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第五章
影の中で 12
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難波千恵里は、両親が眠っているベッドのすぐ傍にいた。眠っていた。
自分が、どうやらほかの子どもとは違ってしまったのだ、という事を千恵里は理解していた。でもそれだけだ。千恵里は幸せだった。大好きな両親と一緒にいられさえすれば。
――とてつもなく嫌な予感がして、千恵里は目を覚ます。
体の震えが止まらない。すごく、すごく嫌な感じがする。
両親の顔を見る。入院した時は苦しそうだったが、今はぐっすり眠っている。たぶん、この嫌な感じには気付いていないだろう。
千恵里は知っている。やってくるのは、あいつだ。あの大きなハサミを持った女。
店が襲われた時、ハサミ女が自分の事を狙っていたのに、千恵里は気付いていた。どうしてかはわからない。わかるのは、あと数分もしないうちに、ハサミ女はこの病室にやってくるという事だ。父と母が眠る、この病室に。
千恵里は立ち上がり、走り出した。ドアを開ける必要はない。千恵里の体は、今や壁やドアをすり抜ける。
冷たい廊下に出る。明かりは非常灯くらいしかないが、今の千恵里に、周囲の明るさはあまり関係ない。まだハサミ女の姿はない。今のうちに逃げれば、ハサミ女が病室に寄る事はないだろう。千恵里は廊下を駆けた。どこに行けばいいだろう。上か、下か。
下だ。当たり前だ。下なら街に出られる。病院から遠ざかれれば、それだけ安心だ。
曲がり角を曲がり、階段のほうへ行く。ナースステーションの前まできた。もうすぐだ。もうすぐ。
――カッ。カッ。カッ。
ぞく、と。
まるで何かに足を掴まれてしまったかのように、千恵里は走れなくなった。
ばた、ばた、と大きな物音がする。何かが落ちて割れるような音も。ナースステーションの中で、人が次々と倒れているのだ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
「あ……」
千恵里は急いで長椅子の影に隠れる。走って逃げられるとは思えない。
「千恵里……ちゃん」
金属を打ち鳴らす音とともに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「千……恵……里……ちゃん」
声……? そういえば、あのハサミ女は喋った事があっただろうか。いや、店で襲われた時にはあいつは声なんか出していなかった。
今喋っているのは、一体誰だ?
「千ぃ……恵ぇ……里ぃ……ちゃぁぁぁぁぁん」
――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ。
「ひっ!」
金属を打ち鳴らす音が早くなり、千恵里は思わず耳を塞いだ。
「どこぉおお。どこにいるのぉおぉぉ」
――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ。
激しく打ち鳴らされるのは、ハサミだ。風切り音がして、後方の長椅子が破壊される。
「千ぃぃぃ恵ぇぇぇ里ぃぃぃちゃぁぁぁぁぁん?」
カン! カン! カン! カン!
ハサミが大きく打ち鳴らされ、ナースステーションの受付の一部が削り取られる。隙を見て、向かい側の長椅子まで走る。どうにかしてここから離れないと……
「あれぇぇぇ?」
ハサミ女が奇妙な声を上げた。
次の瞬間、千恵里の前に大きなハサミが突き立てられ、
「見ぃぃぃぃぃつけたぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
喜色満面の笑みで顔を歪めたハサミ女が、千恵里の前に現れた。
絶叫を上げながら、千恵里は長椅子の影から飛び出した。
カン! カン! カン! 足首のすぐ後ろで、ハサミが開いて閉じる。間違いない。足を切り落とそうとしているのだ。
「千恵里ちゃぁぁぁぁぁん! 足が取れちゃうよぉぉぉ!?」
ハサミ女が追ってくる。階段はもうすぐそこだ。でも、でも、これでは……!
