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『翼とヒナゲシと赤き心臓』20

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20


 見ればわかる。あれは生身の体で防げるものではない。銃があれば別だが、下手に攻撃を加えればこちらの手が砕ける。かといって、奴らの攻撃を躱し続けるのは――
『手は一つしかないぞ。わかるだろう? 何をすべきか』
 囁きが聞こえる。怪物の囁きが。燃えるような赤い星が、まるで心臓のように脈打っている。
「……黙れ」
 わかっている。身を委ねてはいけない。怪物の囁きに応じるのは、魂を差し出すに等しい事だ。怪物そのものになってしまうという事だ。だが。


 葛藤している暇はなかった。スパニッシュローズの影が雷を伴って跳躍する。同時に赤茶の重甲冑が地を蹴った。トウリンの速度は増しているように思えたが、ゴククはむしろスピードが落ちている。だが安心出来るものではなかった。遅くなったとはいえ、それはあくまでさっきのような目で追えないスピードではないというだけだ。力強く地を蹴って灰に足を取られる事もなく、まるで戦車のように甲冑は迫ってくる。拳が風を切った。さながら金棒を振るっているかのよう。反撃せず距離を取る。鎌はまだ襲ってこない。だが、どちらにも意識を配るのは困難だ。甲冑はその重さをものともせず、拳を放った体勢からくるりと回りつつ足払いを放ってくる。足場が悪い。半歩下がる。ジャブ。スウェーで躱す。赤茶の刃が光る――


「おらァッ!!」
 寸でのところで躱した、はずだった。
 胸元から下腹にかけて一気に刃が走っている。瞬く間に皮膚が深く切り裂かれ、血が噴水のように噴出した。
 血液の消失が否応なく意識を朧にし、
「まだまだァ!」
 鋼鉄の拳が容赦なくあばらを襲った。内臓が潰れた。せり上がってきた血を吐き出す。自己再生。それだけを念じる。体さえ動けば。
「止めだ」
 上空から迫る影。長く伸びた鋼鉄の鎌。頭部粉砕。いや、両断される。このままでは。



 ――銃で人を殺したくないのなら技を磨け。かつて師はそう言った。そして殺された。銃で。だから誓った。二度と銃は握らないと。師を殺した道具に二度と近付かないと。
甘かった。誤魔化し、工夫し、命を奪わないようにしても、選択の時は何度でもやって来た。ついに避けられなかった。暴威に晒されて誓いは破られた。
手は血で汚れた。
銃は今、この手にない。あるのは自らに向けられた殺意。そして銃よりももっと強力な、怪物の囁き。
 人は、もうとっくに殺している――生きるために。生き残るために。
 だから――


「ッ――!!」
 全身全霊を込めて、前方へと身を投げ込む。一瞬、甲冑は棒立ちだった。虚を衝かれたのだ。夥しい量の血を流した相手が、こんな動きをするはずがない。だが、回転は叉反の重要な体術である。何故なら、叉反の体には、振り回せる武器が生まれながらに備わっているからだ。
「ぐっ!?」
 強打とはいかないまでも想定外の一撃が、すぐ上にいたトウリンの体を薙ぎ払う。スパニッシュローズの体は灰の上に叩き付けられる。全身が稼働限界まで動き続ける機関のように熱くなっていた。自己再生機能を限りなく早く働かせている。かつて対峙したあの男のように。
『何をしている!』


 怪物が吼えた。意識の内側で。構わず甲冑の右膝に側面からの蹴りを加える。前転は位置取りの役割をも果たした。勝利を確信していた甲冑は姿勢を崩されて反応するが、頭部はすでにさ反のほうへと傾いている。
 逃さない。上体を捻りざま放つ右拳。フックブローが甲冑ごと相手の頭部を打ち上げる。拳が粉々になるかのような痛み。だが、それさえも瞬時に再生していく。
『馬鹿な事をするな!!』
 途端に怪物が怒鳴りつけた。
『力を使えばこんな傷など負わぬ! 虫共など一瞬で殺せる。いいから力を使え、お前に与えられた、俺の力を!』
 捻りはまだ終わらない。勢いそのまま振り回した蠍の尾が遠心力によって甲冑に激突し、その体バランスを完全に崩して地に転がす。


