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『雨宿りの女』1
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決して晴れる事のない霧が立ち込めた世界から
闇の住人達は越境を始めていた。
怪物を狩る戦士たちが戦い続けていたが
現世は闇に呑まれつつあった……。
1
一見して、その大男は奇怪な格好をしていた。
二メートル近い筋肉質の体躯をぴっちり包み込む特注サイズのスーツ。今時被っているのは役者か大道芸人くらいのものであろう山高帽。肩のあたりまで伸ばした癖っ毛の金髪。
そして、一番目立つ両の目元と鼻筋の上を通る赤い火傷の痕は、さながら十字架のようだった。
どう見ても尋常の者ではない。普通の社会生活を送っていれば、まず出くわさない人間。
それでも、もはやこの男に頼るほか手段はなかった。事態が、普通の人間である自分の手には負えなくなった今となっては。
「それで、十文字さん。その退魔屋さんという方は、もうこちらへ向かわれているんでしょうか」
能見惣一は、山のような背丈の目の前の男に尋ねた。自分よりもはるかに大きな男だが、不思議と威圧感というものを感じない。それはいかめしい面構えでありながらも、その目に誠実さが見えるからだろうか。
「先ほど駅に着いたと連絡がありました。間もなく到着するでしょう」
《霊能コーディネーター》を名乗る十文字浩太郎という男は、そう言ってカップの中のコーヒーにミルクを注ぐ。白い液体が焦げた茶色のコーヒーに渦を描いた。
自分のほかには娘が一人の暮らしだ。妻が亡くなってから、細々としてものに気を遣うのが億劫になって、客人に出す物もインスタントコーヒーだった。
庭の草花は日差しの中にあって、外を歩けばさぞ気持ちが良いだろう。だが、家の中は異様に静まり返っている。空気は濡れていて重たい。こらえきれず、テーブルの上のマイルドセブンを掴み、一本口に銜えて火を着ける。何故だか煙草まで湿っているような気がして落ち着かない。
「退魔屋という方は、いわゆる神父さんか何かですか」
能見は再び問うた。何か話さなければおかしくなりそうだ。十文字の胸元で数珠に繋がれた木製のロザリオが揺れた。
「退魔屋とひと口にいっても、その実態は様々ですが今回呼んだのは神父ではありません。魔女です」
「魔女? 魔女ですか?」
意外な答えに能見は少々狼狽した。
「でもこういった場合、神父さんや神主さんのような方が来られるんじゃないですか? 前にテレビで見ましたよ」
「仰る通りです。この業界で活躍する退魔屋のうち、ほとんどは聖職に就いています」
「では、そういった方が来られるのが自然では」
「悪魔祓いを行う魔女もおります」
いたって表情を崩さぬまま、十文字は続ける。
「もっとも魔女ですので、教会から正式に承認を得ているというわけではありませんが、腕前は確かです。ヨーロッパで八件、アメリカで十二件、日本では五件、この手の案件を解決しています。しかも、今日すぐに都合がつく。これ以上の適任はいません」
「適任、ですか……」
魔女、という響きがどうにも信用が置けない。陰陽師だの神父だのと言われたほうが、まだ真実味があった。何だか冷たい空気が背筋をなぞっているような気がする。襖の閉ざされた後ろの部屋は仏間である。
心なしか耳鳴りがする。
「その人なら、娘を――……」
その時だった。玄関のインターホンが鳴った。
「……ああ。来たのかな」
なるほど。件の魔女は少なくとも道には迷わないらしい。能見の家は住宅街の中にあって、初めて訪ねてくる人間はたいがい家の位置を見失うというのに。
「能見さん。ちょっと待ってください――」
十文字がそう言って引き留めたような気がしたが、能見は気にしなかった。自分の家に来た人間を十文字に出迎えさせるというのも妙な話だ。それに凄腕という魔女をいち早く見たいという思いもある。
能見は席を立ち、廊下へ出て真っ直ぐ玄関へと向かう。水中に潜った時のような、耳の詰まりを感じる。ちょっと音が聞き取りづらいような気がする。
「能見さん! 待ってください!」
十文字の声がする。その時、もう一度インターホンが鳴った。魔女はどうやらせっかちな人間らしい。玄関の磨りガラス越しに、黒い人影が見える。
「今、開けますよ」
「能見さん――――!」
