公立探偵ホムラ

サツキユキオ

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公立探偵ホムラ

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 大学卒業までは順調だった、と彼は回想する。
 彼は在学中に飲食店でアルバイトを始めた。金に困っていたから、というよりも周りに流されて始めた形だ。彼は飽き性であったが珍しく長く続けていた。それなりに楽しかったのだ。
「卒業後はどうするの?」
 店長にそう聞かれても彼ははっきりとした答えを出せなかった。
「あんまり考えてないんです。やりたいことも特にないし」
 学校には何となくで通えるが、働くとなるとそうはいかないだろう。彼は自身の飽き性が心配であった。どうせ勤めてもすぐにやめるだろう、という確信めいたものがある。そう思うと働く意欲がいまいち沸かなかった。
「じゃあ折角だから、このままここで働かない?」
 次のステップへ気持ちが定まらない彼にとって、店長の言葉は渡りに船であった。
「いいんですか?」
「君は働きぶりも真面目だし、何より人がいい。良かったらこのまま続けて欲しいと思ってね」
 店長の言葉に彼は気を良くした。平凡な人生において誉められることはそうそうないのである。必要とされているという事実は生きる気力になる。彼は店長からの誘いを快諾した。ただただ幸運に感謝した。
 彼には特に夢などなく、適当に働いて適当に暮らしていければそれで良かった。バイト仲間や同僚は皆面白い奴ばかり、店長も頼れる大人であった。仕事は決して楽とは言えないが、辛いことなどあっても一晩寝れば忘れてしまう程度である。彼の平凡で変化のない日々は楽しかったのだ。
 転機が訪れたのは働き始めて二年目の人事異動。店長が替わったのだ。すると全てが変わってしまった。何となく生きてきた彼にとって初めての試練が訪れたと言えよう。
 その男は疫病神であった。誰彼構わず怒鳴りつけるのである。いい歳をして浅はかな人間性がにじみ出ていた。
「なんでそんなことも分からないんだ」
「ちゃんと考えてやってるのか」
「お前のやったことは時間の無駄だ」
「役立たずめ」
 罵る言葉に中身は全くなかった。男は不機嫌をぶつけたいだけである。
 彼はもちろんその男が嫌いであった。幼稚さを見抜く同僚は愚痴をこぼし、言葉をかわしきれない後輩たちの心はすり切れていった。あれほど居心地のいい仕事場だったのに、もはや地獄と言っても過言ではなかった。
 彼の平凡な日常は消え去った。朝起きる度に胃が締め付けられるようになった。またあの男に会わなければならないのかと思うと気分は憂鬱である。
 男の登場によりたった一週間で彼の身体は異常をきたした。肩から全身にかけて倦怠感が襲う。頭も上手く回らなくなった。いつしかそんな異常が通常になるくらい彼は耐え続けた。
 運の悪いことに彼には真面目さと少し八方美人の気がある。人の話を曖昧に相槌を打ちながら聞いているふりをするのが得意だ。そのせいで上司とその他との緩衝材にされていた。
「お前は連中と違って俺の話をちゃんと聞くな。そういうやつは伸びるぞ!」
 声ばかり大きい上司の話は、曖昧に笑って頷いてやれば良かった。よほど普段から話を聞いてくれる人がいないらしく、男に捕まると二時間も三時間も潰れてしまった。話を聞き流すだけなのに動き回るよりもはるかに疲労がたまる。家に帰ると疲れて動けなくなるほどだ。
「何あいつ」
「さっさと辞めればいいのに」
「もう限界だ」
 片や同僚の愚痴も彼に流れ込んでくる。ただ黙って聞き役に徹する彼は愚痴のはけ口として最適だった。
 ところが不思議と彼が愚痴を言うことはなかった。そんな気力もなかったのだろう。ただ話を聞き流し、仕事を淡々とこなす日々であった。最早感情の起伏は失われた。
 そして店長が替わって二か月後、彼は仕事を辞めた。最も信頼していた同僚が辞めると言ったのがきっかけである。そのとき彼は初めて恐怖を覚えた。こんな場所に自分一人取り残されてはたまらない。ようやく目が覚めたのだ。
 そこからは早かった。彼が辞めると聞けばその他の仲間も黙っていない。結局意趣返しとして示し合わせて一斉に辞めてやることにした。部下のほとんどがやめてしまうと知ったときの店長の顔は見物であった。男はあんなにうるさかった口を金魚のようににぱくぱくとさせるばかり、ついに乱暴な言葉は何一つ出てこなかった。その後の飲み会では誰も彼もが久し振りに心から笑った。
「君はこれからどうするの?」
 仲間にこう言われても彼は曖昧に首を傾げることしかできなかった。目の前の障害を取り除くことしか眼中になく、これからのことなど全く考えていなかった。
 その人はすでに次の仕事を見つけていた。一緒に来ないかと誘ってくれるのだ。 
 しかし正直なところ、すぐに次の仕事に就いている自分が想像できない。働くとなるとまたあんな人間のいる場所に行かなければならないのだ。彼はうんざりしていた。幸い少しばかり蓄えがある。しばらくはだらだらと過ごそうと彼は暢気に構えていた。
「もう少し、考えてみます」
 彼はへらりと笑ってそう答えた。