「この野郎――――っ!?」
 甲冑は叫び、腕を振り上げようとした。しかし位置がまずい。その体はすでに灰へと沈んでいる。灰は、洗浄槽へと流されるために常に下方へと落ち続けている。それはいわば人工的に造られた流砂だ。もがけばもがくほど動きを奪われる。
 殺気が側面に感じる。その時、スパニッシュローズの鎌がすぐそこに迫っていた。
その間合いは把握している。
すかさず放った側面蹴りが、トウリンの体を突き放す。己の勢いと合わせて蹴撃された体はそのまま吹っ飛んだが、鎌使いはすんでのところで着地し、まるで四足獣のような体勢で灰の上を滑った。
『チャンスだ! 今のうちに――』
「断る」


 体の熱はさらに上がっていく。潰れかけのケースを取り出してひしゃげたハイライトを銜え、抜き出す。まだ無事だったライターで火を着けると、ハイライト独特のラム香が薫る。
「っ……舐めるなッ!」
 トウリンの全身に電流が生じる。瞬間、その姿が消えた。高速移動。トウリンはゴククとは逆に形態変化してなおその速度を保ち続ける。目では追いつかない。ただその放電音だけが取り囲むように聞こえ続ける。
 煙草の煙が舌先で転がる。吐き出した紫煙が風に巻かれた。
「死ねぇッ!!」
 眼前に死の刃が迫っていた。今度は近い。緑電が破裂するかのように弾けている。
 叉反は手の中のライターを投げた。音のするほうへ。直後に腕で顔を覆い、体を背ける。
 ――――ばちり。


 直後、大岩を叩き割ったかのような爆音が轟き、鎌の軌道があらぬほうへ逸れる。
 服に火は移っていない。叉反はトウリンを見た。左肩を抑えている。スパニッシュローズの滑らかな鋼の体には大きな焦げ跡がついていた。ライター内の可燃性ガスが緑電によって引火したのだ。危険な爆発事故から引用した策だった。気分は晴れやかではない。それに、爆発自体は、鎧に纏われた少女にとって大した痛手ではないらしい。肩の焦げ目を払いながらも、トウリンは立ち上がる。
「何故わかった。私の位置が」
 叉反は紫煙を吐く。ゆらりと漂う煙。
「速すぎるからだ」
「何?」
 そう言ったものの、トウリンはすぐさま気付いたようだった。
「……まさか、風か? 煙の動きから私の接近を把握したのか?」
 煙草がじりじりと燃えていく。答えなかった。必要はない。どうであれ次の一合で、勝敗は決するのだから。
「随分と良い目を持っているな。だが、タネが割れたならもうお終いだ。次の一撃で首を刎ね飛ばしてやる」
 トウリンが右腕を振り上げる。左肩には僅かにへこみがあった。叉反の再生は続いている。砕けた右手はもう動く。神経が研ぎ澄まされている。煙草の味がいつもの何倍も濃く感じる。
「試してみろ。次こそ取れると思うなら」


 カマキリの頭部のような鉄仮面が、僅かに苛立ったように見えた。トウリンは腕を下げて、こちらを見ている。肩幅程度に足を開き、全身に力みはない。その気になればすぐにでも動ける体勢だ。
 左半身に構える。こちらはいつでもいい――
 上空で風が鳴った。突風が吹いた。大きな筒状のこの灰溜めの中に、風が紛れ込んできた。煙草の煙が一気に舞い上がる。
 雷が弾けた。
 間違いなく最高速度だった。影さえ見えない。派手な色であるはずなのに知覚出来ない。放電音も、緑電の一筋さえも見えない――迅雷を伴い、疾風の速度で刈る。鮮やかな死鎌。