がちゃり、と玄関のドアを開ける。
「……あれ?」
つい今しがた人影がそこにあったはずだが、玄関の先には誰もいなかった。
「えぇ……」
辺りを見回すが、誰もいない。家の前の道路にすら人影は見当たらない。
「能見さん……」
十文字の声がした。何故だか、少し声が上ずっているようにも聞こえる。
振り返ってみれば十文字の顔はいっそう険しいものとなっていた。額には脂汗さえ浮いている。その手には、さっきまで首に掛けられていたロザリオがあった。
「動かないでください」
「は――?」
何を、と言いかけて、能見は自分の首筋に何かが這いずるような気配を感じた。
百足だ。血のような赤い体の百足。それも一匹ではない。気が付けば手に、足に、体中に百足がまとわりついている。
「あ、あぁ……」
『入った』
ささやくような、子どものような声が耳元で聞こえる。
『入った入った入った入った入った入った入った入った入った』
能見の背中にぴったりと張り付くように、何かがいた。つい今しがた、玄関に立っていた黒い影。今ならわかる。こいつだ。こいつが立っていたのだ――
『入った入った入った入った入った入った入った入った』
黒い影がゆっくりと能見の顔を覗き込む。
能見は、それを見てしまった。
黒いガス状の存在。ちょうど能見と同じくらいの大きさ。手足はなく、ただ大きな目玉が一つ、能見を覗き込んでいる。渦のような模様を持つ目玉がぐるぐると回り続け、ガス状の体からは絶え間なく赤い百足が這い出し、能見の体へ登ってくる。
『入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る』
巨大な目玉がじっと能見を見つめている。目が離せない。渦が回り続けている。毛穴から何かが入ってきているのがわかる。何かおぞましいものが。だが、恐怖で体が硬直して動かない。
「あ、ああ、あっ…………」
声が出ない。喉が締め付けられているかのようだ。
『入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る』
入ってくる。こいつが。あっという間に能見の体へ侵入してくる。
「――〝斧〟」
小さく、だがはっきりと聞こえた声。ぱちん、と小気味の良い音。
直後、何かが回転するような風切り音とともに人の掌くらいの刃が、化け物の目玉に突き刺さった。
『入いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい』
絶叫めいた声が、化け物から聞こえた。ついで全身を支配されるかのような感覚から、能見は解放される。
「正直、道に迷っていたから……」
ふわり、と。
はためいたのは黒マント。頭頂部から折れて枝のように曲がった黒い帽子。揺れる、長い黒髪。
――魔女。
「目印が見つかって助かった」
『入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れたのにににににににににぃいいいいいいいいいぃいいいいいいい』
黒いガスの怪物が、奇声を上げながらぶわっと魔女に向かって襲いかかる。
「せこいんだよ。やる事が」
魔女の手から何かが放られる。石。平べったい石だ。その表面には何か文字のようなものが刻まれている。
「地に戻れ、〝墓〟」
ぱちんと、魔女は指を鳴らす。
次の瞬間、地面へと落ちた平べったい石が高速で回転を始める。竜巻のような渦が作り出され、黒い化け物が一挙に吸い込まれていく。
『入入入入入入入入入入入入入入――――――――』
化け物の声が掻き消えていく。石の回転が止まる頃、化け物の姿は影も形もなかった。
いや、ひとつだけ。石のそばを赤い百足が弱々しく這っていた。だが、その上から黒いブーツの底が下ろされ、百足は踏み潰される。
「十文字から話を聞いてすっ飛んで来たけど、結構悪いね。この家」
つかつかと、魔女は能見のそばに歩み寄り、それから倒れた能見へ手を差し出す。
その顔は、どう見てもまだ十代の少女だ。
「どうも。わたしが退魔屋の七ツ森麻來鴉です。よろしく」
魔女は、そう言ってにかっと笑った。
――能見の娘、晶子がその怪異に出くわしたのは三日前の事だ。
「こちらです」
麻來鴉を家に上げた能見は、そのまま仏間へと彼女を案内した。後ろからは大男の十文字もついてくる。
