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1日目
⑦
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今回のプログラムでは炭水化物をオートミールでとることになっているようだった。彼女はどうにか食べられるおかずのみ胃に入れてスムージーも嫌々飲み干して今に至る。
惨めな気持ちが一気に喉元までせり上がってきた。今までは空腹で機嫌が悪くなる人種というものを理解できずにいたが、今ならばその理屈が痛いほど分かる。あれは本能的なものであり、人間として誰しも持っている基本的な危険信号なのだろう。
このままで腹を空かせた怪獣のように暴れかねない。彼女は手すりから身を離した。まだ理性の残っている間に水で胃袋を埋めてこなければならない。それしか今夜を乗り越える手立てはないのだ。
「スバルさん、息抜きに来たんですよね。色々と話し込んじゃってごめんなさい」
「息抜きというか、実はちょっと悪いことをしようと思って」
彼はニヤリと笑う。そしてどこからともなく取り出したのは銀色のパッケージに包まれたよくある栄養補助食品だった。
「僕もここのご飯だと食べた気がしなくて。それにほら、ダイエット食品なんて食べたことがないから、万が一にも口に合わなかったら大変だと思って、ひもじい思いはしたくないからってこっそり持ってきたんです。よかったらカメちゃんもどうですか?」
ああ、惨めだ、と彼女は思った。目の前に食べ物を差し出されただけで視線が釘付けになり、もう他のことは何も考えられなくなってしまったのだ。佑月は涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。これはようやく空腹が満たされることへの安堵なのか、獣じみた本能まで追い詰められた惨めさなのか、あるいはただ彼の優しさが嬉しかっただけなのか、彼女には判別がつかなかった。
「いいんですか?」
佑月はすぐにでも手を伸ばしたい衝動を抑えて、なるべく声色に驚きと戸惑いを乗せてそう言った。スバルはにこやかに──あるいは彼女の醜い衝動を見て見ぬふりをして──頷いた。
「うん、たくさん持ってきてますから。どうぞ」
差し出されたものを彼女を恐る恐る──何も悟られないように精一杯の演技だった──手に取った。
本能に支配されかけている哀れな人間だと悟られないようにゆっくりと包装を破る。一方スバルはさっさと中身を出して噛り付いていた。
「これはこれで『食事』という感じはしませんけど、あれに比べたら随分とましですよね」
彼女は一口齧る。固い、しっとりとした、ドライフルーツの香りがする、ほのかに甘いスティック。オートミールと何が違うのだろう。しかし彼女は救われた。ようやくまともな食事にありつけたのだ。涙がこぼれそうになるのを彼女はぐっと堪えた。それをごまかすように彼女は二口目に噛みつく。彼もまた黙って食べ進めていった。二人の間には沈黙が満ちたが、居心地の悪さは感じなかった。
「ありがとうございます。すごく美味しい。でもどうやって持ち込んだんですか?」
ようやく人間性を取り戻した佑月は取り繕うようにそう言った。
持ち込んだ荷物は着替えなど以外は没収──講師たちは「管理」だと言っていた──されるのだ。手元に残しておく荷物も彼女たちのチェックで合格を得なければ持ち込めない。「あーちゃん」は化粧水のほとんどが没収されたことを不満げにぼやいていた。服は全員お揃いのヨガウェアであり、佑月も持ち込んだ鞄にはタオルと下着しか入っていない。
「さすがに人の下着までは暴かないかなって」
スバルは悪戯っぽく笑った。
「実は色々と隠し持ってるんです、下着に包んで──あ、そういうの嫌じゃなかった?」
全然、と言って佑月は笑った。講師はどちらも女性だ。同性の荷物は手を入れることはなかったものの、じろりと覗き込んでくることに、まるで服の上から透けている下着を覗かれているような気がしてひどく嫌悪感を抱いた。「あーちゃん」はそこで異物を探知されて化粧水を奪われたらしい。確かに異性の下着ならばそこまで暴くことはしなかったのだろう。
「カメちゃんさえよければ明日も持ってこようか」
「え、悪いですよそんなの」
人の持ち物を消費することに抵抗があった。何よりも断食のために来ているのにこそこそと食べ物をむさぼっているということにも若干の罪悪感があった。どうやら腹が満たされることで本当に人間としての理性が戻ってきたらしい。自分の単純さに笑いがこみ上げてきそうになったが、佑月はどうにか笑いをこらえた。
「僕はね、食べることにはそんなに興味はないですが、だからといってお腹に溜まればなんでもいいって訳じゃないんです。ここの食事なんて、質素であるなら構わないけどそういうものじゃないでしょう? 体に合わないのは大問題ですよ」
スバルが自信たっぷりに言うものだから、佑月もそういうものかと納得しはじめた。