 ――――今だ。

 持てる最高速度で繰り出した右拳と、鋼の鎌が交錯する。
刃は首筋を狙った。拳は鋼を打った。
鋼の体が光に包まれ、灰色のマントを纏ったトウリンが膝をついた。生身のハナカマキリの手で、右肩を抑えようとして、だらりと下がる。呼吸が荒い。相当疲労している。無論、こちらにももう余裕はない。
「何故……だ。何故、二度までも……」
「消去法だ。爆発のせいで、お前の左腕はすでに使えない。自己再生も起こっていない」
 だから、攻撃は右腕からのみだと判断した。そして。
「お前は決して後ろから斬りかかってはこない」
「は……何を。私が、そんな甘いわけが」
「手段を選ばないのなら、まず俺の目を潰したはずだ。その緑色の電光を使えば人の目は眩む。斬りかかる隙などいくらでも出来る」


 死角を狙うのは生死を賭けた戦いでは卑怯でも何でもない。互いが互いの目的のためにありとあらゆる手段を駆使する。
 だが、この娘は未だ割り切れないでいる。相手をいたぶるような陰湿さを嫌う気質。ゴククとの戦いに集中し、完全に他方への注意を怠っていた叉反を斬らない甘さ。
「……どうでもいい」
 吐き捨てるように、トウリンは言った。
「殺せ」
「断る」
 即座に、叉反は言った。
「はは。甘いぞ貴様。こんな傷、治るのはすぐだ。今、私を殺さなければ、数分後に転がっているのはお前だ」
 無視して叉反は踵を返す。短くなった煙草を携帯灰皿に入れ、地面に向かって声を出した。
「聞こえているだろう。仲間を連れて帰れ」
 声はない。代わりに、放電音が聞こえた。瞬く間に灰を蹴散らして、小さな影が地面から飛び出す。
 ゴククだ。彼もまた元の姿に戻っている。かなり疲労しているようだ。
 思った通り、両者とも例の甲冑姿になるにはかなりのエネルギーを消耗するようだ。だからこそ、容易に身体が回復しない。


 悪鬼の形相で、少年が叉反を睨みつける。
「今、ここで、お前を殺すのは簡単だ」
 怒りが、一語一語に滲んでいる。
「だが、姉さんがそれを許しはしない。それに、弱り切ったお前を切り刻んでも、オレの心は満たされない」
 ゴククはトウリンを抱えた。そして、右手の壁を指差す。
「あそこに扉がある。ここに溜まった灰の量が減ると開く仕組みだ。そこから地下に行ける。洗浄槽に」
 放電音がした。小さな影が跳び上がっていた。壁を蹴りながら、瞬く間に上へと昇っていく。
 また風が吹いた。灰が目に入り、思わず瞼を閉じる。
「次は容赦しない、次こそは!」


 怒りに満ちた少年の声が聞こえた。しかし、もはや二人の姿はどこにもない。
 ……強敵だ。次に相見える時、果たしてまた生き残れるかどうか。
『何故、〝力〟を使わない』
 もう一つの、怒りに満ちた声がした。まるで地獄からの……いや。
 こいつは俺だ。俺の中に住み、ようやく素顔を見せた、もう一人の俺。醜い怪物。
『あんな餓鬼ども、本来物の数にも入らん』
「黙れ、怪物。俺の中で喚くな。下がっていろ」
 煙草に火を着けようとして、ライターを失った事を思い出す。参った。どこかで火種を調達しなければ。
『覚えておけ。血は洗い落とせない。人の倫理など捨ててしまう事だ。弱ければ命は失われる。人より獣に近いお前にはわかるはずだ。正しき摂理。当然の結果だ。血の汚れを啜って生きろ』
「俺は人間だ。怪物には従わない」


 だが、怪物の姿はすでに胸の裡になかった。潜ったのだ。また叉反の意識の影に。
 ――誓いは破られた。心血を注いで守っていた誓いは、死を直前に感じて守り切れなかった。
 ――散り散りになって、今も無残に、心に残っている。
 叉反は扉に向かって歩き出す。一見、やはりただの壁だが、目を凝らせばうっすらと切れ込みめいた線が入っている。
 ――だから、だ。
 だからこそ、行かねばならない。
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