聴かせて

吉田冬夜

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聴かせて

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      題 『聴かせて』

 
第一章 聴きたくないこと

休み時間の間、行きたくなかったが生理的なものは仕方なく日に何度かのトイレの一回をこなして教室へと戻ってきた。中学二年生の吉井沙羅(よしいさら)は、次の時間までまだ余裕があったので机に座って読書を始めた。チャイムが鳴る少し前になるとみなが教室に戻り始める。吉井沙羅は読書をしていた本をしまうと次の時間の教科書とノートを取り出し机の上に置く。軽く目をつぶって小さく息を吸った。
吉井沙羅の様子に気付いた他の生徒は授業に入る前の集中をしているかのように感じていた。次の時間の授業に対する覚悟をしているかのように。
始業のチャイムが鳴り始めると、静かになりそうだった教室に急いで数人が駆け込んできて慌ただしくなる。教室の後ろで大きな音がすると少し目を開けた吉井沙羅は下唇を軽くかんだ。
「いやー、間に合った」
{うるせーよ}(間に合ってねーよ)(はやくしろよ)
「次なんだっけ?」
(はあ?)(さっき数学だって言ってただろ)(あっ、まだ準備していなかった)(聞かねーで、自分で調べろや)
ギリギリになって教室に入ってきたのは、桐生、高崎、沼田の3人の女の子だったが、いつものことだった。席に着きながら桐生が言ったが、それ以外の声も吉井沙羅には聞こえていた。それが吉井沙羅がなかなか友達ともなじめず、あまり人と接しようとしない理由だった。
教科の先生が前の扉から入ってくると、同時に後ろの扉からまた一人入ってくる。沙羅は教科の先生を見上げつつ、後ろから入ってきた生徒を感じていた。いや、聞いていたと言った方が正しかったのかもしれない。
(おっ、みんないるな。それにしても熱くなってきたなー。大泉はおとなしく座るかな?)
(何で、みんなおとなしく座っとんねん。やってられるか)
先生が心配している大泉の怒りのような言葉にならない圧迫した感情が沙羅に流れてきて目を細めた。なかなかこれには慣れられなかった。
「はい、号令」
「起立、礼、着席」
「お願いします」
授業が始まるとクラスの中は静かになる。みなが先生の指示を待つ。その間も沙羅の頭の中にはクラスのみなの声が流れてくる。
(暑いな)(早く終わらないかな)(かったるいな)
絶え間なくクラスのみなのつぶやきが大小様々聞こえてくる。沙羅はその中で先生の実際の言葉を拾うのに口元を見つめ必死になっていた。
小さい頃からずっとそうやってきた。授業中などはもう慣れたものではあったが、人が多い程大変な作業に変わりはなかった。小さい頃は耳をふさいでみたり、耐えきれずに叫んで教室を出て行って「問題行動」の児童として注意されたりした。それでも低学年の頃は、学校に行けなくて家で勉強を教えてもらっている時期もあった。さいわい両親がそういったことにたいして寛大だったのがせめてもの救いだったが、沙羅の気持ちに対しては理解してくれなかった。
高学年の頃「自閉症スペクトラム傾向」という診断がされたそうだ。最初、両親はその言葉で心配していたようだったが、自分の力のことを理解し、受け入れることで落ち着いてきたことから、最近は全く心配しなくなった。自分としても普通の子と同じようにできているつもりでいた。
「この問題の解き方は、分かるか?」
先生の言葉を聞くと一緒に黒板に書かれている数式を見た。沙羅は考えようとした瞬間。
(あっ、これもう塾で習ったな。えっと、片方の式に数が合うようにもう一つの式をかける奴やったな)
沙羅が考える前に答えが聞こえてきて、がっかりして下を見た。それでも、もう慣れたものだから落ち着いて板書をノートに写す作業を始めて考えるのはやめてしまった。いつものことだった。
落ち着いて受けられるのは体育や美術などの実技教科だった。皆の声が聞こえてはくるけれど、ほとんどが自分には全く関係のないことだったから無視していればいいだけで、先生の指示もみなが心の中で復唱してくれるので遅れずに行動できた。
放課後の部活動なども入学していろいろと迷ったが、人が少ない環境が良く、ここでも親に無理を言って校外のテニスクラブで硬式テニスをやっていた。だから、知り合いがあまりいない。
(あっ、沙羅また本読もうとしている)
「さ~ら、トイレいこっか?」
沙羅に声を掛けてきたのは、小学校から一緒の吉岡恵だった。人付き合いも良く、活発で明るい子だったが、いつも沙羅のことを気づかってくれた。
「うん、いいよ」
前の休み時間にも行ったばかりではあったが、ぶっきらぼうに断ることもできず席を立った。
(よかった。一人で行くのはちょっと嫌やもんな)
沙羅の言葉に吉岡が助かったのが分かってうれしくもあった。それでも、仕方ないことではあったが、できればあまりトイレに行きたくなかった。
昨日のテレビの話しや好きなアイドルのことなどを吉岡は一生懸命話してくる。その時は、心の声はなく耳から入ってくる音だけで話すことが出来るので、沙羅に取っても吉岡はいやすい人でもあった。ただ、トイレが近づいてくると沙羅は不安な気持ちになる。
(あいつほんとにむかつく)
トイレに近づくと話し声と共に、苛立ちや怒りなどの負の思いが伝わってくる。移動教室などの関係で、変にトイレがすいているときもあれば、今のように人がたまっていることがある。沙羅は人がたまっているトイレが嫌だった。外のデパートなどのトイレは何ともなかったが、学校のトイレは中学校に入ってからできるだけ避けたかった。
トイレに入ると視線が注がれるが沙羅はすぐに目を逸らしてしまう。
(なんだ)
個室は空いていて吉岡とそれぞれ入る。トイレにたまっていたメンバーが自分達に興味なさそうにしていて助かった。洗面台付近には相変わらず話しをしているようで、聞き取れない程の声が聞こえたり、時々盛り上がったりしていたが、話しに夢中になっているようで嫌な声は聞こえてこなかった。
沙羅は無事にトイレを出るとため息をついた。吉岡は全く気にしていなかったようで、再び興味があることを話し始めた。
沙羅のクラスには、他にも行動を気にしている人がいた。授業の時は眠っていたようで沙羅の気にはならなかったが、いつも周りでトラブルの絶えない男の子が大泉だった。
(あっ、うるせえなー)
沙羅に聞こえた大きな声はクラスのみんなには聞こえていないようだった。続けて寝ていた大泉がクラスの騒がしさに起こされて強い気持ちで思ったのだ。
(誰だよ。騒いでいるのは?)
大泉がクラスの様子を見ているのに気付いているのは沙羅だけのようだった。
「沙羅、どうしたの?」
トイレから戻っても教室で一緒に話しをしていた吉岡が沙羅の様子に気付いて声を掛けた。
「うん、大泉君が起きたようで、何だか怒っているの」
沙羅が言うと吉岡は大泉の座席に目をやる。
「あっ、ほんとだ。起きたみたいだね。すごいにらんでる」
大泉を見て吉岡恵は軽い気持ちで言うが、沙羅からすると気が気ではなかった。沙羅に聞こえてくる言葉は、大泉が今にも誰かに殴りかかりそうだった。ただ、騒がしいのはクラス全体であって、大泉は寝起きの不機嫌さからゆっくりと解放されているようだった。
「めぐ!」
いつまでも大泉を見ている吉岡を沙羅は呼びかけた。
「大丈夫そうかな」
(沙羅は心配性だなあ)
頷きながら珍しく吉岡の心が聞こえてきて、沙羅はドキッとした。でも、その後は何もなかったので、一人で勝手に慌てて、安心した。
授業が終わると掃除がなければすぐ下校する。吉岡は吹奏楽部で活動していて、放課後は忙しい。学校の生徒のほとんどが部活に所属していて、沙羅と同じように部活動に所属していなくても野球やサッカーなど外のクラブに所属している。
沙羅はすれ違う友達に挨拶して、グランドの部活動に行く生徒と一緒になって校舎を降りていく。玄関で下足に履き替えて外の部室に行く生徒と学校を出る生徒が別れる。
沙羅の住む町は京都市の寺社の多い地域だった。学校の周囲は車の通りは少なく、少し行くと大きな通りもあったが、学校から沙羅の家までは細い道を抜けていけば着く。学校に通う生徒の中には自転車通学者もいたが、ほとんどが徒歩圏内の生徒で占めていた。
歩いて十五分程で沙羅は家に着くと、カバンからお昼の弁当箱を出してすぐに自分の部屋へと行く。部屋にはいつものようにテニススクールに通うためのバッグが用意してあり、タオルや着替えなどを確認するとバッグを閉めて自身もジャージに着替えた。身軽になったところで、カバンを背負って家を出た。
普段母親は家にいたが、時々買い物などに出掛けていていないこともある。今日もそのようで鍵を閉めて出る。家からテニススクールまでは電車で二十分程。家から駅までも遠くないので不便なことはなかったが、往復のことなどを考えると学校で部活しているよりは帰りが遅くなる。ただ、それは最初から分かっていたことで、塾に行っていることを考えるとそれほど負担でもなかった。もちろん、人がいるところは避けたいので、塾は行っていない。
難点を言えば、電車内だった。人が少ないところを求めて外でのクラブ活動にしたにもかかわらず、駅や電車内は人が多い。最初は、電車での往復か学校の部活動かで悩みもしたが、やっぱりいろいろ聞こえてくるとはしても、学校内の面倒くさい人間関係から離れられることはとても良かった。今では学校から帰り家を出るときはイヤホンで音楽を聴いてやり過ごしていた。
(右)
試合形式の練習中の相手からの言葉で沙羅は相手が打つ前に左に動く。相手にとって、決まったと思われた球に沙羅は余裕で追いつきフォアハンドで強く打った。
「沙羅にはかなわんな。何だか先を読まれているみたいに決められちゃうんやけど。あかんわ」
練習が終わった相手から言われて、「そんなー」と言いながら、沙羅はドキッとすると同時に、何だかずるいことでもしているような気持ちになった。
テニススクールでは、二、三時間のメニューをこなして帰宅する。
「ただいま」と言ってリビングに声を掛けると「おかえり」と母親が言う。
「今日のご飯は何?」
帰宅はだいたい二十時前後になる。小学生の下の妹はだいたい十九時頃に母親と一緒に食事をとる。沙羅が帰ってくるまで待つには小学生には少し遅い。だいたいいつも、ご飯を済ませていろいろな家事をしているときに沙羅が帰ってくる。
「今日は焼き魚なんだけど」
母親の答えに「えー」と言いながらリビングのドアを閉めて、洗面所で洗い物を洗濯機に入れる。そして、二階の部屋に荷物を置いてリビングに戻る。沙羅は練習で疲れて、お腹がすいていた。
「ねえ、今日お父さんは?」
「ちょっと遅くなるって、だから悪いんだけどあなた一人で食べてくれる」
妹が母親と一緒に夕食を食べるので、父親が気にして早く帰ってきたときも沙羅を待って一緒に食べるのが習慣になっていた。「うん」と返事をして椅子に座る。
リビングの奥では妹がソファーに座ってテレビを見ていた。今時のアイドルがゲストといろいろなアトラクションをこなしていく番組だ。めぐも見ているんだろうなー、と思いながらすでにテーブルに並べられているサラダを口に運んだ。少しして母親が味噌汁を持ってくる。そして、メインの焼き魚とご飯が並び沙羅の夕食の準備が終わった。
「最近、ほんとに元気になったね」
夕食を済ませた母親は一人で食べさせている沙羅に悪いと思ったのだろう、沙羅の料理が出ると向かいの椅子に座って話しかけた。沙羅は、テレビを気にしながらも母親を見て「そう?」と返した。
中学に入るまでは、学校での生活がどうにも落ち着かずに、それが家に帰ってきても続いて、両親には大変な思いをさせた。
「みんなの考えてくることが聞こえてくるの」と母親に相談したこともあったが、「じゃあ、お母さんは何考えてる?」と返された。「わかんない。お母さんや、お父さんのは聞こえないの」と答えるも自閉症スペクトラム傾向という単語が二人に沙羅の言葉を結びつけてしまうのか、二人はそれで納得した振りをした。
母親の「元気になったね」の言葉に、自分で自分を褒めたい気持ちになった。小学校までは、クラスの先生、生徒が一日中一緒になって活動する。小さい頃からずっと一緒というつき合いもあって、その親密性が沙羅を苦しませたのだろう。
「お母さん、たまの魚もいいね。おいしいよ」
「そう、ありがと」
沙羅のことを気づかってくれる母親の気持ちに応えようと、ちょっとお世辞を言った。
「ご飯食べたら、お風呂にはいるでしょ。ちゃんと湯加減見てね」
沙羅の言葉に気をよくしたのか、または恥ずかしかったのか、そう言うと立ち上がり台所に行って洗い物を始めた。
沙羅は食べ終わると妹の見ているTV番組も気になったが、運動して汗をかいた体でのんびりする気にもなれず、「ごちそうさま」と言って洗い物を流しまで運んだ。
いつものことだが、風呂にのんびりつかって考え事をしていた。どうしてこのような力を持ってしまったのかと。家族の心が聞こえてこないのは良かった。だから、家にいると安心した。父や母、妹も同じような力を持っている様子はない。この力に助けられることもないとは言えないが、できればない方が良かった。何の役に立つのか、ずっと疑問に感じていた。
風呂から上がって、少しの間リビングでテレビを見ながらのんびりした。水分補給をして、一段落すると部屋へと戻った。
毎日の日課で、だいたい決まった時間から勉強を始める。出さなければならない課題や、その日の授業の復習などだ。塾に行っていない分頑張らなければならなかった。それは、自分勝手な理由でもあったので。
中学に上がるまで、授業に身が入らないし、勉強は手に付かない。ただ、テストではみんなの考えていることが分かるので自然とできてしまう。なので成績は良かった。それでも、中学に入ってから少しは変わろうと思い、家で練習問題をやったときにあまりの自分のできなさに驚愕した。能力を嫌みながら、能力に頼り切っている自分に気付いた。それからというもの、自分でも感心する程、家での取り組みに集中することができた。
二階で勉強していると下で物音がして中断して下に降りた。
「お父さん、お帰りー」
リビングのドアを開けると椅子に父親が座っている。物音は父親が帰宅したときのことだということが当たった。椅子に座っている父親に向かって沙羅は言った。
「ごめんな。勉強していたか。今日は遅くなっちゃったよ」
沙羅の言葉に父親は笑顔で言った。沙羅も笑顔で応え椅子に座った。
「勉強頑張っているかー。えらいなー」
沙羅はまだやらなければならないこともあったが、父親が食べている間は一緒にテーブルについて相手をしていた。母親も一緒になって座る。
「沙羅は今週末もテニスか?」
「うん」
「そっか、瑠那(るな)がどこか出掛けたいって言うから、大阪でも行こうかと思ってるんやけど。沙羅もいかんか?」
「うーん、練習予定決めちゃってあるから。私はいいよ。三人で行ってきたらええよ」
「そっかぁ」
「その分、お小遣いちょうだいね」
「えー、お姉ちゃんずるい」
「じゃあ、瑠那は行かないの?」
母親の言葉に妹は黙ってしまう。
「いいよ。瑠那は向こうでも何か買ってもらえるでしょ。その分。その分」
父親が風呂にはいるときに沙羅はまた部屋へと戻った。
家族では、近所に食事に行くこともあるが、沙羅としてはそれも嫌でできれば家で済ませたかった。小さいときは、父親が家族サービスとして時々どこか連れて行ってくれたが、沙羅としては人混みに困惑するだけだった。遊園地のようなアトラクションの楽しさも分かるけど、他の人の恐怖が伝わってきて、別の怖さを感じてしまうこともあった。中学生になった今、テニスを始めたことがいい断る理由となっているのが良かった。
翌日学校へ行き、休み時間に入ったときアイドル好きの吉岡が話しかけてきた。
「さぁら、昨日のテレビ見た?」
(綾部くんの活躍かっこよかったなー)
「ああ、うん。綾部くん大活躍だったよねー」
(さすが沙羅も分かってるなー)
「そうそう、すごかったよね」
ずるいことをしているのは分かったが、相手が悲しむのも見たくなかった。ただ、自分の立場を取り繕っているのも分かっていたけど。誰に対しても同じようにしている訳ではなかった。信頼できる吉岡だからこそ、その気持ちを裏切りたくなかった。
問題が起こったのはその日の放課後だった。終学活のため担任の先生が険しい顔で入ってきた。みんなも何だかその雰囲気に気付いていた。
(水上の筆箱がなくなったっていうからな。犯人を見つけるまですぐには帰せないな)
沙羅には帰る用意して終学活が始まる前に担任の表情の意味が分かってしまった。ふと水上を見た。
水上はおとなしいがいじめの対象になるような子ではなく、担任のことが本当なのか疑わしかったが。嘘な訳はなく、また自分の筆箱をそこら辺になくすような子ではないのも分かっていた。水上は担任の表情の意味が分かったようで顔を伏せていた。
「準備はええか。はよしてくれるか」
みなが落ち着いてから、担任は明日の連絡を済ませて一息ついてから話し始めた。
「ちょっと確認したいんやけど。誰か水上の筆箱知らんか?昼休み終わってからなくなってしまったって言ってるんやけど」
担任の言葉でクラスの中が一瞬ザワついた。何人もがクラスの中を見回した。
(しらねーよ)
(自分でなくしたんじゃねーの)
(終学活終わるの遅くなんのかな?)
(あはは)
沙羅はいつも通りなだれ込んでくる声に目をつむっていたが、おかしな声に気付いて目を開き辺りを見回した。
聞こえてくる声の主が誰なのかすぐには分からなかったが、たくさんの声から聞き分けるように集中した。
「おい、誰か知らんか?それなら、まあ、今日のところはここまでにするから、誰か何か知っていることでもあったら言いに来てくれ」
(はは、分かるわけないでえ。大泉のロッカーの奥につっこんだったから、とおぶん出てこんやろな)
担任の声の後に聞こえてきた言葉で沙羅は誰の言葉か分かった。
「おし、今日はこれで終わりにしよう。ちょっと遅れたけど、掃除しっかりやろう。部活がんばってや」
担任の言葉でさよならをして終学活が終わった。
「めぐ、今日掃除当番なの?私もてつだおっか?」
「えっ、沙羅今日テニス大丈夫なの?助かるな」
「うん、今日はちょっと遅れても大丈夫なんだ」
沙羅は吉井が掃除当番であることを確認して、吉井と同じ班の子達と普通に掃除を始めた。掃除が終わりに近づき、それぞれが別々のことをやっているときに沙羅は大泉のロッカーを探した。そして声で聞こえたとおり水上の筆箱を見つけた。そして誰にも見つからないように声の主だった高崎のロッカーに外から見えるよう置いた。
「沙羅、終わったよ。手伝ってくれてありがと。下まで一緒にかえろっか」
教室の掃除を終えて、沙羅と吉岡は帰る用意をして玄関まで一緒に行き、そこで吉岡と別れた。吉岡はそこから部活のある音楽室に向かう。
翌朝沙羅はいつもと同じように始業の十分程前に学校に着いた。教室に入り心配もあったが水上の机には筆箱が置かれていて安心した。たくさんの声が流れ込んできていて、見つかった水上が何を考えているのか分からなかった。隠した高崎はまだ来ていないようだった。
予鈴が鳴って少ししてから高崎も登校してきた。時々声が聞こえてきたが、すっかり昨日のことは忘れているようだった。
本鈴の少し前に担任が来て、朝学習を見守っていた。その時に水上と少し話したのが見え、少しして高崎が呼び出されて担任と出て行った。
(高崎どうしたんやろ?)
(やっぱり水上のを隠したのは高崎だったのかな)
担任が水上と話してすぐに呼び出されたので、何人もが昨日のことと高崎を結びつけて考えているようだった。沙羅にはたくさんの声が流れてくるが、それでもみなは表面上は静かに朝学習を行っていた。
少しして担任と高崎が戻ってくるが、高崎は首をかしげて教室内に入ってきた。クラスの空気はより一層張りつめた。
高崎が勢いよく席に着いたとき声が聞こえてきた。
(なんでやろ。確かに水上の筆箱は大泉のロッカーに入れたのに、なんでうちのロッカーに入っていたのかな)
他の声も聞こえてくる。
(あれ、高崎がやったのではなかったのかな)
朝学習の時間が終わると担任がその日の連絡をする。その中で水上の筆箱についても話しがあった。
「昨日の帰りに話した水上の筆箱だけど、あったで。別の人のロッカーの見えるところに置いてあったっていうから、誰かが故意で隠したんではないかもしれんな。まあ、見つかって良かった。みんなは今日も一日、気兼ねなく勉強を頑張りいや」
沙羅としてはこれで、水上に対する嫌がらせがなくなればと思う。今回のことで、高崎も一応にらまれたことだからうかつな行動には出られないだろう。水上の表情も普段通りに戻っている。
沙羅は今までこの力について何の意味があるのか分からないでいたし、どうにかこの力がなくならないだろうかとばかり考えていた。でも、昨日のことがあって、今までの人生で初めて力が誰かの役に立ったのではないかと思った。
“この力がこんな風に役に立つことがあるんだ”
ある日また帰るときに吉岡と一緒になった。二年生の教室がある二階から玄関までの距離だけだったが、吉岡は楽しそうにアイドルの話をしていた。相変わらず考えるよりも早く、話したいことが矢継ぎ早に出てくる。沙羅も上機嫌で聞いていた。ふと、吉岡の話し声が止まったとき、吉岡の心が聞こえてきた。
(あっ、高山君がこっちに来る)
吉岡は黙ったまま、ソワソワしだす。
(あっ、こっちを見た。どーしよー)
「めぐ、どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
偶然吉岡の気持ちを知ってしまったが、すれ違ったときの相手の声は何も聞こえてこなかった。友達との会話で特に意識していなかったのだろう。
「さっきの野球部の高山君だったね。めぐは知ってる?」
吉岡の出方をうかがおうとちょっと悪戯な気持ちもあり聞いてみた。
「えっ、そうだった?気付かなかった」
「そうなの?てっきり知ってるのかと思った。ちょっとアイドルにいそうな顔しているね」
沙羅のその言葉に吉岡はドキッとした顔をした。
(やばい。沙羅に気付かれたかな。でも、気になっているだけだから、好きっていうのでもないし)
「えっ、アイドルに似ているって!そうかなー」
吉岡は自分の気持ちを隠すように、落ち着こうとしていた。その様子で、沙羅は改めて吉岡のことを好きになった。それとは逆に、自分のずるさにやりきれない思いが残った。
「沙羅は高山君知っているの?」
「うん、去年同じクラスだったからね。そんなに仲良かった訳ではないけどね」
「ふーん」
(そっか、沙羅が高山君の知り合いだったら、話すチャンスはあるかも)
玄関までの短い時間だったが、珍しく吉岡の動揺する様子が見られ、吉岡の気持ちを知り応援したい気持ちになった。
また別の日、休み時間になると沙羅はまた仕方なくトイレへと行った。また誰かがトイレにたまっているのではないかと不安だったが、その時は運良く普通にトイレを利用する人だけのようだった。空いている個室に入った。
(もう嫌)
同じく女子トイレを利用しているだろう人から声が聞こえてくる。一瞬ドキッとするが、いつものことなので気にしないでいた。声からは誰だかの見当も付かなかった。
(どうして、私だけ?‥‥もう死にたい)
「クシュ」
聞こえてくる声にびっくりして沙羅は咳き込んでしまった。それでも声の主は沙羅に聞こえているとも思っていないので、様子は分からない。沙羅一人で慌ててしまっていた。
(誰も助けてくれない)
その時数人がトイレに入ってくる音が聞こえた。沙羅はすぐにトイレを出た。そして、声の主を確認しようと入口から少し離れた場所で壁にもたれかかっていた。
トイレの入口に注意しながら、また考えてしまう。無視することもできず、ただの興味本位でしかないのかもしれない。声の主が分かったところで自分に何ができるのだろう。できないことの方が多いような気がした。それでも、この力の意味に疑問を感じている中で、何かできそうな気がしてトイレから出てくる人を待った。
少しして個室にずっといられなかったか、うつむき加減で女の子が出て来た。沙羅は注目しているのが見つからないようにしていたが、その女の子は沙羅の方に向かってきた。
(教室にいたくない。教室に入りたくない)
トイレの時と変わらずに声が聞こえてくる。その子は沙羅のクラスの子ではないのは分かったが、誰だかすぐに分からなかった。沙羅が見ていても、顔を上げずに歩いていくので、かえってずっと見ていても気づかれなかっただろうが気にしていない振りをした。誰だかの見分けがつかない。通り過ぎた後少し離れて後を着いて、その子が教室に入っていくのを見届けた。
教室の外からその子が席に着くのを見て、一年生の時に同じクラスだった太田だということが分かった。同じクラスでもあまり話したことはなかったので、よくは知らなかった。でも、今彼女は困っている。そして、それを知っているのは私一人かもしれない。時間にどれくらい余裕があるのかも分かたなかった。
「ねえ、太田さんだよね。ひさしぶり」
(だれ?)