ハサミがちらと見えた。その瞬間、足がもつれて千恵里は床に転ぶ。痛みはない。だが。
「捕まえたあぁああ」
千恵里の頭が飲み込まれるのではないかと思うほど大きく口を開けて、ハサミ女は笑う。
「一緒になろうねええええ。ハサミ女になろうねええええええ」
激しくハサミを打ち鳴らし、刃が開いたまま、大きなハサミが千恵里の頭に降ってくる。逃げられない。おしまいだ。自分が消えてしまうのではないかと思うほどの絶望が、千恵里の心に広がる。
――バチバチバチ、と何かが弾ける音がした。
「うおおおおおおおっ!」
雄叫びが天井のほうから聞こえ、続いてガン! と金属がぶつかり合う音がした。
「はあー、はあー、ハサミ女ッ!」
天井から飛び出してきた人影はひと声そう叫び、猛烈な打ち込みでハサミ女を追いやっていく。
千恵里は、その人物に見覚えがあった。あの時、千恵里を抱えて走ってくれた人。包帯姿になって、悪い奴らと戦ってくれた人。
あの人がやって来た。
自分が、どうやらほかの子どもとは違ってしまったのだ、という事を千恵里は理解していた。でもそれだけだ。千恵里は幸せだった。大好きな両親と一緒にいられさえすれば。
――とてつもなく嫌な予感がして、千恵里は目を覚ます。
体の震えが止まらない。すごく、すごく嫌な感じがする。
両親の顔を見る。入院した時は苦しそうだったが、今はぐっすり眠っている。たぶん、この嫌な感じには気付いていないだろう。
千恵里は知っている。やってくるのは、あいつだ。あの大きなハサミを持った女。
店が襲われた時、ハサミ女が自分の事を狙っていたのに、千恵里は気付いていた。どうしてかはわからない。わかるのは、あと数分もしないうちに、ハサミ女はこの病室にやってくるという事だ。父と母が眠る、この病室に。
千恵里は立ち上がり、走り出した。ドアを開ける必要はない。千恵里の体は、今や壁やドアをすり抜ける。
冷たい廊下に出る。明かりは非常灯くらいしかないが、今の千恵里に、周囲の明るさはあまり関係ない。まだハサミ女の姿はない。今のうちに逃げれば、ハサミ女が病室に寄る事はないだろう。千恵里は廊下を駆けた。どこに行けばいいだろう。上か、下か。
下だ。当たり前だ。下なら街に出られる。病院から遠ざかれれば、それだけ安心だ。
曲がり角を曲がり、階段のほうへ行く。ナースステーションの前まできた。もうすぐだ。もうすぐ。
――カッ。カッ。カッ。
ぞく、と。
まるで何かに足を掴まれてしまったかのように、千恵里は走れなくなった。
ばた、ばた、と大きな物音がする。何かが落ちて割れるような音も。ナースステーションの中で、人が次々と倒れているのだ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
「あ……」
千恵里は急いで長椅子の影に隠れる。走って逃げられるとは思えない。
「千恵里……ちゃん」
金属を打ち鳴らす音とともに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「千……恵……里……ちゃん」
声……? そういえば、あのハサミ女は喋った事があっただろうか。いや、店で襲われた時にはあいつは声なんか出していなかった。
今喋っているのは、一体誰だ?
「千ぃ……恵ぇ……里ぃ……ちゃぁぁぁぁぁん」
――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ。
「ひっ!」
金属を打ち鳴らす音が早くなり、千恵里は思わず耳を塞いだ。
「どこぉおお。どこにいるのぉおぉぉ」
――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ。
激しく打ち鳴らされるのは、ハサミだ。風切り音がして、後方の長椅子が破壊される。
「千ぃぃぃ恵ぇぇぇ里ぃぃぃちゃぁぁぁぁぁん?」
カン! カン! カン! カン!
ハサミが大きく打ち鳴らされ、ナースステーションの受付の一部が削り取られる。隙を見て、向かい側の長椅子まで走る。どうにかしてここから離れないと……
「あれぇぇぇ?」
ハサミ女が奇妙な声を上げた。
次の瞬間、千恵里の前に大きなハサミが突き立てられ、
「見ぃぃぃぃぃつけたぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
喜色満面の笑みで顔を歪めたハサミ女が、千恵里の前に現れた。
絶叫を上げながら、千恵里は長椅子の影から飛び出した。
カン! カン! カン! 足首のすぐ後ろで、ハサミが開いて閉じる。間違いない。足を切り落とそうとしているのだ。
「千恵里ちゃぁぁぁぁぁん! 足が取れちゃうよぉぉぉ!?」
ハサミ女が追ってくる。階段はもうすぐそこだ。でも、でも、これでは……!
ハサミがちらと見えた。その瞬間、足がもつれて千恵里は床に転ぶ。痛みはない。だが。
「捕まえたあぁああ」
千恵里の頭が飲み込まれるのではないかと思うほど大きく口を開けて、ハサミ女は笑う。
「一緒になろうねええええ。ハサミ女になろうねええええええ」
激しくハサミを打ち鳴らし、刃が開いたまま、大きなハサミが千恵里の頭に降ってくる。逃げられない。おしまいだ。自分が消えてしまうのではないかと思うほどの絶望が、千恵里の心に広がる。
――バチバチバチ、と何かが弾ける音がした。
「うおおおおおおおっ!」
雄叫びが天井のほうから聞こえ、続いてガン! と金属がぶつかり合う音がした。
「はあー、はあー、ハサミ女ッ!」
天井から飛び出してきた人影はひと声そう叫び、猛烈な打ち込みでハサミ女を追いやっていく。
千恵里は、その人物に見覚えがあった。あの時、千恵里を抱えて走ってくれた人。包帯姿になって、悪い奴らと戦ってくれた人。
あの人がやって来た。
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