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2.「特別に君なら教師のままでいてあげよう」
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「今日から産休を取られた担任の吉住先生にかわり、ピンチヒッターの光宗 臣吾です。光りと、徳川 吉宗の宗と書いて光宗。吉宗と言えば、奇しくも和歌山城を居城とし、某時代劇で有名ですね。年齢は三十二歳。独身。どうかよろしく」と言って、教壇に手をついた男は白い歯を見せた。たちまちクラスはざわついた。
笑顔は南アルプスに吹きわたる涼風のようであり、その口調は詩人のように韻を踏んでいた。メガネの奥の眼は切れ長で、知性と慈しみが同居しているように見えた。
その第一印象が由海の胸に突き刺さってしまった。
見えざる矢は抜きがたい。
すぐに由海のなかで破傷風にも似た恋の病が広がり、取り返しのつかないほど重篤な症状にまで陥ってしまった。
御坊市にある県立日高学園。十七歳になったばかりの由海。夏休み明けのホームルームでのできごとだった。
ひと目で光宗を見初めてしまった。
思い込んだら突っ走る由海だった。なんとか先生と二人きりになれるチャンスはないかと狙っていた。
一週間経ったある日。
下校時、御坊駅のホームで電車を待っていると、向かいのホームで光宗が立っているのを見かけた。由海とは反対方向に家があるらしい。
すらりとしたシルエット。かばんを小脇に抱えたままスマートフォンに夢中になっている。
対岸のホームへ渡り、忍び足で近づいた。声をかけずにはいられない。
光宗はおどけて驚く様子を見せるどころか、
「庄司はいけない子だな」と、バツが悪そうな顔で言った。「僕はね、定時をすぎれば赤の他人って主義なんだ。ほんとうだったら、学校を出た時点で教師の仮面をぬぎ、町で生徒を見かけても声すらかけない。不可抗力的に声をかけられたら、それなりに対応するが、少なくともこちらからは声をかけない。見て見ぬふりをする。じゃないと、きりがないからな。線引きはキッチリしないと」
「お忙しい最中に声をかけて、すみません」勇み足をした由海はあわてて頭をさげた。
「でも、許す」と、光宗は顔をほころばせた。手のなかでスマホをくるりと回転させ、胸ポケットにおさめた。「庄司は可愛い。特別に君なら教師のままでいてあげよう。――どうだ、これからいっしょに飯でも食いに行くか?」
いきなりの砕けた返事に由海は戸惑った。
さすがに二人きりで外食していたところを誰かに目撃されたら、よけいな誤解を招くのではないか。思わず一歩うしろへさがったところに、
「心配すんな。僕がいま住んでる由良町に、うまいお好み焼きを出してくれる店があるんだ。あんがい庶民派だろ? たまたま由良の友人の家へ遊びにいったら、偶然先生と出くわした。思いきって学校のことで悩みがあり相談しようとしたら、立ち話もなんだから、近くの店でお好み焼きを食べながら話そうということになった。――そういうことにしておこう。しっかり口裏合わせるんだぞ」と、言った。
「なら、いっしょに行きます!」
由海の胸は期待で高鳴った。
二人は紀勢本線のJRに揺られた。車中ではおたがい、離れた対面式ロングシートに座った。由海はずっと光宗の姿を見つめていた。光宗はいちども眼さえ合わさなかった。
御坊市をすぎ、日高町に入り、お隣りの由良町に着いた。わずか八分の距離だった。
紀伊由良駅からバスで乗り継ぎ、おりてすぐが目的の軽食店だった。こじんまりした佇まいだった。
光宗のすすめもあって、まずはスジコンを頼み、二人で分けあって舌鼓を打った。そのあと、店主が慣れた手つきでイカ玉と豚玉を焼いてくれるのを眺めた。
たしかに、すじ肉とコンニャクを煮込んだものは絶品だった。甘辛い味付けが染みわたり、さぞかし酒と合うだろう。日本酒党の由海の父なら膝を打つにちがいない。
はじめ、光宗は我慢していたが、こらえきれず焼酎のロックを注文してしまった。
喉に流し込むうちに、眼つきが変わっていった。言葉づかいまで、やけに馴れ馴れしくなった。
由海はイカ玉に箸をつけた。
