにたと笑っている。久方ぶりに血の匂いを嗅ぎつけて。
『あいつは――人殺しだ』
旧市街で仁と別れ、次の場所へと向かう。新市街へと。
天霧は新市街正木区九曲にモダンな外観の家を持っている。組長の屋敷のような派手さはないが、分をわきまえつつも力を見せつけるには十分なほどの大きさだ。車庫付き二階建てのその家は、一人と犬一匹が住むには少々広すぎるように思える。
今日の今日まで、天霧がペットを飼うような人間だとは思っていなかった。二年前に調べた時にわかったのは、隠されていないも同然の住所と、普段からあまりナユタにはいないという事くらいだった。
住宅街の中、密接した家々の間に、ごく自然にある天霧宅を見ながら、叉反は考える。
住宅街には広く緩やかな坂道があり、天霧宅はちょうど谷間の部分に位置する。叉反の他には誰もいない。夏の夕方。日が暮れるにはもう少しかかる。
先に見ておいた天霧宅の裏手には、話に聞いていた庭らしいスペースがある。庭自体はそこまで広くはなさそうだが、柵で囲われていて中は見えなかった。
仮に侵入者がこの家からレトリバーを連れ出したとして、どうやって侵入し、どうやってセキュリティに引っ掛からずに済んだのか……?
見知らぬ人物ならば、何よりもまず犬が吠えるだろう。無理に連れて行こうとすれば抵抗するのが自然だ。だが、争った形跡はないという。
――何となく閃くものはあったが、まだ根拠がない。
考えを深めるためにも、しばらくこの辺りを歩いてみる事にする。
天霧宅を離れ、中央区の方角へと進む。住宅街を抜け、スーパーマーケットや市営プールが見える十字路を直進し、買い物帰りらしい親子や、連れ立って歩く学生らとすれ違う。中央区には大学があるため、この辺りには学生向けのアパートも多い。
歩いていくうちに思い出した。確か、この少し先に石碑があるはずだ。
それは、かつてこの辺りで起きた出来事の証だ。まだこの国が、断続的な内戦を繰り返していた頃の。
ほどなくして、その姿が見えた。さながら怪談話の地蔵信号のように、短い横断歩道を渡った先で、それは静かに佇んでいる。
《正木町争乱死没者慰霊碑》
十六年前、治安維持軍を脱退した元軍人たちが自警団を組織、それが当時この辺りを縄張りにしていた組織に攻撃を仕掛けた。当時、この国には他国からの密輸ルートがいくつも確立されており、軍人崩れであれ一般人であれ、その気になれば簡単に武器を手に入れる事が出来た。
十分な武器の供給が、この時の二大勢力の激突を大規模な争乱とさせた。あらん限りの火力を叩き付け合う戦闘は、双方の勢力を壊滅させ、百人近い一般住民を巻き込んで終息した。
ナユタ新市街の一部となった今の正木区に、その面影はない。石碑が、遠くはない過去の悲劇を伝えるばかりだ。
定期的に手入れがされているのか、石碑自体は綺麗なままだ。ステンレスの花瓶らしい物が傍に置いてある。花は活けられていない。
手を合わせ、しばし黙祷する。決して信心深いほうではない。しかし、過去にこの土地で血が流れたという事実が頭に浮かべば、死者の鎮魂や冥福のために祈るべきだと感じる。何者も、誰かに殺されるために生まれたわけではない。
不意に叉反は、背後に人の気配を感じた。
今の今まで接近に気付かなかった事に内心戸惑う。気配に溶け込む事、気配を感じ取る事は師の教えと実戦によってこの身に叩き込まれている。だというのに直前まで感知出来なかった。
自然な動作で黙祷を止め、振り返る。背後の人はゆっくりと進んできて、叉反の横に並んだ。
派手ではないが、特徴的な衣服だった。立襟の上着は足首まで届くほどに長く、色は光さえ通さないような漆黒。それから、首元に覗くローマンカラー。
祭服。神父だ。おそらく六十を過ぎているだろう。白髪で、それなりに皺の刻まれた顔はさながら彫刻のようだ。石碑を見つめる目は青く、厳しげに細められている。
「珍しいですね」
ぽつりと神父が言った。完璧な発音の、この国の言語だった。
「え?」
「若い方が、この石碑に手を合わせているのは珍しい」
神父はそう言って、叉反のほうへ顔を向けた。
――銃を吊るしたわき下が、ぞわりと蠢いた気もしたが、それも一瞬だ。
「この辺りの方ですか?」
「いえ……たまたま見かけたものですから」
「これは失礼を」
軽く頭を下げ、神父はしゃがみ込むと、手に持ったビニール袋から花束を取り出して花瓶へと差し、次にペットボトルを出して水を注ぎこんだ。
神父は立ち上がった。
「不思議なものです。ずっと内戦は終わらないと思っていたのに、あの頃に比べればこの辺りも随分と落ち着いた」
「以前から、ずっとこちらに?」
「色んな国を転々としてきました。この国は二度目ですよ。さすがにもう、別の国へ移る事はないでしょうが」
口調こそ落ち着いていたが、神父の表情はどこか硬かった。特に目が。叉反と言葉を交わしながらも、視線は石碑へと向けられている。
