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『雨宿りの女』2
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魔女は仏間の襖を閉めると、持って来ていた鞄の中から林檎ほどの大きさの真っ白な糸玉を取り出した。
「中のモノが、今もこの家に邪気を呼び込んでいるので、まずは部屋を封じます」
言いながら、麻來鴉は糸玉から糸の先端を引っ張り出した。
「その糸は……?」
「《枷なる糸》です。ルーン魔術の心得があれば誰にでも使える、魔物封じの糸です」
ルーン魔術? 全く意味がわからない。能見の戸惑いをよそに、麻來鴉は糸を、さらに鞄から取り出した木の枝に巻き付けていく。
「守れ、存続せよ」
何か呪文のようなものを小さく唱え、麻來鴉は糸を巻き付けた枝から手を放す。途端、枝は矢のように勝手に飛び出した。ダイニングを出て、縁側へと周り、一分としないうちに廊下からまたダイニングへと戻ってきて、仏間の襖に貼りつく。
よく見れば、襖には糸がぴんと張っていった。麻來鴉がまた何事か唱え、ぴんとは糸に枝と巻き付いた糸を結びつける。これで、仏間は四方を糸で囲われた形となった。
「これでしばらく中のモノが邪気を呼び寄せる事は出来ません。あまり長くは封じられませんが」
「あまりって……どのくらい?」
「ざっとですが……一時間ほどですね。あまり長く閉じ込めると、アレが何をするかわかりませんから」
「その間に祓う方法を見つけられるのか」
これを問うたのは十文字だ。
「天宿りしたモノの正体がわかれば、ね」
麻來鴉はとんがり帽に手をやりながら、考えるように答えた。
「その天宿りというのは……一体どういった現象なんです?」
煙草を手に取りたい欲求を押さえ付けながら、能見は尋ねた。麻來鴉の黒い瞳が能見を見た。
「地上に邪気が変じた怪異が存在するように、空――上層にも妖(あやかし)めいた住人がいます。普段、彼らは上空をさまよっていますが、まれに彼らと感応する人間がいると、その者に憑依して己の一部にしようとします。これが、天宿りです」
「憑依……何というか、悪霊みたいなものですか」
昔、映画で見た知識をそのまま能見は口に出した。麻來鴉は軽く首を横に振った。
「悪霊より、もっと理屈や説明がつきづらい連中です。種類が多いうえに独自の論理で行動しているので。特徴を一つ一つ分析していくほかありません。今回の件で言えば、まず雨」
「雨……」
「ええ。天宿りは上層の住人と対象になった人間に物理的な接触がなければ起きません。つまり、上層の住人を媒介する物が必要なんです。さらに言えば、その媒介物から憑依した住人の属性を知る事が出来ます。娘さんは、三日前の雨に濡れて帰ってきてから様子がおかしくなったのでしょう? それに、今も天井から滴っている水」
「中のモノは水に属するモノ。水を使ってとり憑いてくる奴という事だな」
「それがわかったからといって、一体何になるんです?」
能見の語気が荒くなった。が、魔女のほうは表情ひとつ変えなかった。
「何もわからないよりは手がかりがあるほうが良いです。それに、まだ確認しなければならない事があります」
「何です?」
「三日前に何がありました?」
自分の顔が強張るのが、能見にはわかった。
「何、というのは……」
「上層の住人が人間に憑依するには、その対象と感応しなければなりません。霊能の素養は大なり小なり誰しもが備えているものですが、たいていは未発達なまま一生を終えます。そして、そういう人間が霊的なモノと感応する時は、たいがい精神的な揺らぎがあるものです。強い不安や、恐怖によって不安定になった精神につけ込み、あいつらはとり憑いてくる」
喉の中がきゅっと締め付けられるようだった。