  
 *

 公立探偵というものがいた。警察などの公的機関と協力し犯罪調査を行うことができる。これは単に「探偵が事件に首を突っ込む」というものではなく、警察と同等の権限を以て捜査をする事を可能にしたものであった。警察庁内には「探偵課」が設置され、ある一定の要件を満たした事件には彼らが投入されるのだ。昨今の犯罪の複雑さや難解さから事件の迷宮入りを防ぐ目的で導入されたシステムである。ちなみに公立探偵になるには様々な難関試験を突破しなければならず、狭き門である。
 もちろん探偵であることに変わりないので一般人からの依頼も受けることができる。まだ世間の認知度は低いが、大手企業では顧問弁護士と同様に顧問探偵を持っているところもある。公立探偵が社会に与える影響は少なくないと言えよう。
 そんな公立探偵の一人、穂村は正午きっかりに事務所を出た。軽快な足取りで階段を下りる。甘い香ばしさが青年の腹を刺激する。毎日のことだが不思議と飽きないものだ。彼はこの香りに毎回上機嫌になる。
 彼は一階のパン屋の扉を開けた。カランカラン、と鐘が鳴る。彼はこの音が好きで自身の事務所の入り口にも同じものを付けたくらいだ。
「いらっしゃい、所長さん」
 レジ台から顔を上げるふくよかな女性はここのおかみさんである。同時に振り返る客の青年には見覚えがなかった。常連客ではない。会計は終わっているようで青年は紙袋を抱えている。何故だか穴が空くほど穂村を見ていた。
 穂村はそれに軽く微笑んで会釈を返した。見つめられるのはよくあることだ。あとはいつものようにサンドイッチを注文するだけである。常連特権で出来立てを買うことができるのだ。
「ちょうど良かったわ、所長さん。今あんたの話をしていたの」
 彼女はにこにこと笑いながら手際よくサンドイッチを包む。青年は依然として穂村を見つめている。彼はあえて視線を無視した。青年の興味を煽るためであった。
「探偵事務所ってどんな感じですかって聞くからね。所長さんがお昼を買いにそろそろ来るよって言ってたのよ」
「……まさかこんなに若い人だとは思いませんでした」
 青年が呟く。穂村はここでようやく彼と顔を合わせた。探偵事務所の所長、と聞いて髭の生えた壮年の男性でも思い浮かべていたのだろう。まじまじと見つめて同年代の男だと確認している。穂村は自信満々に笑って見せた。
「自慢するわけではないけど、この歳で独立したのは僕くらいだろうね」
 その瞬間彼の目が輝く。
「じゃあ、何でも相談に乗ってくれますか?」
 青年はすがるように穂村に迫った。
 穂村は彼を観察した。どこにでもいそうな、ごく普通の男である。それは顔の造形であったり服装であったり、とにかく全てにおいてこの青年は平均的であった。今も何かに困っていそうな顔ではあるが、そこに人並み以上の深刻さは伺えない。唯一特筆すべきは背の高さだろうか。平凡、と言えば聞こえは悪いかもしれないが、つまり彼はどこまでも善人であった。
 一方穂村は自分の顔、立ち位置を正しく理解していた。野暮ったい眼鏡をかけているものの、人に不快感を与えない顔をしている。さらにスマートな態度と正しい微笑みさえできれば老若男女問わず穂村に好感を持つのだ。
「ホムラ公立探偵事務所の所長、穂村です。よろしく」
 低めの声でゆっくりと話しかける。そして笑顔で握手を求めると青年も安心したような顔で手を差し出す。
 平凡な青年は渡辺と名乗った。どうしても相談したいことがあると言うので、昼食を食べながら話を聞くことにした。
 穂村は青年を事務所に通した。彼は珍しそうに部屋を見渡す。小さな事務所であるが資料の数は他の事務所に引けを取らない。壁一面が本で覆われている光景に渡辺は「目眩がする」と素直な感想を述べた。
 小さな接客スペースに二人は向かい合って座る。穂村はお決まりの卵サンド。渡辺は焼きそばパンだ。この青年は友人の家にでも来ているかのような気軽さで焼きそばパンにかぶりつく。そちらがその気ならと穂村もサンドイッチに噛みついた。表面を軽く焼いてあるためサクッとしたパンの食感とたっぷりの卵の柔らかさが癖になる。
「ついさっきのことなんですけど」
 パンを頬張りながら彼は話し出す。渡辺は童顔の部類に入る。まるで親戚の高校生が目の前にいるかのような錯覚を穂村は覚えた。
「職業案内所に行ったんです。前の仕事辞めちゃったんで。で、そこを出たときに声をかけられたんです」
 渡辺に声をかけたのは五十代くらいの、きっかりとスーツを着た男性だったそうだ。職業案内所から出てきたのだから仕事を探しているのだろう、と話しかけてくるのだ。この時点で渡辺はぎょっとした。あまりに不躾である。彼にとってこれは非常にデリケートな問題であった。どう答えたものかと考えあぐねていると男はさらに言う。良ければ頼みたい仕事がある、話だけでも聞いて欲しいと。
 こんな怪しいことはない、と分かってはいるのだ。明らかに正規の仕事ではない。見ず知らずの、いかにも仕事に困っていそうな人間を狙ってやっているのだろうと渡辺は思った。しかし男性は恰幅もよく表情もにこやかであった。害があるようには見えない。
「なんだかちぐはぐだね」
「そうなんです! いかにも怪しい奴なら絶対について行きませんよ! でもどこかの社長さんみたいな雰囲気の人だったんでよっぽど困っているのかと思って……」
「話を聞いてしまった、と」
 喫茶店で話をしないか、との誘いに渡辺はつい頷いてしまった。職がなく生活を切り詰めていた彼である。食事を奢ってあげると言われればついて行くしかあるまい。
「内容が、簡単に言えば住み込みの家庭教師の仕事でした。ところが色々と条件があって」
 男性は太田と名乗った。名刺にもそう書かれていた。肩書きはある企業の常務取締役である。やはり見た目通りの身分を持っているのだと渡辺は納得し、少し安心した。
 太田氏は郊外に住んでおり、妻と十歳になる息子の三人暮らしである。頼みたい仕事は息子、勉強を見ること。これは宿題や勉強をきちんとやるか見ているだけで良く、何も難しいことはないと男は言った。
 ただし住み込みで働くというのが前提条件であった。家が郊外にあり近くに駅やバス停がないことから通勤だとあまりにも負担が大きい。また日中一人きりになってしまう妻にとっても、近くに男手があれば安心だろうという理由である。
「それ以外にも細かく言われたんですよ。髪の毛をちょっと明るい茶色に染める。服装は用意したものを着る」
「制服でもあるのかい?」
 穂村は家庭教師に制服があるのかと驚いた。ところがそうではないらしい。
 太田曰く、彼の妻は少々神経質なところがあるそうだ。普段の身なりに関して細かく口を出さない代わりに週に一度、ある決まった日には彼女が用意した服を着てもらいたいと言うことだ。
「その日は太田家と一緒に食事をする日なんです。特別な日だから服装も奥さんの機嫌を損ねないように言う通りにしてくれって」
 一見奇妙な約束事ばかりである。しかし決して非常識なものではない。共同生活を送る上でのルールだと言われてしまえば納得できる。家庭の数だけそれぞれの慣習があるのだ。
「一番の問題は給料でして」
「とんでもなく安いのかな」
「それがべらぼうに高いんですよ! 月に五十万もくれるって話なんです」
 男の話をどこか他人事のように聞いていた渡辺はその金額を聞き目が覚めた。これは間違いなく詐欺である。子供の勉強を見るだけでこれほどの金額は出ないはずだ。失礼します、と叫んで彼は慌てて立ち上がった。
 ところが、太田氏は落ち着き払って笑っているだけである。周囲の視線も渡辺に注がれていた。逃げなければと思う。しかし太田氏が言うのだ、まあ座りなさいと。宥めるような静かな声色であった。渡辺には命令されているように聞こえた。男の目も彼をしっかりとらえていた。こんな美味しい話を逃す手はあるのか、と言っているようであった。
 男に気圧されてしまったのだ。彼は為すすべもなく再び席に着いたのであった。
「どうにも帰してくれそうになかったので向こうの気が済むまで話を聞くことにしたんです」
 もう大変でした、と渡辺はため息をつく。太田氏は彼が働きに来る前提で話を続けた。勤務開始はなるべくすぐが好ましいということ。できる限り長く、一年以上は働いてほしいということ。もしも給料に不満があるならさらに高額で雇うことも可能であるということ。田舎暮らしは退屈だろうからなんでも好きな習い事をさせるということ。もちろん月謝や交通費は太田氏が出すのだ。
 数々の魅力的な条件の前に彼を不安にさせた細かなルールは霞んでゆく。
 穂村は話を聞き終わると笑い声にも似たため息をもらした。会って数分ではあるが、なんともこの青年らしい話だと思ったのだ。
「相談に来ると言うことは、結局断れなかったんだね」
「……正直なところ迷っています」
 月に五十万円もらえるのである。しかも奇妙なルールさえ守れば衣食住が保証されるのである。渡辺にとっては非常に魅力的な話だろう。
「まあ、おすすめはしないね」
 穂村は食後のコーヒーを飲む。安いインスタントでも格好は付く。渡辺はコーヒーが飲めないのか猫舌なのか、全く手を付けずに困った顔をしている。
「やっぱりそうですよね」
「君も分かっているんだろう」
「……それでもお金は欲しいですよ」
 穂村は見抜いていた。この青年は太田氏の申し出を受けるのだろう。
 仕方のないことだった。彼にとってはこれ以上ない夢のような話なのだ。他により魅力的な仕事を差し出さない限り彼は太田氏の誘いを逃れることができないだろう。
 穂村はわざとらしくため息をついてみせた。
「正直なところ君がどういう決断をしようと僕には止めることができない。おすすめできないよ、ということしか言えない」
 そうですよね、と渡辺は肩を落とす。
 しかし、と穂村は言葉を続けた。
「もし君がそのいかにも怪しげな仕事を受けようと言うなら、サポートくらいはしてあげるよ。こうして折角相談に来てくれたんだ。そのくらいのことはさせてもらおう」
 渡辺はぱっと顔を上げた。先ほどまでとは違う、若者らしい生き生きとした顔になった。素直な青年だと笑いながら穂村は名刺を渡す。『公立ホムラ探偵事務所』と書かれたそれを渡辺は大事そうに受け取った。
「何かあったらここに電報を打ってくれ。すぐに駆けつけてあげるよ」
「ありがとうございます!」
 青年は安堵の表情を見せた。彼は感情がすぐに表に出てしまう、なんとも純朴な青年なのだろう。穂村は次第に、まるで出来の悪い弟を心配するような気持ちになっていった。
「何か些細なことでも、違和感があればすぐに連絡するんだよ。もしかしたらわずかな逡巡で君は命を落とすことになるかもしれないんだからね」
 穂村がそう念を押すと、渡辺は何度も頷いた。
 太田氏の名刺のコピーや住む場所などを細かく確認してから穂村は彼を帰した。
「こんな話を聞いて、どうしたらいいか迷っていたんです。お金は欲しいけど怪しさ満点だし、誰かに相談すれば『やめろ』って言われるのは目に見えていたし。そんなときに探偵事務所の看板を見つけて、あのパン屋に入ったんです」
「君は幸運だよ、渡辺くん」
 穂村は青年の背中を叩いてやった。
「君は数ある探偵事務所からこの僕を選んだ。それは間違いなく正しい選択だったよ」
 渡辺は穂村の自信満々な様子に笑いながらも嬉しそうに頷いた。

  
 *

 梅雨の合間の蒸すような心地の悪い風。それは曇天とともに彼を暗い気持ちにさせた。
 次の働き口を探すのは骨が折れた。金が尽きたから嫌々探しているだけで、本当は働きたくなどなかった。まだ怖いのだ。新たな人間関係を築くのが恐ろしくてたまらない。今まで平気でやってきたことが苦痛であった。再びあの自分勝手な人間のいる場所に放り込まれて顔色を窺いながら生活しなければならないのか。苦痛であった数ヶ月は彼の心に深い傷を残していたのだ。
 そんなときである。彼は道ばたで声をかけられた。
「仕事探してるの?」
「ええ、まあ」
「どんな職種とか、決まってるの?」
「いいえ、特には」
「じゃあ、丁度今人を募集している仕事があるんだけどやってみない? とりあえず話だけでもどう?」
 当然驚き警戒した。彼は首を振って断ったのだ。ところが男は人の良さそうな笑みをたたえ、言葉巧みに彼を誘い込む。気がつけば彼は面と向かって男の話を聞く羽目になっていた。
「コーヒー飲める?」
「ええ、はい」
「じゃあインスタントだけど、どうぞ」
 ぬるくて味の薄いコーヒーであった。彼は黙ってそれを飲むしかない。
 男の話は驚くようなことばかりである。決して初心者に務まるような仕事だとは思えなかった。しかしそれに自分が選ばれた、ということに不思議と悪い気はしなかった。大金が入るなら何でも良かった。少し自暴自棄になっていたのかもしれない。
「君は顔もいいからね。なんて言うか、すごく普通なんだけど、嫌な感じがしないんだ。上手くいくと思うよ」
 顔がいい、というのは言い過ぎだと思った。可もなく不可もなく、それが彼に対する一般的な評価である。
 男は頼みたいという仕事の、恐らく良いところばかり彼に伝えた。難しそうに思えるかもしれないがごく簡単であるということ。短期間で済むので割が良く、一回でしばらく暮らす分には十分な金が稼げるということ。また継続して仕事を頼むかもしれないが、もちろん断っても構わないということ。
「君だって他にやりたいことが見つかるかもしれないからね。とりあえず一回頼まれてくれればそれでいいよ」
 男はにこにこと笑って話をする。彼にはだんだんその顔が恐ろしいものに見えてきた。暗く底の深い地獄の穴から手招きをしているような、そんな恐ろしさであった。
「……断ってもいいんですか」
 彼はここでようやく怖気づいた。男は笑みをたたえながら首をかしげる。
「断ってもらってもいいけど、また勧誘に行くよ。住所はさっき教えてもらったし。俺、人の顔覚えるの得意だしね」
 彼の怯えを感じ取った男はさらに話を続ける。フォローは万全、何かあっても君のせいにはしないからと言う。
 はっきりと危険だと分かっていても彼には断るという選択肢がなかった。心が磨耗していたのだろう。とにかく金が欲しかった。金さえあればもう少しゆっくりできる。何もしないで済む。たった一度頑張れば、大金が手に入る。
 彼は顔を上げた。ずるずると楽な方へ、地獄の穴へと近づいていくのであった。