家の中の空気は相変わらず重たい。以前、妻が買ってきた、ダンスパーティーで踊る二人の男女を象ったオブジェが居間で回り続けている。電子オルゴールだが、壊れてしまって音はもう出ない。その回転も今は鈍く見える。正体不明の化け物は魔女が退治してくれたようだが、それだけでは事態は解決していないようだ。
「まずは、ご自身の目でご覧になってください」
言って、能見は襖を開けた。心なしか、腹腔に引っ掛かるものを感じたのは、またあの光景を見なければならないからだろうか。
仏間の空気は、より一層湿り気を帯びて重たかった。
部屋には妻の位牌が置かれた仏壇と洋服箪笥があり、そして部屋の中央、ちょうど仏壇の前に当たる位置には制服姿の少女が倒れている。
天井から、ちょうど少女の上へ雨のような雫が、絶える事なく落ち続けている。が、不思議な事に少女の制服は濡れた様子がなく、また少女の下には水が小さな池のように広がっている。さながら、彼女は水たまりの中で眠っているかのようだった。
「娘の晶子です」
やっとの思いで、能見は言葉を捻り出した。この部屋に入ると口が重い。いや、体もだ。ずぶ濡れになったように冷気が体を襲う。
「三日前に雨の日に、娘は雨に降られて帰ってきました。全身びしょびしょで、早く着替えるように言ったんですが、そのままこの部屋で倒れて……以来、このままです」
「起こせないんですか? ほかの部屋に運んだりとかは」
娘から視線を外さず、麻來鴉が言った。答えたのは十文字だ。
「彼女は目覚めない。運ぼうにも岩みたいに重たくて、動かせない。それに下手に触ると彼女に憑いているモノが邪魔をする」
「憑いているモノ……ね。ちなみに上の部屋は?」
「晶子の部屋ですが……」
「なるほど」
頷いて、魔女は懐から白い手袋を取り出し、右手に嵌めるとそのまま晶子の二の腕を持ち上げようとした。
「うっ……」
能見の耳鳴りがひどくなったのはその時だ。三日前も同じだった。頭が割れそうな金属音とともに、全身に何か重たいものがのしかかる。
「は、あっ、ぐううう」
胸が苦しい。思わずうずくまった能見は、無意識に部屋の隅に目をやった。前と同じなら、そこにいるはずだった。
……いた。部屋の隅。洋服箪笥の前。うっすらと半透明な女の足が見える。その足は素足で、肌は灰色のようだ。それを見ていると、何故だがどんどん胸の中に気持ちの悪いモノが広がっていく気がする――……
「麻來鴉、やめろ。依頼人に影響が出ている」
十文字が鋭く言った。魔女は返答する代わりに、人差し指を立てる。まるで、待て、と言っているような。
再びマントの内側を探り、次に彼女が取り出したのは、あの平たい石だった。
「〝探れ〟」
右手は晶子の二の腕を掴んだまま、左手で彼女の胸元に石を置き、指を鳴らす。
が、次の瞬間、石にはひび割れが起こり、バン! と音を立てて砕け散る。
「――っ!」
同時に、突き飛ばされるように麻來鴉はよろけた。魔女の手が娘から離れ、能見を襲っていた重くのしかかってくるような感覚も消える。
部屋の隅に、もう女の足はない。
「む……」
身を起こし、麻來鴉は手袋を取った。つい一分前まで乾いていたはずの白い手袋が、今は水が滴るほどぐっしょり湿っている。麻來鴉はそれをジップロックのついたビニール袋に入れて封をする。
「何か、わかりましたか……?」
ようやく立ち上がった能見は、魔女に尋ねる。
「彼女に憑いているモノが、この家に邪気を呼び込んでいるのは確かです」
淡々と、麻來鴉は言った。
「邪気?」
「ほら。さっき玄関で片付けた黒いモヤモヤ。あれは邪気の塊です。町中に偏在している人間のマイナスな感情が、器物に溜まって邪気へと育ち、邪気は集って怪異へと変ずる。それもこれも闇(やみ)霧(きり)の世界からの影響があるからですが……」
「闇霧……? 一体何の話です?」
「麻來鴉」
十文字がたしなめるように言い、麻來鴉も軽く手を挙げた。
「失礼。今はあまり関係のない話です。娘さんに憑いているモノについてですね」
娘と同い年くらいの少女が『娘さん』という様は何か奇妙なようにも思えたが、今はそんな事はどうでもいい。
「退魔屋さん……娘に、一体何が起こったんです?」
「《天宿り》です」
魔女は言った。
「娘さんは天から降ってきたモノにとり憑かれています」
闇の住人達は越境を始めていた。
怪物を狩る戦士たちが戦い続けていたが
現世は闇に呑まれつつあった……。
