西洋薄雪草は瑠璃に咲く

花城羽鷺

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●レオネール留学相談所

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 ●レオネール留学相談所

 重厚そうに見えた木製の扉は存外あっさりと開いた。
 屋内から流れ出る空気に仄かな花の香がして、それが不安と緊張を和らげていくように感じる。
 恐る恐る扉をくぐった瞬間、目には見えない薄いヴェールを通ったような感覚に首をひねりつつ、綺麗に磨かれた床の上へと一歩、二歩。完全に内に入った私の背後で、静かに扉が閉じた。
 外観からは想像もできないほど、内部は広かった。
 内壁は淡い桜色の漆喰で、やや高めの天井に吊るされた照明と窓から入る外光を反射して、程よく明るい。海外のものらしき風景画が品良く飾られ、入って正面には横に長いカウンター。
 床材と同じくよく磨かれた木製のカウンターの上には、北欧タイルを思わせる鉢に入った観葉植物が幾つか並べられていた。見たことのない花が咲いている、と思ったのは、後になって思えば正しかったのだろう。

「あら、お客様ねえ。いらっしゃい、入って頂戴?」

 吹けば飛びそうな勇気を振り絞って入ってはみたものの、扉の前から一向に動かない私に気付いたのか、女性の落ち着いた柔らかな声がかかった。
 反射的に挨拶を返した私の前に現れたその人は、青みがかった長い銀髪に紫色の瞳をしていた。肌は白く、目鼻立ちは整っている。ハイネックの薄手のセーターにタイトなロングスカートというカジュアルな出で立ち。小綺麗なスーツとビジネススマイルで武装した営業マンが出てくると思っていた私は、彼女の容姿に思わず言葉を失った。

「どうぞ、このお席に座って?」

 ぽかんと凝視する私の非礼を全く意に介さない様子で微笑みかけられ、促されるままにカウンター前の椅子にいそいそと腰を下ろす。
 ナギ、と名乗ったその女性が、このレオネール留学相談所の所長なのだという。

「所長と言ったって、職員はあたしと職員一人の二人体制だから、肩書にもならないのだけれどね」

 使い込まれた紙製の書類ケースを開きつつ、ナギはそう言って朗らかに笑った。
 彼女の髪が光を滑らせるたび、彼女の瞳が私へ向くたび、その色合いが人工的な物ではないと確信する。透き通るように白い肌と髪に果実のように赤い瞳を持つ人々がいるのは知っているが、青銀の髪に紫色の瞳は流石に初めてだ。
 そういう不思議な色合いを持つ人も世の中にはいるのだと無理やりに結論付け、早速本題に入る。
 海外留学を検討している旨、凡その見積もりやプランなどを相談することは可能かと切り出した私に、ナギが提示したのは1枚の書類だった。

「あたしが紹介できるのは、レオネール大陸の各都市なのだけど、どうかしら?」

 そんな大陸あったかと首を捻りながら書類に目線を落とす。そこには見慣れない世界地図と、都市の写真……いや、精巧な絵であろう画像が簡単な説明文と共に記されていた。
 今一度地図を見る。日本列島どころかユーラシア大陸やアメリカ大陸といった見慣れた大陸すらない。描かれているのは、見たこともない形の大陸が2つに、点在する小大陸と島々。私は一体何を見せられているのか。
 ははあ、これは関わってはいけない人物に近付いてしまったか。
 記憶にない建物に不思議な外見の女性。確かに私の常識の範疇を超えてはいるが、ファンタジーを素直に受け入れられるほど、私は純粋でもなければ追い詰められてもいなかった。
 猜疑心と危機感がじわりと湧いて出ると、一見無害そうなナギの存在が恐ろしくなってくる。
 長居は無用だ。彼女を刺激せずに、穏便にここから逃げ出す算段をつけるために、頭が全力で稼働し始めた。
 電話が着信したことにするか、いや、急なメールで呼び出されたことにするか。
 そわりとポケットを探りつつ、ちらりと上げた視線がナギの紫色の瞳と真正面から合う。
 途端、彼女が薄く目を細め、にまりと笑った。

「今、あたしの頭がどうかしてると思ったでしょう?」

 ゾッ、と胸が冷える。
 返答に窮して一瞬黙る私の反応は正直すぎると笑われたが、こちらとしては気が気ではない。彼女が正常……という表現は色々と語弊がありそうだが、仮にそうであるならば、考えられるのは、こんな取れ高のなさそうな場所でテレビ番組か何かのドッキリ企画か、それともフラッシュモブに似たようなものか。
 とにかく適当に話をはぐらかして、早々に退散したほうが良さそうだ。

「大丈夫よう。無理に引き留めたりしないわ。だって、扉を開いたのはあなたの意思で、あたしが引っ張りこんだわけじゃないもの。進むか戻るか、お任せするわ」

 彼女の言葉に、一瞬胸中がもやりとしたのは何故だろうか。自ら彼女を拒絶しようとしておいて、我ながら勝手なものだ。
 しかし不思議なもので、自由意志だと言われると急に去るのが惜しくなる。脳裏に、幸運の女神には前髪しかない、などという言葉が過る始末である。
 迷った私はちらりと手元に視線を落とし、改めてナギが提示した資料を確認して妙なことに気付いた。
 見た事のない地図と精巧な街の絵。それは良い。問題は、添えられた説明文の文字であった。確かに問題なく読めるその文字は、日本語ではなかった。
 世の中には様々な文字があるが、少なくとも私にそれを見た記憶はない。流石に古代文字まで把握してはいないから、軽率に地球上の文字ではない、などとは言えないが。
 仮にそうだったとしても、私に読めるはずがなかった。

「相談無料、聞かずに帰っても、聞いてから帰っても構わないわよう。ただ、このレオネール留学相談所の扉を開けるのは一度きり。……さあ、どうしましょう?」

 少しは話を聴く気になったかとでも言うように、カウンターの向こう側でナギがにこりと微笑む。
 私の長所であり最大の短所は、身を滅ぼしかねない好奇心の強さ。どうせなら聞いて帰っても話のネタくらいにはなるじゃないか、などと思ったのは、迷う自分への言い訳か。
 既に、読めないはずの文字を理解している不思議な状況に強烈な興味を惹かれ、私は改めて椅子に腰を下ろしたのだった。
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