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『翼とヒナゲシと赤き心臓』27

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 ――眠りから目覚める時のように、俺の意識は戻る。
 全身に風を感じていた。どころか、自身が風を切っていく感覚がある。時折両腕が自然に動く。まるで泳ぎを覚えた時のように。水の中でどうすべきかわかっているように、風の中でどう動くを体が理解している。 
 ばさり、と羽ばたきが聞こえる。大きい。まるですぐそばに鳥がいるかのような。
 不意に呻き声が聞えた。それでようやく、俺は胸元の重みを思い出す。
「ト、ビ……?」
 レベッカ。気が付いたか。そう言おうとして、俺は口を動かす。声が出ない。代わりに聞こえたのは奇妙にしゃがれた声だ。まるで、鳥の鳴き声のような。


「これは……」
 レベッカの呟きが風に乗って流れる。
 俺は、飛んでいた。風を切っているのは間違いなく俺の翼だ。どういう理屈か、レベッカは俺の体に括りつけられているようだ。不思議そうに触る彼女の手がくすぐったくて、俺は思わず体を揺らす。
「きゃ!」
 やばい。何とか体勢を立て直す。生まれつき鳥だったかのようだ。人間の体を動かす感覚で鳥となった俺の体は動いている。
「……まるでシンドバッドね」
 小さく、だが少しだけ楽しそうに、レベッカが言った。何か答えようと思って、しかし思うように声が出せない。
 まあ、この様子なら傷は塞がっているようだ。


 ――……良かった。
 風は穏やかだ。遠くに見える稜線の上には太陽が輝き、麓の深緑が美しい。
 このままずっと飛んでいたいような、そんな気持ちになる。このまま、この風に乗ったまま、ずっと――……
「ところで、話は変るんだけど」
 レベッカが、真剣味を帯びた声で言った。
「わたし達、どこに向かっているの?」
 
 何もかもが光の中に呑み込まれる。目を開けた時、叉反は自分の状況が理解出来なかった。目に映るのは空だ。雲と、青い空。
 意識がはっきりしてきて、身を起こす。
 辺りは何もかもが灰色の瓦礫だった。かつて清掃工場だった施設は半壊していた。何度か周囲を見回して、おそらくは一階のどこかのフロアだろうと当たりをつける。
 体は元に戻っている。さっきまで対峙していた白王の姿は見当たらない。
「おい……」


 叉反は内なる怪物に話しかける。だが、返事はない。気配も感じられない。服の上に赤い膜のようなものが残っていたが、手で触ると溶けてしまった。
 虚脱感がひどい。どうやら力を使い切ったようだ。超人となった時に感じられていた、あの底知れぬエネルギーを今は感じない。
 左手にはあの〝造られた悪竜〟が握られている。
 生き残った。だが……
「仁……」
 気持ちが焦る一方で、頭の中の冷徹な部分が囁く。怪物の声じゃない。叉反自身の声。この状況を見れば、自然と想起される声。だが、叉反はそれを振り払う。根拠もなく。だが決して認めてはならない。
 仁は…仁はまだ……
「――何てツラだ、そりゃ」
 その声は叉反の後ろから聞こえてきた。低く、機械加工されたかのような声。一度聞けば忘れない、あの男の声。


 咄嗟に叉反は立ち上がり悪竜を両手で構える。その動作だけでも精一杯だ。だが……
「おい、そいつを下ろせ。今のお前になんぞ興味はない」
 男は、つくづく不愉快そうに言った。素手だった。武器は何一つ持っていない。男が纏う中世貴族然としたコートがはためく。その肩に小さな子供が抱えられていた。
「そら、返してやるよ。受け取れ」
 男が無造作に子供を放り投げる。思わず悪竜を放り捨て走り、その子の体をキャッチする。四枚の翅に、触角。何事もなかったかのように寝息を立てている。
 仁。よかった。無事だった。
「……お前が助けたのか?」
「こっちの都合だ。おかげで面白い物を見せてもらった」
 男――破隠は機械音混じりの声でそう言った。


「次に会った時はこの間の続きをするつもりだったが、お前がそんなんじゃな。まあ、今日のところはお預けという事にしておいてやるよ」
「また次があるとでも思っているのか」
「さあ。だがお前は嵐場を倒し、今日もまた生き残った。死に辛い体さえ手に入れて、な。運が良ければ〝次〟は存在する。その時は、せいぜい楽しませてもらおう」
 言って、破隠はコートを翻した。まだ建物が残っているほうへ、その足は進んでいく。
 と、途中で不意に男は歩みを止める。背を向けたままの男から声がした。
「おい、探偵。お仲間が来たようだぜ」