「何か契機となる出来事があったはずです。お話していただけませんか」
能見はしばし押し黙った。……別に隠すような事ではない。
「わかりました」
能見は話し始めた。
晶子は、妻の連れ子だった。
結婚したのは四年前。晶子はまだ十二歳だった。
初めて会った時、年齢のわりに大人びた印象を受けた事を覚えている。その日は妻の実家の墓の掃除をしに、寺に行っていた。すでに二人の間では結婚を決めていた頃だった。
結婚後の生活は一筋縄ではいかないだろうという予感が、能見にはあった。晶子にしてみれば、小学校を卒業したばかりの時に母親が再婚し、それまで縁もゆかりもなかった人間が形式上父親となるのだ。とても簡単に受け入れられるものではない。
はたして、その予感は当たった。
晶子が家出した回数は数え切れなかった。花瓶や写真立てや、時には包丁まで投げつけられた事もある。とにかく晶子は、能見に心を開く事を嫌がった。能見という、以前とは変わってしまった自らの姓さえも嫌っていた。父親として見られた事は一度もないだろう。能見を見る晶子の目には、いつも嫌悪の感情があった。
「それでも……最近は無闇な諍いはなくなっていました。顔を合わせなければ、争う事もありませんから」
どうしても晶子と話さなければならない時は、いつも妻が間に入っていた。血の繋がりもなく、幼い頃から一緒にいるわけでもない人間が、それなりの年齢の子どもの親になるのは不可能だとさえ思った。時折、気弱になって妻の前でついそんな事を言った日には、普段は見ないような強い口調でたしなめられたものだ。
「……妻が亡くなったのは、ひと月前の事です。交通事故でした」
買い物帰りに、前方不注意の車に撥ねられたのだ。例によって朝、晶子と軽い口論になった日の事だった。
足の下にあったはずの地面がなくなってしまったかのような、そんな虚無感と不安定さが能見を襲った。加害者側は事故当時の心神喪失を訴えていたが、能見は正直なところ全てが上の空だった。能見が生きてきた四十七年の人生が、さながらロボットのように事務的な手続きや弁護士との話し合いを進めてくれたが、心はすでに妻の死という事実によって空っぽになっていて、呆然としたまま日々を過ごしていた。
「そういう姿を見せたのがよくなかったんでしょう。晶子は怒りました。私にも、加害者にも」
晶子にとっては、血の繋がった最後の家族だった。彼女の祖父母に当たる人間は十年前に他界していて、親戚もいない。晶子の実の父親は彼女が六歳の時に行方をくらましていた。彼女がこの世で信頼できるものはなくなってしまった。残されたのは、心の通わない義理の父親だけだ。
「晶子は、犯人を憎んでいました。私も事故当時、加害者には責任能力があったと今では思っています。晶子は殺すつもりでした。妻が死んでからの間、彼女はそればかり口にしていました」
毎日のように責められた。本当に母を思いやる気があるのなら、何故もっと加害者を追求しないのかと。裁きを受けさせるのが筋だと晶子は繰り返し主張した。能見も内心ではわかっていたし、もっとしっかりしなければならないとも思っていたが、心がすでに折れていた。椅子から立ち上がったり、家の中をちょっと移動したりする事さえ出来なくなった。仕事を休み、家で呆然とするようになった。晶子は何日も家に帰らなくなった。
「あの日……晶子は久しぶりに家に帰ってきました。私は、正直どう接して良いかわからず、あまり心配をさせるなと、父親らしい振る舞いをするのが精いっぱいで、形式的に叱りつけました」
返ってきた言葉には、憎悪が込められていた。
『役立たず。お前と結婚したから母さんは死んだんだ。わたしと母さんだけで十分幸せだったのに。お前なんかいらなかった。わたしたちに関わりのないところで、お前が死ねば良かったんだ』
