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序章 二〇〇四年 冬

序章2

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 風と雨戸の鳴る音の中で、その二回は異様に響いた。
 コンコン、と間を置かずもう一度繰り返される。扉のほうからだ。
 身が固まる。誰かが、この吹雪の中で、教会に訪ねてきたのだ。
 犬耳がぴくりと震えた。自分達以外にも、今晩ここに誰かが来る予定だったのだろうか? しかし、神父はそんな事は一言も言っていなかった。ならば、突然の来客なのだろうか。
 コンコン、と三度目のノックが聞こえた。


 彼女は立ち上がり、じっと扉を見つめる。神父を呼ばなければ。外では、自分達と同じように助けを求める者が待っているのかもしれない。地下から、神父を呼んでこなければ。
 長椅子を離れ、一歩通路に出る。寝息を立てている娘の顔をちらと見る。さっきから妙な予感が離れない。
 ――何故来訪者は、ノックだけを執拗に繰り返しているのか?
 四度目のノックが聞こえた。さっきまでと全く同じ間隔の。
 次の瞬間、地下のほうからけたたましい炸裂音が響き渡った。同時に、扉の取っ手が爆発したかのように鍵ごと吹き飛ぶ。
 二方向から同時に銃声。間を置かず、目の前の扉が蹴破られる。ショットガンを構えた黒ずくめの男が、すかさずその銃口をこちらに向けた。


 咄嗟に毛布を剥ぎ飛ばし、寝息を立てる娘に覆いかぶさる。射撃音。続いて熱い激痛が背中に走った。
 腰が落ち、椅子にもたれかかる。撃たれた。痛みに全身が震える。立てそうもない。
だが、娘は無事だ。
「動くんじゃねえよ、ケダモノ女が」
 ショットガンを持った男が口汚く罵った。大股でやってきて、彼女の頭髪を手ひどく掴みざま、反対側の長椅子へ投げ飛ばす。吐き出すように呻き声が出た。
 ショットガンの銃口が眼前にあった。侵入者はもう一人いた。髭を生やした若い男。得意そうに煙草を銜え、ショットガンを構えた男の後方から彼女を見下ろしている。
「あの野郎、ケダモノ女ぁ囲ってるって噂は本当だったんだな」


 煙草の男はそう言いながら紫煙を吐き出した。ショットガンの男が下品な笑いを浮かべた。
「信じらんねえな。犬と寝る趣味があるなんてよ」
「ああ。おまけにガキまで作っちまうとは」
 煙草の男が向かいの長椅子へと寄った。娘のほうへ。
「やめて!」
 痛みも忘れて彼女は立ち上がった。「娘に触らないで!」
「うるせえんだよ、雌犬」
 ショットガンの男がすかさず彼女を蹴倒す。立ち上がろうとした彼女を踏みつけ、銃口を頬に押し付ける。
 もう一人の男が、娘を抱き上げて戻ってきた。
「ほうら、ママが押し倒されてまちゅよお~」
 血の気が引いた。
「その子から手を放して!」
「うるせえってんだよ!」


 男の怒鳴り声など耳に届いてはいない。自分の身はどうでもいい。男の汚い手が娘に触れるのが忌まわしかった。
「獣臭えガキだな。どうすんだ、二匹ともここでやるか」
「いや、あいつの前まで連れて行こう。人間様を裏切って獣とよろしくやってたんだ。それ相応の罰を与えなきゃな」
「神父は?」
「下にはヤマザキの奴が行ってる。もう死んでるさ」
 まるで雑談のように、男達はおぞましい会話を繰り広げる。ふと気付く。さっきまで聞こえていた、地下からの銃声が止んでいる。
娘がもぞもぞと動いた。起きた。顔は見えないが、どんな表情かはわかる。すすり泣きもつかの間、すぐに娘は大声を上げて泣き出した。
「おや、おっきしましたねえ」


 煙草を銜えたまま、男はげらげらと笑う。
「おい、うるせえんだよ。黙らせろ!」
 仲間の怒声を聞き流し、男は銜えていた煙草を外し、泣きじゃくる娘の顔の前でくるくると回し始める。
「ほら、泣き止まないと火傷しちゃうぜえ」
「やめて!」
 絶叫し、身を持ち上げようとするが、男の足は杭のように彼女を押さえつける。
「ああ、何だ? 獣の言葉はわからねえよ」
 娘はさらに声を張り上げる。足をばたつかせ、男から逃れようとしている。
「どうでもいい。早く黙らせろ。ガキは嫌いなんだよ」
 ショットガンの男が怒鳴り声を上げた刹那、その後頭部が赤く弾けた。
 娘を抱えた男がはっとして身構える。どさり、とショットガンの男の死体が倒れ込んだ。
「あいつ……しくじりやがったか」


