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西部遠征編
11.西部
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その日は疲れていたおかげかぐっすり眠ることができた。枕が変わって眠れない、なんてことがなかったのは幸いだ。
朝食も部屋でとらせてもらい、結局出発するまで屋敷の主であるティニム卿と顔を合わせることはなかった。使用人たちとの会話もシムフィを介していたため、思っていたより気が楽だ。喜ばしいことである。
(でも……もしかしてワイ、甘やかされてる……?)
貴族の子供の立ち振る舞いなんて全く知らないが、それにしてもやることがなさすぎるような気がする。今のところアルヴァロかシムフィにくっついて歩いて、食べて、寝ているだけだ。
こんなもので良いのだろうか。貴族らしく振る舞えと言われることを想像しただけで緊張して吐きそうになる。けれど何もしなくていいというのは、それはそれで落ち着かない。
小心者ゆえどちらにも振り切れないネレスは密かに胃を痛め始めていた。
気になるからといってすぐ行動することができる人間だったら苦労しない。それから2日目も同じように流されるまま貴族の屋敷に泊まり、部屋で食事をとり、ぐっすり眠ってしまった。
馬車に乗り込んで3日目の昼間。そろそろ目的地に着くだろうと話しながら窓の外を覗いたアルヴァロが「これは……」と呟いた。
「どうしたの……え」
膝に乗せてもらって見えた光景に絶句する。
遠くに見える街がどす黒い煙に覆われていた。火事という訳ではなさそうだが、時折なにかの光が爆発するようにちかちかと瞬いている。
近づくにつれ、獣の咆哮のようなものが耳に届いた。
「あの光は騎士団のものだろう……思っていたより苦戦しているな。悠長にしている場合ではなさそうだ」
(いや……あんなん、無理やろ。どうやって解決しろって言うねん……)
言葉を失ったネレスの頭に、アルヴァロが軽い口付けを落とす。
「恐れることはない、大丈夫だ。あの程度なら私が一掃できる」
「えっ……?」
「ノベルト! 街の端まで着いたら上空に留まりながら北を向け!」
声を張り上げたアルヴァロに、外にいる御者が「はっ!」と答える。それから彼はネレスを持ち上げ、シムフィの膝の上に移動させた。
「うえっ、エッ!?」
「少し扉を開けるから、落ちないようネレスを抱えていてくれ」
「ん」
(待って待って待って何も分からん! 流石にこれはあかんやろ!)
シムフィに後ろからぎゅっと抱きしめられるような形になり、ネレスはじわじわと頬を染めた。手を繋ぐことにやっと慣れてきたというのに、密着されるなんて無理だ。
後頭部に当たる柔らかいものの正体を考えないようにしながら「ォア゛…………」とカエルの潰れたような声を絞り出す。
しかし、異性(同性)との密着に緊張していられたのはそこまでだった。
アルヴァロが左側の扉を開け放つ。冷たい風が吹きつけて身をすくめた。彼は扉の枠に手を掛けながら右腕を突き出し、静かに呟く。
「ディエエ・トゥエド、リオエ・キオド」
その瞬間、小さく羽ばたくような音がした。ネレスの瞳には何も映っていない。けれど空気の流れが渦巻き、波打ち、アルヴァロに収束していく感覚が肌に伝わる。
「オプスサウェ・ムサエテウェ」
ひときわ大きく空気が波打った、直後。
突然遠くの上空に無数の輝く杭が現れ、落下していった。数秒遅れて地鳴りのような凄まじい轟音と獣の断末魔が響きわたる。
柔らかな風が吹いた。街全体を覆っていた黒い煙が容易く押し流され、西に広がっている森まで追いやられていく。それで、全てが終わった。
「――は?」
ほんの数秒の出来事だった。
それだけで、街は太陽の光を浴びて輝き、前線の獣は一匹残らず消え去ったのだ。
小さく息を吐いたアルヴァロが扉を閉め、ネレスを持ち上げて自分の膝の上に座らせる。
「広範囲だったからさすがに補助呪文を使ったが、これでしばらくは保つ」
ぽかんと口を開けたままのネレスを覗き込み、彼は面白そうに「恐れることはなかっただろう?」と笑った。強大な魔法を扱った長い指で、柔らかな頬をぷにぷにとつつく。