仮にも娘である一人の人間の中に、僅かな親子の情さえなかったのだと知った時、能見の頭は真っ白になっていた。
「私は……晶子の顔を叩きました。平手で。唇の端が、少し切れていたのを見ました。すかさず、晶子の拳が私の顔を殴って……それから、彼女は荷物を持って出ていきました」
――そうして、晶子は天宿りに遭った。怒り、憎しみ。自身を破滅させかねない黒々とした魂の燃え上がりによって、怪物に魅入られてしまったのだ。
「……」
ひと通り話を聞き終えた魔女は、しかし、押し黙ったままだった。
「私が悪かったのです。私が、もっと晶子と以前から向き合っていれば……」
「足りない」
「え?」
魔女の声は、剣のように冷たかった。
「晶子さんの心が乱れていたのはわかりました。が、それだけでは足りません。もう少し強い因果があるはずですが……」
「麻來鴉?」
十文字が疑問の声を呈したが、彼女は応じなかった。
魔女の黒い瞳が、かすかに青みがかったように見えた。
「まだ話していない事がありますか。それとも……」
耳鳴りがする――庭に差す日が翳った気がした。
「最初から知らなかった?」
何を、と能見が言いかけた時、頬に何かが当たった。
感触は水滴のようだったが、違う気がした。もう少し重たく、粘度がある。右手の甲で頬を拭う。
赤黒い筋がついた。金物のような鉄分の臭い。
――血だ。
「うわっ!?」
能見は思わず天井を見上げた。
そこに、いた。頭から血を被ったような、真っ赤に染まった男が。シャツにもスラックスも、今まさに流されたばかりのような新鮮な血で濡れていて、ぽたり、ぽたりと雫が滴り落ちてくる。
「あ、なっ……」
驚きが喉を締め付けてしまったかのように、声が出ない。天井からぶら下がった男は、目を見開いたまま、じっと能見を見つめている。
血まみれの男の腕が、不意にぐわっと伸びて能見の顔を掴んだ。男の腕が、そのまま能見の頭を引っ張り上げようとする。万力のような、憎しみを感じるほどの力だった。
「――〝斧〟」
呪文とともに、魔女の手が横薙ぎに動いた。血まみれの男の両腕が切断され、能見は忌まわしい手から解放される。途端に、天井の男は消えた。切断された腕も影も形もない。手の甲の血の痕さえ、残っていない。
「どうやら、とり憑かれていたのは娘さんだけではなかったようですね」
言いながらも、魔女は能見を見てはいなかった。まるで何かを待ち構えているかのように、文字が刻まれた平らな石をナイフのように持っていった。
「麻來鴉、説明しろ。何がいるんだ?」
「こいつは空からやってきた奴じゃなさそうね……。十文字、能見さんをお願い。あんたの首飾りを掛けてやってよ。お守りくらいにはなるから」
言われた通り、十文字は自らの首にかけてあった、木製の十字架を能見に手渡した。事態を飲み込めないまま、能見はそれを首にかける。
魔女の瞳は、今や傍目にもわかるほど青々と輝いていた。
気味の悪い静寂が訪れた。薄暗いダイニングには自分達のほか誰もいないはずだった。だが、いるのだ。どこかに、あの血まみれの男が潜んでいるのだ――……
トン、トンと。能見の後ろで戸を叩く音がした。
振り返ると、糸によって閉ざされた仏間の襖が、内側から叩かれていた。
「ねえ……誰かいないの?」
声がした。能見の娘の声が。
「助けて……誰か、開けて……」
「晶子!」
「動かないで!」
麻來鴉が鋭く叫んだのと同じくして。
四つん這いの大きな赤子が音を立てて這ってくるように、血まみれの男が魔女へ向かって突進した。
「ちっ!」
魔女は手に持った石を軽く放り投げた。石に刻まれた文字が青く光り、石から漏れた光が斧の形を象る。手に持った光の斧を麻來鴉は血まみれの男の脳天に叩き付ける。
「がああああああああっ」
叫び声というよりはテレビの砂嵐のような声だった。だが、血まみれの男が麻來鴉に組み付き、抑え込もうとしていた。