 銃弾が飛んできた方向を睨み付けながら、口元を歪めて男がぽつりと呟いた。
 奥のほうから、拳銃を構えた神父が歩いてきた。カソックの襟の白地に、血痕のようなものが付着している。
「その子を放せ」
 銃口を向けたまま、冷徹な目をして神父が言った。娘が泣き叫んでいる。男は乱暴に娘を抱え上げた。娘の泣き声がさらに激しくなる。
「おら撃てよ。撃ってみろ」
引きつった笑い浮かべながら、男は素早く後ろに手を回し、拳銃を握って、その銃口をあろうことか赤子に宛がう。
「撃てよ! このガキごと俺を撃ってみやがれ、くそ神父が!」
 挑発的な男の罵声。泣きじゃくる娘の声。破壊された扉からは風とともに雪が吹き込んでくる。銃口を向けながらも神父は動けずにいた。下手に撃てば娘に当たる。
 男がじりじりと後ろに下がっていく。逃げる気だ。彼女の娘を連れて。
 胸元に、ショットガンが落ちている。さっきまで彼女自身に突き付けられていたもの。


 ――咄嗟に彼女は決断した。その瞬間には動いていた。
 ショットガンを掴み、椅子の背を掴んで、勢いに任せて立ち上がる。激痛が背中を走ったが、そんな事はどうでもいい。男の注意をこちらに向けられれば。
「な、お前――!」
さながら的当ての標的だ。ショットガンを持ったのも、よりこちらに注意を引くためだ。案の定、突然立ち上がった彼女に向けて、男もまた咄嗟に二度引き金を引いた。銃弾が身を食い破り、瞬く間に臓腑が灼ける。
 同時に、銃口が赤子から逸れたその瞬間、神父の銃が火を噴いていた。男の肩口が弾け、その体が揺らめく。弾丸のように飛び出した神父が瞬く間に男へと接近し、赤子を掴んで引き剥がす。男が突き飛ばされ、床に転げる。そこへ、神父は容赦なく二発の銃弾を撃ち込んだ。
赤子を抱えた神父は、すぐに彼女の元へとやって来た。
ショットガンを杖代わりに、気力で体を支えていたが、限界が近づいている。力が抜けて膝が落ちる。足元に血だまりが出来ていた。


「何て無茶を」
 神父が掠れた声で言った。赤子はまだ泣いている。幸い怪我はなさそうだ。この子は運がいい。何かに守られているに違いない。
 目が霞む。体から出血が続いている。激痛に苛まれるあまり、感覚が麻痺している。
 おのずとわかった。もう、保たない。
「神父……様」
 口を開くと血がせり上がってきた。神父が焦燥した顔で何か言った。だが、よく聞こえない。
「娘を……お願いします。どうか、あの人に……」
 だがその時、轟音とともに神父の背中から赤い血が噴き出した。銃撃だ。床に倒れたはずの男が、体をくの字に折り曲げながら、狂ったように何かを叫んでいた。スローモーションに流れる事象。硝煙の立ち上る銃を放り投げ、男は手に持っていたボールのようなものを口元にやる――ボールの上部には丸い輪のついたピンが見えた――男の歯が、その輪っかに引っかかる。
「逃げて!!」
 最後の力を振り絞り、赤子を抱えた神父を彼女は突き飛ばした。一瞬だけ振り返った神父の目が、決断を語っていた。赤子を抱え込んだ神父が、転げるように説教台の陰に飛び込む。
 これまで体感した事のない熱と、衝撃。自分の体が吹き飛ぶのがわかった。次の瞬間、強烈に壁に叩き付けられた彼女の体は、冗談のように床へとずり落ちた。


 ――炎が瞬く間に燃え広がる。教会の長椅子が火炎に飲まれ、燃え盛る。
 ――もう、動けはしない。もはや、自分は助からない。

 目を開けば、辺り一面は火の海と化していた。
 血を流し過ぎたのか、あるいは、壁に叩き付けられた拍子に骨が砕けたのか。もはや彼女には一片たりとも動けるだけの力は残っていない。
 説教台の裏側に逃げ込んだはずの神父と、彼に抱えられた娘の姿は、どこにもない。
 娘は無事逃げただろうか。考えるのはそればかりだ。彼女と夫の人生の証。二人の元へとやって来てくれた、天からの使い。
「ミサキ……」
 その名を呼ぶ。声になっていたかどうかさえわからない。
 火炎に包まれた天井が、目の前で崩れ落ちた。

      ※

 こうして、その地で古くから存在していた小さな教会は一晩のうちに焼失した。
 この晩、勃発した抗争はその後三日間、止む事なく続き、双方の勢力はもとより無関係の一般市民にまで、多くの犠牲者を出した。
 ――十六年前。雪が降り続いた夜。
 のちに、ナユタと呼ばれる土地で起きた事件だった。
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