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虚空太鼓の季節
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開いた窓の向こうから、遠くで太鼓の撥の音が聞こえたような気がした。
祭りでもあるのだろうか? そのわりには心躍るような軽快さがなく、なんだか気のない叩き方だった。
梅雨の時期に入り、周防大島も鬱屈たる季節に甘んじていたが、幸いにして今日は昼すぎから蛇のうろこのような乱層雲から斜めに光が洩れはじめた。
県道4号線沿いに県立大島病院の白い建物が建っていた。敷地内にはところどころにソテツが植えられていた。海側の真下のすぐそこは防波堤で囲まれた港になっていて、小さな漁船がいくつも停泊していた。
耳をそばだてが、穏やかな潮騒が勝り、太鼓の音はいつの間にか聞こえなくなった。――それとも空耳だったのだろうか。
病室のベッドで半身を起こしたまま、窓の外を見つめるまゆの顔は死んだも同然だった。
髪の毛は男の子みたいに短く切られ、しかも不揃い。生気のない、陶器のように白く硬い表情は変化にとぼしく、厭世的なまなざしに、かつての快活さは見当たらない。
千郷は思いきってまゆをつれて外出しようと誘ってみた。
「だったら、あの堤防のギリギリのところまでつれてって」
と、まゆは虚ろな表情で指さした。
窓から見おろすと、防波堤はコの字をしており、突端まで歩いていけるようだ。
真正面である西の沖合には笠佐島の黒っぽいシルエットが見えた。
「よしきた。さっそく外出しちゃおう」と、千郷は明るく言い、ベッドのかたわらに置いていた車椅子を動かした。「ほら、乗って。飛ばすわよ」
「急かさないで。こっちは百歳のおばあちゃんみたいに身体が言うこと聞かないんだから」
「……了解」
1階の受付の前を横切るときだった。
ベテラン看護師の住田とすれちがいざま、
「めずらしく気分転換? ベッドを温めてばかりいても仕方ないものね。気をつけて行ってらっしゃい」
と、声をかけられた。車椅子に座ったまゆはぶすっとしたままだ。
まゆは住田のお節介ぶりに嫌気がさしていた。
千郷は、「30分ほどで戻りますので」と言うと、住田は小首をかたむけて笑った。
大島病院の玄関を出て、ぐるりと建物の側面をまわり込んだ。
防波堤沿いに千郷は車椅子を押していく。
まゆは15歳で、来年には地元中学を卒業する予定だ。
千郷はまゆの頭頂部を見おろした。
このあいだ洗面所で、肩まであった髪を自ら文房具のハサミでバッサリやってしまった。
前髪が揃っておらず、おくれ毛も段ちがいになり、たいへん見苦しい。
なんとなく千郷はその頭に手をおこうとして、あわてて引っこめた。そんなことをしたら、たちまち機嫌を損ねてしまい、やっぱり病室に帰ろうと言い出すに決まっている。
まゆは2ヶ月前から入院してからというもの、年ごろのせいも手伝って、めっきり心を閉ざしてしまった。
ときどき取り付く島もないほど気難しくなり、捨て鉢な口のきき方をするようになった。
原因はあった。
クラスメートの一之瀬 海斗の失踪が関係しているのは明らかであった。
海斗は勉強のできも申し分なく、ソフトテニス部の主将もつとめ、県大会のベスト3に輝いたこともある人気男子。しかも生徒会長をつとめ、その牽引力に教師たちも眼を細めたものだ。
いくら田舎の中学とはいえ、生徒会の長が突然いなくなる――。直後は学校内に激震が走った。
失踪前、生まれつき脚が悪く、車椅子生活を送るまゆに、海斗はかいがいしく接してくれたそうだ。
休みがちなまゆが授業についていけなくなると、となりの席の海斗が机をくっつけてくれ、親切に教えてくれたと、語ってくれたときの喜びようったらなかった。
まゆはどちらかというとおしゃべりではなく、ロマンチストな面と現実主義の面をあわせもっていた。