休み時間に廊下を歩く太田を捕まえて沙羅は話しかけた。沙羅の声に太田はビックしていたが、驚いた顔をしただけで何も言わなかった。
「私吉井、去年同じクラスだったでしょ」
(吉井?そういえばいたかな)
「うん」
「クラス変わっちゃって、話す機会が全くなくなっちゃったけど、最近どうしているかなと思って」
(なんやろ。めんどうくさいな。ほっといてくれへんかな)
「うん」
「どう、元気してる?」
(どうして急に話しかけてきたんだろう?)
「うーん」
沙羅の言葉に太田は気のない返事をした。
「ねえ、久し振りだし、今度のんびり話しをしない?」
「べつに、いいけど」
「そう、良かった。ほなら今日の昼休みなんてどう?」
「うん、分かった」
「どこにしようか?‥‥理科室の前なんてどう?あんまり人こなそうやし。それでいい?」
「うん」
(なんやろ急に、でもこういうのひさしぶりやな)
太田が離れていくとき、あまり嫌な気持ちでなかったので安心した。急だし、何ができるかも分からなかったけど。
沙羅は昼食を済ませるとそっと教室を出た。教室のある棟と別の棟にある理科室に向かう。ここならあまり人は来ない。待っている場所もないので廊下に座り込んだ。
(いったいなんやろう。誰かに何か聞いたのかな)
少しすると階段を上ってくる足音と彼女の声が聞こえた。太田は沙羅を見つけると軽く会釈をする。
「あっ、太田さんこっち、こっち」
沙羅が手招きをして太田を呼ぶと太田は黙って横に座った。
「急にごめんね。大丈夫だった?」
「うん」
(なんやろ。なんか意地悪するつもりかな?)
「あの、嫌だったら言わなくていいんやけど。今クラスで困ってない?太田さんと同じクラスの子にちょっと相談に乗ってあげてって頼まれたんだけど」
沙羅の言葉に太田はビクッとして顔を伏せた。
(誰だろ?吉井さんに頼んだ人。もう知っているのかな?クラスで仲間はずれにされていること。クラスで誰も相手にしてくれないこと)
「ごめんね。言いづらいと思うけど」
(どうしよう。吉井さんは知ってるんだ。でも、何を話せばいいの?)
「太田さん、いいよ無理しなくって。言いづらいことは言わなくていいから」
沙羅は横に座る太田の体を軽く抱いた。
(えっ、なに?)
「ごめんね。全然気付いてあげられなくって」
沙羅はしばらくそのまま抱いていた。
(あったかい)
「ねえ。クラスの中に頼れる人いないの?先生にも相談してみた?」
(今、誰も信じられない。先生に言ったら、もっとひどい状況になるかもしれない)
「私に何かできないかな?」
「ごめん。ありがと」
太田が沙羅の体を引き離しながら小さく言った。
「吉井さん、ありがとう。でも、もう大丈夫。ひとりぼっちじゃないって、分かったから」
太田は黙って立ち上がった。
「太田さん、クラスの中にも太田さんのことを心配してくれている人がいるから、寂しいかもしれないけど、諦めちゃ駄目だよ。私では何にも出来ないかもしれないけど、力になりたいって思っているから」
「うん。ありがと。もう行くね。吉井さん、また会ってくれる?」
「もちろん。また、ここで会おうよ。今度また声掛けるね」
「うん」
太田は返事をすると背中を向けて走り去った。心の声は聞こえなかった。
それから、時々理科室の前の廊下で太田と会うようになった。ただ、会って適当な話しをするだけである。それでも、太田から聞こえてくる声は、悲痛なものではなくなってきた。教室でどのように過ごしているのか分からなかったが、自分といることが少しは彼女の生きる糧になっているのだということを感じた。
力が何の役に立つのか分からなかったが、今まで力にたいして嫌な感情しかもてなかった分だけ、少しは救われた気がした。それでも、今回の太田の声にしたって、本来は心の声がなくっても気付かなければならないことなのだろう。仲がいい、悪いではなくって、みんなの様子にもっと気を配らなければならない。そして、心の声に頼っている分、いつこの力がなくなるかも分からないのだし、観察する力というものをもっと付けていかなければならないと思った。
それからというもの、沙羅は声が聞こえてくることに対して以前程の嫌な感じはしなくなった。それでも、ほとんどの声が聞きたくないものでしかなく、耳をふさぐことのできない歯がゆさが苦しかった。
それでも、学校生活だから嫌なことばかりではない。
「ねえ、沙羅、今度高山君来たときに何でもいいから話しかけてよ」
終学活が終わり、帰る支度をしていると吉岡が言ってきた。
「うん、いいけど」
(アイドルもいいけど、高山君も格好いいよね。でも、沙羅はあんまり乗り気やあらへんな。もしかして、沙羅も高山君のこと気になっているとか?)
「そ、そ、そう。だね。ぜひ紹介するよ」
吉岡の声を聞こえないふりもできなくて慌ててしまった。
「じゃあ、いこっか」
気を取り直して、荷物をカバンに詰めて教室を出た。教室から階段に向かって歩いていくと、その日もタイミングが良かったのか、遠くの方からではあったが高山が友達と一緒に沙羅たちの方に向かってくるのが見えた。吉岡も気付いたようで肘でつついてきた。沙羅も気付いたことを目で合図する。
(高山君がこっち来た。沙羅にはああ言ったけど、どうしよう)
吉岡が頼んでおいて困っている様子を知り、何だかやりきれない気もしたが、吉岡とのつき合いを考えるとこのミッションはやり遂げなければならなかった。高山達は野球部の集団で、これから一緒に練習に向かうのだろう、沙羅には気付かない。沙羅もいろいろなことを知っている立場ながら、こういったことは苦手だった。
「あの、高山君!」
(んっ、吉井か)
すれ違うとき沙羅は高山に声を掛けた。高山も気付いて振り返る。
「なに?」
「あの。えっと」
(沙羅、頼むよ。うまく言ってね)
なんて言っていいか迷っていたが、本来無言の声援がしっかり背中を押してきて、思い切って言った。
「あっ、あの、久し振りだね」
「そうか。そんなことないやろ。まあ、話すのは久し振りかもしれんな」
「高山!」
立ち止まった高山に、一緒に歩いていた仲間が声を掛けた。
「おっ、わりい。先行っててくれ!」
高山の言葉に友達は手を上げて応えて離れて行った。
(あれは、吉井沙羅っていったっけ。高山はいいなー。なかなかかわいい子やんか)
変な声が聞こえてきて沙羅は慌ててしまった。高山に吉岡のことを説明しなければならないのに、声のした方を見てしまう。今現在の状況もあり、自然と顔が紅潮していくのが自分で分かった。
「で、なに?」
「あ、あの、高山君、去年、司馬遼太郎の本読んでいたよね。その話をしたら、あの、吉岡さんが借りて読みたいなー、なんてことになって。こちらが、吉岡恵なんだけど」
「こんにちは、吉岡恵です。そう、沙羅が高山君が本を持っているかもしれないって言うから、良かったら借りられないかなーと思って。でも、そんな無理にではなくてもいいけど」
「そう、別に俺じゃなくても持ってるだろうけど。まあ、いいよ。で、どの本?」
「ほんとー、ありがとう高山君。えっと、沙羅、なんて本だっけ?」
「ああ、新選組のやつ。土方歳三のでもいいんだよね?」
「そうそう、それ!ごめんね。高山君」
「まあ、いいよ。で、吉岡さんやね。吉井さんと同じクラス?じゃあ、明日でも持ってくるよ」
「ありがとう。ごめんね、引き止めちゃって」
本を借りる約束になって、それぞれ違う方向に歩き出した。
(本を借りたいってほんとかな?何だかけったいな話やな)
沙羅の無理矢理のこじつけで高山も腑に落ちない様子だった。それでも、作戦通り吉岡を紹介することもできたし、二人がまた話す機会が作れたんだから上出来だろう。
「沙羅、ありがとう。でも、新選組の本って。私、そういうのあまり読まないんだけど」
「ごめん。ちょっとどうしていいか浮かばなくって。でも、なかなかじゃない。司馬遼太郎の本も読んだら絶対はまるって」
(まあ、いっか。今度、高山君が私の所を尋ねてくるんだから。きっかけとしては十分かな)
「うん。ありがと。かえろっか」
「なかなかやろ?」
突然発生した、ちょっと難しいミッションだったが、無事クリアといった感じ。気分良く吉岡と別れて下校した。帰りながら、高山の友達で自分のことを気に掛けた男の子のことを思い出して、真っ赤になった。
翌日の休み時間に廊下から沙羅を呼ぶ声が聞こえてみると高山が入口から顔を出している。沙羅が見ると手元に文庫本を持って振った。クラスの他の子達もそれに気付き静まりかえったのが分かった。
「めぐ!」
自分の座席の所にいる吉岡を見つけて沙羅は呼んだ。
(キャー、来てくれたー)
吉岡と一緒に沙羅は廊下に出て、高山達と一緒に入口を少し離れた。高山は友達を一人連れていた。
「あっ、わざわざありがとう」
吉岡は高山と向き合う。自然、沙羅は高山の友達と一緒になった。
(おっ、吉井と二人になれた。‥‥せっかくだからアピールしとこう)
「あの、吉井さんだよね。俺、高山の友達の松井っていうんやけど。ども、一応よろしく」
「あっ、こんにちは。吉井沙羅です。松井君も野球部なの?」
「うん、そう」
(かわいいな。吉井さん。前から気になってたんだよな。今彼氏とかいるのかな)
沙羅と松井は、まだ何を話していいか分からなかったが、沙羅には松井の声が聞こえてきて、どんどん顔が真っ赤になっていくのが分かった。
「吉井さん、どうしたの?顔が真っ赤だよ。緊張している」
「う、うん」
(もしかして、吉井さんもまんざらではないのかな。もっとアピールしてみようかな)
異性からの個人的な想いは、ちょっとしたすれ違い的なものは今までもあったが、面と向かっていろいろと考えが流れ込んで来るのは初めてで沙羅はすぐにでもその場を離れたかった。どうにもできずに困っていると、吉岡の方も済んだようで、沙羅は会釈をして教室に入った。
(あれ、付き合っているのかな?)(彼氏?)
教室に入っても、沙羅たちに注意を向けている人たちがいて、沙羅に向けた想いが流れ込んでくる。沙羅は俯いたまま席に着いた。
次の休み時間になるとまた吉岡が沙羅の所にやってきた。
(沙羅にお礼言わなくっちゃ)
「沙羅、ありがとう。高山君貸してくれたよ」
吉岡は司馬遼太郎の文庫本を見せた。表紙には『新撰組血風録』とある。
「良かったね。あっ、そっち貸してくれたんだね。他にも土方歳三が主人公の奴もたぶん持ってたと思うから、読み終わったら借りたらいいよ。まあ、早く読まないとだね」
「うん、読んだらまた返しに行けるもんね。まあ、歴史物ってあんまり好きな部類ではないんやけどね」
「大丈夫だよ。うちも誰かに勧められて読んだんだけど、この辺の東山の近辺のこととか、京都のいろいろな通りの名前が出てくるから面白いよ」
(そうかなぁ。まあいっか。読むしかないし。読んだら、高山君とも話しが合うだろうから)
「そうそう、読むしかないし、読んだら良さが分かると思うよ」
(えっ)
テンションが上がっていたのか、吉岡の心の声に返事をしてしまって、吉岡は不思議そうな顔をしていたけど、話しのつながり上それ以上気にしなかった。沙羅としてはばれたら大変なので、危なかった。
「うん、読んでみるね。沙羅ありがと」
何度も礼を言う吉岡に「ううん」と言ってさえぎった。
「沙羅の方も何だか雰囲気良さそうだったけど。どうだったの?」
「松井君だって。自分で名前言ってきた」
「ふーん、知らないな。でも、なんかお似合いだったよ」
「そんなこと言わないで、そんなんやあらへんし」
(なんかムキになっているな。もしかしたら沙羅も気に入っているのかな?)
吉岡の声が聞こえてきたが、今回は慌てて対応しないように落ち着いて無視した。
(まあいっか。私は本読まなな)
ふと我に返ったように吉岡は席に戻った。
吉岡のせいでいろいろ考えてしまった。今まで沙羅は力のこともあり、どうしても誰かと付き合うとかそういうことは考えたことがなかった。もちろん「誰と誰がつきあいはじめたようだよ」なんて聞くと、うらやましいような気もしていた。それでも、今はまだ勉強もみんなより遅れているような気持ちでいたし、テニスにも集中していたかった。だから、今日の松井君がこれから積極的に来たらどうしようなどと考えてしまう。
沙羅はそれとはまた別に、力があるからではなく、力を持っていたから知ってしまったいろいろのことの中で、異性に対する大きな抵抗というかトラウマのようなのがあった。
その日は学校が終わって一旦帰宅した後テニスクラブに行くため駅に向かっていた。駅に近づくと地図を見ながら辺りを見回している外国人の男女二人がいた。イヤホンをつけて音楽を聴いていた沙羅はイヤホンをはずした。
(where is kiyomizu tenpl?)
「May I help you?」
沙羅は簡単な英語でしか話せなかったが、困っている人に気付き、手を差しのべたかった。普段あまりこのような使い方はしないが、この力の役立つ一つの例だろう。分からなければこちらから話しかけなければいいのだから。
「Oh! Thank you」
相手が応じたので、簡単の英語で、清水寺に向かうための方向を教えてあげた。この位置で、そこまで教えればほとんど確実につけるはずだった。後は、どの道を通りたいかの好みもあると思うので、それで十分だった。
本当に拙い英語ではあったが、地図を持っていたので方向を教えれば分かるだろう。「Thank you!」と言われ機嫌良く別れた。そのまま駅に向かった。
(前にいるのは中学生かな?後ろから見るとかわいく見えるな)
聞こえないつもりでいた声が突然聞こえて、沙羅はドキッとした。先程イヤホンをはずしたままだったのだ。ビックリして後ろを振り返ると、二十代程の表情の暗い男が数メートル後ろを歩いていた。相手がいくらか離れていたので、改札に向かう地下道でもあまり気にしないように歩き続けた。
(中学生だろうな。なかなか、かわいいかな。電車は近くに乗ってみようかな)
沙羅は前にも似たようなことがあった。恐くはあったが慌てないで声が聞こえないようにイヤホンをしてICカードで改札を通り抜けた。少し急ぎ足で階段を下りて地下のホームに向かう。降りたらすぐに反対側に歩き柱の影に隠れた。いつもはだいたい決まった場所で電車に乗っていたが、今日は違った。少しして不安になり、ホームにあまり人もいなかったのでイヤホンをはずした。
(あの子、どこ行ったかな~)
沙羅を追って先程の男が向かってきたのが分かった。沙羅は再びイヤホンをして、今度は男の向かってくる方と反対側に向かって歩く。あまり人がいない駅なので、こうすることでだいたいこれ以上追ってくることはなかった。
しばらくして電車が来て、乗り込むときに不安だったのでイヤホンをはずした。ドアが開いて乗ってすぐにも、特に声が聞こえてこなかったのでイヤホンをしようとした。
(おっ、かわいい子が乗ってきたな。この子に近づけないかな)
先程とは違う声が聞こえてきて、イヤホンを持った手を離した。電車の空いている座席に座ろうかと思ったがやめておいて、反対側のドアに寄りかかるようにして立ってカバンを横に置いて声の主を捜した。
すいていたので近くに寄って来られたって何もされることはないだろうし、せいぜい隣に座るということぐらいだろう。それでも、聞いてしまった以上どうしても避けたかった。しばらく様子を見ていたが、誰も動こうとしなかったのでイヤホンをした。大丈夫だろうとは思いながら、近づいてくる人を見るとつい鋭い目で見てしまう自分が嫌だった。
「さーら、ほら」
数日が経ったある日、吉岡が沙羅の所に来て先日借りた文庫本を見せた。
(頑張って、もう読み終えたんだー。沙羅も驚くかな)
「えっ、どうしたの?」
「へっへー、もう読み終わったんだー」
「えー、すごいやん。ずん分早かったねー」
「そうでしょう。家でも読んだんだ。その間あんまり勉強でいなかったけど」
「あかんやん。課題とか大丈夫だったの?」
「それはやった。スマホ使う時間が減ったかな」
「それはええやない」
「えー、あかんやろ。毎日スマホ手放せんもん」
(よっし、これで本を返しに行きながら会うことができる。少しぐらい話せるといいなー)
「なら、本返しに行くの?」
「うん、そうなんやけど‥‥」
「なら、時間に余裕がある昼休みに行ってみようか?」
「そうやね。昼休みにしよう」
(昼休みなら、ちょっとは話すことが出来るかもな。楽しみだなー)
見た目でも、聞こえてくる声でも吉岡の喜んでいる様子がよく分かった。
沙羅は吉岡と昼食後の昼休みにあまり行かない階段より奥のクラスに向かった。吉岡は歩く調子も軽かった。
(やった。高山君と話すの久し振りだな。いるといいけど)
目的のクラスの前に行き、ドアから中を覗き込もうとすると高山と目が合った。男の子達と外にでも遊びに行こうとしていたのかもしれなかった。高山達が出てくるのを待って声を掛けた。高山は以前の時と同じように、松井だけは残って他の人には先に行かせた。
「高山君、遊びに行こうとしていたのかな?ごめんね」
高山の声を聞こうとしたが、特に聞こえず、不快に思っているようではなかった。高山の前に吉岡を差し出す。
「あ、あの、本ありがと。面白かったよ」
いいながら吉岡は本を差し出す。高山が「うん、いいよ」と言って本を受け取ったところまで見て、沙羅は少し離れた。そこに、高山と一緒に残った松井が近づいてきた。
(おっ、沙羅ちゃんと話すチャンス)
「吉井さんも大変だね。吉岡さんに付き合ってきているんやろ?」
松井に声を掛けられたが、話す言葉と聞こえてくる声とのギャップに少し戸惑う。
「ううん、べつに。だって、めぐとは友達やから。それに、私達は、男子とは違って昼休みに遊ぶ用はないねん」
(沙羅ちゃんええなぁ。連絡先教えてくれへんやろか)
「そうなん。俺ら別に暇だから外で遊ぼうかなと思っただけで、何するか決まってた訳ではないんやけど」
(今は沙羅ちゃんと話していた方がええな)
「あの、松井君は何か本読む?」
(本か、あんまり読まないからな。最近読んだのなんだろう?)