「開けて! ねえ開けてよ!」
娘が、晶子が仏間の中から叫んでいる。間違いない。晶子の声だ。中で一体何が起こっているのか。
「助けて、助けてってば!」
魔女は血まみれの男と戦っている。襖を叩く音は激しくなる一方だ――早く助けるんだ。自分がやるしかない――能見は内側から突き動かされるような強い衝動を感じた。私が……
「助けてよ、お父さん!」
私が助けなければ。
次の瞬間、弾かれるように能見は立ち上がり、襖を封じている糸に手を掛けようとした。
「よせ、能見さん!」
それを止めたのは、十文字の太い腕だ。確かに力は強い。が、あの血まみれの男に掴まれた事を思えば、所詮は人間の力だ。
――早く助けないと。私の娘が。
「放してくれ! 娘を助けないと!」
「罠だ! 娘さんにとり憑いているモノが外へ出たがっているんだ!」
「放せ!」
自分でも信じられないほどの力で、能見は十文字を突き飛ばした。私が助ける。私が、私が晶子を助けるのだ。私、私私――――
「能見さん!」
十文字が叫んだ時、能見の手は糸を引き千切って、襖を開けていた。
中では、ぐったりとした晶子が、わずかに顔を上げていた。
「晶子!」
能見は駆け寄り、娘の体を抱き起した。ひんやりと冷たく、雨に降られたかのように湿っている。
「大丈夫か、晶子!」
娘は答えなかった。代わりにその両腕が、能見の体をがっちりと掴んだ。
「捕 ま え た」
耳元で声がした。娘の顔が、泥で作った人形のように、ぐにゃりと歪んでいた。
人間の顔ではなかった。
「うわああああああああっ!!」
自分でも信じられないほどの声で叫んだその瞬間、能見は仏間に出来た水たまりの中に引き摺り込まれた。
「中のモノが、今もこの家に邪気を呼び込んでいるので、まずは部屋を封じます」
言いながら、麻來鴉は糸玉から糸の先端を引っ張り出した。
「その糸は……?」
「《枷なる糸》です。ルーン魔術の心得があれば誰にでも使える、魔物封じの糸です」
ルーン魔術? 全く意味がわからない。能見の戸惑いをよそに、麻來鴉は糸を、さらに鞄から取り出した木の枝に巻き付けていく。
「守れ、存続せよ」
何か呪文のようなものを小さく唱え、麻來鴉は糸を巻き付けた枝から手を放す。途端、枝は矢のように勝手に飛び出した。ダイニングを出て、縁側へと周り、一分としないうちに廊下からまたダイニングへと戻ってきて、仏間の襖に貼りつく。
よく見れば、襖には糸がぴんと張っていった。麻來鴉がまた何事か唱え、ぴんとは糸に枝と巻き付いた糸を結びつける。これで、仏間は四方を糸で囲われた形となった。
「これでしばらく中のモノが邪気を呼び寄せる事は出来ません。あまり長くは封じられませんが」
「あまりって……どのくらい?」
「ざっとですが……一時間ほどですね。あまり長く閉じ込めると、アレが何をするかわかりませんから」
「その間に祓う方法を見つけられるのか」
これを問うたのは十文字だ。
「天宿りしたモノの正体がわかれば、ね」
麻來鴉はとんがり帽に手をやりながら、考えるように答えた。
「その天宿りというのは……一体どういった現象なんです?」
煙草を手に取りたい欲求を押さえ付けながら、能見は尋ねた。麻來鴉の黒い瞳が能見を見た。
「地上に邪気が変じた怪異が存在するように、空――上層にも妖(あやかし)めいた住人がいます。普段、彼らは上空をさまよっていますが、まれに彼らと感応する人間がいると、その者に憑依して己の一部にしようとします。これが、天宿りです」
「憑依……何というか、悪霊みたいなものですか」
昔、映画で見た知識をそのまま能見は口に出した。麻來鴉は軽く首を横に振った。
「悪霊より、もっと理屈や説明がつきづらい連中です。種類が多いうえに独自の論理で行動しているので。特徴を一つ一つ分析していくほかありません。今回の件で言えば、まず雨」
「雨……」