海斗とはうまく会話を交わせることができたのだろう。いつしかテニス大会があるたびに、部活動に所属していないまゆは特別招待され、彼の華麗な試合を観戦することができた。
まゆが観戦したときの海斗の勝率は90パーセントを誇った。
勝利の女神の称号を冠するまでになったのは、母の千郷としては照れくさいことだった。
その矢先だ。この生徒会長にして、まゆの心の支えが行方をくらませたのは。
口さがない生徒の噂によると、海斗は1年前、内地から赴任してきた女教師を好きになったという。
夜の体育館で、一度きりのあやまちを犯したとも言われていた。海斗は若さゆえ、ますます夢中になった。
女教師はその思いを受け止めることはできず、逃げるようにして去った。それを追って失踪したのではないか、と言われているが、どこまで事実なのか怪しい。
いずれにせよ、海斗の優しさはあわれみからくるものであり、周囲に人格者であることを知らしめるパフォーマンスにすぎなかったのか。
まゆは彼の優しさを、自身に対する愛情とはき違えてしまったのかもしれない。
コの字型の防波堤を曲がり、あとはまっすぐ続く堤防があるだけだ。
右は丈の低い壁があり、雲間から伸びたスポットライトのような陽光のカーテンを受けて海面がきらきら輝いているのが見えた。
その約2キロメートル向こうに笠佐島が横たわっていた。
堤防の下には波消しブロックが雑然と積まれており、ゆるやかな波が挑み、白い飛沫をあげていた。
「こんなこと言うとヘコんじゃうかもしれないけど」車椅子を押しながら言った。「そろそろ高校の受験勉強、本腰入れないとね。入院してても、勉強はできるでしょ。住田さんに許可いただいて、大きい机、取り寄せてみてもいいけど」
「焦らせない」と、沖の方を見ながらまゆは言った。声まで男の子みたいに低い。「まだ時間はあるから。いまは……じっくり治療に専念したい」
「じゃあ急かさないでおこう。梅雨のまっただなかなのに、なんだか寒くない?」
「言われてみれば」
「ひざかけ、持ってくればよかったね」
「我慢できる範囲だよ」
「じゃあ、我慢して」
2人は堤防をゆっくり進んだ。
「お母さん、さっさと核心を突いたらどうなの? まわりくどいよ」と、まゆは充血した眼で千郷をにらんだ。「一之瀬くんが行方不明になった事件と関りがあるのかどうか、はっきり聞いたらどうなの」
千郷は気圧されて言葉をつまらせた。
「だって、その点については、ずっと避けてたじゃん。いつまでもジュクジュクして治らない傷をかばうかのようにしてさ」
と、子供っぽく言い返すのが関の山だ。
「傷は治っちゃいない。……けど、腫物あつかいされるのは、もうこりごり」まゆは下を向いたまま言い、「思いが届かないってつらいよ。みんなのように元気に走りたいのに、立ち上がることさえできない。一之瀬くんのこと、信じてたのに、このありさまだし」
「海斗くんは」と、千郷は車椅子を押し続けながら、辛抱強く言った。ついに堤防の終点まで来てしまったので、立ち止まった。「いったい、どこに行っちゃったのかな。戻ってこられるなら、みんなして受け入れてあげればいいね」
「一之瀬くんなら、最後までかけ抜けるはず。一度こうと決めたら、信念を貫く人だったから」
「さすが熱血生徒会長」
そのときだった。
時ならぬ突風が吹いてきて、2人は髪を乱され、体勢まで崩されたほどだった。
「いまの風はなに?」
と、千郷が眼を白黒させて言った。
「大丈夫、お母さん? あやうく海に落っこちちゃうとこだったよ」
まゆが沖の方を見て、耳を澄ませた。
――あ、聞こえた。
空耳ではない。
まただ。
やっぱり笠佐島の方角から、潮騒にまじり、かすかな撥の音が聞こえてくるではないか。
トン……トン……トン……と、太鼓を叩く軽快な連打音。
聞きまちがいではない。
「なんで海から太鼓を叩く音がするの?」
けわしい表情でまゆは言った。
千郷は唇に人差し指を当て、「シーッ」と鋭く言った。
髪から耳を露出させ、手をかざした。千郷も太鼓の撥の音がはっきりと聞こえたのだ。