「うーん、あんまり読まないな。吉井さん何かお薦めの本ある?」
「そう。‥‥なら、今めぐが高山君に返した本借りて読めば?短編集だから読みやすいと思うよ」
(高山に借りるのかー。ここはうまく沙羅ちゃんに何か借りたりした方が今後のためにいいよな)
「そうだね。そうしようかな。そういえば吉井さんは何の音楽聞く?」
「あんまり、新しいのを買ったりしないから。でも、最近はSEKAINO OWARIとかかな」
「えー、アルバム持ってる?良かったら貸してよ」
(前に彼女も持っているって言っていたけど、いいか)
聞こえてきた声に沙羅は思わず「えっ」と声を上げた。その反応は、松井には別の意味だと思われ特に気にした様子はなかった。
「あっ、アルバムは今妹がよく聴いていて、すぐには貸せないかな」
「そっか、仕方ないね」
(まあいっか、何か作戦考えなきゃな。ばれなければ沙羅ちゃんとも仲良くしても大丈夫やろ)
「ううん、ごめんね」
松井の声になかば呆れながら話しをしていたが、吉岡の方も用が終わったようで、松井の奥にいる吉岡と目が合った。
「あっ、終わったみたいだね。行くね」
松井にひとこと言ってその場を離れた。
「ちょっと、なんかいい感じだったやん?」
「そんなことないよ。そっちこそどうだったの?」
「うん、面白かったって言ったら喜んでいた。たまには本も読んでみるもんやね。そしたら、沙羅が言ったように土方歳三の本も貸してくれることになった。ありがと」
「よかったね」
「うん、でも本当に面白かったから良かった。東山とか四条通りや五条通りとかいろいろ出てくるのがまたいいよね。それに、沖田総司が清水寺に通っていた部分も良かったな」
「だから言ってたやろ。面白いって」
「あっ、それで、沙羅の方はどうだったの?」
「うん。松井君かあ。かっこいいかもしれないけど。やっぱり、なかなか恋はできそうもない感じかな」
「なんか、大人な発言だね」
「めぐには悪いけど、男って浮気性が多いのかな。今は勉強とテニスでいっぱいでいいや」


 
第二章 聴こえてくるもの

高校生になった。力は相変わらず無くなることはなく、常にずっと苦しめられてきた。学校という場に行きたくないのも変わらないが、行かない訳にもいかなかった。
高校はできるだけ落ち着いた環境で学習できるようにと、親にお願いして私立の女子校へ通うことになった。もちろんそれなりに勉強もしたが、勉強の苦労よりも、学校の環境を優先する気持ちが強かったので、それほど苦ではなかった。親への負担が増えた分、通学は自転車にした。それは自身にとってもよかった。バスや電車で通うよりも苦しまなくって済むから。
中学校から続けていた硬式テニスは、テニスクラブを辞め高校の部活動に所属することにした。できればクラブを辞めたくはなかったが、学校から家、家からクラブの時間を考えると学校で行うしかなかった。それでも、部活のみなはとても練習熱心で、気持ちも真っすぐだから変な声もあまり聞こえてくることなく、集中して練習に取り組めていた。時にはコート外での人間関係の感情が流れ込んでくることがあるが、極端な程ではなかった。
硬式テニスは中学生の頃からやっていて、基礎をテニスクラブでしっかりと教え込まれていたことから、高校に入ってからは同年代ではうまい方のグループで練習させてもらっている。校内順位戦にも早い段階から入れてもらい、時には力も利用して着々と順位を上げてきていた。
高校に通い始めて変わったのは、まずは求めていたものだけれど、授業環境だった。落ち着いて授業に取り組むことができ、学力的にはみなに着いていくのに必死だったが、力に頼らない方法で中位の成績をとることが出来ていた。ただ、テストの時に聞こえてくる声で、まだ助けられている面もあり、自覚もあったので努力を続けられていた。
学校での生活や部活動は、中学の頃とは女子しかいなくなったので落ち着いた環境に変わった。それでも、明らかに減りはしたが、様々な場面で聞こえてくる声で苦しむことは変わらなかった。
生活面で大きく変化したといえば自転車での登下校だった。家から学校までを自転車で通っている。家から学校までの道程はいろいろなコースがあった。ほとんどは車通りの少ない道を選び通っていた。それでも、京都に住んでいることの良さを最近は分かり始めた。朝練で早いときなどは寺社の周りを沿うように行く。
建仁寺の脇を抜けて曲がると正面に出られる。建仁寺の正面からは北側に上がる道が参道のように、花見小路通りが続く。昼間や夕方などは観光客が多くて大変だが、朝の早いうちはこの道は京町屋が並ぶとても雰囲気の良い道だ。自転車でとばすと気持ちいい。
朝は急ぎたい分なかなか難しいが、帰りに余裕があるときは、学校から平安神宮の前を通り、平安神宮の正門を背にして神宮通りを下がり鳥居をくぐる。そのまま少し坂道になるが、神宮通りを下がっていくと青蓮院の前の巨大なクスノキやその反対側にそびえる巨木の間を抜けることになる。道路を覆うようにそびえる樹をくぐるだけで楽しくなる。そして少し進むと知恩院の入口となる「三門」が階段の上に見える。そして円山公園を抜けると八坂神社の裏に出て、八坂の塔の近くを通り帰ることもあった。
その他にも、学校から南禅寺の方へ抜けて、南禅寺の門と水道橋の自然風景を感じてから帰ることもあった。夜は危ないこともあり混雑しているところは避けたが、自転車の通りやすい表通りから一つ外れたような道を使った。片道二十分程だったが、いい気晴らしになった。
それでも毎日は自転車で通うことができなく、寒さは何とかなっても雨の日やパンクして自転車が使えないときなどバスで通った。
学校からの行き帰りで、今までどうにか無くならないものだろうかと考えていた力についていろいろ考える出来事があった。
その日は東大路通りを下がって三条通の信号で止まっているときだった。交差点で空腹感に満たされていた。歩行者用の信号は早くに切り替わってしまっていて、反対側の信号が青になったところだった。交差点では数人が信号待ちをしていた。
(信号待ち長いなー)
(帰って酒飲みえてー)
(あー疲れたー)
(妊婦の人と事故にあったなんて、息子は大丈夫かしら)
考えことをしながら歩む中年の女性の声が聞こえ気になった。
(示談金を送ってくれっていうけど、それだけで済む訳ないわね)
その女性は止まらず歩み続ける。黙って自転車にまたがったまま見ていたが、赤信号で車が来るにも構わず車道に出ようとした。
「おばさん、危ないよ」
沙羅は自転車で近寄り肩を叩き、声を掛けた。
「あら、ごめんなさい」
女性は沙羅をちょっと見たが、すぐに正面を見据え考え込んでしまう。
(とりあえず、早く振り込まないと。妊婦さん、無事だといいけど)
女性の考えていることが聞こえ不安になった。信号を渡った先に銀行のATMが見える。彼女がそこを目指しているのは明らかだった。信号を待っている間も時間を持て余してバッグから通帳を引っ張り出していた。
“騙されているかもしれない”
そう思ったが、どうしていいのかすぐには分からなかった。そうこうしているうちに、反対側の信号が赤に変わった。
(早く振り込まないと、健二が捕まったら大変!)
信号が変わるとすぐに女性は急ぎ足で歩き始めた。離されまいと沙羅はすぐ後に続いてゆっくり漕いだ。
「あの、おばさんこんにちは」
横断歩道を渡りきったところで沙羅は声を掛けた。驚いた女性は立ち止まって沙羅を見た。
(だれかしら。思い出せないわ。近所の子かしら)
「あの、分かりますか?」
「ごめんなさい。どちらのお嬢さんかしら?」
「あの、健二さんの友達で」
“かなり無茶な言い訳かな”
「お友達?」
女性は息子と友達という女子高生が来て、下からゆっくり視線を移した。息子の方に疑問を感じているようだ。
「はい、健二さんにはいろいろと教えてもらったりして」
「まあ、そうですか」
(ちょっと、急がないとならないのに)
「あの、それで忙しいところすいません。健二さんから連絡がありまして」
「健二から?」
(健二から連絡?今そんな場合ではないはずだけど)
「そうなんです。携帯番号が変わったって言わはりませんでしたか?」
「そうよ。あなたの方にも連絡があったの?」
「いいえ、そうではないんです。あの、健二さん実は携帯電話の番号変わってないって言ってはりました。だから、お母さんに電話くれるように言ってくれって」
(えっ、どういうこと)
“うまくいくかな”
沙羅は考えながら女性の様子を見ていた。
「そう、では、電話してみようかしら?」
「そうですよ。電話して確認して下さい。前の番号ですよ」
交差点の少し広がっている歩道から、女性は建物の陰に入った。沙羅に言われるように、前の番号に掛けようと慎重になっているのが分かった。女性のかける様子を沙羅も端によって見守っていた。
「もしもし、健二。あんた大丈夫?」
無事につながった様子を見て沙羅は安心した。電話の向こうの様子が伝わってくるようで、何だか面白かった。その場から気付かれないようにゆっくりと離れた。
「何がって、交通事故で妊婦さんをケガさせたって、弁護士さんから連絡があったのよ。‥‥えっ、違うの?‥‥詐欺?‥‥」
「ちょっと待ってくれる。‥‥さっき、あなたのお友達だって言う女子高生があなたのことを教えてくれたのよ」
女性が顔を上げたときには沙羅の姿はなかった。辺りを見回した。
「えっ、女子高生に知り合いなんていないのね。‥‥そうよね」
沙羅は気持ち良く自転車を走らせていた。車通りの減った車道を走らせていたが、いつもよりスピードが出ていたかもしれない。顔に当たる風が心地良かった。
些細なこともある。ある日、部活動が終わって帰るときに学校の近くまで友達と一緒だった。急いで帰ろうと思い、友達は徒歩で沙羅は自転車で歩行者信号が点滅しているときに交差点の横断歩道を急いで渡ろうとした。
歩道から車道に出ようとしたときに背後から左折する車が近づいているのが分かっていたが、沙羅たちに気付いて止まると思っていた。
(間に合うかな?これで遅れたら課長がなんて言うか)
「待って、ゆき!」
車道に一歩前に出ようとしたとき沙羅は止まって一緒に帰っていたゆきに声をかけた。その次の瞬間には背後から来た車がスピードを落とさずに交差点を曲がり、沙羅たちの前を通り過ぎていった。
(危なかったー)
二人はすぐに声が出なかった。そのうちに歩行者の信号は赤になって二人はそのまま歩道に取り残された。
「ゆき、危なかったね」
「うん、沙羅が声をかけてくれなかったらひかれていたかもしれない。‥‥ありがと」
びっくりしたのか、ゆきはまだ落ち着かないようすだった。
「でも、沙羅、よく分かったね」
「あ、うん。後ろから車が来ているのが見えてたし。運転手さんがこっちを見ていないように見えたからね」
「そっか、良く気付いたね。でも、ほんと危ないよね」
「ほんとーだね」
“あの時運転手の声が聞こえなかったら私も危なかったな”
「ほんと気をつけないと、テニスできなくなっちゃうね。ゆきともラリーができなくなったらつまらないもんね」
歩きのゆきとは最寄りの駅の近くで別れた。その日の帰りは、力が役に立ったことがうれしくもあった。力がなくても防ぐことができていればもっと良かったのだが、力に頼っているかもしれない自分を認めるのが嫌だった。自転車を漕ぐペースも気分も何だか重くなった。
ある日は、テスト前の週に入っていて部活動がなく授業後の放課の時だった。帰るつもりで自転車置き場に向かっているときちょっと心配な声が聞こえてきた。
(大丈夫かな。芸能界に入るためのカメラテストをするって、スカウトされたけど、その芸能事務所がスマホで調べても出てこないんだよな。行くの止めた方がいいかな?)
声の主を確認すると斜め後ろを歩いている同じクラスだけどあまり話したことがない子だった。渋川真由といい、クラスの中ではおとなしく真面目な子だった。沙羅はそんな渋川が芸能界を目指しているということに驚いた。声が気になり、沙羅は少し歩調をゆるめ渋川を先に行かせ後を歩いた。
(今日に河原町の丸井の前に来てくれって言われたけど、どうしようかな)
二人とも自転車置き場に着き、同じクラスなので自転車も近くに置いてある。沙羅は気付かれないように、バックを開けて確認している振りをして渋川の様子をうかがった。渋川もこの後どうするか考えているようで、自転車置き場で立ち止まっている。
(行くだけ行って、そこで断った方がええやろうな。そうしよ!)
渋川は決心がついたようで、自転車のカゴにバッグを入れると鍵を解除して自転車置き場から自転車を引き出した。その様子を見て慌てて沙羅は声をかけた。
「あの、渋川さん。こんにちは」
突然の声に渋川はびっくりして顔を上げた。沙羅を見て会釈をする。
(えっと、吉井さんだ。なんだろう)
「急にごめんね。なんか考え込んでいるようだったから、ちょっと心配になって声掛けちゃった。どうかしたの?」
「うん、ちょっとね。でも、大丈夫」
(一人じゃ心細いけど、いきなり吉井さんにお願いするんじゃ迷惑だよね)
「そう。私、この後ちょっと河原町に寄って買い物して帰るけど、良かったら途中まで一緒に帰らない?」
「えっ、ほんと。私も河原町に用があるの。ちょっと一緒に付き合ってくれる?」
「うん、ええよ。ついでやし」
(良かった。吉井さんがいれば、断りやすいと思うし)
沙羅と渋川はゆっくりとした速さで学校を出た。河原町を目指しながら、今迄話したことがあまりない分、出身中学校などでお互いの家を確認した。ただ、渋川は地元の公立校ではなく中学校から、今の学校に通っていた。簡単な自己紹介だけで、すぐに仲良くなれるわけもなかったが、それなりに会話が弾むのが女の子である。
河原町まで自転車で少し掛かったが、それほど遠い距離ではなかった。沙羅にしても、少し遠回りになってしまった程度である。
四条河原町の交差点までは、河原町は自転車での通行規制がありこの時間は通れなかったので、木屋町通りを下がっていき四条通りを越えてからマルイの裏に出るように向かった。河原町通りに出ると自転車を降りた。この辺りの歩道は人が多く、自転車では通れない。自転車に乗っている高校生もあまり見かけなかった。
「ちょっと待ってて」
渋川はそう言ってスマホでどこかに電話した。
「はい、渋川です。今、丸井の前の辺りにいます。‥‥はい。‥‥はい」
電話が終わると沙羅に話しかける。ここに来るまでの道すがら、渋川は大まかに先日スカウトされて今日に河原町で待ち合わせをしていること。その相手も心配であることを話してくれた。沙羅は断るなら電話で断ればいいと言うが、真面目な渋川にそれはできないらしい。
「ごめんね。近くにいて、すぐ来るって」
(断ったら、怒ったりしないかな?)
二人は自転車を歩道の脇に置いて待っていたが、人が多くあまりとどまっていられない。二人はキョロキョロして、電話の相手を待っていた。
「待たせちゃって、ごめんねー」
軽い調子で二十代半ば位の少し髪の長い茶髪の今時の男がやってきた。
「えー、渋川さんだね。こっちの子は?君もなかなかかわいいね」
「あ、あの、彼女は付き添いで、同じ学校の子です」
「そう」と沙羅を下からなめ回すように見て、急に自分の立場に気付いたのか辺りをキョロキョロ見た。
(ちょっとここ人多いな。さっさと移動せな)
「ここだと邪魔だから、もう行こうか。あっちに車あるから。君も来る?」
男はそう言うと、沙羅は首を振った。それを見て男は渋川を促し歩き始めようとする。ただ、すぐに反応しない二人に気付き立ち止まった。
(なんだよ、とろいな。さっさとしいや)
「あれ、どうしたの?」
男の言葉に渋川は髪を揺らしながら首を振った。
「あの、やっぱり今日は断ろうと思ってきたんです」
(ちっ、めんどくせーな)
「なんで?今日は写真撮るだけだから、心配することないよ」
(もう準備しているんやで。さっさとしろや)
「こっちももうお金をかけて場所をとったりとかしているんやんか。今断られると無駄になっちゃうんやで。あかんやろ」
(今日できないと困るな。当面の金が手に入らんようになる)
沙羅は男から聞こえる声に疑問を感じていた。
「あの。渋川さんから芸能事務所でこれから活動していくための紹介の写真を撮るって聞いたんですけど」
「そうだよ。活動していくにしたって紹介するための素材がなくっちゃあかんやろ」
(まあ、そう言っとけば大概ついてくるしな。結局行ったところで、うちらの言うことには逆えんようになるし)
「そうですか?場所はどこで撮る予定なんですか」
「近くのマンションだよ。撮影用に今日は借りてあるんや」
「ふーん、ちょっとした撮影なら、事務所でもええんやない」
「まあ、そうだけど。ちゃんとカメラマンにお願いしてあるから。しっかりしたところの方がいいんや。そやから、今更断る言われても、うちらが困るわ」
(まあ、カメラマンいうても、アダルトビデオ撮影用のカメラマンやけどな。あとあとは、泣き寝入りするか、うちら探したってとんずらした後や)
男の声を聞いて、沙羅は驚きと共に、その驚きに気付かれないように必死に取り繕った。驚きはしたものの、予想してもいた。
「ちょっとごめん。まだ行かないでよ」
沙羅は電話が掛かってきた様子を装って、スマホを取り出しその場を離れた。渋川は不安そうな目で沙羅を見送った。
沙羅は見えないところまで行くと走った。急いで近くのデパートに入って公衆電話を探した。もしもの事を考えどうするか決めていた。すぐには見つからなかったが、デパートの案内板の近くに見つけた。時間がなかった。無理矢理にでも渋川が連れて行かれてしまうかもしれない。
「あ、あの、すぐに来て下さい。四条河原町の丸井の前なんですけど」
「どうしました?何がありましたか?」
沙羅の落ち着きのない声でも、相手は冷静に聞いてくる。沙羅は大きく息を吸って落ち着こうとした。
「えっと、私、以前、アイドルにしてくれると言って騙されて裸や男の人に襲われた動画を撮られたんです。その人がまた、女子高生を誘っている様子だったんです。早く来て下さい!その子が連れ去られて、私と同じように辛い思いをすることになります。早く助けてあげて下さい。四条河原町の交差点です。お願いします」
言うだけ言うと沙羅は受話器を置いた。受話器に向かって大きな声を出していた沙羅を、周囲を歩いていた人が見ていた。沙羅は周囲を見て、冗談とも取れるような気まずい表情で会釈をしてその場を離れた。急いで渋川達の所に向かう。先程の場所に近づくとまだ渋川達がいたので、呼吸を落ち着かせながら近づいて行った。
「来たよ。ほら、もう友達にさよならして行こうか」
「渋川さん、いなくなってごめんね」
沙羅を見て安心した顔をし、首を振った。ただ、男の発言からいまだ断り切れていない様子が分かった。目的が分かった以上、渋川を行かせる訳にはいかなかったが、警察が来るまで時間を稼ぎたかった。
「渋川さん、私が戻ってくるの待ってはったん?別に行く約束はしとらんやろ?」
「いや、彼女はお友達を放っておいて行く訳にはいかないけど、お友達に挨拶したら行くって言ったんやで」
男の説明に「そうなの?」と沙羅が聞くと渋川が小さく頷いた。
「ほなら、いこか」
男は渋川の手首をつかむと強引に引っ張っていこうとした。
(はよせな、俺が怒られるっちゅうねん)
「ちょっと待って下さい!」
沙羅の大きな声で、仕方なく男は動きを止める。周囲の目線を感じ、男は気まずい様子だった。
「あの、渋川さんの自転車はどうするんですか?このままではあかんと思います」
沙羅は苦し紛れに二人の自転車を止めている場所を指さした。男は予想と違ったようで、テンポがずれたようだった。
「あれ、君のか?」
男が聞くと渋川がまた小さく頷いた。それを見て男は辺りを見回した。
(さすがにあそこはまずいか。どこか置いておけそうな所ないやろか)
「そっか、じゃああそこの通りの影に移しとこうか」
仕方なしに男は渋川を離した。渋川が自転車の所に向かうのと一緒に沙羅もついて行った。
(はよしいや。まったく)
「とりあえず、言われる通り自転車を移して。その後は、何が何でも付いていかないように頑張ってね。諦めて帰ってくれればいいけど。そのうち助けが来るかもしれないし」
自転車を押して歩く渋川について行き、男に聞こえないように沙羅が言うと、渋川も再び小さく頷く。
「言ったらたぶん大変な目に遭うかもよ。あーゆう、男の人は見れば分かるやん」
沙羅がやや怒り気味に言うと、緊張が解けたのか渋川は笑い出した。その笑い声で沙羅も一緒に笑う。
「おい、笑っている場合ちゃうねん。はよしいや」
渋川が自転車を置くと男が近寄ってきた。
「ほならええか。行くで」
渋川が自転車に鍵をかけ終わるのを見て男が言う。沙羅は時々辺りを見回していた。男が渋川を促し先に行こうとしたとき、沙羅は大声で叫んだ。
「渋川さんを連れて行かないで!やめてー!」
(なんや、なんやねん。いきなり)
男は驚いた様子で振り向き、渋川もびっくりしたようだった。
「どうしましたか?」
(あかん!)
声を掛けてきたのは制服姿のお巡りさんで、すぐ後ろにもう一人いる。お巡りさんに気付いて、男は慌てた。
「君たち、どうしたのかな?」
“良かった。間に合ったみたいやな”
一人のお巡りさんが沙羅たちに話しかける。その後ろでもう一人のお巡りさんは無線で何か話していた。
渋川もお巡りさんが来てびっくりした様子で、お巡りさんを見て沙羅を見た。
(吉井さんがお巡りさん呼んだのかな?)
