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第一章:少年期
第58話 知らない天井
しおりを挟む「知らない天井だ……」
ぼんやりとした意識のなか、まず視界に入ったのは精巧な彫刻が施された木製の裏板だった。
見覚えのない装飾に、高価そうなシャンデリアが窓から射し込む光を反射している。
僕はゆっくり上半身を起こした。
やわらかな感触に気づいて視線を動かすと、豪華な天蓋付きの寝台に横たわっていることが分かった。
白いシルクシーツには繊細な刺繍が施され、金糸で見事な装飾が施されていた。
「ここは……どこ?」
頭を振って記憶を探るが、直近の出来事しか思い出せない。激しい戦闘、そして意識を手放した瞬間の光景、それに腕に抱えたルナリアの体温。
ゆっくり視線を巡らせると、部屋の隅に女性が立っているのが目に入った。
黒と白の制服に身を包んだ若い女性だ。メイドだろうか? タオルを手に何かの準備をしている。
「……あの」
声を掛けると、彼女は驚いたように振り返った。その顔には困惑を含んだ表情が見られたけど、何も言わず、すぐに軽く会釈して部屋を出て行った。
僕が目を覚ましたことを誰かに報告しに行ったのだろうか。
「僕は貴族の屋敷にいるのか……?」
窓辺のカーテンから漏れる陽光は柔らかく、部屋全体を暖かく照らしている。装飾品のひとつひとつに至るまで、洗練されたデザインが施されているのが分かる。
僕はそっと脇腹に手を当てた。
ナイフが突き刺さっていた箇所には包帯が巻かれていたけど、僅かな凹凸が感じられる。傷痕だ。けれど痛みはない。
おそらく、高度な魔術による治療が施されたのだろう。
「助けられたのか……」
ぼそりとつぶやいて、天井を仰ぐ。
あの襲撃はどうなったのだろうか、ラティとゴーストは無事だろうか?
それにルナリアは――次々と浮かぶ疑問に胸がざわつく。
控えめなノックの音が部屋に響いたのは、ちょうどそのときだった。
扉が開く音がして視線を向けると、ハリソン卿が静かに部屋へ入ってくるのが見えた。
貴族らしい威厳を纏った姿だ。無駄のない動きと鋭い眼差しには、戦場で培われた強者の風格が漂っている。
かれの姿を見るなり、僕は慌てて姿勢を正そうとした。相手は高位貴族だ。失礼な態度は取れない。
「無理をしなくていい。まだ万全の状態ではないだろう」
低く穏やかな声で制され、僕は肩の力を抜く。それでも礼を欠くわけにはいかないと思い、浅く頭を下げて感謝の意を示した。
「助けていただき、ありがとうございます」
彼は軽く手を振ってそれを受け流すと、寝台の横にある椅子に腰を下ろした。背筋を伸ばし、僕を見つめる眼差しはどこか柔らかさを含んでいる。
「君がどれだけの危険を冒したかは知っている。質問もあると思うが、まずは状況を整理しようと思う」
そう前置きしてから、ハリソン卿はこれまでの経緯を簡潔に語り始めた。
僕が出血のせいで気絶したあと、応急処置を施したのはハリソン卿の護衛についていた魔術師だった。すでに医師にも治療を頼んでいて状態も安定しているようだ。
話を聞きながら脇腹に触れる。傷痕が残っているとはいえ、この状態まで回復したのは、優れた魔術師と医師のおかげなのだろう。
「その後、組合に報告した上で君を私の屋敷に運び込んだ」
貴族に対する襲撃と言うこともあり、神殿の周囲は騒然としていたようだ。そのなかで安静にできる場所として、ハリソン卿の屋敷を選んだとのことだった。
「……本当にお世話になりました」
再び頭を下げる僕を、彼は軽く手で制した。
その仕草には、恩着せがましさは微塵もない。
「それと母君のことだが、安心するといい」
僕が抱いた不安を察したのか、ハリソン卿は淡々と付け加えた。
「すでに連絡を済ませてある。彼女のそばには君のオオカミがついているから、何も心配することはないだろう」
安心したからなのか、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で張り詰めていた緊張感が解けたような気がした。
それに、まだあれから三日しか経っていないという。てっきり、一週間ほど寝込んでいたと思っていたけど。
「君の働きに感謝を伝えたい」
ハリソン卿の声には、かすかな緊張感が含まれていた。
「あの状況で彼女を救出してくれたこと、心から礼を言う。君がいなければ、どうなっていたか想像もできない」
彼は深く頭を下げることはしなかったが、その瞳には確かな感謝の色が宿っていた。
そこで、ふと眠りの中で見た光景を思い出す。それとは〈知識の書〉を通じて得た情報だったが――目覚めた後も、妙に現実的な夢を見ていたかのように頭にこびりついていた。
僕があの場でルナリアを助けていなかったら、果たしてどうなっていたのか。それも〈知識の書〉を介して思いだしていた。
彼女は襲撃者に誘拐され、郊外にある塔の廃墟へ連れ去られる。必死に抵抗するが、状況は悪化する一方だった。
そして――そこにあらわれるのがハリソン卿だ。剣を手にし、圧倒的な実力で襲撃者たちを一掃する。
「……なるほど、そういう筋書きだったのか」
ゆっくり息を吐き出しながら、僕は頭の中で状況を整理する。僕が介入しなくても、結局ハリソン卿が彼女を救い出していた。
けれど、問題はその後だ。
彼女が誘拐されたという事実は、周囲の人々に暗い影を落とすことになる。とくに婚約者である皇子の反応は酷いものだった。
『君は穢されたんだ』
――そんな侮辱の言葉がルナリアに対して向けられる。あの侍女以外に彼女に触れた者はいなかったというのに、世間は彼女の名誉を簡単に踏みにじる。
それは皇子の冷たい態度としてもあらわれ、彼女を孤立させる結果になる。そしてその先にはあるのは、無実の罪で処刑されるという非情な未来だった。
「……でも、今回は違う」
僕が介入したことで彼女は誘拐されることなく無事に救出されている。誰かに穢されたという疑いをかけられることもなく、彼女の名誉は守られた。
あの皇子がどのような反応を示すのかはともかく、少なくとも〝穢された〟などという言葉で傷つけられることはないだろう。
たしかに僕は死にかけた。脇腹に深く刺さったナイフの痛みは今も幻肢痛のように残っている。簡単に忘れられるものではない。
けれど、あの決断には確かな意味があったのだ。
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