「……もしかしたらこれが、住田さんが言ってた虚空太鼓じゃないかしら」
「虚空太鼓? なにそれ」
千郷は、奇しくもひと月前、3階のリハビリ訓練室で住田との話の流れで、古くから地元、小松に伝わる虚空太鼓伝説を聞かされていた。それはこんな話だ。
昔々、旧暦6月17日。
風が出はじめた夕方でのできごとだった。
安芸の宮島の軽業師たちを乗せた船が小松の瀬戸にさしかかった。宮島で管絃祭が行われた、その道中だった。
瀬戸の荒潮に乗りかかったとき、もともと潮流の激しい海域なうえ、不運にも嵐が重なり、船は転覆してしまう。
船上の軽業師たちは必死になって救いを求めた。力のかぎり太鼓を叩き、鉦を鳴らした。
しかしながら命がけの救命信号も届かず、太鼓の音は潮騒にかき消され、陸からはなんの救いの手もさしのべられなかった。
こうして彼らは瀬戸の海に、無念の涙を飲みながら沈んでいった……。
それからというもの、夏になると、この瀬戸で太鼓の音が聞こえるようになったと伝えられていた。
これを北側に位置する対岸の大畠で聞くと小松の方から、小松で聞くと西の笠佐島の方から聞こえてくると言われた。船で音の出どころを探しに行っても特定できないとされていた。
水前寺 清子の歌『虚空太鼓』は、まさにこの伝承をモチーフにしており、周防大島出身である星野 哲郎が作詞したとして知られている。
「笠佐島で祭りでもしてるんじゃないの?」と、まゆは反論した。もとより科学的根拠に欠く怪異をやすやすと受けいれる少女ではない。「それか、どこかで宗教の行事があり、太鼓を叩きながらお題目を唱えているとか」
「どこかの壊れかけの洗濯機が、おかしな音を立てているだけかもしれないけど」と、千郷は光できらめく海を眺めながら言った。「トン、トン、トン……って、やっぱり太鼓の音としか言いようがないね。ふしぎな現象」
「百歩譲って、浮かばれない旅芸人の怨念だとしても」まゆは思いつめたように呟いた。「一之瀬くんの場合は、思いを遂げられたのかな。あの年上の人に気持ちは届いたのかな」
「届いたといいね」と、千郷は静かに言い、まゆの肩に手を置いた。
了
祭りでもあるのだろうか? そのわりには心躍るような軽快さがなく、なんだか気のない叩き方だった。
梅雨の時期に入り、周防大島も鬱屈たる季節に甘んじていたが、幸いにして今日は昼すぎから蛇のうろこのような乱層雲から斜めに光が洩れはじめた。
県道4号線沿いに県立大島病院の白い建物が建っていた。敷地内にはところどころにソテツが植えられていた。海側の真下のすぐそこは防波堤で囲まれた港になっていて、小さな漁船がいくつも停泊していた。
耳をそばだてが、穏やかな潮騒が勝り、太鼓の音はいつの間にか聞こえなくなった。――それとも空耳だったのだろうか。
病室のベッドで半身を起こしたまま、窓の外を見つめるまゆの顔は死んだも同然だった。
髪の毛は男の子みたいに短く切られ、しかも不揃い。生気のない、陶器のように白く硬い表情は変化にとぼしく、厭世的なまなざしに、かつての快活さは見当たらない。
千郷は思いきってまゆをつれて外出しようと誘ってみた。
「だったら、あの堤防のギリギリのところまでつれてって」
と、まゆは虚ろな表情で指さした。
窓から見おろすと、防波堤はコの字をしており、突端まで歩いていけるようだ。
真正面である西の沖合には笠佐島の黒っぽいシルエットが見えた。
「よしきた。さっそく外出しちゃおう」と、千郷は明るく言い、ベッドのかたわらに置いていた車椅子を動かした。「ほら、乗って。飛ばすわよ」
「急かさないで。こっちは百歳のおばあちゃんみたいに身体が言うこと聞かないんだから」
「……了解」
1階の受付の前を横切るときだった。
ベテラン看護師の住田とすれちがいざま、
「めずらしく気分転換? ベッドを温めてばかりいても仕方ないものね。気をつけて行ってらっしゃい」
と、声をかけられた。車椅子に座ったまゆはぶすっとしたままだ。
まゆは住田のお節介ぶりに嫌気がさしていた。