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一見して、その大男は奇怪な格好をしていた。
二メートル近い筋肉質の体躯をぴっちり包み込む特注サイズのスーツ。今時被っているのは役者か大道芸人くらいのものであろう山高帽。肩のあたりまで伸ばした癖っ毛の金髪。
そして、一番目立つ両の目元と鼻筋の上を通る赤い火傷の痕は、さながら十字架のようだった。
どう見ても尋常の者ではない。普通の社会生活を送っていれば、まず出くわさない人間。
それでも、もはやこの男に頼るほか手段はなかった。事態が、普通の人間である自分の手には負えなくなった今となっては。
「それで、十文字さん。その退魔屋さんという方は、もうこちらへ向かわれているんでしょうか」
能見惣一は、山のような背丈の目の前の男に尋ねた。自分よりもはるかに大きな男だが、不思議と威圧感というものを感じない。それはいかめしい面構えでありながらも、その目に誠実さが見えるからだろうか。
「先ほど駅に着いたと連絡がありました。間もなく到着するでしょう」
《霊能コーディネーター》を名乗る十文字浩太郎という男は、そう言ってカップの中のコーヒーにミルクを注ぐ。白い液体が焦げた茶色のコーヒーに渦を描いた。
自分のほかには娘が一人の暮らしだ。妻が亡くなってから、細々としてものに気を遣うのが億劫になって、客人に出す物もインスタントコーヒーだった。
庭の草花は日差しの中にあって、外を歩けばさぞ気持ちが良いだろう。だが、家の中は異様に静まり返っている。空気は濡れていて重たい。こらえきれず、テーブルの上のマイルドセブンを掴み、一本口に銜えて火を着ける。何故だか煙草まで湿っているような気がして落ち着かない。
「退魔屋という方は、いわゆる神父さんか何かですか」
能見は再び問うた。何か話さなければおかしくなりそうだ。十文字の胸元で数珠に繋がれた木製のロザリオが揺れた。
「退魔屋とひと口にいっても、その実態は様々ですが今回呼んだのは神父ではありません。魔女です」
「魔女? 魔女ですか?」
意外な答えに能見は少々狼狽した。
「でもこういった場合、神父さんや神主さんのような方が来られるんじゃないですか? 前にテレビで見ましたよ」
「仰る通りです。この業界で活躍する退魔屋のうち、ほとんどは聖職に就いています」
「では、そういった方が来られるのが自然では」
「悪魔祓いを行う魔女もおります」
いたって表情を崩さぬまま、十文字は続ける。
「もっとも魔女ですので、教会から正式に承認を得ているというわけではありませんが、腕前は確かです。ヨーロッパで八件、アメリカで十二件、日本では五件、この手の案件を解決しています。しかも、今日すぐに都合がつく。これ以上の適任はいません」
「適任、ですか……」
魔女、という響きがどうにも信用が置けない。陰陽師だの神父だのと言われたほうが、まだ真実味があった。何だか冷たい空気が背筋をなぞっているような気がする。襖の閉ざされた後ろの部屋は仏間である。
心なしか耳鳴りがする。
「その人なら、娘を――……」
その時だった。玄関のインターホンが鳴った。
「……ああ。来たのかな」
なるほど。件の魔女は少なくとも道には迷わないらしい。能見の家は住宅街の中にあって、初めて訪ねてくる人間はたいがい家の位置を見失うというのに。
「能見さん。ちょっと待ってください――」
十文字がそう言って引き留めたような気がしたが、能見は気にしなかった。自分の家に来た人間を十文字に出迎えさせるというのも妙な話だ。それに凄腕という魔女をいち早く見たいという思いもある。
能見は席を立ち、廊下へ出て真っ直ぐ玄関へと向かう。水中に潜った時のような、耳の詰まりを感じる。ちょっと音が聞き取りづらいような気がする。
「能見さん! 待ってください!」
十文字の声がする。その時、もう一度インターホンが鳴った。魔女はどうやらせっかちな人間らしい。玄関の磨りガラス越しに、黒い人影が見える。
「今、開けますよ」
「能見さん――――!」
がちゃり、と玄関のドアを開ける。
「……あれ?」
つい今しがた人影がそこにあったはずだが、玄関の先には誰もいなかった。
「えぇ……」
辺りを見回すが、誰もいない。家の前の道路にすら人影は見当たらない。
「能見さん……」
十文字の声がした。何故だか、少し声が上ずっているようにも聞こえる。