  
 *
 
 探偵穂村の後ろ盾を得た渡辺は鬼に金棒といった心境であった。何かあっても助けてくれる、という安心感がある。彼は希望に胸を膨らませてI駅へ向かった。
 待ち合わせ場所であるI駅は市街地から列車、しかも特急で一時間かかる。車窓からの風景はビル群からあっという間に緑一色に変わった。時折だだっ広い駐車場と小さなコンビニを見かけると、親近感よりも寂寥感を強く感じる。太田氏には駅からさらに車での移動だと言われていた。どれほどの田舎に連れて行かれるのだろうと渡辺は途方に暮れた。
 I駅は比較的大きな駅である。だからといって期待してはいけない。駅の周りはのどかな、もっと言えば何もない場所であった。
 駅の目の前には商店街がある。入り口の「ようこそ!」と書かれた看板は塗装が剥がれ落ちていた。描かれていたキャラクターは目玉の白ばかりはっきりと残っている。昼間見てもどこか不気味だ。その看板に続くアーケード街も大半が錆びたシャッターを下ろしている。もう昼だというのに、人通りどころか車もほとんど通らない。
 出発前の明るい展望はどこへやら。駅に降り立った途端に渡辺は不安に襲われた。危なくなったら逃げればいい、と安易に考えていたのは間違いだったと思い知る。逃げると言っても「足」がなければどうしようもない。駅の周りでさえこんなに閑散としているのだ。太田邸の周辺はタクシーどころか車すらほとんど通らないのだろう。
「渡辺さん、遅くなってしまって申し訳ない」
 ベンチでぽつんと待っていた彼に声がかかる。駐車場の方から歩いてくるのはスーツ姿の太田氏である。渡辺が本当に来ていたことに安心したのか、満面の笑みである。
「あっちに車を待たせているんだ。昼食をとってから家に案内しましょう」
 太田氏は親しげに肩に手を回す。大きな手でがっしりと掴まれる。いくら若さで勝っているとはいえこの体格が相手では喧嘩しても勝てないだろう、と渡辺はすぐに察知した。敗者は大人しく従うしかない。渡辺もできる限りにこにこと好意的に振る舞った。
 渡辺の警戒に反して太田氏は終始にこやかであった。運転手付きの車に乗り田舎道を走る。
「こんな田舎で驚いたでしょう」
 太田氏が笑う。渡辺も曖昧に頷いた。まさかこれほどまでに畑と農道ばかりの場所だとは思わなかったのである。
 食事は意外なことに町のありふれた定食屋で済ませた。見た目に反して庶民的なのかもしれない、と渡辺の中で好感度が上がる。彼は単純な男であった。
 太田氏は渡辺を不安にさせないようにだろうか、I市の良さを語った。
「ここは確かに市街地からは随分遠く不便な思いもします。しかし、月並みな言葉ですが自然が多いところが魅力的ですね。緑が近くにあるだけで不思議と心が安らぐんですよ」
 太田氏は話が上手かった。飽きっぽい渡辺でも思わず聞き役に徹してしまうほどだ。太田の低い声と緩急のある話し方に渡辺はすっかり魅了されてしまい、食事を終える頃には警戒心など微塵もなくなっていた。
「前も申しましたように、妻が少々神経質でしてね。街に住んでいると何かと気を揉むことが多かったのでこちらに越してきたんです」
「通勤が大変じゃありませんか?」
「車を使えば苦にはなりませんよ。それにいつまでも上の立場の者が出しゃばってはいけませんからね。あまり仕事をしないようにしているのですよ」
 話を聞けば聞くほど太田氏に怪しいところはないような気がした。いつしか渡辺はとてもリラックスして彼の話を聞いていた。
 定食屋から車で二十分ほど走ると畑ばかりの景色の中に突然赤い屋根の家が現れた。
「とうとう着きましたな。ここが我が家です」
 太田氏が得意げに言う。粘土質の土と背の低い木々の中に広く土地が取られており、その真ん中に佇むそれは場違いなほど西洋的な建物であった。左右対称の真っ白な壁にルーフバルコニーが良く映える。何より目を引くのは赤い屋根であった。どこかおとぎ話のように非現実的であった。
 太田邸はあまりにも大きい。三人暮らしにしては広すぎる印象である。建物の陰にはさらに建物があった。そちらは対照的に古い小さな平屋である。車から降りると太田氏はまずそちらに彼を案内した。
「渡辺さんは、申し訳ないが寝泊まりはこちらでしてもらうことになります。見た目は古いが中はきちんと住みやすいようになっているので、他に要望があれば遠慮なく言ってください」
 まるで渡辺が主人であるかのように太田氏はとても丁寧に話をする。豪邸の主人にそんなことをされては居心地が悪くて仕方がなかった。
 豪邸の方には夕食の時、全員が揃ってからということであった。平家はごく普通の、想像通りの家であった。太田氏はこの家ごと土地を買い取ったという。畑を潰して家を建て、この平屋も残したのだ。
「ゲストハウスに改装しようと思っていたのですが、なかなか遊びに来る友人もいないのでそのままにしてあるのですよ」
 そのまま、というのは比喩でも何でもなかった。食器棚や机は前の住人のものが手つかずで残されている。壁についたポスターの跡や掃除してもなお残る煤けた色。渡辺は親戚の家に来たかのような安心感を覚えた。
 夕食のときに迎えに来ると言って太田氏は屋敷に戻っていった。渡辺は畳に座ってようやく一息つく。そして鞄の中から名刺を取り出した。穂村の名前が書かれたそれを見つめた。これを使うときが来るのかどうか彼には分からなかった。
 午後七時、渡辺は太田邸に招かれた。中は思った以上に日本的であった。
 玄関で靴は脱ぐ。骨董品も壷や木彫りの何かが無秩序に置かれているだけだ。室内の装飾は紛れもなく洋館のそれなのに、内装はどこまでも日本のものである。ちぐはぐなところが安っぽく見えた。
 リビングに通されるとすでに太田夫人と息子のユウキが待っていた。
 太田夫人は想像していた以上に気むずかしそうな女性であった。首や頬が細く痩せこけていて病的である。四十代であろうか、太田氏とは歳が離れているようであった。もしかしたら見た目よりはるかに若いのかもしれない。堅く閉じた薄い唇とまるで感情の映らない細い目は彼女を昔話の意地悪な老婆のように見せていた。
「初めまして、渡辺です。今日からよろしくお願いします」
 彼は努めてにこやかに挨拶をした。太田氏もフォローするように言葉を足してくれる。それでも彼女は眉一つ動かさず、「ああ、そう」と言うだけであった。目も合わせないのだ。太田は妻のこの性格を承知している様子で、渡辺に申し訳ないと言うように目配せをする。
 一方息子のユウキは太田氏に似ているようであった。渡辺にもにこにこと笑いかける。
「ワタナベ先生、初めまして!」
 はきはきとした挨拶は彼の心を潤した。渡辺も自然と笑顔になる。
「先生なんて大層なものじゃないよ」
「じゃあワタナベさん、って呼んだらいいかな。よろしくね、ワタナベさん!」
 人懐っこく話しかけられて渡辺も悪い気がしない。
 しかしそれは表面的であった。話している間に気がついてしまい、渡辺はぎくりとした。目が笑っていないのだ。
 渡辺が太田氏と話しているとき、ふと少年からの視線を感じるのだ。それは芯まで射抜くような、冷たく無機質な視線であった。子供の興味が向けられているのではない。敵か味方か判断しかねているような機械的なものであった。
 警戒されるのは理解できる。渡辺が恐れているのはそこではない。ユウキは渡辺や両親と話しているときはにこにこと笑っているのだ。子供らしく無邪気におどけて笑ってみせる。そんな中時折覗く母親譲りの能面のような顔。ユウキはこの歳にしてきっちりと感情を切り替えているのだ。渡辺はこんな子供を相手にするのかと恐れた。
「これでもう渡辺さんは我が家の一員同然です」
 太田氏は上機嫌であった。酒がどんどん減っていく。
「何かあれば遠慮なく言ってください。一緒に生活するのですからお互い配慮しないといけません。こちらも色々と無理をお願いしていますからね」
 太田氏は大きな声で言った。低く良く通る声が身体の芯を震わせるようであった。
 あの奇妙なルールを守るようにと暗に念を押しているように聞こえてしまい、渡辺は愛想笑いで頷くことしかできない。
 太田邸で過ごす上で守るべき様々なルールは当初から伝えられていたが他にも細々としたものがあった。
 まず髪型は変えてはいけないということ。また事前に決められた色以外に染めてもいけない。利用する理髪店も決まっていた。
「男の髪は長くてはいけません。みっともないだけです」
 太田氏は熱弁する。その割に求められた髪の色は明るい茶色である。何かそれぞれの譲れない基準があるのだろうと渡辺は深く考えないようにした。
 次に服装である。指示されるのは毎週末の食事会での格好だ。太田家では週末の昼食は庭でとることになっている。それに渡辺も必ず参加しなければならないのだ。
「平日はなかなか話をする時間を取れませんからね。週に一度必ず家族団欒の時間を設けているのです」
「俺がいたら邪魔になりませんか」
「いえいえ、渡辺さんの話も聞きたいので大歓迎ですよ。ユウキのことについてもそのとき話してください」
「それじゃあ僕、悪いことできないね」
 ユウキはおどけて笑った。
 そして太田邸で働く上で最も気を付けて欲しいと言われたことがあった。酔っていたはずの太田氏の表情が固いものになる。下戸なりに酔っていた渡辺も真剣な顔をしてみせる。太田氏は低い声で話し始めた。
「この家――便宜上本邸、と呼びましょう――はご覧のように左右対称の作りになっております。中央はリビングと、上は吹き抜けになっています。東側はユウキやわたし達の部屋があります。夜にはそちらにいるので何かあったら声をかけてください。そして西側には近寄らないでいただきたいのです」
「どうしてですか?」
 言ってから、しまった、と思う。この青年は考えなしにものを言うところがある。渡辺の悪い癖だ。
 案の定太田夫人にぎろりと睨まれた。太田氏も笑ってはいたがどこか呆れたような顔をしていた。
「いやね、西側の二階の床が腐っているんですよ。早く直せばいいのですが、親子三人で暮らす分には東側だけで十分でしてね。どうしても後回しになってしまうんですよ」
 太田はおおらかに笑う。渡辺も合わせて笑った。確かに平屋の改装にも手をつけていないところを見ると、家のメンテナンスに対してどこかずぼらなところがあるのだろう。何ら不自然ではない。
 しかし渡辺は頭の隅でどのタイミングで穂村に電報を打つかをずっと考えていた。
  
 *

 出勤前に必ず、あるいは外出先から戻ってすぐに、事務所の郵便受けをのぞき込むのが穂村の癖になっていた。まるで手紙を待ち望む少女のようなせわしなさであった。今日も今日とて電報は入っていないようであった。
 若き探偵事務所の所長は日々の仕事を淡々とこなしていた。市井の味方でありたいと思う彼に細々とした仕事が舞い込む。ペットが逃げたので探してほしいという依頼は案外難しいものだった。何せ数日もすれば勝手に帰ってくるのだから。
 一方で配偶者の浮気調査はやりがいのある仕事であった。相手の職場や交友関係を調べ上げ、ときには証拠集めのために尾行することもある。
 とは言え探偵の本分である推理欲求はそうそう満たされるものではなかった。それらの合間に勝手に事件を探し出し自分の知的欲求を満たすのだ。
 目下の心配事、もとい興味の矛先はあの迂闊な青年のことである。渡辺がいかにも怪しい仕事を引き受けてから数週間が経っていた。電報は一つも来ない。予想以上に長続きしている、というのが彼の感想である。
 新聞を隅から隅まで見る限り血なまぐさい事件は起こっていないので、あの青年も無事だろうと穂村は考えた。とはいえ何もしない訳ではなかった。彼は用意周到に太田氏について調べ始めていた。
 太田氏のプロフィールや家族構成は探偵であれば簡単に調べがつく。穂村は調査結果を眺め、そこから色々と考えを巡らせる。
「すみません」
 男の声だ。カランカランと鐘の音とともに扉が開く。事務所をのぞき込むのは禿げた小太りの男だ。四十代くらいだろう。白いTシャツははちきれんばかりだ。
「探偵事務所に用があってきたんですけれども」
「仕事のご依頼ですか。どうぞそちらにお掛けください」
 男は田辺と名乗った。人探しを依頼したい、ということであった。 
「甥と連絡が取れなくなってもう二年になります。住んでいるアパートに行っても二年前に解約したらしくて、今では全く所在が掴めないのです」
「警察には届けてありますか?」
「もちろんです! アパートにいないと分かってすぐに届けました。しかし進展はないし、それに最近になって嫌な噂を聞いたもので」
 田辺は小さな目をさらに細めた。
 二年前、ケンジが仕事を辞めたという話をしたきり連絡が取れなくなってしまったのだ。元々頻繁にやりとりをする仲ではなかったが、半年も音沙汰がないと心配である。そこで彼のアパートに行ったところすでに解約していると聞かされたのであった。
 もういい歳なのだから心配しなくても、とは思ったが念のためにと警察に届けた。そして何の連絡もないまま二年が経った先日のことである。田辺は友人から恐ろしい話を聞いたのだ。
「ケンジという名前の若い男がチンピラの事務所に出入りしていたと聞いたんです。歳も背格好も甥と一緒だったので、もしや犯罪に巻き込まれてしまったのではないかと、いても経ってもいられなくなって」
「心中お察しいたします」
 今にも泣きそうな男を穂村は静かに見つめた。
「この探偵穂村が、必ずやケンジさんを見つけてみせますのでご安心ください」
 すると田辺は勢いよく穂村の手を掴んだ。
「お願いします。甥は悪いことができるような男ではないんです。過ちを犯してしまうならまだしも、もし取り返しのつかないことになっていたらと思うと夜も眠れないんです」
 田辺は顔をくしゃくしゃにして語り始めた。彼の甥、ケンジは早くに両親を亡くしている。彼は引き取って育てることはできなかったものの、叔父として気にかけてきたのだ。
 二人は良好な関係を築いていた。何かあればケンジは必ず彼に教えてくれた。それが突然何も言わずに住処を変え、行方不明になってしまった。これは何か良くないことが彼の身に起こったのだろうと考えずにはいられない。悶々と日々を過ごす中で、ケンジが良くない仕事をしていたのではないかという話が耳に入ったのだ。彼はいてもたってもいられなくなって探偵事務所に駆け込んだのである。
 穂村は終始男を宥めていた。無責任なことは言えない。今の穂村にとって話を聞くことが仕事であった。
 ケンジの噂を教えた友人の連絡先を入手したところで穂村は田辺を帰した。
「ではまた一週間後にいらしてください。調査報告をしますので」
 田辺は何度も丁寧にお辞儀をしながら帰って行く。穂村はそれを最後まできちんと見届けた。次に会うときに良い報告ができますように。今の彼はそう願うしかなかった。
 