「故郷で過ごしたのと同じくらいの時間を、この国で過ごしました。私の人生のいくらかはこの国で作られたと言ってもいい」
「内戦の頃から、この国におられたのですか」
「九九年の夏、第二次関東紛争が始まる三日前に、初めて赴任して来ました。それより以前でも、戦時の国にいなかったわけではないのですが、当時の異様な空気は今も思い出します」
この国の内戦は一九八〇年に起こったフュージョナー差別を発端に、一九九三年の東京崩壊まで続く。その後、小康状態を保つも、九九年に第二次関東紛争が勃発し、それが原因で再び対立が露わになり、二〇〇六年まで各地で断続的に争いが続く事になる。
「誰もが疑い合い、誰もが誰かの敵となり得た。得体の知れない憎しみと疑心が増幅し、際限なく広がっていく。私が見た焼け野原の光景は、ある意味当然の帰結と言えます。一度攻撃性を剥き出しにすれば、人は、行きつくところまで行ってしまうしかないのかと……」
叉反に語るようで、半ば神父の独り言のようにも聞こえた。自身もその事に気付いたのか、取り繕うように笑って、神父は言った。
「妙な話をしてしまいましたね。たびたび、失礼を」
「いえ、そんな」
「いや余計な話でした。忘れてください」
頭を下げ、神父は踵を返した。その先の道を真っ直ぐ行くと丘があり、確かその辺りには教会があったはずだ。
「すみません」
少し迷ったが、叉反はその背中に声をかけた。不思議そうに神父が振り返る。
「何でしょう?」
「妙な話ついでにもう一つ。この辺りで犬を見掛けませんでしたか? 飼い犬のゴールデンレトリバーなんですが」
「犬……ですか」
「ええ。実は私、調査会社の者でして。この辺りで飼われていたそのレトリバーを探しているんです」
名刺を渡し、それからツクモの写真を取り出す。飼い主でなければ写真だけで見分けなど、まずつかないだろうが、それでも一応見せておく。
写真をじっと見つめた神父は、案の定、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、普段は教会にいるものですから……」
「そうですか。……ありがとうございます」
仕方あるまい。では、もう少しこの辺りを歩いて他の人間に声を掛けてみるか――……
「いなくなったのですか、その犬は?」
「ええ。詳しい事は言えないんですが」
無表情な神父の目が、何か別の感情を見せたようにも思えたが、一瞬の事で断定出来ない。
「……そういえば、若い方がその犬と散歩していたのを何度か見た気がします」
少し間を置いて、神父がぽつりと言った。
「若い方?」
「二十歳にも満たないような若者です。生憎それくらいしかわかりませんが」
「確かにこの犬ですか?」
「首輪が同じです」
ではと言って、神父は歩き出す。礼を言おうと口を開きかけた時だ。けたたましいサイレンの音が響き渡った。パトカーのサイレン。近くはないが、そう離れてもいない。
サイレンは鳴り止まない。パトカーが少なくとも三台。それに救急車も来ているようだ。
焼けていく空の下で響き渡るサイレンは、どこか異様なものに思えた。空が赤い。まるで原色を塗りたくったかのような赤。サイレンが響くたび、赤が色濃くなっていくかのよう。
神父もまた、サイレンが聞こえてきた方向を見ていた。沈痛そうな面持ちで。
「……平和は遠く、ですか」
車に戻り、ラジオをつける。ニュース番組を探す。サイレンの原因を把握しておきたかったが、それらしい情報はない。ニュースを流しながら背もたれに体を預け、フロントガラスの向こうの夕焼けを見つめる。そうして、これまでに得た情報を頭の中で並べる。もっとも核心に近そうなのは、次の二つだ。
一つ、ツクモは知らない者には懐かず、自宅のカメラにも不審者の姿はなかった。
一つ、ツクモは男に連れられて散歩していた。二十歳にも満たないような若者に。
犬には世話係がいた。
当然と言えば当然の話だ。ヤクザ稼業に忙殺され、ナユタに戻るのも月数度という天霧が、毎日ツクモの面倒を見られるはずがない。ことに、レトリバーはかなりの運動量が必要と聞く。ならば、散歩に限らず身の回りの世話を誰かに頼むはずだ。
ヤクザの世界ならば、そんな雑事を押し付ける相手はすぐに見つかる。若衆だ。行儀見習いという名目で、事務所や邸宅の掃除、給仕、車の運転、煙草の火つけ、何でもやらされる。
世話係の若者がツクモを連れ出したのだとすれば、ややこしい侵入方法など必要なくなる。いつも通り散歩に連れていけばいいのだ。セキュリティを破る必要などない。カメラに不審者も映らない――そもそも、天霧宅にとって不審者ではないのだから。
だが……
「何故、攫う」
それが疑問だ。何故若者は……いや、というよりは、そもそも何故、ツクモは攫われなければならなかったのか?