断食プログラムに参加した目的の一つに「健康になること」は当然含まれるのである。吐き気を我慢してまで摂取する食事が果たして健康かどうか。スバルの力強い言葉に彼女はいくらか楽な気持ちで最後のひとかけらを口に入れた。
惨めな気持ちが一気に喉元までせり上がってきた。今までは空腹で機嫌が悪くなる人種というものを理解できずにいたが、今ならばその理屈が痛いほど分かる。あれは本能的なものであり、人間として誰しも持っている基本的な危険信号なのだろう。
このままで腹を空かせた怪獣のように暴れかねない。彼女は手すりから身を離した。まだ理性の残っている間に水で胃袋を埋めてこなければならない。それしか今夜を乗り越える手立てはないのだ。
「スバルさん、息抜きに来たんですよね。色々と話し込んじゃってごめんなさい」
「息抜きというか、実はちょっと悪いことをしようと思って」
彼はニヤリと笑う。そしてどこからともなく取り出したのは銀色のパッケージに包まれたよくある栄養補助食品だった。
「僕もここのご飯だと食べた気がしなくて。それにほら、ダイエット食品なんて食べたことがないから、万が一にも口に合わなかったら大変だと思って、ひもじい思いはしたくないからってこっそり持ってきたんです。よかったらカメちゃんもどうですか?」
ああ、惨めだ、と彼女は思った。目の前に食べ物を差し出されただけで視線が釘付けになり、もう他のことは何も考えられなくなってしまったのだ。佑月は涙が溢れそうになるのをぐっと堪えた。これはようやく空腹が満たされることへの安堵なのか、獣じみた本能まで追い詰められた惨めさなのか、あるいはただ彼の優しさが嬉しかっただけなのか、彼女には判別がつかなかった。
「いいんですか?」
佑月はすぐにでも手を伸ばしたい衝動を抑えて、なるべく声色に驚きと戸惑いを乗せてそう言った。スバルはにこやかに──あるいは彼女の醜い衝動を見て見ぬふりをして──頷いた。
「うん、たくさん持ってきてますから。どうぞ」
差し出されたものを彼女を恐る恐る──何も悟られないように精一杯の演技だった──手に取った。
本能に支配されかけている哀れな人間だと悟られないようにゆっくりと包装を破る。一方スバルはさっさと中身を出して噛り付いていた。
「これはこれで『食事』という感じはしませんけど、あれに比べたら随分とましですよね」
彼女は一口齧る。固い、しっとりとした、ドライフルーツの香りがする、ほのかに甘いスティック。オートミールと何が違うのだろう。しかし彼女は救われた。ようやくまともな食事にありつけたのだ。涙がこぼれそうになるのを彼女はぐっと堪えた。それをごまかすように彼女は二口目に噛みつく。彼もまた黙って食べ進めていった。二人の間には沈黙が満ちたが、居心地の悪さは感じなかった。
「ありがとうございます。すごく美味しい。でもどうやって持ち込んだんですか?」
ようやく人間性を取り戻した佑月は取り繕うようにそう言った。
持ち込んだ荷物は着替えなど以外は没収──講師たちは「管理」だと言っていた──されるのだ。手元に残しておく荷物も彼女たちのチェックで合格を得なければ持ち込めない。「あーちゃん」は化粧水のほとんどが没収されたことを不満げにぼやいていた。服は全員お揃いのヨガウェアであり、佑月も持ち込んだ鞄にはタオルと下着しか入っていない。
「さすがに人の下着までは暴かないかなって」
スバルは悪戯っぽく笑った。
「実は色々と隠し持ってるんです、下着に包んで──あ、そういうの嫌じゃなかった?」
全然、と言って佑月は笑った。講師はどちらも女性だ。同性の荷物は手を入れることはなかったものの、じろりと覗き込んでくることに、まるで服の上から透けている下着を覗かれているような気がしてひどく嫌悪感を抱いた。「あーちゃん」はそこで異物を探知されて化粧水を奪われたらしい。確かに異性の下着ならばそこまで暴くことはしなかったのだろう。
「カメちゃんさえよければ明日も持ってこようか」
「え、悪いですよそんなの」
人の持ち物を消費することに抵抗があった。何よりも断食のために来ているのにこそこそと食べ物をむさぼっているということにも若干の罪悪感があった。どうやら腹が満たされることで本当に人間としての理性が戻ってきたらしい。自分の単純さに笑いがこみ上げてきそうになったが、佑月はどうにか笑いをこらえた。
「僕はね、食べることにはそんなに興味はないですが、だからといってお腹に溜まればなんでもいいって訳じゃないんです。ここの食事なんて、質素であるなら構わないけどそういうものじゃないでしょう? 体に合わないのは大問題ですよ」
スバルが自信たっぷりに言うものだから、佑月もそういうものかと納得しはじめた。
断食プログラムに参加した目的の一つに「健康になること」は当然含まれるのである。吐き気を我慢してまで摂取する食事が果たして健康かどうか。スバルの力強い言葉に彼女はいくらか楽な気持ちで最後のひとかけらを口に入れた。
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