 仲間……。顔を上げる。辺りを見回す。破隠が歩き出す。叉反は目を凝らした。
 ――気が付いた。上空をふらふらと飛ぶ大きな影。猛禽だ。あれは……鳶ではないか。
 大きな鳶の腹には、緑色に発光する電流で人が一人括りつけられていた。赤い髪に、ヒナゲシの花が揺れる女性が。
 鳶が、叉反のほうへと向かって降りてくる。翼が羽ばたく。
 穏やかな風が吹いてくる。
 腕の中で、仁が体を動かした。


    

 ――世界各所にある研究施設に、彼の〝私室〟は必ず一つは設けられた。
そのうちの一室である部屋の中で、ライムントはカップを口に運ぶ。ほどよい甘味が口の中に広がり、彼の気分は満たされる。背中から生えた蛇の頭を撫で、今回の実験で得た資料に目を通す。
ノックの音が聞こえたかと思うと、ライムントが何か言う前にドアが開いた。誰であれ、最高幹部たるライムントの部屋に断りもなく立ち入る事は出来ない。結社内規定における最高ランクのキーを持つのでなければ。
「全く。好き勝手やってくれたな」
 部屋に入ってきたその男は、ずかずかと歩きながらライムントのすぐ傍にまで来て言った。
「せっかくあの探偵を結社から遠ざけるように手配したのに、まさか貴様らのチームが実験材料に使うとはな。おまけに探偵のみならず実験に巻き込んだ人間や、例の脱走者まで逃したそうじゃないか。納得のいく説明を聞きたいものだな」


 男は一気にまくし立てた。背中の蛇が頭を男のほうへともたげる。ライムントは資料から目を離さぬまま、言った。
「ほとんど君が見たままの通りだ。わかりそうなものだが」
「……貴様、ふざけるのも大概にしろよ」
「別にふざけてなどいない。『実験を継続する』、ようはそういう事だ。しばらく彼らには泳いでもらう」
「腹の中にストーンやアンタレスを抱えさせたままか? 自分の理屈がどこまで通じると思っている」
 どこまでも。ライムントは胸の裡で答える。そうであってほしいものだ。
「例の試作機も壊したそうじゃないか。あれはお前が操作していたはずだな」
「どうも、遠隔操縦という奴は苦手だ。機械自体の出来は良かったと思うがね」
「今回の一件は必ず響くぞ。騒乱計画に」
 男が一歩近づいた。ライムントは見向きもしない。


「奴らが計画の致命傷となった場合、どう責任を取るつもりだ?」
 ライムントは返答を考えようとして――そうする前に脊髄反射的に閃いた事を口にしていた。
「どうもこうもない。騒がしい祭りがさらに大騒ぎになろうと何の支障があるものか。飛び込み客くらい受け入れてやれ」
 男が沈黙した。長年の経験から、ライムントはこの沈黙が、怒りに震えながらも爆発させる事が出来ないという、ライムントにしてみれば愚かしい沈黙である事を知っていた。怒りの感情など生まれてこのかた覚えた事がないが。
「――蛇は、そそのかしてイヴにリンゴを喰わせたそうだが」
 ややあって、男が言った。
「お前にその手際を期待するのは無駄なようだな。とても話を聞いていられない」
「唆す、など時間の無駄だ。リンゴがある。人がいる。つべこべ言わずに食べればいい。私のために」
 男のため息混じりの舌打ちが聞こえた。何か蹴っ飛ばしたか、払い除けたか、そんなような物音がして扉が開き、閉じる。


 やれやれ。相変わらず胆の小さい奴だ。
 ライムントは資料をめくった。データが必要なのだ。時間はあまりない。そもそもライムントの個人的な興味を全て研究し尽くすには一般的な人間の寿命では足りないし、騒乱計画開始までに準備しておきたい事もある。裏で進めていれば順調に進むだろうが、しかし全てが予定調和に終わるのは、あまりにも退屈だ。ああ、こんな事を言うとまた奴の怒りを買うだろうが。
 せっかくの祭りだ。ハプニングの一つくらい、楽しみたいじゃないか。



 ――地上に下りた途端、変身が解けた。体の形が変わっていく感覚が、さっきよりもリアルに感じられた。骨を組み替えられ、肉を溶かされては固められて、その度に血管や内臓が破けたり再生したりする。何とか元の姿に戻ったあと、俺はゲーゲーと吐いた。再生した内臓が出るかと思ったほどだ。
 その後、工場のすぐ近くにまで来ていたレスキューに救助され、俺達はナユタ新市街の病院へと運ばれた。まあ、もっともその時点で俺の意識はすでになく、目が覚めたのは、何と事件から五日も経ったあとだった。