渋川に見られて、沙羅は顔を横に振った。
「どうしたのかな?」
(あかん。何とかごまかして逃げよう)
「あの、この子が芸能事務所での紹介の写真を撮るためにこの人と待ち合わせしていたらしんやけど。やっぱり断る言うても、離してくれないんです」
沙羅は渋川の肩を抱き、男を指さして言う。男は沙羅に指を指されて、沙羅をにらみ返した。それでも、すぐに目をそらして、行こうとしていた場所を見る。その場を離れたがっているのが分かる。
「この子は断る言うてたんやけど、この人が金がかかっているからどうしてもって言うて連れて行こうとするんです」
「あっ、お巡りさんすいまへん。お金無駄になってしまいますけど、いいです。今日はもう帰りますから」
男は諦めて帰ろうとする。
「そうですか。すいませんがちょっと待ってもらえますか」
(分かってるんやで、帰さへんで)
「一人で来ていますか?ちょっと身分証をよろしいでしょうか?」
(あかん。どうしよう)
一人のお巡りさんが男に詰め寄る。もう一人のお巡りさんが渋川を呼ぶ。沙羅はその様子を見ていたが、沙羅にもう一人のお巡りさんが来たところで、付き添いで来ただけだという事情を説明して帰らせてもらえるようにお願いした。男は身分証を出せずに強気でお巡りさんに対応していた。
渋川に挨拶をすると「吉井さん、ありがとう」と言われた。沙羅は自転車に乗ってその場を離れた。少し行くとパトカーとすれ違い、パトカーはさっきの場所に向かっているのが分かった。
四条河原町から家までは自転車で少し行ったところである。明るい時間帯での帰宅なので、いつもと感覚が違った。沙羅にとってもかなりドキドキの体験だったが、うまくいったようで良かった。胸はまだ鼓動が早く、すぐには落ち着きそうもない。落ち着かせようと帰る途中でコンビニに寄り、家で飲もうと思いパックのジュースを買った。
家に帰ると流しにお弁当箱を置き、自分の部屋へ行く。母親は出掛けているようで、リビングでテレビを見ている妹と少し言葉を交わしただけだった。部屋に入るとすぐにベッドに横になる。
突然の出来事だったが、結果だけを見ればかなりうまくいったのではないかと思った。あの男が捕まったのかどうかは分からないけど、渋川が被害を受けなくて済んだのは確かだった。渋川についても、どのような被害に遭う可能性があったのかは、知らないでいてもらいたい気がした。普段からいろいろな声が聞こえているうちに、年相応よりはいろいろな判断力が身に付いているのかなと、自分でも今回の対応に感心した。男の慌てようや、お巡りさんのやる気が今になって思い出され、何だかおかしくなってきた。
学校生活は勉強と部活動で明け暮れた。二年生でのインターハイ予選で県ベスト8に入ることが出来た。三年生を入れての校内で一番の成績だった。自分の力のことを考えるとズルいということは分かっていたが、誰に相談できるものでもなく、無心になってボールを追っている瞬間が心地良く、必死で取り組めるものがあるのも良かった。学校の成績は中の上程だが、力のことを考えれば中くらいだと思っている。それでも、今の成績を維持することができれば大学も何とかなりそうだ。塾には未だ通っていないが、自学だけではどうしようもないこともあり、夏期講習、冬期講習などには参加させてもらっている。それでも、学費以外は周りの子よりは比較的お金が掛かっていないようで、親は快く通わせてくれていた。
三年生が抜けた秋の大会では、惜しくもベスト4に終わったが、近畿大会への出場権を得ることができた。この近畿大会は全国につながらないものだったが、学校での近畿大会出場は珍しく危うくペナントがつり下げられるかのような校内での盛り上がりだった。
近畿大会は、毎年開催県が変わるが、この年は滋賀県だった。父親が協力してくれて、当日は四時半起きで向かった。ただ、試合は一回戦は何とか勝てたものの、二回戦で敗退し一日目で終了してしまった。勝ったときのことも考え当日のホテルの予約が取ってあったので、翌日に少し試合を見ていくという目的もありその日は滋賀県の彦根市に泊まることになっていた。父親は負けたことで落ち込んでいると思っている自分に気を使って明るく振る舞っていた。夕食は翌日に試合の可能性があったので宿で予約していなかった。負けると分かっていれば宿でゆっくり夕食を摂ることもでき、父親もゆっくりできたはずだった。それでも良かったけど、父親はそんなことには触れずに、せっかく彦根に来たということで彦根名物の近江牛を食べさせてくれた。「瑠那には内緒だぞ」という父親の言葉が、心の声は聞こえなくても沙羅を励まそうとしていることが伝わった。
三年生になってすぐにインターハイ予選が始まる。三年生としては受験勉強もありこの大会で引退する人も多い。三年の夏を迎える前に終わってしまうのは寂しい気もするけど、受験する者にとってはありがたくもある。「インターハイに出場する」二年生の時に近畿大会に出場してから、この目標を持つようになった。去年の成績のままでは出場できない。でも、無理な目標でもなかった。一、二年生でやった前回の大会でベスト4だったのが、インターハイ出場枠は三枠なので三位決定戦までに残ればいいのである。テニスでずっと頑張っていくとか、そういうことについて考えたことはない。それでも、今までいろいろなことで我慢してきた中、何かに集中して取り組むことができる今の状況がうれしかった。
団体戦では今まで一緒に頑張ってきた仲間と共に闘う。シングルスに登録されているので練習にも力が入る。試合が近づくと後輩達の声出しが大きくなってきているのが分かった。部内全体で大会に向けて盛り上がっていった。
京都市の一次予選は四月に入ってすぐに始まった。四月末からのゴールデンウィークから二次予選が始まり、最初に個人戦が行われる。沙羅は個人ではシードが与えられていたので、一次予選を抜きで二次に進んだ。二次のトーナメントでも、端に位置した。
団体戦は一次予選からだったので、沙羅には個人戦がない分いい調整になった。沙羅は団体のシングルに出場し、一次予選では落とすことなく、また仲間の頑張りもあって勝ち進むことができた。危ないこともあったが、団体でも二次予選進出が決まった。
連休の初日から個人一回戦が始まり、沙羅は三回戦までは順当に勝ち進んだ。三回戦でベスト8をかけて戦う。
相手は硬式テニスの府で団体戦の代表常連校の選手だった。相手は二年生で対戦経験はなく試合はやってみなければ分からなかったが、1コ下でも強豪校であり油断はならなかった。シードとしては沙羅の方が上だったが、強豪校で養われる強さについて分かっていた。
三回戦の沙羅の試合の開始予定時刻は十時からで、その前にはアップを済ませて試合に備えた。前の試合が終わりコートに入ってベンチに荷物を置く。試合にはいくらか慣れてきていたので、集中力を高めようと荷物を用意してから一度ベンチに座り呼吸を整えた。
(前回ベスト4の選手だから、今までのようにはいかない)
審判や観客などいろいろな声が聞こえてくる中、反対側のコートに入った対戦相手の声が聞こえてきた。お互いの準備が終わって、コート上でウォーミングアップの打ち合いになる。
(先輩程ではないけど、やっぱりうまいな)
いつも相手のことを観察しながら打ち合うが、相手が考えることが聞こえてくるのもいつもだった。それでも、全然勝つ気がない人や関係ないことを考えている人もいる。今日の相手はしっかりと沙羅を見ていた。打ち合っている中で、沙羅も相手のうまさを感じていた。
試合が始まる。この大会ではそれぞれ8ゲーム先取で試合が決まる。沙羅からのサーブで始まり最初はそれぞれがサービスゲームを抑えた。
(強い。けど、負けたくない)
二度目の沙羅のサービスゲームの前にベンチで水分補給をする。その時に沙羅も相手について考えるが、相手からの声で試合への意識が高まる。
(次のゲームでブレイクしよう!)
対戦相手の意気込みが聞こえ、それに合わせて自分自身に気合いを入れる。
それでも、沙羅のミスもあり30―30で並ばれてしまった。
(チャンス!ここでブレイクする。押されてるときワイドにくる可能性が多い)
沙羅にはまだ焦りはない。それでも、相手が待っているワイドに打つなんて事はしない。慎重にセットし、一度フェイントのためワイドに目をやる。トスを上げて、センターにフラットで早いサーブを打つ。サービスエース。うまくポイントを取り、このゲームのマッチポイントにする。次もポイントを取りこのサービスゲームもキープすることができた。
その次の相手のサービスゲームも惜しいところでブレイクすることができなく、それぞれのサービスゲームをキープしてゲームは進んだ。
沙羅がサービスゲームをキープして4-3で、相手のサービスゲームを迎える。
(ここをしっかり抑えないと)
相手がボールを弾ませ、気持ちを落ち着かせてサーブのトスを上げる。
(センター)
相手が打つ前に聞こえた声に反応しセンターに動く。速いサーブだったが、ぴったり合わせることができて相手のフォア側に強いボールを返す。リターンエースが決まった。出だしが良く、先にマッチポイントを迎える。
(とられる訳にはいかない。厳しい所に打つ)
相手の早いサーブに何とか追いつき返したが厳しい所に返せなかった。
(ドロップ)
聞こえた声で沙羅はネットに詰め寄りドロップボールを拾いながら、鋭角で相手に厳しい所に返した。
(追いつけー)
相手の必死の走りでも、何とかラケットにボールを当てるので精一杯、返すことはできなかった。これで、5―3とゲームをリードする。
(やばい。サービスゲームとられた。次でどうにかブレイクしないと)
コートチェンジになり、ベンチで一息つく。すぐに始まるが、水分補給と気持ちを落ち着かせるだけの時間はある。
(サーブは読めるかもしれない)
ベンチに座っているときに相手ベンチから聞こえた声でドキッとした。沙羅も何となくは感じていたが、今は気にせずに試合に臨むしかない。
審判のコールでコートに入る。ボールをつき、落ち着いてからトスを上げる。
(センター)
声は聞こえたが、そのままコースを変えられずにボールはセンターへ。
「フォルト」
打つ瞬間に乱れてしまったのか、サーブははずれてしまったが入っていたとしてもサーブが読まれていたのでポイントを取られていたかもしれない。再び落ち着いて位置に着く。セカンドサーブで確実に入れなければならない。ボールをついてからトスを上げる。
(ワイド)
聞こえた声に動揺せずにそのまま打てた。それでも、相手の読み通りワイドに打った。読まれているのが分かったので、素早くコートを移動し相手のリターンに合わせる。読まれていることが分かった分、リターンで返ってくるコースも読み通りだった。相手の会心のリターンにうまく追いつきポイントをゲットする。しかし、サーブが読まれていることが分かり、余裕はなかった。
再び、サーブの位置に立つ。サーブが読まれている。考えられることはいくつかある。トスの位置、肘の角度、足の向き。打つ前に分かるとすればこの三つが考えられた。落ち着いてボールをつく。
(ワイド)
沙羅はサーブを打ったが、センターに入りサービスエースになる。
(読みがはずれた。コースを読んでいるのがばれたのかな。次は読んでもボールを見て動こう)
ワイドに打つ姿勢で、ラケット面を調整してセンターに打ったサーブがうまく入った。ポイントをリードし、サーブの体勢にはいる。次は癖を確認するために、トスを真っ直ぐ上に上げる。
(ワイド)
コートのワイド側に向けて打ったボールは読まれてはいたがワンテンポ遅れたようで厳しい球で返ってこない。いくらかラリーが続いたが、ここも何とか沙羅のポイントにできた。
相手に読まれているのはトスの位置ではなく、もっと別のことのようだった。いろいろ考えながら取り組むが、このゲームもリードできているのが良かった。
サーブが読まれるという危機に直面しながらなんとかこのゲームもキープすることができた。誰かに話したらずるいと言われるかもしれない。それでも、今は自分の持てる力を精一杯使った上で結果を出したかった。インターハイに行きたかったけど、精一杯やった上で行けないのならそれでも良かった。
この試合はもう一度相手のサービスゲームをブレイクして、8-4で勝ち、楽な試合ではなかったが何とか今回もベスト8まで勝ち上がることができた。サーブを読まれた不安もあり、学校の友達に練習コートで見てもらって修正するための練習をして帰った。フォームをすぐに変えるのは試合に影響してしまうので、ごまかし程度でしかなかったけど。
準々決勝は翌日になる。このぐらいから全体の試合数が減るので男女同会場で行われて、観客数も格段に増える。今日も試合予定時間前には会場に入りウォームアップを行う。校内では個人戦で残っているのは自分だけで、友達もアップに協力してくれる。今日の相手も昨日と同じ強豪校の選手だった。ただ、一年生で情報が全然ない。しかし、昨日の子の後輩なので沙羅の癖についてなどは情報がいっていると思われた。
一年生から活躍する選手はそういないが、沙羅のように中学からやそれよりももっと幼少期から頑張ってきた子が時々いる。今日の相手は、二コ下ながら油断できないのに変わりはなかった。
今日は午後からの試合で、前の試合が終わったのを見てコートに入った。準備が終わるとまたウォームアップの打ち合いが始まる。
(昨日は咲先輩がやられたんた。今日は私がやっつける)
今日の対戦相手の意気込みが聞こえてきた。聞こえてくる声以上に相手のプレーに意識を集中しながら、自分の感覚も確認しなければならない。
打ち合いをした感じでは、昨日の子よりもうまい感じがした。私の打ちやすい所に返しながらも、しっかりと自分自身の感覚を確認しているのが伝わってきた。
“厳しい戦いになる”
沙羅も気持ちを高めた。
“1年生に負けたくない”
そう思いながらも、この世界で年齢はそれほど関係ないことも分かっていた。もちろん経験でもなく、その時の個人の能力がそのまま結果に表れる。センスという言葉で簡単に説明してはいけないのだろうけど、そのセンスが大きく結果に表れる気がした。負けたときの相手のプレーを見て、いつもそれを感じていた。
試合が始まる。それぞれのサービスゲームをキープしながら、さぐり合いの中ゲームが進んでいく。ただ、ゲームが進んでいく程に厳しくなってきた。
(どうだ)(負けられない)(とれる)
力があることで、試合で相手が考えてくることが伝わってきて、それが有利に働くことがある。しかし、相手によってはそれが役に立たないことがある。力を望んでいない沙羅としては、力に頼るなんてことはしたくない。力を利用してきたことはあっても、力が役に立たないことを負けた理由にはしない。何年もプレーをしていれば、力が役立っても、ゲームには勝てないこともあった。また、力が役に立たずにゲームに勝つこともあった。
ベスト4を賭けたこの試合は、相手が考えて動くタイプのプレーヤではなく、感覚で挑んでくるタイプで、力は役に立たなかった。そして、プレーでも相手の責めてくるプレーが厳しく、スピードや回転、球質やコースなど、どれもかなわなかった。それぞれのサービスゲームをキープし、シーソーゲームが続くがどう見ても沙羅の方が厳しかった。相手のサーブが先行だったので、6-7となったとき同じようにキープすればいいのだが、相手が勝負に出て来た。
(このゲームを取れば勝ちや。絶対とる!)
相手の気持ちが聞こえてくる。相手はこのゲームを取れなくても、7-7のタイになるだけ。ギリギリを狙って、うまくポイントにすることができてこのゲームをブレイクすれば相手の勝ちである。沙羅としてもこのような状況は良くあることではあったが、今日プレーをしてきた中でずっと厳しい中で何とかサービスゲームをキープして進めてきた。それだけに、このゲームがターニングポイントであるのは分かっていた。仲間や後輩達からの声援が聞こえる。自分を支え、そして背中を押してくれるのを感じる。
(厳しい所を攻めていく)
落ち着いてボールをつき、気持ちを整える。トスを上げてサーブを打つと、なりふり構わずいつもよりも強いリターンが帰ってきて沙羅は触ることもできなかった。ラインギリギリのボールだったが、審判のコールは「イン」。先手をとられた。
(決まった!このゲームで後3ポイントとるだけ)
分かっていたように、相手は勝負に出て来た。こんな賭けのようなことでも、入れてくるのは相手の実力。こっちも気合いを入れた。
再びサーブの位置に立つ。
(こい!次も決める)
焦らず、ゆっくりボールをついてから、息を整えトスを上げる。次はセンターへフラットで打ち込む。「サービスエース」をとれた。相手のラケットにさわりはしたがコートまで届かなかった。
味方の喜ぶ声が聞こえてくる。沙羅はまだ、冷静に受け止めていた。落ち着いてボールを受け取り、サーブの位置に立った。相手からの声は全く聞こえなくなった。集中が高まっている証拠だ。
次のサーブは再びセンターへ打った。先程よりは中に入るようにスライスをかけた。それでも相手は冷静に対応し、厳しい所に返ってくる。沙羅も何とか追いついて返すが、甘い所にいってしまう。そこを相手は前に来て強打してきて、沙羅は触ることもできなかった。再びリードされてしまう。
(あと二つ)
沙羅ももう何も考えられなかった。ボールを受け取り、サーブの位置に立ちボールをつく。ゆっくりトスを上げて打つ。
ボールは相手のワイドにさらに外側に逃げるようにスライスをかけた。それでも相手は必死に追いつき返してくる。やや甘いところに返ってきたボールを強く対角線に向けて打つ。相手は追いつけなかった。30-30。
あとがないようなときは今までに何度もあった。勝てるときも勝てないときもいろいろあったけど、集中するしかなかった。
再び構える。サーブを打つが「フォルト」「ダブルフォルト」。ここで二つサーブを失敗してしまい再び相手にポイントを与えてしまう。厳しいところを狙うあまりはずしてしまった。自身の悔しさよりも、仲間からの悲鳴が外からも、心にも聞こえてくる。相手のマッチポイント、次とられたら負けて試合終了。
落ち着いて準備をする。ボールをついて、一呼吸置いてからトスを上げる。ワイドにフラットで打つ。相手は素早い動きで対応し、返してくるとすぐに前に出て来た。沙羅もできるだけ横に抜けるようにサイドに打って返した。しかし、相手は必死で飛び込んだ。沙羅も必死で前に出る。相手が必死で飛び込んで伸ばしたラケットの先にボールは当たりギリギリにネットを越えてきた。沙羅も必死で飛び込んだ。何とか沙羅のラケットの先にボールを当てることができた。ボールはネットに当たり、コートに落ちて弾む。二人の選手がコートに横になっている中、コート上でボールが小さく弾み、ネット際を転がる。
「ゲームセット」
審判の低く通る声がコートに響いた。静まりかえったコートに歓声が沸く。沙羅は負けてしまった。沙羅のチームメイトからは悲鳴が聞こえてきた。
「沙羅―、良くやったー。頑張ったよー」
コートに横になった沙羅はすぐに起き上がることができなかった。
“終わった。私の力不足だ”
仲間からの声で我に返り起き上がった。ネット際で握手をする。
(ギリギリやった。次にやっても勝てるか分からないな。でも、楽しかった)
自身の望みとは別に聞こえてくる声でも、時には聞こえてくる声に励まされることもある。握手の後に「ありがと。がんばってね」と言うと、相手はキョトンとしていた。
続けて審判に礼をすると荷物をバッグにしまい、コートを出てみなの元へと向かった。
「さらー、よく頑張った。惜しかったよー」
今までずっと一緒に頑張ってきた友達が何人も沙羅を抱きしめた。
「よく頑張ったよー」
負けはしたものの、友達に囲まれて沙羅はどうしていいか分からなかった。まだあまり、今の状況というものが理解できないでいるのが原因だったけど。
しかし言葉にならない仲間からの悲しみの声や暖かさが沙羅に流れ込んできて、自身の感情とは関係なく涙が溢れてきてみなに囲まれながら泣いてしまった。仲間はそんな沙羅を温かく見守ってくれ、沙羅が落ち着くまで待ってくれた。
「ありがと。また来週から団体戦だから、がんばろうね」
沙羅から言える精一杯の言葉だった。個人戦は終わってしまったけど、沙羅の硬式テニスの競技生活はあと少しある。まだ、しばらくは学校でみなと一緒に練習することができる。残りの時間をみなと頑張りたいと思った。
連休を明けて次からの週末に団体戦が行われる。土曜日の初戦はシングルス二つとダブルスの全てで勝利を上げて二回戦進出を決めた。土曜日はみなで気持ち良く帰り、翌日に向けて結束を固めた。
翌、日曜日の二回戦、試合前に選手四人で集合した外で今まで一緒に頑張ってきた仲間や後輩達が囲む。キャプテンでもう一人のシングルスの選手が中心になってかけ声を出しチーム全体で声を合わせる。そして、選手はそれぞれのコートに別れた。ほぼ同じペースで試合が始まり大会が進行していく。先に二勝が決まってしまうと、継続中の試合も打ち切られてしまう。
沙羅は自身の成績からすると格下の相手だったため、危なげなく勝つことができた。自分達のコートの試合が終わると仲間の試合を見に行く。ただ、沙羅としては選手にプレッシャーを与えたくないので、後ろから気付かれないように観戦した。チームメートと一緒に「ファイトー」と声を出した。みなで一つの目標に向かって頑張っていられるのもあと少ししかない。皆と一緒に必死になって声を出す。
シングルスの一つで勝利していたけど、もう一つのシングルスとダブルスは最後まで行われた。どちらの試合も接戦で、どっちが勝ってもおかしくなかった。それでも、みなの頑張りは残念ながら勝利には結びつかず、両方とも落としてしまった。
「沙羅ごめーん。負けちゃったー」
挨拶が終わると泣きながらキャプテンが沙羅に抱きついた。沙羅が勝つことは予想できていたので、シングルスかダブルスのどちらかで勝利できれば次に進むことができた。それを果たせなかったのが悔しかったらしい。泣いて声にならないのに、沙羅の心には謝罪の気持ちが伝わってきていた。
今日に勝ってもう少し部活動に浸っていたかったが、これでもう引退になる。沙羅には、もう少し続けて、秋にも三年生が出場できる大会があるのでそれを目指すことも顧問の先生から話しがあったけど、勉強に専念することを伝えてある。引退するならみんなと一緒が良かった。
「みんなよく頑張ったよ。必死だったやん。うち感動したで」
泣きやまないキャプテンに沙羅が声を掛けた。
「ほら、キャプテン。みんな待っているで」
キャプテンの頭をなでた。
(そやな。うちキャプテンやし、これで三年は引退や。後輩達にもお礼言わなな)
泣きじゃくっていたキャプテンが落ち着こうとしているのが聞こえてきた。落ち着き始めると、涙を拭きながら顔を上げた。沙羅に礼を言うとみなの方に向き直った。
「ごめん。一生懸命応援してくれていたのが分かった。本当にありがとう。この後、改めて集合するけど、一旦選手だけで先生のところいくから。ほんとごめん、みんなの期待に添うことができなくて」
キャプテンの言葉の前に何人もが感極まって泣いていた。三年生が今日で引退することを分かっているから。時期としては早いけど、明日からはもう一,二年生だけの練習になる。一年生とはまだまだ関係は築けていないけど、二年生とは一年間一緒に頑張ってきた。その記憶が思い出される。
その後、先生から試合に対してのコーチングがあり、部員全員が集合した。先生からの話し、三年生からの話しがありひとまず解散となった。三年生はまた引退試合などの日が組まれて正式なお別れとなる。
多くの部活動は夏に三年生最後の大会がある。沙羅たちとしては、寂しくもあったけど、ほとんどが進学希望なので早くから勉強に専念できることをうらやましがる部活もあった。
沙羅も皆と同様に受験モードに入った。インターハイ予選が終わったあとに、何校かの大学からスポーツ推薦の誘いがあることを顧問の先生から聞いた。テニスは嫌いではなかったし、できれば大学でも続けたかったけど、正式な競技としてのテニスは終わりにすることを決めていた。いつまでもズルをしたままで、続けていい訳はなかった。インターハイに出場できなかったことも、沙羅としては何だかすっきりしていた。
中学からずっと続けていたテニスをしなくなって、運動不足でイラついてしまう。ときどき、中学の頃に通っていたクラブに行って打たせてもらったり、時間を見ては勉強の気分転換として外を走ったりした。
勉強については、部活動を引退してから専念してきたけど、進学先については、まだはっきりとはしていなかった。友達の中には、大学くらい京都を離れて大阪や、地方の国立大や、東京に進学するのもいいという子もいた。それでも、できるだけ人混みを避けたいし、今の自身の状況で慣れないところにいく勇気もなかった。家でののんびりとした環境が失われたとしたら、平静を保てる自信もなかった。勉強に手を抜くつもりもなかったけど、今の学校の上の大学でもいいと思い始めていた。
夏休みに入り、家での勉強だけでも良かったかもしれなかったが、夏期講習に参加した。二週間程だが、ずっと家で学習しているとマンネリになるので、いろいろな学習方法を知ることができるし、気分転換も兼ねて通っていた。
家から河原町まで歩いて、阪急電車で西院に行く。西院の駅から歩いてすぐのところだった。西院は西大路四条に位置して、河原町程栄えてはいないが、ファーストフードも一通り揃っていて、本屋や薬屋、レンタルショップなど、こぢんまりとした中に何でもあるようなところだった。お昼はお弁当が多かったが、友達と約束して外で食事したり、ファーストフードで買って食べたりすることもあった。
夏期講習もなかばに入って、西院駅の改札に入り電車で帰ろうとした。同じ学校の子と帰ることもあったが、自転車で通っている子もいて、電車には一人で乗ることが多かった。その日もいつもと同じようにホームに下り電車を待っていた。
京阪電車でテニスクラブに通っていた頃は人が多く、人混みに慣れていなかったため音楽プレイヤーを聞いてその場をやり過ごしていたが、阪急電車は西院から河原町区間はあまり混まないので音楽プレイヤーを聞いているときもあったが、必ず用意していた訳でもなかった。
西院駅の昼間は通過電車もあり、沙羅がホームに下りたときには次の電車までいくらかあり、ホームのベンチに空きがあったので座ることにした。先にスーツを着た若い女性が座っていたけど、気にせずに一つ空けて座り、すぐにバッグから文庫本を取り出し読み始めた。
(もう嫌や。会社に戻りとうない)
沙羅は聞こえてきた声に、ちょっと顔を上げそっと隣に座っている女の人を見た。若く二十代前半だろうと思われる。きれいなスーツを着た普通の女の人だ。
(もうずっと変わらない。会社に戻ったって、怒られるだけ)
言葉と共に、重く暗いイメージが伝わってきた。読書に集中できなくなり、沙羅は場所を変えようと思い立ち上がろうとした。
(死のう!)