千郷は、「30分ほどで戻りますので」と言うと、住田は小首をかたむけて笑った。
大島病院の玄関を出て、ぐるりと建物の側面をまわり込んだ。
防波堤沿いに千郷は車椅子を押していく。
まゆは15歳で、来年には地元中学を卒業する予定だ。
千郷はまゆの頭頂部を見おろした。
このあいだ洗面所で、肩まであった髪を自ら文房具のハサミでバッサリやってしまった。
前髪が揃っておらず、おくれ毛も段ちがいになり、たいへん見苦しい。
なんとなく千郷はその頭に手をおこうとして、あわてて引っこめた。そんなことをしたら、たちまち機嫌を損ねてしまい、やっぱり病室に帰ろうと言い出すに決まっている。
まゆは2ヶ月前から入院してからというもの、年ごろのせいも手伝って、めっきり心を閉ざしてしまった。
ときどき取り付く島もないほど気難しくなり、捨て鉢な口のきき方をするようになった。
原因はあった。
クラスメートの一之瀬 海斗の失踪が関係しているのは明らかであった。
海斗は勉強のできも申し分なく、ソフトテニス部の主将もつとめ、県大会のベスト3に輝いたこともある人気男子。しかも生徒会長をつとめ、その牽引力に教師たちも眼を細めたものだ。
いくら田舎の中学とはいえ、生徒会の長が突然いなくなる――。直後は学校内に激震が走った。
失踪前、生まれつき脚が悪く、車椅子生活を送るまゆに、海斗はかいがいしく接してくれたそうだ。
休みがちなまゆが授業についていけなくなると、となりの席の海斗が机をくっつけてくれ、親切に教えてくれたと、語ってくれたときの喜びようったらなかった。
まゆはどちらかというとおしゃべりではなく、ロマンチストな面と現実主義の面をあわせもっていた。
海斗とはうまく会話を交わせることができたのだろう。いつしかテニス大会があるたびに、部活動に所属していないまゆは特別招待され、彼の華麗な試合を観戦することができた。
まゆが観戦したときの海斗の勝率は90パーセントを誇った。
勝利の女神の称号を冠するまでになったのは、母の千郷としては照れくさいことだった。
その矢先だ。この生徒会長にして、まゆの心の支えが行方をくらませたのは。
口さがない生徒の噂によると、海斗は1年前、内地から赴任してきた女教師を好きになったという。
夜の体育館で、一度きりのあやまちを犯したとも言われていた。海斗は若さゆえ、ますます夢中になった。
女教師はその思いを受け止めることはできず、逃げるようにして去った。それを追って失踪したのではないか、と言われているが、どこまで事実なのか怪しい。
いずれにせよ、海斗の優しさはあわれみからくるものであり、周囲に人格者であることを知らしめるパフォーマンスにすぎなかったのか。
まゆは彼の優しさを、自身に対する愛情とはき違えてしまったのかもしれない。
コの字型の防波堤を曲がり、あとはまっすぐ続く堤防があるだけだ。
右は丈の低い壁があり、雲間から伸びたスポットライトのような陽光のカーテンを受けて海面がきらきら輝いているのが見えた。
その約2キロメートル向こうに笠佐島が横たわっていた。
堤防の下には波消しブロックが雑然と積まれており、ゆるやかな波が挑み、白い飛沫をあげていた。
「こんなこと言うとヘコんじゃうかもしれないけど」車椅子を押しながら言った。「そろそろ高校の受験勉強、本腰入れないとね。入院してても、勉強はできるでしょ。住田さんに許可いただいて、大きい机、取り寄せてみてもいいけど」
「焦らせない」と、沖の方を見ながらまゆは言った。声まで男の子みたいに低い。「まだ時間はあるから。いまは……じっくり治療に専念したい」
「じゃあ急かさないでおこう。梅雨のまっただなかなのに、なんだか寒くない?」
「言われてみれば」
「ひざかけ、持ってくればよかったね」
「我慢できる範囲だよ」
「じゃあ、我慢して」
2人は堤防をゆっくり進んだ。
「お母さん、さっさと核心を突いたらどうなの? まわりくどいよ」と、まゆは充血した眼で千郷をにらんだ。「一之瀬くんが行方不明になった事件と関りがあるのかどうか、はっきり聞いたらどうなの」