これもフワフワの生地に香ばしいソースが絡み、大ぶりに切られたイカの食感が楽しい。
勘定は光宗が支払った。二人は店を出て、県道二十四号線づたいに港へ散歩することにした。
民家やマンションの棟も建ち並んでいるものの、山が近く、閑散とした住宅街。日が暮れれば、墓場のように寂しいだろう。
岬をまわり込むと、巨大なドックが見えた。
赤白のタワークレーンが屹立し、見あげるばかりのタンカーが横付けされており、由海は圧倒された。
日が暮れた港で、二人は他愛もない会話を重ねた。
やがておかしなムードにねじれていった。
由海はいきなり抱き寄せられ、唇を奪われた。
唇を割って軟体動物のような物体が入ってきて、こねくりまわされた。せっかくウーロン茶で洗い流したはずなのに、口のなかはソースと青のりの味で汚された。
光宗を突き飛ばして、走って逃げた。
鋭い声とともに追ってきたが、相手はロックを二杯、引っかけているのだ。ふりきるのはわけなかった。
どこをどうほっつき歩いて駅までたどり着き、家に帰ったのか記憶がない。
見ず知らずの人の善意にも助けられ、どうにか日高川町まで帰ることができた。夜の九時にさしかかろうとした時間だった。ただいまの挨拶もかけず、風呂場に飛び込んだ。
熱いシャワーを浴びていると、脱衣所から母が声をかけてきた。
由海はシャワーの蛇口をゆるめ、明るい声で、
「夏休み明け早々、いきなり文化祭の課題で居残らされたのよ。いまさら日本野鳥の会、委託調査の件でディスカッションしてたら遅くなっちゃった。こんなお粗末な課題を発表していいものかと」
生物部に所属している由海は、とっさにうそをついた。すでに課題は夏休みのあいだに終えていた。出来もまんざらではなかった。
「お母さん、ハラハラしちゃったわ。てっきり素行のよくない子たちに連れまわされ、おかしな遊びをしてるんじゃないかと思ったのよ。遅くなるなら、せめてLINEぐらいよこしてよね」
「ごめん。ちょっと人間関係でトラブって、気が滅入ってた。次はそうする」
「きっとよ」
ベッドに入っても、悶々と寝返りを打った。
心は傷ついたはずなのに、裏腹、光宗のことが忘れられなかった。酔ってはいたが、悪気はなかったのだと思おうとした。彼もしょせん人の子にすぎない。職場でのストレスから酒に飲まれることだってあるだろう。
ちゃんと話しあえば、港でのあやまちは謝ってくれ、もしかしたら誠実な交際ができるのではないか。
だから由海は忘れることにした。
笑顔は南アルプスに吹きわたる涼風のようであり、その口調は詩人のように韻を踏んでいた。メガネの奥の眼は切れ長で、知性と慈しみが同居しているように見えた。
その第一印象が由海の胸に突き刺さってしまった。
見えざる矢は抜きがたい。
すぐに由海のなかで破傷風にも似た恋の病が広がり、取り返しのつかないほど重篤な症状にまで陥ってしまった。
御坊市にある県立日高学園。十七歳になったばかりの由海。夏休み明けのホームルームでのできごとだった。
ひと目で光宗を見初めてしまった。
思い込んだら突っ走る由海だった。なんとか先生と二人きりになれるチャンスはないかと狙っていた。
一週間経ったある日。
下校時、御坊駅のホームで電車を待っていると、向かいのホームで光宗が立っているのを見かけた。由海とは反対方向に家があるらしい。
すらりとしたシルエット。かばんを小脇に抱えたままスマートフォンに夢中になっている。
対岸のホームへ渡り、忍び足で近づいた。声をかけずにはいられない。
光宗はおどけて驚く様子を見せるどころか、
「庄司はいけない子だな」と、バツが悪そうな顔で言った。「僕はね、定時をすぎれば赤の他人って主義なんだ。ほんとうだったら、学校を出た時点で教師の仮面をぬぎ、町で生徒を見かけても声すらかけない。不可抗力的に声をかけられたら、それなりに対応するが、少なくともこちらからは声をかけない。見て見ぬふりをする。じゃないと、きりがないからな。線引きはキッチリしないと」
「お忙しい最中に声をかけて、すみません」勇み足をした由海はあわてて頭をさげた。
「でも、許す」と、光宗は顔をほころばせた。手のなかでスマホをくるりと回転させ、胸ポケットにおさめた。「庄司は可愛い。特別に君なら教師のままでいてあげよう。――どうだ、これからいっしょに飯でも食いに行くか?」