 菊月環境美化センターはほとんど跡形もなく壊滅したらしく、そのせいで事件の手がかりがほとんど見つかっていないようだ。俺に聞き込みにきた警察の人には、何とか俺から話を引き出そうとしていたが、体は絶不調でたいていは寝ていなければならず、おまけに頭の中で話を纏められなかった。何とか整理出来た部分――事件の始まりの辺りから清掃工場に連れ込まれた辺りまでを話してみたが、信じてくれた様子はない。まだ混乱してるか、さもなきゃ妄想だと取られているらしくて、それから俺は体調不良を理由に面会を断っている。
 他の三人とは入院してから顔を合わせていない。皆それぞれ治療に専念する必要があるのだろう、と思っていたら、探偵が見舞いにやってきた。屋上で日に当たっていたら、ふらっと現れたのだ。


「……何してるんだ、あんた」
「退院した」
 何でもない事のように探偵はそう言った。
「退院って……あんた、俺くらいにはひどい状態だったんじゃないのか」
「昔から体は頑丈に出来ていてね」
 何言ってやがるんだ、こいつ。タフガイぶりやがって。たく。
「そうかよ。で、一体何の用だよ探偵さん。わざわざ屋上にまでやってきて」
「顔を見に来たんだ。見舞いだよ」
 言いながら、探偵は俺の横に腰を下ろす。近くに灰皿を見つけて、懐から煙草を取り出す。
「吸っても?」
「どうぞ。俺は気にしない」
 叉反は煙草に火を着ける。嗅ぎ覚えのある匂いが漂ってくる。
 どちらも口を利かなかった。太陽は暖かく、空は青く。時間の刻みがゆっくりになったような、そんな気がした。


「……助けたな」
 不意に、叉反が言った。
「え?」
「いや、お前がさ」
 紫煙を燻らせながら、叉反は言う。
「俺に言っただろう。あの時。レベッカを助けてくれ、と」
「……言ったな」
 あの時は必死だった。ただ、必死だっただけだ。
「でもお前は、結局自分の力で彼女を助け出した」
「やめろよ。あんたが白王を止めてなきゃうまくいかなかった話だ。別に俺の手柄ってわけじゃない」
 叉反は何も言わなかった。灰を灰皿に落とし、また銜える。
 ここからだと、ナユタの街が見える。ナユタ新市街。この国の最先端を担う街。あの黒焦げの新宿に代わる、新時代の希望の街。
「俺はさ、ここへ逃げてきたんだ」
 何にも考えないまま、俺は言った。


「周りの奴と同じように出来ないのが嫌でさ。つってもまあ、この手じゃ限界はあるんだけど。工場長からどやされたり、大学に進んだ奴等からも笑われたりしてるうちに、やる気なくしてってさ。どうでも良くなっちまったっていうか……」
 それに、あいつ……。
「家族仲悪いから家に帰るのもめんどくさくてさ。それで、ずっと行きたかったんだよ、ナユタに。新しい街に行けば何もかも上手くいくんだって、そう思ってた」
 ――そうして二年前のあの日。
「大口の仕事で、俺はミスをやらかした。気を付けてりゃ何て事はない、回避出来るミスだった。でも俺はその時、新宿を出る事で頭が一杯だった。こんな仕事してる場合じゃない、なんて思ってた。そしたら、思ってもないほどひどいのをやらかした。工場長はブチ切れ、俺は工員全員から総スカンを喰らったよ。でも、その時俺は……」


 ――いい切っ掛けだ。
 ――上等じゃないか。俺一人のミスで大騒ぎしやがって。
 ――ここにいても俺の未来はないんだ。だったら……
「工場を飛び出してさ、荷物適当にまとめて、歩き出したんだよ。そしたら」
『どこ行こうってんだ』と不意に声をかけられた。嫌な予感がした。いるはずないと思った。顔を上げると、そこに工場長がいた。
『まだ仕事が残ってるだろうが。そんな荷物抱えてどこ行くつもりだ、お前』
 そこから先は思い出したくない。最低の、半端者の言葉だ。
 今さら、なかった事には出来ない言葉だ。
「『俺は飛ぶんだ』ってそう言った。こんな下らねえ街は出て行ってやるって」
 何言ってやがるんだ。
 下らねえのは、俺だろう。


「たぶんあの時、工場長は俺を見捨てた。ここで仕事一つ満足に出来ねえのに、新しい場所で何をやるんだって言われて。答えらんなかった。ナユタに来てやりたい事なんて別になかった。ただナユタに来れば運が向くんじゃねえかと、そう思ってただけだった!」
 そこから先は、あまり話す事はない。
 旧市街で勤め始めた仕事は、新宿よりさらに悪かった。あそこじゃ俺は人間扱いさえされなかった。心の中で、それも当然だと思う自分がいた。
 だって、俺は逃げ出したんだから。
「あの時だってそうだ。レベッカが命がけで助けてくれたのに、俺は一度逃げようとしたんだ。最悪だ。俺はよりによって命の恩人まで見捨てようとしたんだ」
「……お前は彼女を助けた」
 叉反が静かに言った。