「ええ。天宿りは上層の住人と対象になった人間に物理的な接触がなければ起きません。つまり、上層の住人を媒介する物が必要なんです。さらに言えば、その媒介物から憑依した住人の属性を知る事が出来ます。娘さんは、三日前の雨に濡れて帰ってきてから様子がおかしくなったのでしょう? それに、今も天井から滴っている水」
「中のモノは水に属するモノ。水を使ってとり憑いてくる奴という事だな」
「それがわかったからといって、一体何になるんです?」
能見の語気が荒くなった。が、魔女のほうは表情ひとつ変えなかった。
「何もわからないよりは手がかりがあるほうが良いです。それに、まだ確認しなければならない事があります」
「何です?」
「三日前に何がありました?」
自分の顔が強張るのが、能見にはわかった。
「何、というのは……」
「上層の住人が人間に憑依するには、その対象と感応しなければなりません。霊能の素養は大なり小なり誰しもが備えているものですが、たいていは未発達なまま一生を終えます。そして、そういう人間が霊的なモノと感応する時は、たいがい精神的な揺らぎがあるものです。強い不安や、恐怖によって不安定になった精神につけ込み、あいつらはとり憑いてくる」
喉の中がきゅっと締め付けられるようだった。
「何か契機となる出来事があったはずです。お話していただけませんか」
能見はしばし押し黙った。……別に隠すような事ではない。
「わかりました」
能見は話し始めた。
晶子は、妻の連れ子だった。
結婚したのは四年前。晶子はまだ十二歳だった。
初めて会った時、年齢のわりに大人びた印象を受けた事を覚えている。その日は妻の実家の墓の掃除をしに、寺に行っていた。すでに二人の間では結婚を決めていた頃だった。
結婚後の生活は一筋縄ではいかないだろうという予感が、能見にはあった。晶子にしてみれば、小学校を卒業したばかりの時に母親が再婚し、それまで縁もゆかりもなかった人間が形式上父親となるのだ。とても簡単に受け入れられるものではない。
はたして、その予感は当たった。
晶子が家出した回数は数え切れなかった。花瓶や写真立てや、時には包丁まで投げつけられた事もある。とにかく晶子は、能見に心を開く事を嫌がった。能見という、以前とは変わってしまった自らの姓さえも嫌っていた。父親として見られた事は一度もないだろう。能見を見る晶子の目には、いつも嫌悪の感情があった。
「それでも……最近は無闇な諍いはなくなっていました。顔を合わせなければ、争う事もありませんから」
どうしても晶子と話さなければならない時は、いつも妻が間に入っていた。血の繋がりもなく、幼い頃から一緒にいるわけでもない人間が、それなりの年齢の子どもの親になるのは不可能だとさえ思った。時折、気弱になって妻の前でついそんな事を言った日には、普段は見ないような強い口調でたしなめられたものだ。
「……妻が亡くなったのは、ひと月前の事です。交通事故でした」
買い物帰りに、前方不注意の車に撥ねられたのだ。例によって朝、晶子と軽い口論になった日の事だった。
足の下にあったはずの地面がなくなってしまったかのような、そんな虚無感と不安定さが能見を襲った。加害者側は事故当時の心神喪失を訴えていたが、能見は正直なところ全てが上の空だった。能見が生きてきた四十七年の人生が、さながらロボットのように事務的な手続きや弁護士との話し合いを進めてくれたが、心はすでに妻の死という事実によって空っぽになっていて、呆然としたまま日々を過ごしていた。
「そういう姿を見せたのがよくなかったんでしょう。晶子は怒りました。私にも、加害者にも」
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「晶子は、犯人を憎んでいました。私も事故当時、加害者には責任能力があったと今では思っています。晶子は殺すつもりでした。妻が死んでからの間、彼女はそればかり口にしていました」