振り返ってみれば十文字の顔はいっそう険しいものとなっていた。額には脂汗さえ浮いている。その手には、さっきまで首に掛けられていたロザリオがあった。
「動かないでください」
「は――?」
何を、と言いかけて、能見は自分の首筋に何かが這いずるような気配を感じた。
百足だ。血のような赤い体の百足。それも一匹ではない。気が付けば手に、足に、体中に百足がまとわりついている。
「あ、あぁ……」
『入った』
ささやくような、子どものような声が耳元で聞こえる。
『入った入った入った入った入った入った入った入った入った』
能見の背中にぴったりと張り付くように、何かがいた。つい今しがた、玄関に立っていた黒い影。今ならわかる。こいつだ。こいつが立っていたのだ――
『入った入った入った入った入った入った入った入った』
黒い影がゆっくりと能見の顔を覗き込む。
能見は、それを見てしまった。
黒いガス状の存在。ちょうど能見と同じくらいの大きさ。手足はなく、ただ大きな目玉が一つ、能見を覗き込んでいる。渦のような模様を持つ目玉がぐるぐると回り続け、ガス状の体からは絶え間なく赤い百足が這い出し、能見の体へ登ってくる。
『入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る』
巨大な目玉がじっと能見を見つめている。目が離せない。渦が回り続けている。毛穴から何かが入ってきているのがわかる。何かおぞましいものが。だが、恐怖で体が硬直して動かない。
「あ、ああ、あっ…………」
声が出ない。喉が締め付けられているかのようだ。
『入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る入る』
入ってくる。こいつが。あっという間に能見の体へ侵入してくる。
「――〝斧〟」
小さく、だがはっきりと聞こえた声。ぱちん、と小気味の良い音。
直後、何かが回転するような風切り音とともに人の掌くらいの刃が、化け物の目玉に突き刺さった。
『入いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい』
絶叫めいた声が、化け物から聞こえた。ついで全身を支配されるかのような感覚から、能見は解放される。
「正直、道に迷っていたから……」
ふわり、と。
はためいたのは黒マント。頭頂部から折れて枝のように曲がった黒い帽子。揺れる、長い黒髪。
――魔女。
「目印が見つかって助かった」
『入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れ入れたのにににににににににぃいいいいいいいいいぃいいいいいいい』
黒いガスの怪物が、奇声を上げながらぶわっと魔女に向かって襲いかかる。
「せこいんだよ。やる事が」
魔女の手から何かが放られる。石。平べったい石だ。その表面には何か文字のようなものが刻まれている。
「地に戻れ、〝墓〟」
ぱちんと、魔女は指を鳴らす。
次の瞬間、地面へと落ちた平べったい石が高速で回転を始める。竜巻のような渦が作り出され、黒い化け物が一挙に吸い込まれていく。
『入入入入入入入入入入入入入入――――――――』
化け物の声が掻き消えていく。石の回転が止まる頃、化け物の姿は影も形もなかった。
いや、ひとつだけ。石のそばを赤い百足が弱々しく這っていた。だが、その上から黒いブーツの底が下ろされ、百足は踏み潰される。
「十文字から話を聞いてすっ飛んで来たけど、結構悪いね。この家」
つかつかと、魔女は能見のそばに歩み寄り、それから倒れた能見へ手を差し出す。
その顔は、どう見てもまだ十代の少女だ。
「どうも。わたしが退魔屋の七ツ森麻來鴉です。よろしく」
魔女は、そう言ってにかっと笑った。
――能見の娘、晶子がその怪異に出くわしたのは三日前の事だ。
「こちらです」
麻來鴉を家に上げた能見は、そのまま仏間へと彼女を案内した。後ろからは大男の十文字もついてくる。
家の中の空気は相変わらず重たい。以前、妻が買ってきた、ダンスパーティーで踊る二人の男女を象ったオブジェが居間で回り続けている。電子オルゴールだが、壊れてしまって音はもう出ない。その回転も今は鈍く見える。正体不明の化け物は魔女が退治してくれたようだが、それだけでは事態は解決していないようだ。