「それは事実だ。お前がいなければ彼女は今頃結社の手に落ちていた」
「違うだろ。助けるのが当たり前なんだ。俺は一度助けられているんだ。たとえ命に代えても、助けなきゃいけなかったんだ!」
 思わず、俺は怒鳴り返していた。
「なあ、いいか。俺はもう許されないんだよ。仕事から逃げて、恩を仇で返そうとして。俺は最低なんだよ。命かけてでも償わなきゃいけないんだよ。俺は、俺は……」
――だからお前は――
「俺は、ただのろくでなしだ」
 今までも。これからも。俺はずっと。ずっとだ。
 叉反は灰皿に煙草を押し込んだ。それから立ち上がった。
 その目はずっとナユタの街へと向けられている。
「お前は許されない」
 ぽつりと、叉反は言った。
 わかっていたとはいえ、それでも言葉が出ない。ああ、そうだ。俺はこうでなきゃいけない。


「何故ならお前自身がお前を許さないからだ。お前は過去の過ちを今も丁寧に持ち続け、自分自身に突き付けているからだ。他に、何も出来ないからだ。退場さえも。今のお前には」
 叉反はこちらを見ない。その目はずっと、どこか他のところへ向けられている。
「だが、退けないのならば進む事は出来るはずだ。その場で立ち止まるだけでなく、どこかへ一歩でも」
「……馬鹿言えよ。進むのなんて、もっと難しいだろ」
「簡単だとは言わない。道が見えなかったり、歩く力や、勇気が足りなかったり。進めない事もたくさんある。進むのは、本当に難しい」
 叉反は懐に手をやった。
「それでもお前には進んでほしい。過去がお前を苛み、苦しめたとしても。道を見出す事を諦めないでほしい。諦めなければ歩き出す事が出来る。その道を、過去の償いではなく、未来のために歩める日がきっとくる」
 ベンチの上に、叉反は何かを置いた。小さな紙切れ。


「道を探してくれ、トビ。お前はもう逃げてない。その事を信じてくれ」
 言って、叉反はそのまま出入り口のほうへと歩いていった。
 俺は何も考えられないでいた。
 ……道を探せだって?
 俺には、もう……
 唐突に風が吹いた。突風めいた、少し強い風。叉反の置いた紙切れがふわりと浮かぶ。俺は慌ててそれを、右手の爪で摘み取る。
 俺は紙切れをじっと見つめる。簡素な文字。簡潔な情報。
 進むべき道はあるのだろうか。
 俺は進んでもいいのだろうか。


 病室へ戻って、少し眠る。夢は見ない。覚醒して瞼の裏側を見て、目を開ける。
 気持ちは晴れない。いや、晴れないというか、曇り空のようにはっきりしない。
 天井を見るのにも飽きて、俺は部屋を見回す。個人部屋だ。ベッドと洋服箪笥、机にもなる小さな棚、洗面台、窓。ブラインドが下ろしてあって、部屋は暗い。上げると、夕日が眩しかった。
多少狭い事を除けば、俺の部屋より断然ましだ。
 ……と。
 俺は棚の上に何かあるのに気が付いた。
 三つ折りにされたそれを広げてみる。綺麗な字で手書きされた、手紙だ。


『本当は直接お礼を言おうと思ったけど、寝ているようなので手紙を残していきます。
 助けてくれて本当にありがとう。元はといえば巻き込んだわたしに、こんな事を言う資格はないかもしれないけれど、貴方が来てくれなければどうにもならなかった。
貴方の胸のストーンだけど、こんな事を書く資格は本当にないけれど、残念ながら今すぐに取り除く事は出来ない。結社の施設か、それ並みの設備があれば可能だけど、今は場所を押さえるのも難しい。
 
 本当に、ごめんなさい。

 必ずあなたを元の体に戻すから、もう少しだけ待っていて。
 
 準備が出来たら、必ずまた、あなたに会いに行く。
 その時まで。
                             レベッカ』


 読み終えたあとの感情を何と言えばいいのか。
 明確な形の見えない、妙な気分だ。
 彼女は、行ってしまった。再会を期するような事は書いてあるものの、別れの瞬間に顔を合わせられなかったという事実が、霧のように心に立ち込める。
「ああ、くそ」
 俺は手紙を棚の上に置いた。スリッパを履き、部屋を出る。
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