  
 *

 渡辺の日々は案外平穏なものであった。家庭教師なので生徒がいないと何も始まらない。平日はユウキ少年が学校から帰ってくるまで暇なものである。
 太田家で雇われているのは家庭教師だけではなかった。太田夫人より年上の、五十代後半の女性が家政婦として働いている。月、水、金曜日にやってくる女性であった。彼女もまた愛想が悪く、渡辺と初めて会ったときにはまるで不審者を見るようであった。彼は強い苦手意識を持った。
 渡辺の仕事が始まるのは午後からである。
「ワタナベさん、ただいま!」
 ランドセルを背負ったユウキが玄関から飛び込んでくる。渡辺の家で宿題をしてから遊びに行くのだ。彼の仕事はその監視である。別のテキストを用意する必要もなく、またユウキ自身が優秀であるため教えるべきことはなかった。
 鉛筆が紙をこする音。秒針が時を刻む音。それがやけに耳につく。渡辺は沈黙に耐えられなかった。
「ユウキくんは偉いね」
 ついつい話しかけてしまうのだ。家庭教師というよりもただ邪魔をするだけの存在になっている気がして渡辺は落ち着かない。
 ユウキは顔もあげない。渡辺の葛藤など微塵も感じていないようであった。
「なんで?」
「俺が子供の頃なんて、宿題ろくにしなかったよ」
 宿題を終わらせてから遊びに行くなんてとんでもないことである。遊びたい盛りの小学生にとっては放課後の一分一秒でも惜しいのだ。少なくとも渡辺はそうであった。
 ランドセルを玄関に放り投げて一目散に駆けていく。日が沈むまで走り回って、帰れば母の説教と夕食が待っている。宿題は寝る前に適当に埋めるだけの代物であった。
 ところがユウキは素直に厳格なルールに従っている。宿題や予習で一時間近く拘束されてやっと少年は自由の身である。
 渡辺が家庭教師をする必要はないのではないか、そう言うとユウキはけらけらと笑う。
「ワタナベさんのこと好きだから、僕はいてくれた方が嬉しいよ」
「可愛いこと言いやがって」
 頭を乱暴になで回すと少年は嬉しそうに笑った。ユウキはあっさりと彼に懐いた。渡辺も悪い気がしない。
 拘束されている間少年は嬉々として話をする。クラスの友達の話、先生の話、ときどき好きな子の話。ありふれた年相応の姿があった。
「今日ね、学校で蟻の実験したんだ!」
 ところがユウキの「実験」と言う言葉に渡辺は身構える。
「昆虫ってさ、頭と胴体とお尻で三つに分かれてるでしょ? それぞれ千切ったらどうなるかなって思って。ほら、大きな蟻がいるでしょ。それを捕まえて――」
 知的好奇心というものは決して悪くない。思慮深くなるためには必要なものだ。しかしユウキの場合どこか残虐さをはらんでいる。子供特有の無知から来るものではない。彼は積極的に害しているのだ。
「足がばたばた動くんだよ! 気持ち悪いったらありゃしない! 脳味噌なんてないのにね。どうしてあんなに暴れるんだろう!」
 少年は実験結果をげらげらと笑いながら語るのだ。渡辺は同じように笑うことができなかった。
「あまり、そういうことしない方がいいよ」
「どうして?」
 ぴしゃりと叱ることができればどれほど立派だろうか。ところが渡辺は上手い言葉が思いつかなかった。
「だって誰にも迷惑かけてないよ!」
「それはそうかもしれないけど」
 渡辺は言葉を濁す。
 するとユウキはあっさりと話題を変えた。この点は青年よりも大人かもしれない。
 ユウキのこの残虐さは親の影響もあるのかもしれない、と渡辺は思った。理由は太田氏だ。
 渡辺が雇われて二週間経ったある日のことである。食事会を終えユウキは無邪気に庭で遊んでいた。初夏の嫌な暑さをものともせず芝生の上を駆け回っている。渡辺と太田氏はリビングの窓辺に腰掛けてそれを眺めていた。
「見て、バッタだよ!」
 ユウキが得意げに掴んで見せたそれは確かにバッタであった。緑色が鮮やかなそれは何があったのか、前足が一本欠けていた。
「こんなんでも跳べるんだ。じゃあ後ろ足をもいだらどうなるんだろう」
 渡辺はぎょっとして太田氏を見た。注意するかと思ったのだ。
 太田氏は得意げに笑って言った。
「男の子はあんな風に元気でないといけませんな! 街ではなかなか経験できないことですから」
 渡辺はいつもの愛想笑いすらできなかった。のどがひきつってしまい声を出せない。太田氏はその有能さから渡辺の心情を瞬時に理解した。少々気まずそうに視線を逸らしてからユウキの方に歩いていく。
「あまり可哀相なことをやるもんじゃないよ」
「可哀相かな? どうせまた生えてくるんでしょ」
「逃がしてあげなさい」
 父親に強い口調で言われては少年も逆らえない。ユウキはつまらなそうにバッタを解放した。そして父親に対し気分を害したらしく、渡辺の元に駆け寄る。
「ワタナベさん遊ぼうよ! オセロしよう、オセロ!」
「俺すぐ負けるから嫌なんだけどなあ」
 彼はすぐにその場を離れたかったので少年の誘いに乗った。太田氏に軽く会釈する。男は相変わらずの人の良さそうな笑みを浮かべて二人を見送った。しかし渡辺は確かに見たのだ。その目はいつかのユウキのような冷たく無機質な目であった。
 週末になるとあの奇妙な食事会が開かれる。このときばかりは彼も「家族」の一員として扱われる。
 普段の渡辺の食事は本邸から与えられていた。あの氷のような太田夫人や不愛想な家政婦が玄関に置いていくのだ。呼び鈴も鳴らさずに合い鍵で勝手に開けて勝手に置いていく。
 夜にはユウキや太田氏が届けてくれる。そこで少しばかり話し込むのが彼らの日課であった。
 日曜日の朝、太田氏が服を一式持ってきた。渡辺が食事会に参加するためにはこれを着なければならないのだ。
 白シャツに黒ジャケットと黒いズボン。家での食事会にしてはあまりにもかっちりとしている格好であった。いつもよれよれのTシャツとジーンズを愛用している渡辺には新鮮であった。
 ところが夏が近づいても相変わらずこの格好なのである。
 食事会は広い庭で行われた。木のテーブルに青いチェックのクロスを敷いてパラソルを立てる。全身真っ黒な渡辺は熱を集めてしまい暑いことこの上なかった。
「今日は一段と日差しが強いですね」
 渡辺精一杯の、遠回しの要求である。
「そうですね。もう梅雨も明けるのでしょう」
 答える太田氏はポロシャツである。渡辺の服についてはまったく言及されずに会話は終了した。気の弱い彼はそれ以上何も言うことができなかった。
 食事会の席はいつも決まっていた。渡辺とユウキは外を背にして座りその向かい側、つまり建物側に太田夫妻がついた。これは定位置であり、渡辺は何の疑問も持たずに従った。
 最初こそ警戒して挑んだ食事会であったが全く不審なことはなかった。食事は文句の付けようがなく旨かった。食事は主に家政婦が作っていた。不愛想であるが腕は確かなのだ。
 夫人は相変わらずであるがユウキも太田氏も普段通り話しかけてくる。また気を遣っているのか太田氏は何かとおもしろい話をしてくれるのだ。渡辺はいつも腹がよじれるほど笑う。
 渡辺は太田邸での生活に全く不安を感じていなかった。この平穏な日々が続いていくものだと信じ切っていたのだ。

  
 *

 仕事は案外順調であった。向いているとさえ思う。彼は以前の仕事にはなかった充実感を得ていた。
 彼が頼まれた仕事は思ったよりも簡単であった。マニュアルと、不測の事態に対応できる柔軟性さえあればこなせる。最初こそ戸惑ったものの、慣れてしまえば何とも思わなかった。こなした分だけ現実の金銭となって手元に入るのである。一方で大きなリスクもあった。いかに頭をフル回転させて危機を乗り越えるか、臨機応変な対応が常に求められる。まるでゲームのようであった。今までぼんやりと生きてきた彼にとって初めての刺激的な非日常である。こんなに面白いことはなかった。金が溜まったら辞めてやろうと思っていたのに、いつしかこの仕事の危うさ、そして魅力に取りつかれていたのだ。
「上手くやっているね」
 雇い主が笑う。今日は月に一度の定期報告の日であった。定期報告では一度市街地に戻り食事を摂りながら話をするのが定番であった。このときは男が奢ってくれる。仲居がいるような和食を出す店である。
 彼は貧乏舌であった。正直なところ料亭の和食は味が薄く、美味しいとは思えなかった。しかし働きに出ている間はゆっくりと食事をとる余裕がなく、奢ってもらっているということもあってここぞとばかりに堪能した。
「仕事は問題ないね」
「ええ、ちゃんとやれてますよ」
「まだ続けてくれるんだよね」
「もうちょっと稼ぎたいと思います」
「その意気だよ」
 男は機嫌が良かった。彼の仕事が上手くいっているからだ。
 ゆっくりする暇もなく翌日、彼はI市に戻った。仕事場からは二駅離れたビジネスホテルに宿泊する。彼のような若い人間がいると田舎の者は珍しそうに声をかけてくるものだ。ところがその平均的な顔のおかげで覚えられるということはない。いつも決まりきった黒の上下を着ているということも大きいのだろう。誰も鮮明に彼のことを覚えられないのだ。
 ビジネスバッグを片手に田舎道を歩く。時折それらしくファイルをめくり、家々を確認する。そしてメモを取る。すっかりこの仕事が板についてきたなと彼は自嘲した。