毎日のように責められた。本当に母を思いやる気があるのなら、何故もっと加害者を追求しないのかと。裁きを受けさせるのが筋だと晶子は繰り返し主張した。能見も内心ではわかっていたし、もっとしっかりしなければならないとも思っていたが、心がすでに折れていた。椅子から立ち上がったり、家の中をちょっと移動したりする事さえ出来なくなった。仕事を休み、家で呆然とするようになった。晶子は何日も家に帰らなくなった。
「あの日……晶子は久しぶりに家に帰ってきました。私は、正直どう接して良いかわからず、あまり心配をさせるなと、父親らしい振る舞いをするのが精いっぱいで、形式的に叱りつけました」
返ってきた言葉には、憎悪が込められていた。
『役立たず。お前と結婚したから母さんは死んだんだ。わたしと母さんだけで十分幸せだったのに。お前なんかいらなかった。わたしたちに関わりのないところで、お前が死ねば良かったんだ』
仮にも娘である一人の人間の中に、僅かな親子の情さえなかったのだと知った時、能見の頭は真っ白になっていた。
「私は……晶子の顔を叩きました。平手で。唇の端が、少し切れていたのを見ました。すかさず、晶子の拳が私の顔を殴って……それから、彼女は荷物を持って出ていきました」
――そうして、晶子は天宿りに遭った。怒り、憎しみ。自身を破滅させかねない黒々とした魂の燃え上がりによって、怪物に魅入られてしまったのだ。
「……」
ひと通り話を聞き終えた魔女は、しかし、押し黙ったままだった。
「私が悪かったのです。私が、もっと晶子と以前から向き合っていれば……」
「足りない」
「え?」
魔女の声は、剣のように冷たかった。
「晶子さんの心が乱れていたのはわかりました。が、それだけでは足りません。もう少し強い因果があるはずですが……」
「麻來鴉?」
十文字が疑問の声を呈したが、彼女は応じなかった。
魔女の黒い瞳が、かすかに青みがかったように見えた。
「まだ話していない事がありますか。それとも……」
耳鳴りがする――庭に差す日が翳った気がした。
「最初から知らなかった?」
何を、と能見が言いかけた時、頬に何かが当たった。
感触は水滴のようだったが、違う気がした。もう少し重たく、粘度がある。右手の甲で頬を拭う。
赤黒い筋がついた。金物のような鉄分の臭い。
――血だ。
「うわっ!?」
能見は思わず天井を見上げた。
そこに、いた。頭から血を被ったような、真っ赤に染まった男が。シャツにもスラックスも、今まさに流されたばかりのような新鮮な血で濡れていて、ぽたり、ぽたりと雫が滴り落ちてくる。
「あ、なっ……」
驚きが喉を締め付けてしまったかのように、声が出ない。天井からぶら下がった男は、目を見開いたまま、じっと能見を見つめている。
血まみれの男の腕が、不意にぐわっと伸びて能見の顔を掴んだ。男の腕が、そのまま能見の頭を引っ張り上げようとする。万力のような、憎しみを感じるほどの力だった。
「――〝斧〟」
呪文とともに、魔女の手が横薙ぎに動いた。血まみれの男の両腕が切断され、能見は忌まわしい手から解放される。途端に、天井の男は消えた。切断された腕も影も形もない。手の甲の血の痕さえ、残っていない。
「どうやら、とり憑かれていたのは娘さんだけではなかったようですね」
言いながらも、魔女は能見を見てはいなかった。まるで何かを待ち構えているかのように、文字が刻まれた平らな石をナイフのように持っていった。
「麻來鴉、説明しろ。何がいるんだ?」
「こいつは空からやってきた奴じゃなさそうね……。十文字、能見さんをお願い。あんたの首飾りを掛けてやってよ。お守りくらいにはなるから」