少し浮かした腰を沙羅は再びベンチに落とした。
(死ぬしかない。会社に戻りたくない。死んだ方がまし!)
不安な声が聞こえてきて、沙羅は隣に座る女性を見たが、彼女は下を向いたまま硬い表情をしている。沙羅が見ているのにも気付かず、きつく手を握りしめた。
彼女の決意を感じ沙羅に緊張が走ったとき、通過する電車を知らせるブザーが鳴り始めた。
不安を感じさせるブザーの音に、沙羅は不安に思い彼女を見た。
(この電車に飛び込もう。他に行くところなんかない。それしかない!)
沙羅は慌てた。しかし、沙羅が気付いているとも知らず、隣に沙羅がいることさえ気付いていないかのように彼女は強い勢いで立ち上がった。
ブザーの音は変わっていないはずなのに、どんどんブザーの音が大きくなっていき頭の中を占めていった。
「痛い。イタタタタ。お腹が痛い」
沙羅はベンチに横になると立ち上がった彼女の袖をつかんだ。線路の方に歩みを進めようとしていた彼女は袖をつかまれて、キョトンとした顔で沙羅を見た。
「あ、あの、お腹が。ア、イタ、イタタタ」
沙羅は彼女を見て説明すると。ベンチに横になったままお腹を抱えた。彼女の袖は離すことなく。
彼女はすぐには状況が理解できなく、立ち上がったまま沙羅を見る。沙羅のつかんだ袖だけが左右に振れた。
もうしばらく、沙羅は「イタタタタ」とわざとらしいと思いながらお腹を抱えた。少しすると速度を落としたとは思えない電車が大きな音と風を巻き起こしすごい勢いで通り過ぎていく。沙羅を見ていた彼女も通り過ぎる電車を振り返って眺めていた。通り過ぎる電車を見送り、見えなくなってから彼女は意識を取り戻した。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
彼女は沙羅に対してしゃがみ込み、同じ目線になって尋ねてきた。
(大丈夫かな?随分痛がっているみたいだけど)
沙羅はゆっくりと手を離し、顔を女の人に向けた。
「すいません。急にお腹が痛くなって。ちょっと休めば大丈夫だと思います。ありがとうございます」
(でも、誰か呼んだ方がいいのかな?)
彼女はしゃがみ込んだまま、左右をキョロキョロ見た。
「ほんと大丈夫です」
わざとながら弱々しい声で沙羅が言うと、さっきまで座っていたところに再び座った。
(心配だな。ちょっと一緒に様子を見ようか。別に急ぐ必要もないし)
沙羅はすぐに起き上がる訳にもいかず、少しの間横になっていたが数人が通り過ぎながら不思議そうに沙羅を見ると、沙羅はどうにもそのままでいられず、でも嘘がばれないようにゆっくりと上体を起こした。
「大丈夫なの?」
「すいません。ちょっと落ち着いてきました」
沙羅の言葉で、ほっとため息をついた。
(よかったー)
沙羅はカバンからペットボトルを取り出し、お茶を少し飲んだ。女性はその様子を見守っていた。
「よくあるの?こういうこと」
「‥‥最近は」
「前はなかったんだ」
沙羅は頭フル回転で言葉を探した。
「そうなんです。これから塾なんですけど。‥‥そこで私いじめられてて。行かなくっちゃならないのは分かっているんですけど。たぶん、体が行きたくないって言っているんです」
「そう」と言うと彼女は立ち上がって沙羅を見た。
「ちょっと時間ある?お姉さんとお茶でもしない?」
「ほんとですか?うれしい」
沙羅は声を上げたかったが、我慢して小さい声で言った。彼女は沙羅が立ち上がるのを待って、付き添うように前を歩き改札を目指した。
改札を出ると目の前が交差点になっている。その交差点から見るだけで何軒もの喫茶店らしき店が見えたが、彼女は駅の裏に向かって歩いた。わざとゆっくり歩く沙羅のペースに合わせてゆっくり歩いてくれた。
通りに出てすぐに細い路地に入り、少し行くとカフェがあった。彼女はカフェのドアを開けて沙羅を迎え入れて、優しい笑顔で沙羅に聞いた。
「ここでいい?」
“この人いい人だ”
沙羅は黙って頷くと、慣れないカフェの中に入り店内をキョロキョロした。高校生ではあまり入れないような、ちょっと高そうなしゃれた喫茶店だった。中には喫茶スペースとその他にカップや置物など小物の販売もしているようで、いろいろと並べられていた。
通りに向けてカウンターのような席があり、彼女はその端に荷物を置いた。沙羅もその横に行く。彼女が座ってから、沙羅も遠慮するように席に着いた。慣れない様子が彼女に伝わったらしく、微笑みながら沙羅にメニューを差し出した。
「何頼んでもいいよ」
沙羅は見慣れないメニューに見入り、必死で選んだ。沙羅が決まったのが分かると彼女は店員を呼び、沙羅の飲み物と自身の分を頼んだ。
「あの」と上目遣いに話しかける沙羅に彼女は優しく笑顔を向けた。
「お姉さん、時間大丈夫なんですか?」
「うん。大丈夫やで」
ホーム見たときとは別人のように彼女は元気に見えた。
「ねえ、名前はなんて言うの?」
「吉井沙羅です」
「そう、沙羅ちゃんね」
「これから塾だったの?」
彼女の言葉に沙羅は黙って頷いた。
「塾、嫌だったんやね。私お母さんじゃないけど、辞めたらええやん!そんなとこ」
彼女は優しく言い切り、少し間を置いて話しをつなげた。
「塾なんてどこにもあるんだし、別に行かなくってもいいんだから」
沙羅は彼女を見た。
「でも、親に迷惑掛けるし」
「そんなのいいのよ。あなたが苦しんでまで、塾に行ってもらいたいと思う親なんていないで。勉強なんてどこだってできるんやから」
沙羅は彼女を見ながら、少し間を置いた。
「なら、会社だったらどうなるんです?もし、塾が会社だったとしても辞めろって言えるんですか?」
沙羅の言葉に彼女は言葉を詰まらせた。沙羅の言葉に驚き、自身を落ち着かせようと必死なようだった。
(どうして?何か知っているの?)
落ち着かせようと水を一口のみ、真っ直ぐ沙羅を見つめた。真っ直ぐな澄んだ瞳だった。
少しの沈黙の間に、店員が頼んだ飲み物を持ってきた。沙羅が「いただきます」と言って飲み始めると彼女も黙ってカップを手に取り口へ運んだ。沈黙が続いた。
「そうね。塾もそうだけど、会社でも嫌な思いをするくらいなら辞めたっていいんやないかな」
「そうですよね。塾でも会社でも辛い思いをするくらいだったら辞めればいいんですよね。辞めたって、死ぬ訳じゃないし」
言った後、沙羅は分からないように彼女の反応を見た。顔は沙羅に向けていたものの、自身の考えにふけっているようだった。
(死ぬ?‥‥私、さっき死のうとしてた?たまたまかもしれないけど、この子に助けられた?‥‥あのままだったら、電車に飛び込んでいたかもしれない)
「お姉さん?大丈夫?」
沙羅が声を掛けると彼女は沙羅に目を向けた。
「うん。ありがと。何だか立場が逆転しちゃったね」
彼女はカップを手にしてまた一口飲んだ。
「そうよね。会社だって、塾だって、無理して行かなくていいんやね」
彼女の言葉に、沙羅は笑顔を見せる。
「沙羅ちゃん、元気になった?なんだか、言い笑顔だね」
「うん。お姉さんのおかげ。塾も辞めよ。元気が出て来た」
「そう。良かった」
彼女は沙羅に向けて微笑むと、カップを手に取りもう一口飲んで大きく息を吐いた。
彼女の心がすっきりしてくるのが伝わってきた。沙羅も安心する。
「お姉さん、この店は何度か来たことあるんですか?」
「うん、少しね。学生の頃から西院はよく来てたから」
「京都の学校だったんですか?私も大学も京都でいいかなって思い始めているんですけど」
飲み物が終わるまでカフェでゆっくりした。
「ごちそうさまでした」
沙羅の体調が戻ったということで、店を出た。二人は駅の方へ歩いていくと、改札に向かう前に彼女は立ち止まった。
「私は電車で帰ります。今日はありがとうございました」
「私は、もう少しここでゆっくりしていくわ」
彼女がさっぱりとした表情で言っていたので、沙羅は心配していなかったが聞いてみた。
「お姉さん会社は?」
「会社なんてどうだっていいや。死ぬ訳じゃないしね。元気でね。‥‥バイバイ」
彼女は笑顔で沙羅を送り出した。沙羅も笑顔で「バイバイ」と言うと背中を向けホームに下りる階段に向かった。


 
第三章 聴かなければならないこと

沙羅は大学生になった。高校三年生で部活が終了してから、ずっと進学に向けて勉強してきた。時には気の抜けてしまうこともあったけど、自分なりに頑張れたと思う。高校の系列大学に指定校推薦で入ることができ、思ったよりも早く受験のプレッシャーから解放された。それからは、読書したり、気分転換のつもりでランニングやテニスクラブに行ったりしていた。
大学にもできれば自転車で通学したかったが、自転車だと距離があるのでバスで通うようになった。少し歩くが、家から十分程歩き鴨川を渡り、河原町通りに出れば一本で学校の近くまでいけるバスに乗ることができる。バスでたくさんの人と乗り合わせるのは好きではなかったが、仕方なかったのでデジタルプレーヤーで音楽を聴いて何とか過ごしていた。
入学するときに、父に原付の免許を取ることをお願いしてみたが、危ないということで考える余地もなく却下されてもいた。
同じ系列学校といっても、高校と大学では何から何まで全然違って、最初はかなり戸惑った。それでも、入学式にもらったたくさんの説明資料を読み、いろいろな説明を聞いてなんとか大学生活を始めることができた。
大学でテニス部に入ることも先輩や同級生から勧められたが、高校で引退するときに決めていたように入部は辞退した。「肘をケガしている」という嘘を言って。
カリキュラムの申請を出して、すぐに授業が始まった。五月の連休前には授業に対するプレッシャーも消え、学生生活に余裕ができてきた。
同級生の中にはアルバイトを始める子も出てきた。沙羅としては、大学の推薦が決まった時点で少し考えたこともあったが、大学生活がどんなものなのか予想がつかなく、大学が始まるまでは保留していた案件だった。
アルバイト先を考えたとき、同時に将来の就職先について考えるのと同じ気持ちになった。沙羅の力のこと、なくなればいいという希望の中、いっこうに消える気配はない。この力は仕事の環境によっては耐えることができないような環境になるだろう。仕事に影響がなければいいなと思いながら、力が利用できればもっと良かった。
仕事探しというか、バイト探しを始めた。バイトだから選択の失敗をしても良かった。できるだけ人と接しないような仕事の方がいいと考えると、接客業は難しかった。相手の気持ちが分かることが役立つかもしれないと思い、試してみようかとも思ったけど一旦は保留。まずは、やっぱり自身への負担の少ない、人と接することの少ない仕事。それもアルバイトとなるとあまり見つかりそうもない。
また、週末は余裕があるかもしれないが、平日は大学優先になるので働けるとしても授業のない午後か、夕方からの数時間。選択肢はあまりなさそうだった。
一度コールセンターの募集を見て面接に行ったことがあったが、電話の相手をするのは一人でもオフィス内にたくさんの人がいて諦めた。そして、その経験から事務仕事と簡単に考えていた自身を反省しつつ、選択肢が減ってしまった。そして考えれば考える程選択肢が減っていってしまった。
ネットや無料の求人雑誌などを見ていろいろと探したが、ピンとくるものがなかった。いろいろと探している間、やれそうな、やりたいようなところが見つからずに考えを巡らせていた。そのうちに、高校生の時に行った西院のカフェを思い出した。カフェで働きたいのではなく、そこにあったいろいろな小物だ。京都のサービス業といえば、友達などが働いている居酒屋やレストランや喫茶店などが多く、観光客などたくさんの人が訪れる。だけど、小物や雑貨屋さんのようなところだったらお客さんは限られてくるので、それほど多くのお客さんは来ない。そこだったら、なんとか沙羅の障害も耐えることができるのではないかと考えるようになった。
そう思いついたときに気分が軽くなった。今までどこにも働き先を見つけられなかったのに、とりあえずは働いてみようと思えるようなところを見つけることができただけでも良かった。そして、もしどうにも耐えられないようだったら、辞めるしかないとも考えていた。
そう思いついたら、すぐに行動に移しいろいろ探した。本来は、そこで電話などをして面接からはいるのだろうけど、沙羅は募集をしていて通えそうなところを見つけたらまず下見に行った。
最初に見に行ってみたのは、清水寺に向かう坂の途中にあるお店だった。家からは近いのは良かったけど、たくさんの観光客が店の前を通り、お店の軒下をたくさんの人が通過するような店で、扉などもなく店も奥になっていない。通る人の心が全て流れ込んでくると思うと到底働けるような場所ではなかった。
先の経験から、清水寺の近くは警戒し、下見に行く前に候補からはずした。河原町、新京極、寺町、祇園、高台寺近辺、清水坂近辺などたくさんのお店があるが、今すぐ募集しているところといったらあまりなかった。それでも、いくつか下見に行ったが、客層や店構えなどを見てどれも働けそうな場所ではなかった。
それでも、一ヶ月の間探していたか、待っている間になんとかできそうなところを見つけて面接することになった。そこは、河原町から八坂神社へ向かうメイン通りの四条通りに面していて、祇園に位置したくさんの人がお店の前を通る。それでも、格式が高いと言っていいのか、店が奥に入っていて、通りに面したところは商品がケージに並べられている。
(この子大丈夫かな。元気なのは分かるんだけど、接客は苦手そうやわ)
ここしかない、という気持ちで面接に行ったが、何だか心配な様子。元気さはテニスで頑張ってきた結果だ。
「ここは店員さんに和装をしてもらうことになっているんやけど、それは大丈夫?」
面接しているのは、中年の女性で厳しそうだ。「はい!」と元気に答える。それは、下見したときに予想していた。
(それにしても、もう少しお淑やかさといったものはないんやろか。どないしよ)
面接者からは不安な言葉しか聞こえなかったが、今まであまりない経験だったから、心配だけど面白くもあった。
「元気でいいですね。結果は改めて連絡させてもらいます」
心から聞こえる言葉とは違って、とても丁寧な対応の人で、それだけに、働くことになったときの厳しさを感じた。それでも、その日のうちに連絡があり採用してくれることになった。
バイトが決まったことを家族に話すと喜んでくれた。大学生になったら、高校生の頃よりも家に入り浸るようになっていて、みんなは少し心配していたようだ。何かサークルにでも入ればと勧められたが、バイトが決まらないことにはサークル活動にどのように取り組めるか予想ができなかったので、それもできなかった。そういうこともあり、家族はいろいろなことを含んで喜んだようだった。
アルバイトは週末と平日の授業が早く終わる日に入ることになった。大学生は沙羅だけだったが、主婦やフリーターの人もいて、面接をした社員の人は厳しい面もあったが、みなはとても優しく接してくれた。
お店は以前のカフェの中のような雑貨屋さんというよりは、京都で老舗と呼ばれる創業二百年以上で民芸品などを取り扱っているちょっと格式の高いお店だった。取り扱っている品は、扇子がメインだが和装用の小物入れも一緒に売っていた。
大学生活にも慣れてきた中でのアルバイトの開始なので、生活に変化が出て勉強もやる気がでてきた。それに、バイト代まではまだまだかかるけど、今までは親からの小遣いで過ごしていたのでなかなか欲しいものが買えなかった。全てが沙羅の小遣いにというつもりではないけど、かなり自由になるのは分かったのでこれからは友達とのつき合いの食事だってそれほど遠慮しなくて済みそうなので良かった。一番の楽しみはやっぱり好きな服を買えることだったけど。
学校とアルバイトでそこそこ忙しい日々を送るようになり、何だか充実した時間を送っているようでうれしかった。
沙羅のバイト先は、店構えが格式張っていて、外から見ると和装の店員さんが見える。それが、ちょっと中を見るだけの人を入りにくくして、本当にその品に興味を持っている人か、店に来たことがある人くらいしか入ってこなかった。
七月末の前期授業の終了や前期試験に向けて、レポートの提出やテストに向けての勉強など忙しい日々が続いていた。祇園祭の時期はとんでもない数の観光客で、かなり忙しかったらしいが、前期の追い込みで沙羅はあまりバイトに入れなかった。八月に入ってすっかり余裕ができた。夏休みに入ると客も増えて、いくらか沙羅のシフトを増やせてもらえた。それでも、いつもシフトに入っている人の仕事を減らす訳にはいかなかったので、沙羅の夏休みにも随分余裕ができた。
テニスでもやりに行こうかなと思ったこともあったけど、休みの日などは昼前に起きると外はもう灼熱地獄、家から出る気持ちは失せエアコンの効いた室内でのんびりしたりした。夜に涼しくなったら、外でも走ろうかなと思っていても、夜になってもいっこうに温度が下がらず、雨が降ったあとの数日ぐらいだった。
夏休みのある日、入ったバイト代で何か買い物をしようと河原町に出掛けた。丸井、高島屋、OPAを巡りウィンドーショッピング。調子に乗って一人でちょっと喫茶店に入り冷たいものを飲んだりもした。一通りまわったので、帰ろうと思ってまだ日射しがあり暑かったが、自転車で来ていたので帰ることにした。帰りながら、以前にバイトに入ったときロッカーにちょっと忘れ物をしていたことを思い出してバイト先に寄ることにした。
河原町からの歩道は人でいっぱいで、車道を車に注意しながら進んだ。四条大橋を渡って、川端通りを横切り祇園四条駅の前を通って、縄手通りの信号で引っかかった。
車道で自転車を止めている沙羅の横にも車が止まる。
(殺す。みんな殺してやる。誰も僕のことなんかどうでもいいんだろ。僕を馬鹿にしたらどうなるか見ていろ!へっ、へ、まずはそこにいる奴らをひき殺してやる。見ていろ)
ドキッ、として沙羅は周囲を見た。すぐに声の主が分かった。沙羅のすぐ横に止めている車の男だ。沙羅には気付いていないようだが、信号待ちをしている歩行者を見て笑っていた。無気味な表情を浮かべて。
“どうしよう”
沙羅は周囲を再び見た。どうすればいいのか浮かばない。誰かに助けてもらいたかった。この場を救える人はいないだろうか。
“誰か、誰か、助けてー、この声を聴いてくれる人はいないのー”
反対側の歩行者の信号が点滅する。沙羅一人でパニックになりそうになる。
“デジャヴって奴だ。前にもこんな事があったかな”
(もうすぐだ。もうすぐ皆殺しだ。見ていろ)
車の信号も黄色に変わった。沙羅側の信号が青に変わるまでもう時間はなかった。
歩行者の信号と同時に車道側の信号も変わる。沙羅はその少し前に自転車を前に進め、信号を待つ歩行者の前をふさぐように自転車を止めた。沙羅がふさいだ側の歩行者は不思議そうな顔をしたり、怒ったような顔をして沙羅を見ていた。反対側からは信号が変わると同時に渡り始めていた。
「危ない!渡っちゃだめ-!」
沙羅の大声で止まった人がいただろうか、沙羅の声とほぼ同時に、横に止まっていた車からタイヤの滑る音が聞こえる。一瞬の間だった。
車が急発進して歩行者につっこみ、数人がとばされるのが見えた。車はそのまま真っ直ぐ進み、すぐ先に停車していた車につっこんだ。
キャーという叫びと、怒号が辺りに響いた。沙羅は狂った男の乗った車の方に自転車を向けた。とばされた人たちの方を振り返ると何人もの人たちが駆け寄っていた。すでにスマホを手にしている人たちもいる。
(ハハ、人がふっとんだー)
沙羅は近づくのをやめた。周囲の人たちはケガ人に集まり、男が乗った車を気にしている人はいなかった。沙羅は体をかがめ車内をのぞき見ると、エアバッグが開いたあとをゆっくりと動き出していた。
(まだだ、まだ殺してやる。奴らのためにナイフを何本も用意してやったんだ)
運転席にいた男は助手席に手を伸ばして、ゴソゴソとやり出したのが分かった。
(みんな殺してやる)
沙羅は周囲を見た。まだ誰も車に、男に注意している人はいない。
“危ない!”
「誰か来てー!」
沙羅は再び大声で叫んだ。何人かが沙羅の声に気付き沙羅を見た。その中には縄手通りに面して営業していて騒ぎで出てきた鉄板焼き屋の従業員も含まれていた。
(なにごとだ?)