いきなりの砕けた返事に由海は戸惑った。
さすがに二人きりで外食していたところを誰かに目撃されたら、よけいな誤解を招くのではないか。思わず一歩うしろへさがったところに、
「心配すんな。僕がいま住んでる由良町に、うまいお好み焼きを出してくれる店があるんだ。あんがい庶民派だろ? たまたま由良の友人の家へ遊びにいったら、偶然先生と出くわした。思いきって学校のことで悩みがあり相談しようとしたら、立ち話もなんだから、近くの店でお好み焼きを食べながら話そうということになった。――そういうことにしておこう。しっかり口裏合わせるんだぞ」と、言った。
「なら、いっしょに行きます!」
由海の胸は期待で高鳴った。
二人は紀勢本線のJRに揺られた。車中ではおたがい、離れた対面式ロングシートに座った。由海はずっと光宗の姿を見つめていた。光宗はいちども眼さえ合わさなかった。
御坊市をすぎ、日高町に入り、お隣りの由良町に着いた。わずか八分の距離だった。
紀伊由良駅からバスで乗り継ぎ、おりてすぐが目的の軽食店だった。こじんまりした佇まいだった。
光宗のすすめもあって、まずはスジコンを頼み、二人で分けあって舌鼓を打った。そのあと、店主が慣れた手つきでイカ玉と豚玉を焼いてくれるのを眺めた。
たしかに、すじ肉とコンニャクを煮込んだものは絶品だった。甘辛い味付けが染みわたり、さぞかし酒と合うだろう。日本酒党の由海の父なら膝を打つにちがいない。
はじめ、光宗は我慢していたが、こらえきれず焼酎のロックを注文してしまった。
喉に流し込むうちに、眼つきが変わっていった。言葉づかいまで、やけに馴れ馴れしくなった。
由海はイカ玉に箸をつけた。
これもフワフワの生地に香ばしいソースが絡み、大ぶりに切られたイカの食感が楽しい。
勘定は光宗が支払った。二人は店を出て、県道二十四号線づたいに港へ散歩することにした。
民家やマンションの棟も建ち並んでいるものの、山が近く、閑散とした住宅街。日が暮れれば、墓場のように寂しいだろう。
岬をまわり込むと、巨大なドックが見えた。
赤白のタワークレーンが屹立し、見あげるばかりのタンカーが横付けされており、由海は圧倒された。
日が暮れた港で、二人は他愛もない会話を重ねた。
やがておかしなムードにねじれていった。
由海はいきなり抱き寄せられ、唇を奪われた。
唇を割って軟体動物のような物体が入ってきて、こねくりまわされた。せっかくウーロン茶で洗い流したはずなのに、口のなかはソースと青のりの味で汚された。
光宗を突き飛ばして、走って逃げた。
鋭い声とともに追ってきたが、相手はロックを二杯、引っかけているのだ。ふりきるのはわけなかった。
どこをどうほっつき歩いて駅までたどり着き、家に帰ったのか記憶がない。
見ず知らずの人の善意にも助けられ、どうにか日高川町まで帰ることができた。夜の九時にさしかかろうとした時間だった。ただいまの挨拶もかけず、風呂場に飛び込んだ。
熱いシャワーを浴びていると、脱衣所から母が声をかけてきた。
由海はシャワーの蛇口をゆるめ、明るい声で、
「夏休み明け早々、いきなり文化祭の課題で居残らされたのよ。いまさら日本野鳥の会、委託調査の件でディスカッションしてたら遅くなっちゃった。こんなお粗末な課題を発表していいものかと」
生物部に所属している由海は、とっさにうそをついた。すでに課題は夏休みのあいだに終えていた。出来もまんざらではなかった。
「お母さん、ハラハラしちゃったわ。てっきり素行のよくない子たちに連れまわされ、おかしな遊びをしてるんじゃないかと思ったのよ。遅くなるなら、せめてLINEぐらいよこしてよね」
「ごめん。ちょっと人間関係でトラブって、気が滅入ってた。次はそうする」
「きっとよ」
ベッドに入っても、悶々と寝返りを打った。
心は傷ついたはずなのに、裏腹、光宗のことが忘れられなかった。酔ってはいたが、悪気はなかったのだと思おうとした。彼もしょせん人の子にすぎない。職場でのストレスから酒に飲まれることだってあるだろう。
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