  
 *

「ここだけの話、信憑性はないんだけどね」
 男は声を潜めた。またか、とは思ったものの顔には出さないようにする。それがプロというものだ。穂村はさも興味ありげに身を乗り出した。
「太田さんが田舎に引っ込んじゃったでしょ。あれが怪しいって話なんだよ」
「つまり例の男性の死に太田氏が関わっていると」
 太田氏の周辺でおかしなことはなかったか、と聞くと必ず出てくるのが同僚の不審死事件であった。
 十三年前に被害者のA氏が隣県の山中で遺体となって発見された事件だ。雑木林の中ということで発見が遅れ、さらに身元を証明する物は全て犯人の手によって処分されていたため身元を特定するのに三年はかかったのだ。
 小さな会社の大きな出来事である。被害者の周辺では確かにトラブルが報告されていたが太田氏とは直接関係のないものであった。
 ところが最後に話を聞いたこの男だけは太田氏が怪しいと主張する。
「関わったっていうと大げさだけどさ、何か知ってるんじゃないかって思うんだよ」
 決定的なのは五年前のことである。事件解決に探偵が導入されたのだ。明らかに他殺であり複数犯の可能性もあることから早急な解決が求められたのである。当時の関係者は全員等しく話を聞かれた。太田氏も例外ではない。
「そのすぐあとだよ、太田さんが田舎に引っ込んだのは。俺はなんだか怪しいと思ったんだ。あの人は野心家だった。仕事をバリバリこなしてさ、出世するのが一番、って感じの人だよ。それが今から稼ぎ時ってところで引っ込んじゃったんだ。何か怪しいと思っても不思議じゃないだろう?」
 得意げに噂話をする男は太田氏のかつての同僚である。穂村は適当に相槌を打ち笑って話を合わせた。探偵として無責任なことは言ってはいけない。この男の話は参考程度に留めておかなければならない。
 実のところ太田氏を調べる上でその事件にも目を通していたのだ。
 遺体の腐敗が激しく正確な死亡推定時刻は不明であるが、被害者の行動から犯行時刻の特定は可能だった。それによると太田氏の犯行は不可能という結論に至る。ここで容疑者が一人浮上したのだ。太田氏の友人B氏である。ところが犯行時刻のアリバイはないものの、遺体をどうやって山中に遺棄したかが問題となる。時間が合わないのだ。結局この事件は犯人不明のまま今に至るわけである。
 なかなか面白そうな事件であった。穂村はそれに首を突っ込む前にやるべきことがあった。ケンジのことである。
 彼が出入りしていたという事務所はすぐに調べがついた。繁華街の裏にある、薄汚れたビルがそれであった。
 自慢じゃないが穂村は腕力に自信がない。屈強な護衛を連れての訪問である。もちろん穏やかにとはいかなかった。ビルに入れば見張りの男たちに殴り掛かられ(当然返り討ちに遭い廊下で伸びている)、事務所に入っても穂村が探偵手帳を見せると男たちは瞬時に臨戦体制に入り(ここぞとばかりに護衛が胸を張り、伸びた一人を乱暴に投げ込む)、責任者と思われる男が登場したことで事態は収束した。
「探偵さんがなんの御用で? 連絡くらい欲しいものだ」
「ならいいことをお教えしよう」
 男はにこやかな表情を浮かべながらも非常に威圧的であった。穂村はそれ以上に笑って見せた。
「今から一時間後に警察がここに来ることになっている。一時間だよ、たっぷり時間があるから逃げるといい。その前に三十分間、ここの責任者――田辺ケンジのことを知っている人なら誰でもいいんだけど――と話がしたい。悪い話じゃないだろう。僕は聞きたい話が聞けてかつチンピラの事務所を摘発できる。犯罪撲滅に少なからず貢献しつつ、君たちにいい顔もできる。警察にとっても事務所の摘発は大きな仕事だね。君たちは罪を犯しながら僕の温情によって逃げ延びることができる。とてもいい話だ。ああ、こんないい話は聞いたことがないだろう!」
 穂村の演説を全員がぽかんとした顔で聞いていた。彼はわざとらしく腕時計を確認する。
「正気か?」
「一応そのつもりだよ。さあ、一分一秒でも惜しいだろう。話をしよう! 君たちはそんなところに突っ立てていいのかい? 信じる信じないはもちろん自由だけど、こんな幸運をみすみす目の前で逃されてもいい気はしないからね」
 男たちは戸惑っていた。しかし目の前の男が怒鳴るように指示を出すと慌ただしく動き始めた。穂村は勝手にソファに座り、煙草を吸い始める。
 一本吸い終わる頃にようやく先程の責任者の男が現われた。苦々しい顔をしているところを見ると穂村の言ったことがハッタリでないことが分かったのだろう。いくらか乱暴に腰かけた。
 男はケンジのことを最もよく知っているのだという。彼を事務所に誘い、仕事をさせたのがこの男なのだ。
「例の青年は始末したのかい? 彼の親戚が探しているんだ」
「まさか。始末なんて勿体ないことはしない。あいつは身寄りがなくて、目標も意志もなく、だが真面目だった。扱いやすくて仕事もできるし重宝していたんだ。しばらくI市で仕事をこなしたらここに呼び戻して働かせてやろうと思っていたくらいだ」
 男もまた煙草をふかし始める。事務所内の慌ただしさと煙の緩やかさがまるで別世界のことのようであった。
「彼はどこへ行ったんだ」
「知らないよ。最後に仕事を頼んでから連絡も付かず、姿も見ない。一応最後の現場に確認にはやっている」
 男はずいと身を乗り出した。
「俺達なんかよりあの家を調べなよ、探偵さん。あそこはどうも怪しい。ケンジを始末したかもしれない」
「何か根拠がおありですかな」
 すると男は大きく頷いた。
「あの家を調べていたんだ。ケンジのことがあったからな。ひと月くらいした頃か、二階の窓に靴がぶら下げてあるんだよ。それで監視役の男はピンときた。あそこにケンジがいて、助けを求めているんだってね」
 監視役の男はすぐにその家に行き、事の次第を尋ねたそうである。最初はやんわりと、回を重ねていくうちにそれなりに乱暴な話し合いにはなった。
「ところがその家の男は口を割らない。それどころか『雇っている家庭教師です』なんてことを言う。おかしいだろう?」
 穂村は男の気を良くするために大いに頷いた。するとどんどん情報が出てくる。さらに彼はその怪しい家の場所とケンジの仕事内容について細かく尋ねた。証拠品もいくつか手に入れたところで、ちょうど三十分が経過したところだった。男たちが逃げるためにはそろそろ解放しなければいけない。
 事務所はあっという間に空っぽになり、残っているのは穂村と男と、男の部下が数人であった。
「僕はここでしばらく調べ物をさせてもらうけど、構わないね。君たちはどうせ逃げてしまうのだから」
「勝手にしてくれ。ここはもう俺たちの場所じゃない」
 男は踵を返した。出て行くのを確認してから穂村は煙草をもみ消す。そして派手にむせる。彼は煙草が好きではなかった。
 チンピラ達は逃げ切ったと安心しているのだろう。確かに約束通り、この事務所に警察がやってくるまで時間をとってある。しかし彼らが次のアジトに行くまでの道に警官が待ちかまえているのだ。そこまでは面倒をみきれないと穂村は涼しい顔である。
 男の話ではケンジはある家に行った後連絡が取れなくなった。その家で一体何があったのかを早急に調べる必要がある。穂村はその住所をどこか微笑みさえ浮かべて見つめた。