店から出て来た従業員は、ついさっきまで調理をしていたのだろう、白い調理服を着て頭にタオルを巻いていた。不思議そうに沙羅を見る。
「お願い。この車のドアを押さえて!この中の人まだ人を殺そうとしている。ほら!ナイフを持っている」
「おっ、おっ、おぅ」
沙羅が車を指さして伝えると、店員達二人は慌てて車に近寄る。
「おい、ほんとだ。ナイフ持っているぞ。ドア抑えろ!」
店員の一人が、もう一人の店員に向かって叫んだ。
「はは、はい」
二人の店員が運転席側のドアを押さえにかかったとき、中から男がドアを開けて出ようとしたところで、バタッと音がした。
(なんだこいつら、何でドア抑えてんだ)
ドタバタと車の中から音がする。
(チッ、あっちだな)
沙羅は近くで様子を見ていた。
「あっ、こっち!こっちのドアから出ようとしてる!」
「おい!おまえ反対側に行け!それと、お嬢ちゃん、警察、警察呼んでくれ!」
店員に言われて沙羅はスマホを取り出すが、辺りを見て電話するのを止めた。車にひかれた人たちを介抱している人とスマホを手にしている人たちがいて、ここで警察に電話しても無駄だということ感じた。
(なんだこいつら、もっと殺さないと気が済まない)
四条通りと縄手通りの交差点には交番がある。常駐している人はあまりいないのか、よく見ても一人のお巡りさんしか見えなかった。それでも、沙羅は呼ぶしかなかった。
「お巡りさん!犯人!通り魔!この中にいる!お巡りさーん!
沙羅は何度もお巡りさんを呼んだ。すぐには気付いてもらえなかったが、何度も叫んでいるうちに、他の人が声を掛けてくれたのか沙羅の方に走って向かってきた。沙羅はすぐに男の乗った車を指さした。
「おっ、お巡りさん、こいつナイフ持ってんだよ」
「なんやて。‥‥ほんまやな。まだ出られへんように抑えとってもらっていいですか」
お巡りさんは言うと、肩につけた無線機に手をやり話し始めた。沙羅は余裕ができて辺りを見回した。
(あっ、あの子だ。あの子が車がくる前に叫びだしたんだ。何で分かったんだろ)
沙羅を見ている視線に気付いた。
(そうだ、あの子だ)
沙羅は聞こえてきた声で、視線を落とした。
“もう大丈夫かな。逃げよう”
「ナイフを置きなさい!ナイフから手を離しなさい!」
沙羅は再び車を見ると、お巡りさんが男に向かって窓ガラスを叩きながら、車の外から叫んでいた。交差点の方からはもう一人のお巡りさんが走ってくるのが見えた。
沙羅はペダルに足をかけ、縄手通りを一度北に向かった。沙羅の向かう方向から、野次馬なのか、事故現場の方に向かっていく数人の人たちとすれ違った。少し北に行くと小さな川というか堀を渡る。白川という名で呼ばれているが、そこを越えると川に沿って京風の建家が続く趣のある通りになっている。その道に折れた。
自転車で少し進んでいくと、まだまだ心臓は激しく鼓動していたが、落ち着きを取り戻してきた。バイト先に寄るつもりで来たが、そのまま家を目指した。
事故が起こると知りながら、ケガ人を出してしまった。精一杯のことをしたつもりだが、それが正解だったかも分からない。一人もケガ人を出さない方法があったかもしれない。あの車が走り出したとき、数人の人が車にはねとばされるのを見た。思い出すと、自然と鼓動が早くなる。あの人達を救うことができなかったのは悲しい。
思い出すと気持ちが落ち着かなくなり、自転車を止めた。近くには小さな社があり、強い日射しは木々が遮ってくれていた。横を流れる川が心地良さをだすも、夏の暑さはお構いなしだった。
社は赤い柵のようなもので囲まれていて、奉納者の名前が記載されている。緑の中の朱の先に京風の建家が並ぶ。そういった、所々に見える京都の風景が好きだった。気持ちが落ち着くまで、そこでじっと椅子にまたがりながら川や木を見ていた。
最善のことができたのかは分からない。それでも、何もしなければ多くの人が死んでいたかもしれないと思うと、今まで悩まされてきた力が役に立ったのをうれしく感じた。なくなればいいとずっと思っていた力だったけど、役に立つこともある。ただ、今回はかなり特別な場面だった訳で、これからもまた同じような場面が訪れることを、期待するつもりもなかった。それでも、今回の事件は力の意味について考える良いきっかけにもなった。
高校生の頃よりもゆっくりとした夏休みを過ごし、そろそろ秋かなと感じ始めた頃にやっと後期の授業が始まった。夏休みの間も時々あったりする子もいたけど、ほとんどの子が随分久し振りだった。サークルなどに入っていれば別なのだろうけど、今はまだそんな気になれなかった。
「沙羅、ちょっといい」
授業が終わって、次の授業へと教室を移動しようとしたときに、同じ科の沼田が話しかけてきた。「うん」と返事をすると沙羅が荷物をしまうのを待ってくれた。二人で一緒に次の授業の教室へと向かいながら話しをした。
「ねえ、沙羅って、今つきあっている人いるの?」
突然の質問にすぐに答えられなかったが、最近のみんなの様子などから聞かれることは覚悟していたので、軽く「いないよ」とだけ答えた。
「だったら、今度食事することになっているんやけど、一緒にどうかな?」
(今、沙羅しか頼める人いないんやけど。どうやろか)
「うん、別にかまへんけど」
「そう!良かった。沙羅が来てくれへんかったら、駄目になっていたかもしれへんねん」
(良かったー。これで、中松君とも会うことができる)
「ありがと。ほな、日にち決まったら連絡するね」
「うん、分かった」
沼田梨恵は高校の頃からの友人だ。高校では部活動は違ったが、時々遊びに行ったりして仲良くやっていた。同じ指定校推薦で大学に入ってきたので、高校の頃からのつながりで仲良くしている。
その日はそれ以上沼田からの話はなかった。男の人と食事といっても、あまり興味はなかったけどあまり断ってばかりだと人間関係がおかしくなってしまう。それでも、食事会のことを考えると、せっかく買った服などを着る機会ができるので、そういった面では良かったかもしれない。バイトと学校以外にも、たまにはこういったこともいいかなとも思った。それでも、余計なことを聞きたくないという思いが、今までそういった集まりを遠ざけていたので、また嫌な思いをするのではないかという不安もあった。
「あ、沙羅、昨日の件大丈夫やね?」
翌日の講義の前に沙羅を見かけた沼田梨恵が言ってきた。
「ええよ。ただ、バイトあるし、日にちにも寄るけど」
「ほなら、あとで調整するわ。バイトの日、あとで教えてね」
(あとで、中松君にも連絡しよ。食事、どこがいいかな)
沙羅に確認した沼田は何だか上の空だった。沙羅には心の声が聞こえていなくても、今の沼田の表情を見ると、浮かれているのが分かり、誰か目当てがあるのだなということも分かった。
「梨恵、なんかうれしそうやね」
「そう、分かる?」
今までの沙羅だったら、相手にそう聞かれたときに動揺してしまっていた。聴かれているというのがばれるのではないかと。それでも、力について悩むうちに、やっと力に頼らないようにいろいろ考えられるようになった。
「うん、すごい、楽しそうだよ」
「ふふ、決まったら、またあとで説明するね。沙羅にはつき合わせることになるけど。ありがとね」
(私だけでは悪いから、中松君にはいい人連れてきてもらえるようにお願いせな)
「うん、いいよ。梨恵が楽しみなら」
うれしそうにしながらも、沙羅が怒っていないか気にしているようだった。沙羅の言葉でよりうれしそうにした。
食事会は相手の学校とバイト、沙羅の予定の空きなどを考慮しつつ日にちが決まった。沙羅の空きといっても、夕方過ぎにはバイトも終了しているので、沙羅の予定は日程調整にはほとんど影響しなかったらしい。日にちが決まったとき、うれしそうに沼田が沙羅に報告に来た。その前日にはラインで確認をとられたが。
沙羅と沼田は河原町三条のアーケードになっている商店街の入口の辺りで待ち合わせた。沙羅のバイトが十八時までだったので、二人は十九時に待ち合わせた。沙羅は歩いてバイト先まで行っていたが、余裕があったから祇園から河原町三条まで歩いた。距離はいくらかあったけど、疲れよりも暑さにまいってしまった。途中で時間にまだ余裕があったので、体を冷やそうとロフトに寄って、時間を見ながらぐるっとして待ち合わせ場所に向かった。
十九時少し前に着くと沼田はもうアーケードの入口の辺りで、ハンカチで顔をあおぎながら待っていた。沙羅はすぐに気付いたが、沼田は暑さでそれどころではなかったようだ。沙羅は近づいて「梨恵!」と声を掛けながら肩を叩くと、沼田はちょっとびっくりするがすぐに笑顔で応えた。
「梨恵、早かったね」
「ちょっと前に着いたんやけど。あっついねー」
「早く涼しいところに入りたいね」
「ほなら、いこっか。お店は予約してあるから、先はいっとこ」
梨恵は沙羅を連れて歩き出す。河原町通りを渡り、市役所方面へ北へ行ってすぐに右に入る細い路地がある。路地を少し行ったところに今日のお店があった。沙羅たちはまだお酒は飲まないけど、お店は食事というよりはお酒を飲む場所だった。古民家を改造したようなお店で、表からの幅は狭そうだったが、奥行きがあり二階にも席があるようだった。和の創作料理がメインらしく、入口から入るとカウンターがあり、その上や壁に書かれているメニューに意外性はない。
二人は奥に通されて、一つの個室に案内された。四人でちょうどのやや狭い空間ながらも、薄暗い照明がいい雰囲気を出していた。個室に入り荷物を置くと、梨恵はスマホを取り出す。
(きた!)
「沙羅、向こうも今地下鉄の市役所前駅を出たっていうから、もうすぐ着くって」
メールを見た梨恵がうれしそうに言う。
(あー、やばい。ドキドキしてきた。中松君に会うの久し振りだなー)
「そうだ。梨恵!梨恵が気になっている人って中松君いうんやったな」
「えっ、そうやけど。沙羅に名前言ったことあったかな?」
時々、心から聞こえてくる声と通常の会話の区別が付かなくなってしまう。
「あっ、この前話したときに名前言ってたで」
「そうやったかな」
苦し紛れに答えたけど、梨恵は不思議そうにしながらも沙羅の言葉に納得するしかなかったようだ。
「中松君とうまくいけばええな」
沙羅のその言葉には、梨恵の気になっている人には「手を出さないよ」ということを伝える意味があった。昔の沙羅だったら、このような気遣いはできなく、言えた自分が何だか誇らしかった。
「沙羅、そんな気使わんといて。こっちが緊張しちゃうわ」
梨恵の照れている様子がとてもかわいく見えた。しかし、梨恵が緊張しているように、沙羅も緊張を隠していた。どんな相手が来るか分からない。だから、何が聞こえてくるのか予想がつかない。素直に梨恵を応援できればいいのだが、相手が嫌な奴で相手を悪く言ったり、相手と離れるように言うと嫌われるのは沙羅なのだ。以前に何度も同じようなことがあった。人の恋愛には、あまり関わりたくなかった。
「それにしても暑かったねー」
二人で同じようなことを言いながら、男の人が来る前に化粧を確認し、ウェットティッシュで汗を拭いたりして準備をする。
「こちらです」
近くで店員の声が聞こえて、沙羅と梨恵は慌てて広げていたものを片付けた。
「こんばんは」
個室の中が見えないようにのれんが掛かっていたが、それを開けながら一人の男が挨拶してきた。梨恵は一つ高い声で、沙羅は一緒に挨拶した。
梨恵の様子から、最初にのぞいた男の人が中松君らしい。奥に中松が入ると続けてもう一人の男の人も軽く会釈をして中に入り座る。二人とも今時の男子で、背がやや高く、それでも髪は耳が見えるくらいまでしか伸ばしていないので、清潔感があった。中松の方がいくらか長めでもう一人は刈り上げに近かった。顔つきも梨恵が気に入っているらしく中松は端正な顔つきをしていた。もう一人は中松と比べるといくらか抜けているような感じだ。
「あ、あの、中松君。こっちは吉井沙羅ちゃん。で、中松君」
「中松清人(なかまつきよと)です。こっちは俺と同じ○○大学で」
「井田哲(いださとし)です。どうも」
二人とも真面目そうでいい雰囲気だった。
「じゃあ、これメニューね。決まったら頼もうか」
「二人は決まってんか?ほな、うちら二人ともビールでええで。とりあえず注文しようや」
梨恵がメニューを渡すが、中松がそれを見ずに注文することになった。店員を呼んでとりあえず飲み物だけを注文し、男側と女側でそれぞれメニューを見て食べ物を相談する。
(腹減ったな。肉食べたいな。肉。あっ、これうまそうだな)
メニューを見ながら沙羅は、声の主は分からないけど、無邪気な想いで、小さく笑ってしまった。またそれに梨恵が気づいた。
(沙羅、何で笑ったんやろ?男の子気に入ったかな?中松君やないといいけど)
声に気付いて沙羅は梨絵を見た。目線を合わせて、小さく顔を振り、「なんでもないよ」という顔を見せる。
「失礼します」という声と共にのれんが開き、店員が飲み物を持ってきた。店員がそれぞれの前に飲み物を置いて出て行く。
「おし、じゃあ、乾杯しよか?」
中松の声で全員が賛同し、「かんぱーい」とグラスを合わせる。それだけで笑顔がこぼれる。盛り上がった雰囲気の中、男側と女子側それぞれの意見から食べ物の注文をした。
「二人は高校はどこだったの?」
会話のきっかけとして、中松が気を使って声を掛けた。
「うちら、二人とも高校から一緒。だから、●●高校」
「中松君達は?」
「俺は西京区出身やから、○○高校だけど」
「俺は滋賀県だから、言っても分からんよ」
「えー、井田君は今どこ住んでるの?」
「んー、何て言うかな。北大路からまだバスで十五分くらい行ったところ」
「えー、いいなー」
話しに乗ったのは梨恵だ。この年になると誰でも一人暮らしにあこがれる。
「家が近いと一人暮らしさせてもらえへんな」
「そうやねん。俺も家出たいけど、させてもらえへんわ」
「そうやけど。家から通えたら家から通ってるよ。飯も大変やし。洗濯とかも自分でせなあかんからな」
「お前、飯はどうしとるんや?」
「ほとんど、学食で済ましてるけど。あとはコンビニで弁当買ったり、なか卯とか、やな」
「ほっか、そりゃしんどいな」
「梨恵とか、吉井さんは料理はできるんけ?」
「うちは少しはできるけど、あんまりせんな」
「あかんなー。うちもあんまりせえへんねん」
ちょっと盛り上がった中松に対して、二人は期待するような言葉が出なかった。
(そっか、女の子の手料理食べられるといいんやけどなー)
「なんか、残念そうな顔してるけどー」
「そりゃまあね。一人暮らしやないけど、誰かに作ってもらうなんてあこがれんねんな。井田は?」
「俺も誰か作ってくれたらうれしいけど。まずは自分で作れるようにならなあかんかなって思ってるんよ」
「そうや、今度は井田の家で飲み会せーへんか?」
「いや、あかんやろ。掃除せなならんし。道具とか何にもあらへんし」
(いやいやいや、女の子が家に入るのは無理やろ)
「大丈夫だよ。掃除なら俺たちでやるし、道具も持っていけばええんやろ」
「いやいや、ちょっと待てや。ほんまにあかんて」
「わかった。わかった。えらい必死になりよるな」
井田哲が必死に断る様子を見てみなが笑った。井田もみんなが笑っているのを見て、危機から逃れられたのを感じ安心して一緒に笑った。
(あぶなかったなー)
本気で恐れている井田の様子で沙羅はクスッと笑った。その様子を隣に座る沼田は見ていた。
(あれ、沙羅、井田君のこと気に入ったのかな?)
沙羅は沼田から聞こえてきた声には反応しないようにした。
“そんな風に見えるのかな?”
「お待たせしましたー」
和やかな雰囲気の中、店員がいくつかの料理を運んできた。通路側にいる沙羅と井田が料理を受け取り、テーブルの真ん中に寄せながら置く。
(うまそうやなー。腹減ったわ)
料理をそれぞれが小皿にとって、食べ始めた。
「そうだ。ねえ、井田君て今彼女いるの?」
食べ始めて少しして、梨恵が聴いた。突然の質問で井田は咳き込んでしまった。
「こいつはずっといないよ。女の子には興味ないんやないかな。いつも、部活のことばかりやで」
「えー、何部なの?」
中松と梨恵が二人で話しを進めていく。
「陸上部やねん。普段は走ってばかりおる」
「そうなんや、すごいね」
「そんなんやないよ。たいして速くもないし。ただ、好きなだけだよ」
「中松君は?」
「俺は今はバイトと学校だけやな」
「そうなんや」
「沼田さんと吉井さんは何かやってへんの?」
「うちはバイトもしてるけど、サークルも入っているよ」
「えー。何のサークル?」
「英会話のサークル」
「ふーん、吉井さんは?」
「うちはバイトと学校だけ」
「そっか、忙しいのは井田かな?」
「忙しいって、昼間だけや。部活やっている分、バイトしてへんしな」
「そうか、それなら、今度みんなで遊ぼうや。カラオケでもボーリングでもええし」
「ええなあ、いこいこ」
中松と梨恵は相性が合うらしく、調子よく話す。その後の会も中松と梨恵が中心になって話していた。男達はさらに三、四杯程お代わりをする。沙羅と沼田は酒は飲んでいないので、一杯程お代わりすると後半にデザートの注文で盛り上がった。
(沼田さん、何かええ感じやな。もしかしたらいけるやろか?)
二時間程その店で過ごして出ることになった。男達はまだ飲み足りなそうだったが、女の子は飲んでいないし、遅くなるのも心配だったのでこの店で解散することになった。
「中松君、阪急だと帰れないの?」
会計を済ませ店の前の路地に集まったときに沙羅が聞いた。
「えっ、別に地下鉄でも、阪急でも大丈夫やけど」
「そんなら、梨恵を頼むね。同じ方向でしょ」
沙羅の突然のお願いに少しびっくりするも、自分なりにも考えていたのかすぐに対応した。
「井田はどうする?」
「いいよ、中松は阪急で帰って。俺は地下鉄で帰るから」
「それなら、沙羅を頼んでいい?この時間あんまりバスないから、バス停までだけど」
「えっ、いいよ。井田君のバスがなくなっちゃうよ」
「大丈夫。大丈夫。もっと遅くなるときもあるんだから」
井田の変わりに中松がオッケーを出すが、井田も不満はなさそうだった。「じゃあ、またねー」と二人ずつその場で別れた。
井田は地下鉄で帰るので、あまり離れずに、市役所前のバス停で乗ることにする。通りにお店が並び、暗くはなかったがバス停で待つには心配もあり、井田は言われるままにバス停で沙羅と一緒にバスを待った。
「ほんとに、大丈夫だよ。私ここでバス待つだけやし。井田君の方のバスがなくなっちゃうよ」
「大丈夫や。中松も言ってたけど、遅くなったときは北大路から歩いたこともあるんや。でも、今日はまだ早いし、全然大丈夫やで」
(吉井さんを置いていったら、あとで何て言われるか。それに、中松が連絡先を聞けってうるさく言うけど、こんな状況じゃ恥ずかしくて聞けへん)
井田から聞こえてきた声で、沙羅は井田を見るが、井田は緊張しているのか沙羅と目を合わせようともしない。
「ごめんね。つき合わせてしまって」
「いや、ほんまにええで。まだ早いし」
沙羅もなかなか男の人と二人きりになる機会がなく、いつも通りにいかなかった。
「そういえば、陸上は短距離と長距離のどちらなんですか?」
「ちょ、長距離やで」
「えー、普段家で走ったりとかしますか?」
「そりゃ、もちろん」
「あ、私も時々外を走ったりしますよ。鴨川沿いをずっと北に走ったりとか」
「そうなんや。俺も走るときは鴨川を走ること多いよ。家が北の方だから南に向かって」
「へー、もしかしたら、すれ違ったことあるかもしれませんね」
「そ、そうだね」
(あかん、何を話していいか分からんようになってきた。どないしよう)
「今度、もし会ったときでも、後で連絡できるように連絡先教えてもらってもいいですか?」
「えっ、そりゃもちろん。ぜひ」
沙羅の言葉で、井田の慌てる様子が面白く、沙羅は小さく笑った。ラインの連絡先の交換が済んで少しして、沙羅の待っていたバスが来た。
「ごめんね。ありがとう」
「いいって、バス降りた後も気をつけてね」
(いやー、良かった。中松に文句を言われることもないな。吉井さんに助けられた)
沙羅はバスに乗ると、外でまだ井田がバスを見ていた。沙羅を直接見られないようだったが、バスが出発するまで見送っている様子が分かった。
ただ、その後しばらくは井田と会う機会はなかった。学校が始まるまでの夏休みは、バイトばかりになってしまった。
ある日バイトに入り、いつも通り店内で接客および商品の配列を行っていた。店舗のすぐ前の歩道はアーケードになっているが道路には真夏の日射しが照りつけている。夏は春の桜、秋の紅葉の時期ほどではなくても、観光客の多い時期だった。店の前の通りを常に人が歩いていき、半分以上が外国人のように見えた。店内と外は自動ドアで遮られていて、和装を着ていた沙羅は快適に過ごしていた。外の気温が猛暑日に迫る勢いなのが、外を歩く人の表情や、時々開く自動ドアによって流れ込んでくる熱気によって伝わってくる。
店内に並べてある、扇子や小物の配列を直しているときに外から子どもの鳴き声が聞こえてきた。店の外を見ると、小さな男の子が泣きながら立ち止まっている。近くを通る外国人と思われる人が、声を掛けている様子が見えるが、男の子は泣きやまない。外国人が困りながらも、通り過ぎる様子が分かった。
店内にいたもう一人の従業員もその音に気づき外をのぞき見たとき、沙羅は子どものことを伝え外に出た。
外に出て少年に近づき腰を落とした。子どもは4歳くらいで少し髪が長かった。
「どうしたんや?」
沙羅のその言葉に子どもの泣き声は少し小さくなった。
「どないしたん?大丈夫か?」
二度目に声を掛けたとき子どもはすっかり泣きやんだ。
(お母さん。お母さんどこ?お父さん恐い。お父さん恐い)
「どないしたん?迷子か?お母さんとはぐれたちゃったんか?」
沙羅の言葉に子どもは顔を左右に振った。
「じゃあ、どないしたんや?」
(お父さん恐い。お父さん痛い。お母さんどこ?お母さんどこ?)