千郷は気圧されて言葉をつまらせた。
「だって、その点については、ずっと避けてたじゃん。いつまでもジュクジュクして治らない傷をかばうかのようにしてさ」
と、子供っぽく言い返すのが関の山だ。
「傷は治っちゃいない。……けど、腫物あつかいされるのは、もうこりごり」まゆは下を向いたまま言い、「思いが届かないってつらいよ。みんなのように元気に走りたいのに、立ち上がることさえできない。一之瀬くんのこと、信じてたのに、このありさまだし」
「海斗くんは」と、千郷は車椅子を押し続けながら、辛抱強く言った。ついに堤防の終点まで来てしまったので、立ち止まった。「いったい、どこに行っちゃったのかな。戻ってこられるなら、みんなして受け入れてあげればいいね」
「一之瀬くんなら、最後までかけ抜けるはず。一度こうと決めたら、信念を貫く人だったから」
「さすが熱血生徒会長」
そのときだった。
時ならぬ突風が吹いてきて、2人は髪を乱され、体勢まで崩されたほどだった。
「いまの風はなに?」
と、千郷が眼を白黒させて言った。
「大丈夫、お母さん? あやうく海に落っこちちゃうとこだったよ」
まゆが沖の方を見て、耳を澄ませた。
――あ、聞こえた。
空耳ではない。
まただ。
やっぱり笠佐島の方角から、潮騒にまじり、かすかな撥の音が聞こえてくるではないか。
トン……トン……トン……と、太鼓を叩く軽快な連打音。
聞きまちがいではない。
「なんで海から太鼓を叩く音がするの?」
けわしい表情でまゆは言った。
千郷は唇に人差し指を当て、「シーッ」と鋭く言った。
髪から耳を露出させ、手をかざした。千郷も太鼓の撥の音がはっきりと聞こえたのだ。
「……もしかしたらこれが、住田さんが言ってた虚空太鼓じゃないかしら」
「虚空太鼓? なにそれ」
千郷は、奇しくもひと月前、3階のリハビリ訓練室で住田との話の流れで、古くから地元、小松に伝わる虚空太鼓伝説を聞かされていた。それはこんな話だ。
昔々、旧暦6月17日。
風が出はじめた夕方でのできごとだった。
安芸の宮島の軽業師たちを乗せた船が小松の瀬戸にさしかかった。宮島で管絃祭が行われた、その道中だった。
瀬戸の荒潮に乗りかかったとき、もともと潮流の激しい海域なうえ、不運にも嵐が重なり、船は転覆してしまう。
船上の軽業師たちは必死になって救いを求めた。力のかぎり太鼓を叩き、鉦を鳴らした。
しかしながら命がけの救命信号も届かず、太鼓の音は潮騒にかき消され、陸からはなんの救いの手もさしのべられなかった。
こうして彼らは瀬戸の海に、無念の涙を飲みながら沈んでいった……。
それからというもの、夏になると、この瀬戸で太鼓の音が聞こえるようになったと伝えられていた。
これを北側に位置する対岸の大畠で聞くと小松の方から、小松で聞くと西の笠佐島の方から聞こえてくると言われた。船で音の出どころを探しに行っても特定できないとされていた。
水前寺 清子の歌『虚空太鼓』は、まさにこの伝承をモチーフにしており、周防大島出身である星野 哲郎が作詞したとして知られている。
「笠佐島で祭りでもしてるんじゃないの?」と、まゆは反論した。もとより科学的根拠に欠く怪異をやすやすと受けいれる少女ではない。「それか、どこかで宗教の行事があり、太鼓を叩きながらお題目を唱えているとか」
「どこかの壊れかけの洗濯機が、おかしな音を立てているだけかもしれないけど」と、千郷は光できらめく海を眺めながら言った。「トン、トン、トン……って、やっぱり太鼓の音としか言いようがないね。ふしぎな現象」
「百歩譲って、浮かばれない旅芸人の怨念だとしても」まゆは思いつめたように呟いた。「一之瀬くんの場合は、思いを遂げられたのかな。あの年上の人に気持ちは届いたのかな」
「届いたといいね」と、千郷は静かに言い、まゆの肩に手を置いた。
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