  
 *

 渡辺は珍しく買い物に出かけた。食事を作る必要がないため彼はほとんど金のかからない生活をしていた。
 片道徒歩一時間かけて最寄りのスーパーへ向かう。たまにはいい運動だろうと彼は暢気であった。
 店では目的の洗剤と、菓子類に清涼飲料水を購入した。帰りもまた歩かなければならないので後者に関しては厳選に厳選を重ねた一級品ばかりである。
「あれ?」
 渡辺は素直な青年であった。疑問も気づきもすべて口に出してしまうのだ。
「ヤマダさんも買い物ですか?」
 彼の目は今まさに荷物を袋詰めしている家政婦ヤマダの姿を捉えた。渡辺は彼女に苦手意識がある。それでも無視して横を通り過ぎることはできないくらいにはお人好しであった。
「何かご用ですか」
 ヤマダは相変わらずそっけなかった。しかし彼はそれが気にならない。それよりも目を引くものがあったのだ。
「荷物多いですね! こんなに買って太田さん家まで運ぶの大変じゃないですか? あ、もしかしてご自宅の分ですか。ここから近いとか。それでも大変ですよね。運ぶの手伝いますよ!」
 渡辺は彼女が車の免許を持っていないことを知っていた。Lサイズの袋四つもの大荷物である。彼はそのうちの二つを軽々と持ち上げた。ヤマダは冷たく「ありがとうございます」と言うとさっさと出口へ向かっていった。
「これから一時間も歩くってなると、大変ですよね」
「歩いて帰るというならお止めしませんわ。私はコミュニティバスで帰りますので」
 彼女はスーパーの横の、単なる休憩スペースかと思われたバスの停留所に迷いなく進む。ヤマダはベンチに腰を下ろしたものの、渡辺はその隣に座るわけにもいかず、バスが来るまで立ち尽くした。
 コミュニティバスは町内をぐるぐると回るものである。したがって太田邸の近くとはいえ歩いて十五分はかかるバス停で下ろされた。渡辺は道中飲み物を買ったことを後悔した。ただでさえ洗剤類を購入しているので重いのだ。彼は自分の迂闊さを恨んだ。
「毎回こんなに持って歩くの大変ですよね。俺でよければ荷物持ちするので声かけてくださいよ。昼間はユウキくんがいないからどうせやることないですし」
 男手が必要、というのも彼が住み込みになった理由の一つである。ここぞとばかりに自身を売り込んだ。ヤマダは何も答えない。時折重そうに荷物を抱え直すばかりで何も言わなかった。
 三人家族と家庭教師の渡辺で計四人。平日の隔日勤務なので休んでいる分の作り置きをしているのだという。それにしても食材の量が多い気がした。しかも毎回買いに行っているのだ。それではあまりにもヤマダへの負担が大きい。彼女のことだから次回以降も彼に助けを求めないのだろう。
 五回目の食事会で渡辺はそのことを進言しようと決心した。あれではヤマダが身体を悪くしてしまう。
 ところが、である。彼はとうとうその話を切り出すことができなかった。あるものを見てしまったのである。
 なぜ自分はいつも外の景色に背を向けて食事をしているのか。それは外に見られたくない景色があったからだ。
 いつものように太田氏がおかしな話を披露する。渡辺は相変わらず腹を抱えて笑った。 今日は天気が悪かった。曇り空であったのだ。ふとリビングの窓を見た。ただ何気なく視線を送ったそのときである。彼は窓の反射を利用して――もっとも本人にそんなつもりはなかったのだが――それを見てしまった。
 太田家の庭の外には空き地のような駐車場がある。たまに一、二台止まっているだけのスペースだ。そしてそこには人がいた。体格からして男である。白い車の隣に立ってこちらを、渡辺を見つめている。
 窓越しに目が合ったと思った。それくらい男はまっすぐにこちらを見ていた。自惚れや見間違いではない。男が見ていたのは渡辺だ。
 背筋が凍るような思いであった。渡辺はその驚愕を顔に出さないように努めた。太田氏のおもしろい話も禄に頭に入ってこない。まるで針のむしろである。
 渡辺の不安や違和感はここに来て現実のものとなったようだ。
 突然の家庭教師、細かな指示、多すぎる買い物、そして外から見張る男。何もないと言う方がおかしいのだ。何か犯罪の気配がする。床が抜けそうだという西側は全く工事する気配がなかった。渡辺は人並みの正義感からそこを調査しなければと考えた。
 彼は外から太田邸全体を見て回ることにした。あくまで散歩の体である。ストレッチでもする振りをして西側を観察した。そして彼は気づいてしまった。
 西側の二階の室外機が回っている。クーラーをつけているのだ。誰もいないはずなのに、一体何の為だろうか。
 渡辺はこれまでの情報から、ある人物が本邸の西側に監禁されているのではないかと考えた。そしてどうやら自分が誰かの代わりにここに連れてこられたことを知った。それならば奇妙なルールに納得がいく。自分とその人は背格好が似ているのだろう。駐車場から見ていた男はある人物の関係者なのだ。渡辺に似たような恰好をさせて男を欺こうとしているのだ。
 助けに行かなければ、と渡辺は思った。しかしそれは簡単なことではない。本邸の西側に侵入するのは困難を極めた。
 まず屋敷の外を回って西側に近づくのは無理であった。家政婦ヤマダ、あるいは太田夫人が見張っているのだ。彼女らは音に敏感であった。平屋の引き戸が開くと必ず様子を見に出てくるのだ。
 だからといって家の中から探索に向かうというわけにはいかない。どうしてもリビングや夫人の部屋の前を通らなければいけないのだ。彼女は滅多に外出をせず隙がない。これも難しかった。
 次にユウキの存在が問題であった。ユウキは休日も渡辺について回った。両親が出かけるというときでも平屋にやってくるのだ。とても一人で行動する時間がなかった。
 渡辺は耐えた。なぜかこの時点で穂村に相談するという考えはなかった。自分でどうにかできると思っていたのだ。また具体的な危険が彼の身に迫っている訳ではなかった。だから穂村に相談することは躊躇われた。
 渡辺にチャンスが訪れたのはそれから二週間ほど経ったある日のことであった。
「渡辺さん、今度の日曜日は家にいてくれますか? ユウキの学校で演奏会があって、それに出なければいけないのです」
 降って沸いたような好都合である。渡辺はなるべく殊勝な顔をしてみせた。
「予定もないですし、構いませんよ。ユウキくんが何か発表するんですか」
「そういうわけじゃないのですよ。毎年クラブの発表会があって、それには保護者同伴で出席しなければならないということになっていましてね。七時には終わるので、それまで留守を頼みますよ」
 お任せください、と渡辺は答えた。あまりに勢いがあり過ぎで不審ではなかったか、と不安になったのは彼らが出かけてからであった。
 一家は午後四時には出発した。渡辺は用心してさも平屋で過ごすように振る舞い、午後五時までは大人しく過ごした。例の家政婦も土日には来ないのだ。タイムリミットは午後七時。渡辺はいつになく頭をフル回転させた。慎重にしかし最適な計画を立て、実行しなければならないのだ。
 午後五時十分。彼は探索を開始した。本邸の西側には家の中から進入する。家の中に入る理由はいくらでもある。禁止されているわけではないのだから。
 西側の捜索は短時間で終わらせることが大切である。深追いしない。一通り見て回るだけに留めるのだ。渡辺は自分のことを少なからず理解していた。深追いすれば必ずぼろが出る。実際に床が腐っている可能性もあるのだ。どじを踏んで床を踏み抜く恐れがあった。
 西側には東側同様、一階に二部屋、二階に三部屋の構造のようであった。東側では一階がユウキの部屋、二階は書斎や夫婦の寝室として使っているようであった。ところがこちらは一階全体が物置のようになっており、部屋どころか廊下にも所狭しと荷物が置かれている。これは確かに人を入れたくないだろう、と渡辺は納得してしまった。彼は荷物の間をそろりそろりと進んでいった。
 そのときである。ぎし、と板がきしむ音がした。単なる家鳴りか、ポルターガイストか。今の渡辺には人の足音にしか聞こえなかった。彼は息を潜めて次の物音を待った。小さな音だが確かに足音のようである。二階の一番奥の部屋だ。歩き回っているように聞こえた。渡辺の心臓が早鐘のように打つ。
 午後五時四十五分。足音が止まり渡辺もようやく我に返った。慎重に、しかし急いで渡辺は進む。階段では想像以上に板がきしんだが構っている暇はない。
 一階とは対照的に二階には何もなかった。おかげで夕闇が窓から差し込み不気味さに拍車がかかっている。明かりを付けるわけにも行かず、手探りで廊下を進む。渡辺は一つ一つ部屋の扉に耳を当ててみる。中からは何も聞こえなかった。午後六時を知らせるチャイムが鳴る。もしかしたら再び物音がするかもしれない、と思ったのでしばらく廊下に座っていることにした。
 ふと彼は違和感を覚えた。この廊下は一階に比べて奥行きが狭い。突き当りまで行って壁に触ってみる。それは扉であった。しかも鍵がかかっている。どこかに鍵があるかもしれない、と渡辺は考えた。現在午後六時二十分。鍵を探してここに戻って来る時間はあるだろうかと焦り始めた。
 そのとき、外から思いもよらない音が聞こえた。車が砂利を踏む音である。太田一家が帰ってきたのだ。車庫は西側にある。下手すれば姿を見られるかもしれない。
 渡辺は脱兎のごとく駆けだした。忍者のように屈んで廊下を駆けぬけ、転げ落ちるように階段を駆け下り、風のごとく狭い廊下をすり抜けどうにか台所へとたどり着いた。
 信じられない思いで時計を見た。やはりまだ六時半にもなっていない。彼が息を整え切れない内に一家は家の中へと入ってきた。
「おや、渡辺さんどうしましたか?」
「お腹が空いちゃって。夜食用におにぎりを作っておこうと思ったんです。勝手にすみません」
 大慌てで出した米や具材にさも今から握らんとばかりに手をつける。梅、おかか、マヨネーズのつもりが焦って隣のケチャップを取っていた。彼はなるべく気づかれないようにそれを端に追いやる。
「いえいえ、もちろん構いませんよ。なんなら明日からお夜食分まで作っておきましょうか」
 太田氏とのにこやかな、ごく普通の会話である。渡辺のこめかみから汗が一筋流れた。彼は思わず息をのんだ。
「聞いていた時間より早かったですね」
 渡辺はおどけて言ってみる。
「そうかな。まだ帰ってこないと思って油断していたかい?」
 太田氏の眼光は言葉に反して鋭かった。家族全員が渡辺を見ていた。彼は息もままならなかった。
「そう身構えないでくださいよ、渡辺さん」
 男は渡辺の肩をたたく。
「家のルールさえ守ってくれればお互い気持ちよく生活できるのですからね」
 最早渡辺の耳に男の言葉は入ってこなかった。早く穂村に連絡を取らなければ。彼はそれだけを考えていた。

  
 *

 畑のど真ん中に赤い屋根の洋風の一軒家。日本の田舎に西洋風の豪邸。明らかに周囲の景観から浮いていた。しかし彼は決して嫌悪しなかった。何せ太田邸は広い。それだけ彼の希望も膨らんだ。
 黒いかっちりとした服を着こなした彼は迷うことなく玄関へと向かう。外から車がないことは確認済みであった。
 太田家には二台の車があった。通勤用と家族用であることも分かっていた。休日に家族用のものがないので出かけているというのは確実である。
 玄関には鍵がかかっていなかった。このような田舎ではよくあることだ。彼はごく自然に中に入る。
 内装は案外日本的であった。成金じみた置物の配置であり、こだわりはなさそうである。この光景は彼を安心させた。弱者をいたぶるためではない。強者に少しばかり援助してもらう行為なのだと正当化するのだ。
 彼はすぐさま仕事に取りかかる。薄暗い部屋に自分の吐息がやけに響いた。
 ふと彼は耳を澄ませた。ありえないことであるが、人の声が聞こえた。
 それが空耳でないと分かったとき、かれは全身が凍り付いた。心臓ばかりが早鐘のように打ち汗がだらだらと流れる。
 どのくらいそうしていただろうか。声の主は間違いなくこの屋敷にいた。だが動く気配がない。どうやら電話をしているらしかった。
 帰れば良かったのだと彼は回想する。彼は音源がどこにいるのか確かめようとした。もしも気づかれないようならば仕事を続けたかった。欲が彼を動かしていた。
 声は西側の二階から聞こえる。階段のきしむ音にも気をつけて彼は様子を窺った。
「心配しすぎだ。お前がそんなことでどうする」
 電話をしているのは男であった。強い口調だった。
「どうしようもないんだ。俺たちは待つしかない。大丈夫、誰もこちらまでこない」
 何の話だろう。男は「大丈夫」を繰り返している。女でも慰めているのだろうか。彼の中の好奇心が頭をもたげたが、ここは抑えて仕事の続きをしなければならない。
「二人でやるべきことはやっているんだ」
 彼は階下へ一歩踏み出した。
「時効はもう目の前だ。あいつは確かに殺された。しかしお前が殺したという証拠はないんだ。お前さえしっかりしてくれれば、俺の方に手が及ぶことはない。俺たちは共犯なんだ。お前も気を強く持て。時効までもう少しじゃないか」
 彼は足を踏み外した。そのまま下まで落ちる。
 痛みよりも恐怖で身体が石のように固い。
 早く逃げなければ、と思うほどに力が抜けていった。
「誰だお前は!」
 男の叫び声がする。彼の身体は鉛に沈んでいくかのようであった。