子どもから聞こえてくる声に大きな不安を感じた。
「お母さん探してるんか?一緒に来たんやないの?迷子やろ?」
「ちがう。お母さん、仕事」
「そうか。それでお母さん探しに来たんか?」
今までずっと首を横に振っていた子が初めて縦に大きく振った。
「ぼくは家近いんやね。ここまで歩いて来たんか?」
沙羅の言葉に再び子どもは息を止め体を硬くした。
(おうち帰りたくない。お父さん痛い)
よく見ると子どもの顔にアザのようなものが見えた。
「そうか。ごめんな。お母さんはどこで働いているんかな?」
「うんとね。お母さんは“さきむら”って言ってた」
「そう。“さきむら”ね。この近くなのかな?」
沙羅の言葉に再び子どもは大きく首を振った。
「そっか。じゃあ、ちょっと、お姉ちゃんと一緒にきな」
沙羅は立ち上がり、子どもの手を取り店の中に入った。自動ドアが開くと、自然と中の店員が沙羅たちを見た。
「あっ、南さん。“さきむら”て言うお店知ってはりますか?何か、この子、そこで働いているお母さんを探しに来たらしいんですわ」
こっちを見た店員に子どもを見せて聞いた。
「さて。‥‥“さきむら”ね」
(聞いたことはあるけど。どこだったかしらね)
「ああ、思い出した」
南と呼ばれた店員は主婦だが、二十代と若く沙羅とそれほど変わらなかった。それでも、祇園にはもう随分働いていて、年の差以上に大人のように感じていた。
「ぼく、お母さんは料理屋の“咲村”で働いてはるんやな?」
南が近づき子どもに聞くと、子どもは大きく頷いた。
「そなら、沙羅ちゃん、ちょっとうちが行って届けてくるけん、まっとってや」
言うと、子どもの手を取り軽い動きで店を出て行った。南の動きの早さに、沙羅は少し呆気にとられた。
南と子どもを見送って少しじっとしていたが、子どもの声を思い出して不安に感じていた。できれば南に変わって子どもを送っていきながら、何か知ることができればと今更ながらに思った。ただ、何が起こっているのかは、何となく察することができ、それが今回だけのことであることを願いたかった。
夏休みの間はバイト先でも、祇園の中でももうあの子を見かけることはなかった。そして、沙羅の中でも思い出すことは減っていった。
後期の学校が始まる頃には、晴れた日は真夏のように暑くなる日もあったが、秋の気配も感じるようになってきた。夏休みの間に、梨恵とは先日の中松とつき合いだしたことの報告があり、そのためか梨恵とのつながりが減ったようでもあった。
井田とはあれから特に連絡をすることはなかった。ランニングをしたときにでも会ったら、面白くて会った後に連絡をするなんて事も考えていたが、そんなこともなかった。
それでも、学校が始まり梨恵に会う機会が増えるのに比例して誘われることも多くなり、あのメンバーでカラオケでも行こうということになった。
梨恵、中松、井田の四人でカラオケに行くと、梨恵と中松がつき合っているから、自然と沙羅は井田と一緒になる。聞きたくないことまで聞こえてきてしまうので、沙羅は苦手な人が多かったが、珍しく井田はその対象には入らなかった。
「吉井さん、何か歌ってよ」
みなが選曲をして、井田が沙羅に言うと、それに便乗して「そうやで」と梨恵も乗ってくる。
「うち、歌うまくないねん。まあ、もちろん入れるけど、下手くそだから勘弁してや」
「ええで、ええで。歌ってや」
(吉井さん、かわいいな。歌のうまい下手なんて何でもええな)
沙羅も歌に自身があった訳ではなかったが、下手でもそれを聞かれることを何とも思わなかった。それでも、前回とは違ってやけに井田が好意的であり、それが伝わってきてしまい沙羅も意識しない訳にはいかなかった。
歌を歌いながら、男達はまた酒を飲み、軽い食事をしながらのカラオケになった。特別なリクエストがない限り、ほとんど順番通りにマイクが回ってきて、レパートリーの少ない沙羅はかなり困った。それでも、無事に楽しく終わったと思う。思いっきり歌うことで、運動しているような気持ちのいい爽快感もあった。ときどき、井田と話すのもあまり男の人と話す機会がない分、新鮮でいい気分転換になった。
カラオケが終わると、前回にも増して梨恵と中松の二人とはすぐに別れる。そして、井田と二人になる。
「井田君、いつも悪いから、今日はバス停までつき合ってくれなくてもいいよ」
沙羅に寄り添うように歩いてくれる井田に遠慮して言うが、井田の目的としてはそれだけではなさそうだった。
「いや、吉井さん。まだ、バス大丈夫?ちょっと話しをしていかへん?」
井田の申し出はありがたいような気もしたが、遅くなるのが嫌だった。断るのが申し訳なかった。
「ごめん。うれしいんだけど、一人だから遅くなると心配やし」
「そうだよね。女の子を夜に引き止めるのはあかんな」
(またしばらく会えんのは困るな。でも、仕方ないか)
「ほんとごめんね。もし、井田君が迷惑やなかったら、今度また明るい時間にお茶でもせえへん?それやったら、かまへんけど」
「ほんま。やった。ぜひ、そうしたいな。今度連絡するね」
「うん。待ってる。じゃあ、今日はバス停までは大丈夫やから」
「じゃあ、気をつけてや。さよなら」
(やったー。吉井さんと今度約束したぞ)
沙羅は背後から聞こえてくる井田の雄叫びに、恥ずかしくなった。井田に次に会う機会の提案をしたのも、井田の気持ちが分かった上だから、他の人の恋愛と比べるとずるいのだろう。好かれていないと分かっている相手に、自分から行くことは難しい。バス停に向かいながら、ズルをしているような気になってやめてしまったテニスのことを思い出した。
“恋愛でもズルしているのかな”
歩きながら、苦しめられてきた力を利用している自分に向けて苦笑した。
それから、何度か井田と連絡を取り、ときどきお茶をしたりするようになった。お互いの学校は市のやや北側にあり、会いやすいような気もするが、少し面倒でもあった。沙羅の学校は地下鉄の駅から近く、井田は北大路駅のあるバスターミナルで乗り換えて帰る。沙羅の帰りは、いつも乗っているバスでは帰れないが、家の近くまで行くバスが北大路から発着していたので、北大路で会うようになった。
北大路は学生が多く、通りにいくつもの店が並び、店探しで困ることはなかった。井田は部活があるので、夕方以降の方が都合がいい、沙羅は学校で勉強したりして時間を合わせて向かう。北大路駅で待ち合わせをし、すぐにカフェに入ることもあったが、一緒にビブレに行ってお店をまわったりしたこともあった。
十二月に入りいつものように北大路駅の集合施設の一角で待ち合わせをしていた。冬も本格的になり、外で待つのは寒くもあったが、変わらず人混みは嫌だったので、沙羅は先に着くようにして外で待ち合わせていた。
「沙羅ちゃん、お待たせ」
沙羅を見つけた井田が小走りで近寄ってきた。沙羅も、井田の声で顔を上げて笑顔で迎える。
「ごめんね。いつも待たしてしまって」
「うん、大丈夫。好きで早く来てるんだから。部活もないから、時間に余裕もあるし」
(今日も沙羅ちゃんいい感じやな。今日こそ告白するで)
井田が来たので立ち上がって迎えたが、井田から聞こえてきた声で少し戸惑ってしまう。
「沙羅ちゃん、どうしたん?寒いから行こうか?」
「えっ、うん」
立ち上がったまま動こうとしない沙羅を井田が気にして言った。井田の声で慌てて顔を上げた。
「どうしたの?大丈夫?」
井田の気遣いに、沙羅は小さく何度も頷いた。沙羅が動き出したので、二人は通りに出て、今日の店を探した。ビブレの中の店に入ることもあったが、最近は通りを少し歩いて散歩しながら店を選択するようになっていた。
「今日はどこにしようか?井田君、お腹空いてる?」
(今日の帰りに告白するで。どないタイミングでしたらええかな)
「どうしようか?」
沙羅は聞こえてくる声を気にしないようにして、井田に声を掛けるが、井田は上の空で聞いていない。沙羅には事情が分かっているので、しばらくそのままにして歩き続けた。井田は、意識せず何処を目指しているのも分からず考え事をしながら歩いていた。その横を沙羅はお店の様子を見たりしながら歩いていた。しばらくそのまま歩いていた。
「ちょっと、井田君!この先歩いてもお店あんまりないよ」
少し強い声で井田に言うと、井田は意識を取り戻し辺りを見た。
「ほんまやな。いつの間にこんなところまで来たんやろ。ちょっと戻らなあかんな」
「ごめん、ごめん」という井田を沙羅は簡単に許し、笑顔で道を戻った。
通りを戻り一度北大路の駅前を曲がってまた少し歩いた。その少し行った通り沿いのカフェに入った。井田は一人暮らしなので、沙羅とのデートの時は食事をすることもあったが、沙羅は家で食事があるので井田だけ食べるのも気が引けた。また、それほどお金に余裕がある訳でもないので、沙羅と一緒にお茶で済ますことも多かった。
一時間程カフェで過ごして、北大路駅に向かった。
(どうしよう。やばい、焦ってきた)
沙羅は井田の気持ちは分かっていながら、自分からどうしようという訳にもいかずに、いつも通りバス乗り場に向かうしかなかった。
「沙羅ちゃん、ちょっとだけ話していかへん?」
「うん」と答えながらも、これから起こることを少し予想し、つばを飲み込む。井田は地下の乗り場に行かず、上の待ち合わせをしたベンチのある広場に沙羅を促す。
「ちょっと座ろうか」
沙羅と井田は座る。そこはビブレの上階の入口になっているところで、人の通りも少しある。冬なので広場にいる人はあまりいなかったが、沙羅たちの他にもカップルが別のベンチに座っていた。
「沙羅ちゃん、あの‥‥」
(やばいどうしよう。緊張する)
「なに?」と言いながら、井田が何を言い出そうと頑張っているのか分かっていたので、言いやすいようにできるだけ優しく笑顔を見せた。それでも、沙羅としても何を井田が戸惑っているのか分かっている分、言われる前に自分自身が紅潮していくのが分かった。
「うん、あの。沙羅ちゃんとこうして何度か会って、すごく楽しいんだ。それで、これからもこうして会ってもらいたいんだ」
「うちも井田君といると楽しいよ」
(やばい、俺なに言ってるんだ)
「俺も沙羅ちゃんといると楽しいよ。‥‥」
(言うぞ!言うぞ!)
「それで、沙羅ちゃん!」
井田の言葉に、沙羅はずっと穏やかに見返す。
「良かったら、俺とつき合ってくれへんか?」
(うわー、いった。疲れたー)
沙羅は井田から何を言われるのかは分かっていたので、どうに答えるかも準備してあった。井田が言った後顔を伏せたので、少し間を置いて、井田が顔を上げたのに合わせて答えた。
「うん。こちらこそ、お願いします」
沙羅は井田の緊張の様子を微笑ましく受け入れ、一呼吸置いてから返事をした。
「ほんと。良かったー」
井田の喜びようで、沙羅もうれしかった。少し、帰りのバスが気になったが、もう少しだけそこに座ったまま、井田が落ち着くまで待った。
「じゃあ、これからもよろしくね」
沙羅はそう言うと北大路バスターミナルの乗り場で別れた。井田の方のバスが先に来て、井田はバスから沙羅に向けて手を振りながらバスターミナルを出て行った。
沙羅は井田とデートするようになるまで、男の人とつき合うことになるという感覚はなかった。それまでは、つき合うことはないだろうなという諦めのような気持ちしかなかった。それでもこうして誰かとつき合えるようになれて良かった。バスを待っている間、つき合えたという温かさで寒さをあまり感じなかった。
バスに乗ってから家に向かっている間、また考えことをしてしまう。沙羅の力がある限り、いつまでもつか不安でもあった。不安といよりも時間の問題かもしれない。この力がある限り、誰かとつき合うのは辛くなるだけなのではないかとも思えた。浮かれた調子でバスに乗った沙羅の気持ちは降りる頃には沈んでいた。
沙羅と井田とのつき合いは沙羅の不安の中、井田の真っ直ぐな気持ちに支えられてなんとか続いていた。
二年生になり、夏が来る前に沙羅の二十の誕生日を迎えた。その日は家族が祝ってくれるというので、井田とは授業が終わってすぐに待ち合わせた。井田はその日のトレーニングを休み、わざわざ河原町まで来てくれた。
「哲(さとし)ごめんね。夜は明けられなくて。実家に住んでいる間は祝ってくれるって言うし」
井田とは河原町のデパートにある喫茶店で待ち合わせていた。後から来た井田が席について座ると沙羅が言った。
「いや、いいよ。こうして会えているんやし。まずはおめでとう」
井田は言うとすぐにバッグの中から紙袋をとりだし、その中から包装されたリボンの付いた箱を出した。向きを整え、慣れない手つきで沙羅に差し出した。
「おめでとう」と言って渡してくれる井田から「ありがとう」と言って沙羅は受け取る。
「ここで開けた方がいい?」
「いや、そんなたいしたもんやないし、家で開けてよ。とりあえず、今日に渡せて良かった」
(良かった。ここで開けられたら困るな。開けたときにあんまり喜んでくれへんかったらへこみそうや)
「うん、分かった。でも、中は何?」
「ここでは言わんよ。たいしたもんやないよ」
(沙羅が喜んでくれるか、不安やな。つき合って初めてだから、友達に聞いたりしてネックレスにしてみたけど)
「大丈夫だよ。何をもらったとしても私はうれしいし。あんまりいいものだと、私が渡すときに困るわ」
沙羅は無意識で力を利用してしまう。哲は聞けば言わなくても教えてくれるから。
「さあ、二十になった沙羅さんは、どういったところに就職するつもりですか?」
少しふざけた調子で、井田が沙羅に聞く。ときどき話しに上がることだが、井田も気になるようだ。沙羅も井田の調子に合わせる。
「そうですね。わたくし吉井は、就職希望の職種は、実はまだ決まっていないんですね。哲も一緒に考えてよ。私に何ができるかな?何が合っているんやろ」
「うーん、それだけは沙羅に決めてもらわんとな。まあ、希望の仕事に就けるかも分からないし、ゆっくり考えていけばええって」
「そうやな。哲はまず、卒業できるか分からんしな」
「そんなの知らんやろ。成績はそりゃよかないけど、そんなに悪くないで」
「そうなん?まあ、でも今日はプレゼントもらっちゃったし、優しくせんとあかんな。哲は頭ええはずやな」
「沙羅、それあんまり褒めてないんとちゃう?そんなんやったら、俺のとき高額なもん要求したるで」
「あはは、ごめん。でも、ほんと今日はありがと。それに、夜までつきあえんでごめんね」
その後、もう少しだけカフェで過ごし、夜になる前にはバス停で井田と別れた。いつもは井田の方が遠いのでバス停で送るのは遠慮するのだが「今日だけは送らせてや」というので、バスが来るまで井田と話しをしながら過ごし、バスに乗るとバスが動き出すのに合わせて井田に手を振って別れた。
七月に入ると沙羅のバイトをする祇園の町は空気が変わる。それは観光客には分からないかもしれないけど、一年を通してその町で過ごすようになると、沙羅にも町全体が祇園祭が始まることでピリピリしていくのが伝わってくる。メインは山鉾巡行だが、一帯が祭を盛り上げるためのそれぞれの役割を果たそうとしているのが分かった。
それでも、高校生のときは毎日この辺りを通って学校に行っていたのに、このようなことを感じることはなかった。提灯などが飾られたり、祭り気分が出ていたのは分かったが、祭の雰囲気を人々から感じることはなかった。
そんなある週末、十八時にバイトが終わって、少し片付けをして和装から着替えるので、いつも店を出るのは十八半をまわってしまう。まだ外は明るく涼しくなる気配もない。アスファルトやコンクリートの壁からの熱気が顔に当たってヒリヒリするようだった。
そのまま帰っても良かったが、暑いのもあり、まだ明るかったので一度河原町の方へ四条大橋を渡って行き、マルイに寄ることにした。デパートに入ると涼しい空気に冷やされ、汗がひいていくのが分かった。
特に目的はなく、エスカレーターで服などの上の階にいって、のんびりとフロアをまわりながら、一つずつ降りていって見て回る。興味があるものなどはデザインや素材、値札を確認したりして店員をやや避けながら見ていく。
ときどき、(この子どうせ買う気ないだろうな)など、聞きたくない言葉が聞こえてくるが、それはもう慣れたもので全く気にせず、目が合ったときは微笑で返すこともできる。一通り見て回るといい時間になっていた。
十九時半頃にマルイを出ると、日は沈んでいて暗くなり始めていた。それでも、辺りは人の通りも多い。四条大橋を渡って道沿いに少し歩道を歩くと、川沿いの遊歩道に降りられる階段がある。沙羅はそこを降りて帰ることにした。
遊歩道に降りると、少し冷たい風が当たるようになる。明るさはまだ十分道は見える状態で、対岸には店が並んでいるのが見える。この時期になるとオープンテラスのような「床」と呼ばれる場所がそれぞれの店で川沿いに設置されていて、これも夏を感じられる一つだ。「床」を照らす明かりが、川沿いに並びきらびやかになり、遊歩道までも明るくする。鴨川沿いの遊歩道は、デートスポットになっていて、所々で間隔を開けて川に向かって座り込んでいる人がいる。男女のこともあるが、男同士や女同士のこともある。
沙羅はのんびりと涼むように、川や対岸のお店の様子を見ながら歩いていった。歩いていくと、同じように散歩をしている人やランニングをしている人、自転車などとすれ違う。
一つ目の橋をくぐろうとしたところで小さな子が一人で川沿いに座っているのが見えた。沙羅は気になって、歩く速度をゆるめた。
(もういやだ。お父さん恐い。お父さん痛いことする。帰りたくない)
子どもから聞こえてきた声で沙羅は立ち止まった。歩いているうちにすっかり暗くなってきて、薄明かりの中で子どもに近づき顔を見た。泣いていたのか分からなかったが、顔を見てすぐに分かった。以前バイト先の店の前で心配な様子で母親を探していた子どもだった。
「ぼく、どうしたん?」
沙羅の声掛けに子どもは一瞬ビクッとしたが、沙羅を見て安心したようだった。
「どうしたんや、こんな時間に?」
沙羅は言いながら、子どもの横に座り込んだ。沙羅が聞いても何も言わず黙り込んでいる。聞こえてくる声に変わりはない。座った沙羅を避けるように腰を浮かし少し離れた。
「ぼく、お姉ちゃん分かるか?以前お店の前で泣いていたのをお店に入れてあげたんうちやで。和服着ていたから分からんかな。その後お母ちゃんのところに連れて行ったのはうちやないけどな」
沙羅の言葉で、男の子は確認するように沙羅を見た。そしてまた、川を見つめる。
「ぼく、うちに帰りとうないんか。分かるで。無理してうちにいる必要なんかないで」
溢れるほど流れ込んできた声が、沙羅の言葉で止まった。
「今、お母ちゃんはどうしてるんや?」
(お母ちゃんは仕事や。お母ちゃんとこ行ったら、お母ちゃん困る)
沙羅の言葉に男の子は沙羅を見るが、言葉は出なかった。
「ええで、無理して答えなくて。お姉ちゃんはな、何でも分かるんや。お母ちゃんは仕事やな」
再び男の子は沙羅を見つめた。
「おうちはお父ちゃんだけか?お父ちゃんは、ぼくに何するんや?」
今度は男の子は川を見つめたままだった。
(お父さん叩く。ぼく、何で叩かれるのか分からない)
「そうか」と沙羅は言って、男の子が離れた分近づいた。体が触れる。今度は男の子は避けようとしなかった。沙羅は手を男の子の後ろから回し、そっと頭の上に載せた。
「お母さんは助けてくれへんの?」
(お母さんがいるときは、お母さんが叩かれてるねん。ぼく何にもできへん)
男の子の声と一緒に悲しみと悔しさ、それと怒りに近い感情が伝わってくる。
「そうなんやな。しんどいな。‥‥なあ、お姉ちゃんに何かできへんかな?」
沙羅の言葉に、困惑していて男の子もどうしていいか分からないようだった。
「ぼく、よく頑張っているね。偉いよ」
沙羅は頭の上に載せていた手で頭をなでた。
「ねえ。お母さんはいつ頃仕事終わるの?」
(あと少しだと思う。お母さんが帰ってくる頃に合わせてぼくも帰るんだ)
「ふーん。お母さんはどこを通って帰るの?」
沙羅の質問に、(ここ)と聞こえてくると男の子は後ろの遊歩道を指さした。
「そう、お姉さんも一緒に待ってもいいかな?」
男の子は小さく頷いた。それを確認して、沙羅は男の子に合わせて、じっと川や対岸のお店を見たりして黙っていた。
沙羅と男の子が一緒に座っている後ろを何人もの人や自転車が通り過ぎる。
「ぼく?お姉さんがぼくを助けてあげるって言ったら信じてくれる?」
頭の上に載せていた手を男の子の体を包み込むようにして、沙羅の方に引き寄せながら言った。沙羅は男の子の心の声を待った。
「助けてくれるの?信じる!」
「ほんと!お姉さんがお母さんと話しするから。そうだ。ぼく名前は?」
初めて話しをしてくれたことで沙羅はうれしくなった。何ができるか分からない沙羅のことを、信じてくれると言ってくれた。
「ぼくは、レンて言うんや」
「そうか、レン君か。よろしくね」
日が沈みいくらか涼しくはなっていたが、まだ夏の日射しの影響が残っていた。そんな中でも、沙羅とレンはくっついて座っていた。レンが話してくれるようになったので、沙羅はいろいろ話しかけてみた。レンも気分が乗ってきたのかいろいろ話してくれた。
「あれ!レン?」
二人が楽しく話しているときに背後から声がした。すぐにレンの母親だと分かり、レンは立ち上がって母親にすがりついた。
「すいません。一人でいたものですから、ちょっと話し相手になってもらいました」
沙羅の言葉に母親は不思議そうに沙羅を見ていた。
(何かしら?でも、やっぱりこんな時間に小さい子が一人でいればおかしいもんな。でも、なんやろこの子?)