言われた通り、十文字は自らの首にかけてあった、木製の十字架を能見に手渡した。事態を飲み込めないまま、能見はそれを首にかける。
魔女の瞳は、今や傍目にもわかるほど青々と輝いていた。
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トン、トンと。能見の後ろで戸を叩く音がした。
振り返ると、糸によって閉ざされた仏間の襖が、内側から叩かれていた。
「ねえ……誰かいないの?」
声がした。能見の娘の声が。
「助けて……誰か、開けて……」
「晶子!」
「動かないで!」
麻來鴉が鋭く叫んだのと同じくして。
四つん這いの大きな赤子が音を立てて這ってくるように、血まみれの男が魔女へ向かって突進した。
「ちっ!」
魔女は手に持った石を軽く放り投げた。石に刻まれた文字が青く光り、石から漏れた光が斧の形を象る。手に持った光の斧を麻來鴉は血まみれの男の脳天に叩き付ける。
「がああああああああっ」
叫び声というよりはテレビの砂嵐のような声だった。だが、血まみれの男が麻來鴉に組み付き、抑え込もうとしていた。
「開けて! ねえ開けてよ!」
娘が、晶子が仏間の中から叫んでいる。間違いない。晶子の声だ。中で一体何が起こっているのか。
「助けて、助けてってば!」
魔女は血まみれの男と戦っている。襖を叩く音は激しくなる一方だ――早く助けるんだ。自分がやるしかない――能見は内側から突き動かされるような強い衝動を感じた。私が……
「助けてよ、お父さん!」
私が助けなければ。
次の瞬間、弾かれるように能見は立ち上がり、襖を封じている糸に手を掛けようとした。
「よせ、能見さん!」
それを止めたのは、十文字の太い腕だ。確かに力は強い。が、あの血まみれの男に掴まれた事を思えば、所詮は人間の力だ。
――早く助けないと。私の娘が。
「放してくれ! 娘を助けないと!」
「罠だ! 娘さんにとり憑いているモノが外へ出たがっているんだ!」
「放せ!」
自分でも信じられないほどの力で、能見は十文字を突き飛ばした。私が助ける。私が、私が晶子を助けるのだ。私、私私――――
「能見さん!」
十文字が叫んだ時、能見の手は糸を引き千切って、襖を開けていた。
中では、ぐったりとした晶子が、わずかに顔を上げていた。
「晶子!」
能見は駆け寄り、娘の体を抱き起した。ひんやりと冷たく、雨に降られたかのように湿っている。
「大丈夫か、晶子!」
娘は答えなかった。代わりにその両腕が、能見の体をがっちりと掴んだ。
「捕 ま え た」
耳元で声がした。娘の顔が、泥で作った人形のように、ぐにゃりと歪んでいた。
人間の顔ではなかった。
「うわああああああああっ!!」
自分でも信じられないほどの声で叫んだその瞬間、能見は仏間に出来た水たまりの中に引き摺り込まれた。
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明治時代・鹿鳴館を舞台にした和風シンデレラストーリーです。
明治時代、鹿鳴館が華やいだころの物語。
華族令嬢の宵子は、実家が祀っていた犬神の呪いで声を封じられたことで家族に疎まれ、使用人同然に扱われている。
特に双子の妹の暁子は、宵子が反論できないのを良いことに無理難題を押し付けるのが常だった。
ある夜、外国人とのダンスを嫌がる暁子の身代わりとして鹿鳴館の夜会に出席した宵子は、ドイツ貴族の青年クラウスと出会い、言葉の壁を越えて惹かれ合う。
けれど、折しも帝都を騒がせる黒い人喰いの獣の噂が流れる。狼の血を引くと囁かれるクラウスは、その噂と関わりがあるのか否か──
カクヨム、ノベマ!にも掲載しています。
2024/01/03まで一日複数回更新、その後、完結まで毎朝7時頃更新です。
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