  
 *

 チンピラ事務所を片付けて数日後、穂村は報告書を制作していた。時計を見るとそろそろ来客がやってくる頃であった。
 扉が軽やかな鐘の音とともに開く。男はその体型に似合わず慎み深く事務所を窺った。
「お待ちしておりました」
 穂村がそう声をかけると田辺は安堵の表情を見せた。男が察したように悪い話はないのだ。
 ケンジがいなくなる直前の足取りが掴めた。彼はやはり事件に巻き込まれていたのだ。
「彼が消息を絶つ前に訪れた場所へ僕も行ってみようと思います。もしケンジさんがいればあなたをお呼びすることになりますが、来ていただけますか?」
「ええ勿論! 早く会って説教の一つでもしてやりたいんです」
 田辺は鼻をすすった。
 そのときである。再び鐘の音が鳴る。事務所の扉がゆっくりと開いた。制服に身を包んだその男は軽く会釈をする。
「穂村さん、電報です」
 青年はとうとう音を上げたようだ。穂村はなんだか嬉しくなっていつも以上に愛想良くそれを受け取った。
『シキュウ コラレタシ ゲツヨウ エキデマツ』
 次の月曜日、とは三日後だ。ずいぶん急であるが穂村は全く悪い気がしなかった。
「申し訳ありません、田辺さん。調査に行くための切符が予想以上に早く届いたので僕はもう行かなければなりません」
 田辺を帰して彼はすぐに支度を整えた。頭の中で段取りを組む。渡辺の元に行く前にまだ調べておきたいことがあった。
 来る月曜日、穂村は約束通りにI駅にいた。改札を出て辺りを見渡してもあの青年の姿はない。仕方がないので喫茶店を探そうと外に出た。そのときである。バスから一人の青年が転がるように飛び出してきた。穂村は思わず笑ってしまった。
「君はいつも慌てふためいているイメージがあるよ」
「よく言われます」
 その割に、渡辺はいかにも不満そうであった。
「とにかく元気そうで何よりだよ、渡辺くん」
「ありがとうございます。まさか、本当に来てもらえるとは思いませんでした」
 渡辺は荒い息を整えながら笑う。以前とあまり変わらない様子に穂村は人知れず安堵した。
 渡辺の語った話は穂村を喜ばせた。何せ彼の予想通りのことが太田邸で起こっていたのである。
 それにしてもである。穂村は笑った。目の前の青年があまりにも絶望に打ちひしがれたという顔をしていたからだ。
「笑い事じゃないですよ! こっちは必死の思いで連絡を取ったんですから!」
「まあ落ち着いてくれ、渡辺くん」
 穂村はコーヒーを飲んだ。真似をするように渡辺も苦手なそれを口に含む。
「君は現時点で何か危害を加えられる恐れはないから、安心してくれ。理由はいくつかあるが、ここにいることが何よりの証拠だ」
 もしも渡辺が何か決定的な犯罪の証拠を掴んでいるのなら太田家が外出を許すわけがない。
「それはそうかもしれないですけど」
「家庭教師の仕事も今まで通り続けて欲しいという話なんだろう? ならその通りにした方がいい。彼らも様子を窺っているんだ」
 太田氏はあるものを待っているのだ。穂村はそこまで掴んでいた。
「俺はもう耐えられませんよ。穂村さん助けてください」
「焦らなくてもその内向こうから辞めるように言ってくるはずだよ」
 そうは言うものの何か秘密を抱えている家に渡辺一人を置いておくのは非常に不安である。二人はいったん別れ、二日後の正午に同じ店で会うことを約束した。渡辺は終始不安そうな顔をしていた。
 穂村は真っ先に会わなければならない人がいた。

  
 *

 彼女は相変わらず不愛想だった。昔からそうだったわけではない。彼女は噂話が大好きだった。
「こんにちは、ヤマダさん。少しお話を伺いたいのですが」
 目の前に現れた青年は穏やかに微笑みを浮かべている。彼は全てを見透かしているようであった。彼女は今まで被っていた仮面を捨てるときがきたのだ。
「……なんのご用でしょうか」
「あなたが勤めている太田家について、少々穏やかでない噂を耳にしたものですから、それの確認がしたくて」
「私に確認しても仕方のないことでしょう」
 彼女はなるべくそっけなく応じる。しかし心の中は浮き足立っていた。
 太田家の家政婦、ヤマダは探偵を名乗る男に呼び出されていた。今日は火曜日である。仕事が休みの日を狙ってきたのだろう。彼女は大人しくひと駅離れた喫茶店に呼び出されたのであった。
 青年は相変わらずにこにことしている。こちらから彼の心情を読み解くことは不可能であった。
 穂村はコーヒーを注文した。彼女はすでに紅茶を飲んでいる。
「僕は最初にどうしても聞いておかないといけないことがある。単刀直入にいきましょう。太田邸の西側にいるものは生きていますか?」
 彼女はため息をついた。最早何も言い逃れることはできない。
「ええ、生きています」
「あなたが食事などの世話をしてらっしゃるのでしょうか」
「食事の準備は私が。しかし主な管理――食事や衣服などの必需品を彼の元に運び、生活一般の監視など――は旦那様がなさいます」
「太田氏の奥さんはこのことを知っていますか?」
 ヤマダは首を傾げた。夫婦なのだから当然共犯だと思っていたものの、そこに確固たる証拠はない。なにせあの夫人である。夫のしていることを知っていようがいまいが態度に出るとは思えなかった。
「何故彼はあんな目にあったのでしょうか」
 核心を突く問いかけであった。彼女はもう我慢できない。
 知っていることを全て、憶測や偏見や想像を全て混ぜ込んで穂村に語り出した。
「旦那様の秘密を知ってしまったのです」
 彼女の心の中は青年への同情で一杯であった。
「旦那様はある理由からこちらに移り住みました。五年前のことです。私はそのときから太田家で働いております」
「ある理由とは?」
「詳しくは存じません。会社の方でトラブルがあったと聞きました。旦那様のご様子から、横領などの犯罪行為を行ったのでは、と思っておりました。そういったことに罪悪感を感じられないような方なので」
 ヤマダは料理が上手かったので重宝された。噂話にも敏感で色々と仕入れては太田夫人に話し、二人であれこれ話して盛り上がる程仲は良好であった。
 異変が訪れたのは一年前である。梅雨が明けた頃であった。太田家の様子がおかしいのである。あまりにも重苦しい空気の中、太田氏はある指示を彼女に出したのだ。
「料理を家族とは別に朝晩の二食作りなさい、とおっしゃるのです。とても何故なのか聞けませんでした」
 せいぜい数日のことだろうと思ったのだ。愛人でも連れてきたのだと。ところが誰も何も言わないまま今日まで彼女は見たこともない人物に料理を作ってきたのだ。
 ヤマダは穂村にすがりつくような気持ちで言った。
「私は何も知らないのです。確かに誰かいるかもしれないと料理を作っていました。ただそれだけです。私は何か罪に問われるのでしょうか」
 青年は優しく微笑んで彼女の肩をさする。
「安心してください。あなたは何も悪くありません。こうして正直に話してくれたことが、あなたが善人であることの何よりの証拠です」
 ヤマダは深く長いため息をついた。いままで胸につっかえていたものがようやく取り除かれたような、すがすがしい気持であった。


  
 *

 二日の間に穂村が集めていた情報は非常に有益なものであった。彼は上機嫌で待ち合わせ場所の食堂に向かう。逆に渡辺は意気消沈といった様子であった。
「えらく気疲れしているね」
「息子のユウキくんが色々言うんですよ。『僕は渡辺さんのことが好きだから変なことしないでね』なんて言うんです」
「そんな怯えて暮らす日々ももう終わりだよ、渡辺くん」
 穂村の言葉に青年はぱっと顔を輝かせた。
「いいかい。今夜僕は太田邸に行くから、君は何も知らない振りをするんだ。間違っても僕と知り合いだってことを知られてはいけない。後は僕に任せてくれれば大丈夫だから」
 渡辺は青ざめた顔で頷いた。
 水曜日の憂鬱、という訳ではないが渡辺はそれなりにそわそわして過ごした。放課後になるとユウキが飛んで帰ってきて彼の元で宿題を始める。このおかしな家族と離れられる、と思う一方でユウキと離れがたいとも思っていた。少年に懐かれるのは居心地が良かった。
「ワタナベさん、元気ないね」
 ユウキが上目遣いで彼を見る。渡辺はその頭を優しく撫でてやった。
「ちょっとね、センチメンタルなんだ」
「……お父さんに何か言われた?」
「そんなことないよ」
 少年は渡辺の変化を察したようであった。だんだんと口数も少なくなってしまい、夕食まで一緒に過ごしたのであった。
 ユウキが本邸に帰ってしばらくした頃である。穂村が太田邸にやってきたのは午後九時のことであった。
 とは言え渡辺はいきなりの展開に全くついていけなかった。
「公立探偵の穂村です。君は渡辺くん、と言うそうだね。最近この辺りに来たと聞いたが」
 昼とは違い眼光鋭く渡辺を見据える。探偵は演技も上手くなくては務まらないのだろうと、彼は回転のかからない頭で思った。穂村の後ろには戸惑った顔の太田氏がいた。
「いつから住んでいるんだ?」
「二ヶ月くらい前からです」
「旦那さんとの証言とも一致しますね」
 穂村は太田氏を振り返る。難しい顔を崩さない。
「悪いが部屋の中を見させてもらうよ」
 言うが早いか穂村はわき目もふらずに家の中へ入っていく。
「すまないね、渡辺さん。あの探偵が急にやってきて、君を泥棒だなんて言うんだ。なんでもここ最近近くで空き巣があったとかで」
 渡辺は急に怖くなった。元々穂村は自分を疑って近づいたのではないか。そう思ってしまうほどであった。
「渡辺くん、これはなんだい?」
 今から穂村の大声が響いた。渡辺も太田氏も飛んでいく。穂村が手に持っていたのは長方形のポーチである。渡辺は見たことのないものである。
「君はどこでこれを手に入れたんだ」
 穂村の詰問に彼は為すすべがない。
「知りませんよ! 大体なんですか、それ」
「被害者の通帳入れだ。さすがに中身は抜いてあるようだがね」
 そんなはずはない、と渡辺はありふれた台詞を吐いた。太田氏が後ろで「まさか……」と呟くのが聞こえた。
「証拠がここにあるんだ。言い逃れはできないよ。さあ、ついてきてもらおうか」
 探偵に強く腕を引かれ、哀れな青年は家の外に連れ出された。財布だけを持って外に立ち尽くす姿は我ながら惨めであった。
「それでは後日またお話を伺いますので、そのときはよろしくお願いします」
「彼はどうなるのですか」
「一度こちらで聴取をしてみないことには何も言えませんね。盗難品が見つかっているので、すぐにこちらに戻ることはできないでしょうね」
 太田氏も神妙な顔で頷いている。
「それでは失礼します。お騒がせしました」
 穂村は彼の腕を引いて歩き出す。
 自分は一体どうなってしまうのかと、渡辺は途方に暮れた。