さらに挙げるなら、仮に若者が連れ出したとすると、今度は庭にあったという首輪が妙だ。争う事なく犬を攫ったのなら、何故わざわざ首輪を庭に置いたのか? 何らかの偽装――例えば、誘拐は邸内で行われたと見せかけるため――だろうか。だが、それならばカメラに不審者が映っていないのは、むしろ不都合ではないだろうか。
天霧が世話係の存在を伏せていたのも気に入らない。まるでツクモが独りでに消えてしまったかのような話し振りだった。若者の存在を、何故隠す必要があったのか……。
『……下らん話だ』
頭の中に声が響いた。久しく聞いていなかった、あの声が。
『よりにもよってヤクザ者が犬探しとはな。退屈極まる。お前の体に入ってからひと月余り、来る日も来る日もこの調子だ。この世で退屈ほど死に迫るものはない』
「……もう二度と喋らないのかと思っていたよ、俺は」
『馬鹿を言うな。お前も退屈していたはずだ、俺と同じように』
声の主は面白くもなさそうに言った。叉反は目を閉じる。
この、頭の中に声を響かせる奇妙な同居人と話す時は、視界を閉じていたほうがやりやすい。
意識の深層へと落ちていく。どこまで広がっているかもわからない、黒い空間。白い靄が足元に漂うその空間の奥には、一匹の巨大な影が寝そべっている。
そいつは獅子のような赤銅色の胴体を持ち、その体には巨大な蝙蝠の翼が生え、尾は蠍のそれだった。頭部に黒い鬣があるが、顔はまるで人間のようだった。
《怪物》。ひと月前のとある事件で叉反の身体と心に住み着いた、意識下に潜む化け物。
『せっかく手に入れた力を振るう機会に恵まれない。不快だろう? 体が鈍っていく感覚に恐れを覚えないか?』
「俺は仕事で忙しい。無駄な体力を使うつもりはない」
怪物の口の端が吊り上がる。気味の悪い笑み。この怪物がもっとも見せる表情。
『虚勢を張っても俺にはわかる。お前が闘争を求めている事が。銃を分解掃除している時の苛立ちを、俺が察知していないとでも?』
「苛ついてやったんじゃ手元が狂う。いいからもう黙れ。車を出す」
『あの神父を覚えておけ、探偵』
ひと際大きな声で、怪物が言う。
「さっきの神父を?」
『お前も薄々感じただろう。あの男から漂う隠し切れないほどの暗い冷気。それに、こびりついた血の匂い……』
あいつは……。
次の瞬間、叉反は目を覚ましていた。深層から引き戻されると必ず眠りから醒めたような感じになる。それもあまり良くない眠り方をした時のような。
顔を拭い、息を吸って頭の中をはっきりさせる。やるべき事を思い出す。
――ひとまずは世話係だ。その人物を追おう。
「……妙な事を吹き込むな、怪物」
吐き捨ててアクセルを踏む。車が動き出す。気分が悪い。ひどく気分が。
――怪物の言葉が、べったりと頭の中にこびりついている。神父が叉反の銃に気付いていた事はわかっている。だがしかし、それだけだ。何の根拠にもならない。だが、あの目は。叉反に気配を悟らせずに近付いたあの手腕は。
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