「まずは、ご自身の目でご覧になってください」
言って、能見は襖を開けた。心なしか、腹腔に引っ掛かるものを感じたのは、またあの光景を見なければならないからだろうか。
仏間の空気は、より一層湿り気を帯びて重たかった。
部屋には妻の位牌が置かれた仏壇と洋服箪笥があり、そして部屋の中央、ちょうど仏壇の前に当たる位置には制服姿の少女が倒れている。
天井から、ちょうど少女の上へ雨のような雫が、絶える事なく落ち続けている。が、不思議な事に少女の制服は濡れた様子がなく、また少女の下には水が小さな池のように広がっている。さながら、彼女は水たまりの中で眠っているかのようだった。
「娘の晶子です」
やっとの思いで、能見は言葉を捻り出した。この部屋に入ると口が重い。いや、体もだ。ずぶ濡れになったように冷気が体を襲う。
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「起こせないんですか? ほかの部屋に運んだりとかは」
娘から視線を外さず、麻來鴉が言った。答えたのは十文字だ。
「彼女は目覚めない。運ぼうにも岩みたいに重たくて、動かせない。それに下手に触ると彼女に憑いているモノが邪魔をする」
「憑いているモノ……ね。ちなみに上の部屋は?」
「晶子の部屋ですが……」
「なるほど」
頷いて、魔女は懐から白い手袋を取り出し、右手に嵌めるとそのまま晶子の二の腕を持ち上げようとした。
「うっ……」
能見の耳鳴りがひどくなったのはその時だ。三日前も同じだった。頭が割れそうな金属音とともに、全身に何か重たいものがのしかかる。
「は、あっ、ぐううう」
胸が苦しい。思わずうずくまった能見は、無意識に部屋の隅に目をやった。前と同じなら、そこにいるはずだった。
……いた。部屋の隅。洋服箪笥の前。うっすらと半透明な女の足が見える。その足は素足で、肌は灰色のようだ。それを見ていると、何故だがどんどん胸の中に気持ちの悪いモノが広がっていく気がする――……
「麻來鴉、やめろ。依頼人に影響が出ている」
十文字が鋭く言った。魔女は返答する代わりに、人差し指を立てる。まるで、待て、と言っているような。
再びマントの内側を探り、次に彼女が取り出したのは、あの平たい石だった。
「〝探れ〟」
右手は晶子の二の腕を掴んだまま、左手で彼女の胸元に石を置き、指を鳴らす。
が、次の瞬間、石にはひび割れが起こり、バン! と音を立てて砕け散る。
「――っ!」
同時に、突き飛ばされるように麻來鴉はよろけた。魔女の手が娘から離れ、能見を襲っていた重くのしかかってくるような感覚も消える。
部屋の隅に、もう女の足はない。
「む……」
身を起こし、麻來鴉は手袋を取った。つい一分前まで乾いていたはずの白い手袋が、今は水が滴るほどぐっしょり湿っている。麻來鴉はそれをジップロックのついたビニール袋に入れて封をする。
「何か、わかりましたか……?」
ようやく立ち上がった能見は、魔女に尋ねる。
「彼女に憑いているモノが、この家に邪気を呼び込んでいるのは確かです」
淡々と、麻來鴉は言った。
「邪気?」
「ほら。さっき玄関で片付けた黒いモヤモヤ。あれは邪気の塊です。町中に偏在している人間のマイナスな感情が、器物に溜まって邪気へと育ち、邪気は集って怪異へと変ずる。それもこれも闇(やみ)霧(きり)の世界からの影響があるからですが……」
「闇霧……? 一体何の話です?」
「麻來鴉」
十文字がたしなめるように言い、麻來鴉も軽く手を挙げた。
「失礼。今はあまり関係のない話です。娘さんに憑いているモノについてですね」
娘と同い年くらいの少女が『娘さん』という様は何か奇妙なようにも思えたが、今はそんな事はどうでもいい。
「退魔屋さん……娘に、一体何が起こったんです?」
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ある夜、外国人とのダンスを嫌がる暁子の身代わりとして鹿鳴館の夜会に出席した宵子は、ドイツ貴族の青年クラウスと出会い、言葉の壁を越えて惹かれ合う。
けれど、折しも帝都を騒がせる黒い人喰いの獣の噂が流れる。狼の血を引くと囁かれるクラウスは、その噂と関わりがあるのか否か──
カクヨム、ノベマ!にも掲載しています。
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