  
 *

 穂村は笑った。腹を抱えて笑った。こんなに笑ったことがあるかというくらい笑った。
「演技に決まっているじゃないか! 馬鹿だなあ、君は」
 タクシーで駅の近くのビジネスホテルまで連行された渡辺青年は、可哀想なくらい青ざめた顔をしていた。あの家はそんなに恐ろしい場所だったのかと話を聞くと、なんてことはない、穂村の芝居に怯えていただけであった。
「君を安全にかつ迅速に連れ出すための作戦だったんだよ。悪く思わないでくれ」
「穂村さんは俳優にでもなった方がいいですよ。すぐに銀幕のスターになれますから」
 部屋で一息ついた渡辺は多少元気が出てきたようであった。軽口を叩く様子に穂村もひと安心である。
「今別の依頼人に連絡を取っているんだ。今回のことに非常に関係の深い人でね。彼を待って僕らも動き出す」
「俺は帰ってもいいですか?」
「君は僕の手足になってもらわなくちゃ。帰られては困るよ」
 渡辺が太田邸を出て二日の間は穂村が単独で動いた。太田家に特に動きはなかったが、落胆することではない。穂村は日曜日を待っていた。渡辺を悩ませた例の食事会のある日だ。
 日曜日、穂村は渡辺を連れて太田邸へやってきた。向こうから気づかれないように距離をとって様子を窺う。
「今日は食事会しないみたいですね」
「分かるのかい?」
「外で食べるときは日よけの傘を差すんですよ。今日はそれが見えないので」
 家族団欒に突撃するのはさすがの穂村でも気が引ける。食事会がないと分かればすぐに行動すべきだった。
「僕が一人で向こうに潜入するから、その間にやっておいて欲しいことがある」
 穂村は渡辺に、ここに田辺と名乗る中年男性が来ること、太田邸のベランダから合図を送るのでその人物と共にあの家に来てほしいことを指示した。
 また、太田邸に来たときには必ず男性に名乗らせることも伝えた。これが最も重要なことなのだ。
 穂村は渡辺を残し、一人太田邸に向かった。インターホンを押せば家政婦が出てくる。秘密の共有という形でつながっている彼女は意味ありげに目配せをして奥へ引っ込んでいった。先日空き巣騒動でここに来た探偵だと伝えれば太田氏はすんなりと彼を中に通した。
「これはこれは探偵さん! その後、渡辺さんはどうなりましたか?」
 太田氏はいかにも心配そうに言った。穂村もまた神妙な顔をしてみせる。
「まだはっきりしたことは申し上げられませんが、その件でお宅の中を拝見したいのです」
 すると太田氏はやはり困ったような顔をした。
「盗まれたものは何もありませんでしたよ」
「物を盗むばかりが犯罪ではありません。盗聴器なんかが仕掛けられてご家庭の情報が盗まれることもありますからね」
 太田氏はなおも渋い顔をした。渡辺にしたのと同じように西側には入らないようにと言う。穂村はさも物わかりがいいように頷いた。
 穂村はリビングなどを一通り見るとバルコニーに案内するよう頼んだ。
「バルコニーから壁なんてなかなか見ないでしょう。そんなところに色々な仕掛けがあるんですよ」
 穂村はちらりと外を見る。遠くに二人の人影が見えた。彼はゆっくりとバルコニーの端から屋根を見上げ、それを撫でるような仕草をした。
「幸いここには何もないようですね。では例の青年について少しお話を伺いたいのですが」
「ええ、構いませんとも」
 太田氏にはどこか嬉々とした雰囲気さえあった。
 リビングでは夫人も加えて三人でテーブルに着いた。渡辺の言う通り彼女は確かに人形のようであった。
 太田氏は深刻そうな顔で語り出す。
「あの人は、息子の家庭教師として雇ったんです。見た目や話し方が純朴そうな青年だったのでこちらとしても非常に気に入っていたのですが」
「何か彼について気になることはありませんでしたか?」
「そう言えば先日、ほんの一週間ほど前です。子供の学校行事のために家を空けたんです。二、三時間でした。そのときの彼の様子はどこかおかしかったですね。彼には敷地内の平屋を与えていたのですが、我々が帰ってきたときにはなぜかこちらの本邸にいましてね。どうも挙動不審な様子で、今思えばあれは何か盗もうと色々探っていたところだったのではないでしょうか」
 太田氏は渡辺が空き巣であると疑っていないようであった。穂村はその通りだと言わんばかりに深く頷いた。ひと通り渡辺の話を聞いてから切り出した。
「因みに確認したいことがあるのですが、よろしいですか?」
「はい、なんでしょうか」
「今のお話は、あなたが二ヶ月ほど前に知り合った『渡辺さん』の話ということでよろしいですか」
 太田氏はここで初めて怪訝な顔をした。
「もちろんその通りです。何故そのようなことをお聞きになるのですか?」
 穂村は高らかに笑った。それまでの慇懃な若い探偵とは全く違う、悪役のような笑いだった。
「何故って、あなたのお宅には一週間前まで二人の青年がいたからですよ。一人は渡辺という家庭教師の青年、そしてもう一人はあの西側の部屋に幽閉されている可哀想な青年がね!」
「何を馬鹿なことを!」
 太田氏は激昂し立ち上がった。穂村は優雅に足を組んだ。
「かの青年――田辺ケンジくんといいましたか――も可哀想に。一時の気の迷いで監禁されることになるとは」
「言いがかりも甚だしい。何の証拠があってそんなことを!」
「調べれば色々と出てきますよ。証人だっている。何より僕は探偵だ。今ここで家を調べることだって可能です」
 そして穂村は落ち着き払って一枚の紙を取り出した。
「捜査令状も取ってきました。これで文句はありませんね」
 太田夫人がわっと泣き崩れた。先程までの頑なな様子からは想像もつかないほど大きな声で泣くのだ。太田氏は何も言わずただ穂村を睨みつけている。
「あと、今から大事な方が来てくださいますよ。捜査に必要不可欠な方だ」
 インターホンが軽やかに鳴る。太田氏は青ざめた。
「さあ、来客ですよ。僕に構わず出てください。きっと向こうはあなたに会いたがっているはずですから」
 男はふらふらと玄関に向かう。ゆっくりと扉を開けると中年の小太りな男と、後ろには渡辺がいた。男は太田氏を小さな目でしっかりと捉えた。
「田辺と申します。ここに、甥のケンジはいるでしょうか」


  
 *

 空き巣に入ったのだ、とケンジは証言する。車庫には車が一台しかなかったので、家の者は出払っているのだろうと。
 彼は完全に素人であった。道端で声をかけてきた怪しい男の誘いに乗り、田舎で空き巣を繰り返していた。楽に金が手に入ることに味を占めた彼はその日も盗み目的で太田邸へ向かったのであった。
 黒い服を身にまとい堂々と玄関から進入する。鍵は開いていた。田舎は不用心だと思った。なんのことはない。中に家の主人がいたから開いていたのだ。
 静まりかえった室内で人の声に気づいてしまう。彼はその時点で引き返せば良かったのだ。逃げるかどうか考えあぐねている彼の耳にはとんでもない言葉が飛び込んできた。彼はつい、聞き耳を立ててしまった。
「そして居直り強盗は一転して監禁被害者になってしまった、と言うわけだよ」
「悪いことはするものじゃないですね」
 穂村と渡辺はI市の警察署にいた。一通り聴取を受けて今は待合室で待機しているのである。
 田辺が現われてから太田氏は何も言わなくなった。穂村は事前に連絡していた警察官が来るのを待って建物の西側に突入したのである。太田氏が秘密の扉を開けると隠されていた一番奥の部屋が出てきた。そしてそこの南京錠を開けると、ようやく一人の青年を確認したのである。
「ほら、君を連れ出すときに持っていた通帳入れがあっただろう。あれは実際の被害者の物なんだ。ケンジさんが出入りした事務所に保管されていてね。それを拝借したわけだよ」
 ケンジは痩せてしまったものの健康状態に問題はなかった。田辺に似た、小さめの瞳の青年であった。叔父と甥は互いの姿を確認すると大声で泣き、そして強く抱き合った。警察署に行くまで田辺はとうとう甥を叱りつけることなどできなかった。
「ケンジさんはどうなりますか?」
「指示されてやったとはいえ空き巣を随分していたようだからね。まあ服役になってしまったとしても田辺さんがいるから大丈夫だろう」
 田辺は警察署でケンジと別れると今度は穂村と渡辺の手を握って離さなかった。色々と濡れた手で強く握られるのは若干の抵抗があったものの、二人は彼に温かい言葉をかけ続けた。
 その頃太田氏は警察官に挟まれての連行である。例の同僚殺人事件の共犯者であったのだ。死体遺棄を担当したのだ。ケンジが空き巣に入った当日、探偵に怯えていた主犯との会話を聞かれてしまったのである。時効まであと数年だと焦った彼はケンジを監禁するという驚くべき手段に出たのだ。
 結果としてそれは裏目に出た。主犯が今回の事件を聞き、とうとう自首してしまったのである。ただ太田氏につながる直接の証拠は今のところないので、彼は不起訴となるのだろう。
「何にせよ、解決して良かったです。俺も肩の荷が下りたというか」
 とは言え渡辺は無職になってしまった。給料は二ヶ月分で百万円。それだけで一生暮らせるわけがないのでまた仕事を探さなければならない。渡辺はため息をついた。穂村もそれを承知しているようで、どこか楽しそうに彼を見つめる。
「実家の跡を継ぐとか、そういう選択肢はないのかい?」
「しがないサラリーマンの家ですよ。戻ったところで父親にどやされるのが目に見えています」
 なるほど、と穂村は頷いた。
「ならば渡辺くん、僕の助手になるかい」
 渡辺は穂村の放ったボールを上手く受け取ることができなかった。聞き返そうと思ったところで警察官がやってくる。今日は二人とも帰って良いと言うことだった。
「いやあ、思ったより早く終わって良かったね」
 穂村は暢気に背伸びをしている。渡辺はそれどころではなかった。
「穂村さん、さっき俺を助手にするって!」
「君さえ良ければだけど」
「でも俺、全然探偵の知識ありませんよ」
「そんなものどうにでもなるさ」
「よく人に騙されやすいとか、お人好しだって言われますよ」
「お人好しなのはいいことじゃないか。騙されやすいことだって、探偵の僕と一緒にいれば心配いらないよ」
 渡辺は何も言えなかった。やりたくないわけではない。むしろわくわくしている。そんな彼の心を見透かして、穂村は笑て言うのだ。
「渡辺くん、僕の助手になってくれないかい?」


 終わり

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