「あの、ちょっとお時間よろしいですか?そんなに掛かりませんから」
「はあ」と母親は受け入れるが、沙羅のことを量りかねているようだった。
「あの、わたし児童相談所の福祉司の手伝いのようなものをやっているんですけど」
沙羅が言う「児童相談所」という言葉で、母親がドキッとしたのが分かった。
「レン君は虐待されていますね」
(えっ、なに?何を言っているの?この子は)
「以前にもレン君に会ったことがあります。その時にも顔に叩かれたようなアザがありました。そして、今日もレン君にはアザがあります。これはあなたがやったのですか?」
母親はびっくりしたようで、あまりの動揺に何も言えなかった。
「お姉ちゃん、ちがうよ。お母さんはぼくを叩いたりしない。お父さんだよ」
レンの言葉の後、沙羅は母親が落ち着くのを待った。
「そうですか。レン君のお父さんなんですね。お母さんはこの先どうするつもりですか?」
先程まで話していたのが良かったのか、レンは母親の後ろに黙ってついていた。特に何も聞こえてこない。
「いいですか。お母さんが手を出していなくても、それを知っていて、一緒に住んでいるのであれば虐待と同じです。レン君が保護されて、起訴されれば逮捕されることになると思います」
(えっ、ほんとなの?私も逮捕?)
沙羅の言葉に母親が動揺しているのが分かって、沙羅は次の手を考える。
「お父さんとお母さんの二人が逮捕されたら、誰がレン君の面倒を見るんですか?誰がレン君の成長を見守ってあげることができるんですか?
‥‥お母さん。レン君への虐待をなくすためにはどうすべきか分かりますよね?
わたしが警察へ連絡すれば、レン君は一人になってしまいますよ。レン君のこれからを守るためにお母さんが動かないのであれば、わたしは警察に連絡するしかないです」
(と、突然そんなこと言われたって)
母親の動揺をよそに、沙羅はしゃがんでレンの頭をなでた。レンも不安そうな顔をしている。
「今やるべき事は、レン君を安全な場所に移して、暴力をふるう奴なんかとは別れることです。あなたが愛すべきは、誰だか分かりますよね」
(そりゃ、レンを守らなければならないことは分かっているけど)
「あなたが動かなければ、わたしが動きます。でも、そうなったら悲しむのはレン君です。‥‥わたしだってレン君を悲しませたくないです。お願いします。レン君を本当に守ることができるのはあなただけです」
(そうやねえ)
母親はすがりつくレンをじっと見つめた。
(このままっていう訳にはいかんよね)
「そうやな。あんたの言う通りかもしれん。確かにレンをこれ以上苦しめる訳にはいかんよね」
母親の言葉に沙羅は笑みで返す。続けてレンを見てしゃがみ目線を合わせた。
「レン君、今度困るようなことがあったら、またここに来ればいいよ。お姉さんが必ず助けるから。声に出せなくてもいいよ。心の中で叫べばお姉さんには聞こえるから」
レンは小さくうなずく。
「それに、レン君の味方はお母ちゃんやお姉ちゃんだけやないからな。みんながレン君の味方や、みんなが味方になってくれるから、大きな声で叫んだらええ。前に道に迷ったときもそうやったろ?」
レンの頭をなでると沙羅は立ち上がった。
「お母さん頼むで。あんたが動かなあかんで」
少しの間本当の静寂が訪れた。聞こえるのは川の流れる音だけ。
「わたしがやらなあかんのよね。でも、今までレンを守ってこられなかった。あかんよね。ごめんね、レン」
母親はレンを見て頭をなでた。
母親は顔を上げて沙羅を見た。
「あなた、連絡するのをもう少し待ってね。すぐに出るのは難しいから、できるだけ早くレンと二人になれるようにするから、お願いします」
母親は言うと沙羅に向けて頭を下げた。
「そんな、お母さん。わたしなんかに頭を下げんといて下さい」
母親は顔を上げると、軽く沙羅に微笑したように感じた。
「ほな、レン行こうか?」
母親はレンの手を取り、歩き出した。レンは沙羅のことを振り向きながら見ていたが、レンが引っ張る力が強かったのか母親は一度立ち止まってレンを見た。
「お姉ちゃん、ありがと」
レンが言うと、母親は再び沙羅に会釈をしてその場を離れた。ときどき振り返るレンに、沙羅は二人が階段の上に見えなくなるまで笑顔で手を振って見送った。
二人が見えなくなって、沙羅はもう少し遊歩道を歩いて家に向かった。対岸からはときどき床で飲んでいる人たちの盛り上がりが聞こえてくる。
今日の出来事は沙羅にとっては、不思議な気がした。自身でもどうしてとっさにあんな言葉が出て来たのか分からなかった。結果から見れば出来過ぎだったのかもしれない。それでも、小さい頃から聞きたくない声を聞かされてきていて、それが自身の社会性を育てたのかもしれないと感じた。
今までにもいろいろな出来事に遭遇してきた中、自身の力のあり方についていろいろ考えてきた。力があり続ける中、それをどうにか良い方向性に向くように使うことができないだろうかと考えてきた。それは特に大学生になり、バイト探しのときもそうだったが、就職を意識するようになってからより身近になってきた。
自分にもこの社会でできることがあるかもしれない。この力をうまく利用して、誰かを救うことができるかもしれない。
自分の生きる目的というか、これからやるべき事が今日の出来事で分かったような気がした。
沙羅はそのまま遊歩道を歩き、次の橋が見えたとき近くの階段を上がって家に向かった。

「沙羅は本当に宵山に来たことなかったの?」
七月に入って始まった祇園祭はさまざまな行事が毎日のように行われる。その中で特に人が集まるのが、夜間に烏丸通りと四条通りなどを歩行者天国にした宵々山と宵山だろう。それぞれの山鉾は提灯で照らされお囃子が奏でられる。夏の熱さを忘れてしまうような祭気分を味わうことができる。そして、通りには出店が並び、歩くのも大変のほどたくさんの人が訪れる。山鉾巡行の前日を表す宵山なので、翌日は前祭の山鉾巡行が行われる。その山鉾巡行を盛り上げるための宵山でもあるのだろう。
沙羅と哲は宵山に来ていた。二人は哲の部活終了時間に合わせて、メインの四条烏丸から少し離れた烏丸御池で待ち合わせた。普段はバスを利用していたが、その日は混雑を考え地下鉄で行くことにして、改札の近くで沙羅が待っていると、一本か二本後ぐらいの電車で哲も来た。
二人は並んで歩きながら地上に出た。
「中学校の頃なんかよく友達に誘われたけどいかへんかったんねん」
「なんで、俺でも子どもの頃連れてこられたことあったけどな」
「人混み苦手やし、テニスを口実にして断ってたんや」
「今日はよくオッケーしたな?」
「まあ、一度くらいはね。話の種にもなるし。ただ、人混みに入ると黙り込んでしまうことがあるかもしれないけど」
「ほうか、無理せんといてや。全部まわる必要なんかないんやし。まあ、うまいもんでもあるとええな」
烏丸通りはここからもう歩行者天国で、片側三車線の道が歩行者天国になると壮観である。まだ露店は多くはないが、奥にはずらっと並んでいる様子が露店の華やかな明るさで分かった。その露店の明かりを遮るようすで人の混みようも分かる。
烏丸通りを下がりながら四条通りを目指すのだが、鉾がある通りに折れる。烏丸通りから一本入った室町通りに出ると少し先に鉾が見えて、祭囃子の音も響いてくる。
「うわー、きれいやし、雰囲気もええね」
「そうやな。こんな感じだったんやな。子どもの頃に見た感じとはちょっと違うな」
「うん、ええねー」
沙羅にとっては初めて見る宵山だったが、暗闇の中に栄える鉾がとても幽玄で、この世のものではないように感じた。
祭気分で気持ちが高ぶったが、治まるまではあまり時間は掛からなかった。鉾を見ているうちはよかったのだが、鉾を過ぎて露店が並び人混みに紛れると害されてきた。
(どけよ。じゃまなんだよ!)
(とれーんだよ。さっさとやれよ)
(おっ、あの子かわいーじゃねーか)
(並ぶのかったりーな)
(かわいー子、いないかな?)
(何だよ。あいつ。こっち見てんじゃねーよ)
(うぜーんだよ。ぶっとばすぞ)
「ちょっと、哲」
沙羅は先に行こうとする哲の腕をつかむとしゃがみ込んでしまう。
「沙羅!どうした?」
慌てて、沙羅に近寄ると、俯いたまま「大丈夫。ちょっと気分が悪くなっただけ」とか細い声で答えた。
沙羅を抱えて道の端によって少し様子を見たが、人混みの中にいたままで、よくなる様子もない。
「ちょっと、休もうか?俺のうちでも、タクシーならそんなに遠くないし」
沙羅は、その時は「大丈夫」と答えたが、道ばたでしゃがみ込んだまま様子は変わらなかった。
「やっぱ。ちょっと場所変えよう」
次第に顔色の悪くなる沙羅を見て、哲は沙羅を抱え人混みから離れた。歩行者天国の範囲が広く、そこからなかなか出られなかったが、何とか堀川道路まで出るとタクシーを拾って哲の家に向かった。
「ちょっと狭いけど、ごめんね」
「ううん。こっちこそごめんね。もっといろいろと買い物とかしたかったやろ?」
タクシーに乗っている間にいくらか落ち着いて、タクシーを降りてからは沙羅は一人で歩いた。先に歩く哲に付いていくと、二階建ての鉄筋コンクリートのアパートで、外に取り付けてある階段で二階に上がると哲の部屋があった。沙羅が哲のアパートに来たのは初めてで、タクシーで来たのでどこの変にいるのか分からなかったが、辺りが気になりキョロキョロしてしまう。
「ちょっと、待っててや」
哲は先に部屋に入ると、沙羅を外に待たせて中でバタバタとしている。それでも、体調を崩している沙羅を心配してか、あまり時間を掛けずにドアが開いた。
「まだ、あんまりきれいじゃないけど、ちょっとは休むことができると思うで」
「ありがと。でも、哲がやけに、気い使ってるやん?」
哲をからかうようなことを言うが、体はまだ本調子ではなく靴を脱ぐときはふらついてしまう。
「ほら、大丈夫か。入って横になりな。今エアコン入れたから」
ふらつく沙羅を哲はすぐに支え、片手でキッチンのある狭い通路を通り部屋の奥へ連れて行くと、沙羅をベットに促した。哲はあまり気にしていないようだったが、沙羅はドキッとしてしまい、促されるベッドにちょこんと座った。
(沙羅、大丈夫かな?)
沙羅をベッドに促すと、また部屋の中を整理し始めた哲だったが、横になっていない沙羅に気づいた。
「沙羅!調子悪いんやし、横になっとき!そんな、調子悪い子家に連れてきて、いきなり変なことせえへんわ!」
怒るように言われて、沙羅はびっくりしながらもベッドに横になった。
(ちょっと、汚い部屋見られて困ったな。でも、他に方法がなかったしな)
哲のベッドに横になると、男の匂いがふっとして、沙羅が一人で照れてしまう。哲の気持ちに感謝して黙って目をつぶった。
(こんなもんでいいかな?でも、沙羅、この部屋見てどう思ったかな?来ると分かっていればもっとしっかりきれいにしとったのに。今から、ファブリーズしたらあかんよな)
沙羅は横になりながら、聞こえてくる哲の声で、心の中で笑ってしまった。哲は沙羅を気づかい、音を立てないように静かに片付けをしているのが分かった。
(沙羅、眠っちゃったかな?ここから家はどうやって帰ればいいんだろ。バスはあかんやろし、誰か車持っている奴で空いてそうな奴おらへんかな)
(何時頃に起こしたらええんやろか。それより、帰る方法を先に見つけといた方がいいかな)
沙羅のことをずっと考えてくれている哲の声を聞きながら、沙羅は知らないうちに眠ってしまっていた。
「沙羅!沙羅!」
名前を呼ばれてゆっくりと目を開けるとそこには哲が見えた。
「どう?調子はいくらか良くなった?」
哲の呼び掛けにも状況がすぐに飲み込めず言葉が出なかった。
(沙羅、大丈夫かな。もう遅くなるし。家の人が心配するやろしな)
「あっ、眠っちゃったね。心配掛けてごめんね」
「いや、いいよ。どう?いくらか良くなった?」
「うん。もう大丈夫だと思う。やっぱりあんだけ人多いとあかんかったな。あはは」
「ごめん。無理して誘っちゃって」
「いや、哲は悪くないで。うちかて、もう大丈夫やと思ったんだもん」
「それで、どうする?もうバスで帰るのは厳しいかもしれないけど。学校の友達で車持っているのがいるから、そいつに頼んでみてもいいんだけど。あとは、タクシーで出町柳まで行けば、そこから電車はまだあると思うけど」
いろいろの提案を哲はする。沙羅が眠っている間にしっかり考えてくれていたのが伝わる。
(沙羅に泊まっていけば?なんて言ったらどうなるだろう)
「そっか。ちょっと遅くなっちゃったね。どうしようか?」
聞こえてきた哲の言葉に、沙羅は悪戯っぽく哲を見る。
「今日、宵山に行くの初めてで、家には遅くなるって言ってあるから心配はしてないだろうけど」
「そうか。それでも、今から帰るのは、しんどいかもしれんな。誰かに、車出せるか聞いてみようか?」
「そやな。家に電話して迎えに来てもらうこともできるかもしれんけど、今日はたぶん飲んではるな」
沙羅の言葉のあとに少しの沈黙があった。
(沙羅、怒らないやろか。‥‥いやー、やっぱ厳しいなー)
「哲、どうしたの?」
沙羅は自分から泊まるとは言いづらいから、哲が言いやすいように助け船を出した。あとは、哲が勇気を出すだけだけど。
「あの、沙羅。‥‥今日、泊まっていくか?」
哲が勇気を出して言ったのが分かる。沙羅は、哲の言葉に驚かずにできるだけ優しい表情で哲を見るようにした。
「‥‥うん。いいの?」
「そりゃ、俺一人暮らしだし。何も困ることはないよ。沙羅には少し狭いかもしれないけど」
「そう。じゃ、家に電話するね。友達のところに泊まるって」
「うん、わかった」と落ち着いて言おうとしている哲だったが、予想外の展開に浮ついているのが明らかだった。沙羅は、その様子を微笑ましく感じながら、自宅に電話する。
沙羅が電話している間、哲は何だかせわしく台所の方に行ったりしていた。電話が終わった頃を見計らって、部屋に入ってくる。
「どう、大丈夫だった?」
聞いた哲に、沙羅は頷くが哲の緊張が伝わってきて、目を合わせることができなかった。
「テレビでも見よっか?」
どんどん室内の緊張感が増していき、それを和らげようとテレビをつけることを提案した。テレビをつけてチャンネルを替えていった。
特に興味があるものをやっている訳でもなく、適当なバラエティー番組を見ながら二人は過ごした。
「そういえば、お腹空かない?沙羅はほとんど食べてないだろ?」
「うん、今は大丈夫かな」
「そう。まあ、軽く食べるものと飲み物も必要だろうから、ちょっと近くのコンビニまで買いに行ってくるよ」
(やばい。コンドーム用意してなかった。こんな展開になるとは思ってなかったから)
哲のいろいろな思いを汲んで、「うん、分かった。ありがと」と言って沙羅は哲を送り出した。一緒に行くことも考えたが、哲が買い物をしづらいだろうし、今外に出て歩けなくなってしまうのも心配だった。
哲の買い物は随分掛かって、しばらく部屋で一人待たされた。それでも、沙羅もこの先どうなるのか予想できず、テレビは流れていたがのんびりテレビを見ている気分でもなかった。
「ただいまー」
いつもは独りで住んでいるので、言ってはないだろう哲の言葉だが、誰かが待っていてくれる中で帰ってくる喜びが言葉の抑揚から伝わってきた。帰ってきた哲は台所で冷蔵庫を開けたりしてバタバタとやっているのが分かる。
「沙羅、おにぎり買ってきたけど食べる?」
部屋のドアを開けて哲が沙羅に言うが、沙羅はあまり哲に目を合わせられず、小さく首を振った。
「じゃあ、何か飲む?」
再び聞く哲に沙羅はまた小さく頷いた。
(あれ、どうしたんやろ?)
沙羅の態度に不思議そうにしながら、哲は再び台所に戻り二つのコップとお茶の入ったペットボトルを持ってきて床に置いた。お茶をコップに注ぎ、ベッドに腰掛ける沙羅に手渡した。
沙羅は「ありがと」と言ってコップを受け取るが、手が触れるとドキッとしてしまうのが分かった。
沙羅が飲み終わったコップを持て余しているのに気づき、「もうちょっと飲む?」と聞くと首を振るのでコップを受け取る。哲も飲み終えたので二つのコップとペットボトルをテレビの近くの邪魔にならないところに置いて、沙羅の横のベッドに腰掛けた。
(やば、どうしよ?沙羅も何だか意識しているし、大丈夫なんやろか)
部屋にはテレビの音声だけが聞こえ沈黙が続いたが、哲が少し沙羅に近づくとベッドが揺れる。哲は再び勇気を出して沙羅に聞いてきた。
「沙羅、今日ええの?」
哲は横に座る沙羅の手に自身の手を重ねて聞いた。沙羅は小さく頷くと、哲はゆっくりと沙羅の両肩に手をやりベッドに倒そうとした。
「ちょっ、ちょっと待って。先にシャワー浴びていい?」
沙羅のひとこと目ですぐに哲は手を離したが、沙羅の言葉に安心した。
「そやな。そやな。今日は暑かったし、ちょっとまってや。タオル出すわ」
「ごめんね。わがまま言って」
哲が立ち上がったのに合わせて沙羅も立ち上がり一緒に台所の方へ行く。「ありがと」とタオルを受け取って辺りを見るが着替える場所がない。哲も沙羅が困っているのに気づき、ユニットバスの電気をつけると台所の電気を消し、部屋に戻った。
沙羅がシャワーを浴びている間、真正直に部屋から一歩も出ることなく、頭にはいっこうに入ってこないテレビを眺めていた。
沙羅がシャワーから出ると、部屋に顔を出して出たことを告げる。哲はバタバタと部屋を出て、ユニットバスから照らされる薄明かりの中、台所の狭い通路で沙羅とすれ違う。
(やばい、テンパってきた。あそこはもう立ってしまっとるし)
バスタオル姿の沙羅と素早く入れ替わり、哲がシャワーに入った。
“どうしよう。すごく恥ずかしい。電気消して待っていたら変かな?”
沙羅は落ち着かない様子で哲を待ち、ユニットバスからは相変わらず落ち着かない哲の物音がドタバタと聞こえてきた。

翌朝、狭いベッドで沙羅は目が覚めた。昨日のことは何が起こったのか自身でもすっかり抜け落ちていて、あまりの緊張の中のことでほとんど覚えていなかった。自身がうまくできたのかどうかさえ何も分からなかった。
夜中にトイレに起きたときに下着は着けていたので、ベッドから出て服を着た。服を着ながらもいろいろと思いだし、顔が赤くなっていくのが分かった。
ベッドの下の床に座りながら服を着た。
「あれ、沙羅、起きたんだ。どう?今日の調子は?」
哲からの不意の声で沙羅はドキッとした。沙羅はいつもと様子が違うことに、何だか不思議に感じていた。昨日のあとのことで、哲が何の調子のことを聞いているか判断できずに、恥ずかしさもあり答えられなかった。着替え終わったところでベッドを見ると哲はベッドに横になったまま沙羅を見ていた。
“あれっ”
何か不安に思いながら、沙羅を見て微笑む哲の顔を沙羅は不思議そうに見た。哲は沙羅の顔に手を伸ばす。
「昨日はごめんな。沙羅は調子悪いはずだったのに。‥‥でも、沙羅とできて良かった。俺、初めてだったんだけど、最初が沙羅で良かった」
優しい表情で見る哲を見て、沙羅も笑顔で「わたしも」と言うと、哲からはそれ以上何も聞こえてこなかった。
 

「先輩!ちょっと、待って下さいよ」
建物を出る沙羅のあとからスーツを着た若い男が追いかけてくる。
「どうして、吉井さんは子どもたちや被害者の人たちの気持ちがよく分かるんですか?」
追いついた青年が沙羅に尋ねる。二人は並んで歩き出した。
「それはね。いろいろなことから感じるんや。相手の表情だったり、目線や、そうやなあ、目の色なんていうのもあるかな。
もちろん、話しながらいろいろ聞くのも大事やで。でも、言葉だけ聞いていたんじゃ駄目や。その言葉の中から、相手の気持ちを感じとるんや。相手が何に苦しんでいるか、何を望んでいるか。それを感じられるように気を配るんやな」
「吉井さん、そりゃ、出来たらそうしたいですけど。そんなことできませんよ。みんなが吉井さんのようにできるとは思わないで下さいよ」
青年が言ったときには沙羅は背後で立ち止まっていた。青年が沙羅を見ると、一人の女性をじっと見ていた。その女性も、沙羅に気づかず、今さっき沙羅と青年が出て来た建物を眺めていた。
沙羅はすぐにその女性に近づいていく。
「どうしました?何かご用ですか?」
沙羅は女性に声を掛ける。
「ちょっと、先輩。今日この後面会の予定が入っているんですよ。遅れちゃいますよ」
青年の言葉を沙羅は鋭い目線と、手で制した。
「どうしました?」
「いえ、あの、別に大丈夫です。ちょっと見ていただけですから」
「そんなこと言わずに、お困りではないでしょうか?」
「そんな。わたしなんか大人はここに来ちゃ駄目でしょ?」
女性が再び目を建物にやると、入口には「児童相談所」の看板が出ている。
「いいえ。あなたはお困りでしょう。ここは児童だけの相談を受けつける訳ではないですよ。あなたも子どもとして、困っていることがあるのですね。相談は誰でも聞きますので、ちょっと中でききましょうか?」
「上野君、三十分程遅れると伝えておいてくれる」
上野と呼ばれた先程の青年は、沙羅の行動に何も言えずに建物へと入っていく二人を見送った。
「良く来てくれました。もっと早く相談してもらえると良かったのに。本当に今まで大変だったわね。よく、我慢してきたね。
もう大丈夫だから、今日からはもう家に帰らなくていいから。
そんな父親やお兄さんなんかはあなたの大切な家族ではない。あなたを苦しめる人が家族なんておかしいでしょ。家族とは苦しみから助け合い、和らげることが出来る存在であるはずなの。あなたは、本当に今までよく我慢してきたわね。
でも、あなたの我慢は二人のためではないの。二人はあなたに犯した罪によって裁かれなければならない。そして、あなたは今すぐその苦しみから逃れ、立ち直っていかなければならないのよ。その一歩目が今日ここで踏み出せたのよ。
本当に、よく来てくれたわね」
沙羅はそう言うと泣き出す女性を優しく抱きしめた。



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