ネレスは目を見開いたまま震える声で尋ねた。
「パ――お父様……何者……?」
「私は君の父親だ。それ以外の何者でもない。君のためだけのお父様だよ」
質問の答えになっていない。
ネレスは呆然としたまま(パパ上、ヤバ強くて……親馬鹿で……強いんだな……)と訳の分からないことを考えた。
馬車はどうやら前線に降り立ったらしい。ひとりで出て行こうとしたアルヴァロをネレスは引き止めた。
「ワ、私も行く……!」
「……大丈夫か? あの状況だと負傷した騎士たちもいるはずだ。見ていて楽しいものではないが」
「い、いい……だいじょぶ……!」
あんなものを見せられたら、アルヴァロの傍が一番安全だと思うに決まっているだろう。
シムフィが弱いなどと思っている訳ではない。ただ、ついさっきまで魔獣が蔓延っていた戦地でアルヴァロから離れているのは怖かったのである。
(そ、それに手伝ってほしいって言われたしな……いやもうどこに手伝う必要があるのか分からんけど……)
目を逸らしながらアルヴァロの手を握り続けるネレスに、彼は「分かった、ではふたりともおいで」と頷いた。
馬車の外はひどい惨状だった。建物は破壊されてガレキの山になっている場所もあり、バリケードの裏には倒れている騎士たちが何人もいた。鎧を纏っていない者たちが忙しそうに走り回っているが、彼らも騎士団の人間だろうか。
地上へ降り立ったアルヴァロたちに向かって、緑色のコートを羽織り鎧を身につけた男が駆け寄ってきた。目の前で立ち止まり、勢いよく胸に手を当てて敬礼する。
「お初にお目にかかります! ヴァセラル第二騎士団長、エドアルド・ラクルスです。この度はご助力いただき感謝いたします、バラエナ辺境伯」
エドアルドと名乗る精悍な顔つきをした金髪の男は、力強くアルヴァロに視線を向けていた。
「お会いできて光栄だ、エドアルド卿。随分と苦戦していたようだが、被害状況は?」
「まだ正確には数え切れていませんが、一般の死傷者が50名ほど。騎士団の者は半数が戦闘に出られない状態です。……あと数日で壊滅していたところでした。ご療養中だというのに来てくださって、本当にありがとうございます」
「……療養していたつもりはないが……いや、いい。魔術師はいないのか?」
尋ねたアルヴァロに、エドアルドは苦笑して「魔術師は基本的に中部から出られないので……」と答える。
呆れたように肩をすくめ、アルヴァロは溜息を吐いた。
「とりあえず一掃したが、数日後にはまた魔獣が現れるはずだ。私は――」
そう言いかけたところで、他の騎士の叫び声が届いてきた。
「くそっ、薬が足りない! 誰かもっと持ってきてくれ!」
「――……薬?」
ネレスはぽつりと呟いた。
全身の血の気が引いていく。光魔法以外での治療は許されていないはずではなかっただろうか。薬という存在自体が許されていない、はずでは。
でなければ、いったい何のためにネレスは……?
アルヴァロの、ネレスの手を握る力がわずかに強くなったような気がした。
朝食も部屋でとらせてもらい、結局出発するまで屋敷の主であるティニム卿と顔を合わせることはなかった。使用人たちとの会話もシムフィを介していたため、思っていたより気が楽だ。喜ばしいことである。
(でも……もしかしてワイ、甘やかされてる……?)
貴族の子供の立ち振る舞いなんて全く知らないが、それにしてもやることがなさすぎるような気がする。今のところアルヴァロかシムフィにくっついて歩いて、食べて、寝ているだけだ。
こんなもので良いのだろうか。貴族らしく振る舞えと言われることを想像しただけで緊張して吐きそうになる。けれど何もしなくていいというのは、それはそれで落ち着かない。
小心者ゆえどちらにも振り切れないネレスは密かに胃を痛め始めていた。
気になるからといってすぐ行動することができる人間だったら苦労しない。それから2日目も同じように流されるまま貴族の屋敷に泊まり、部屋で食事をとり、ぐっすり眠ってしまった。
馬車に乗り込んで3日目の昼間。そろそろ目的地に着くだろうと話しながら窓の外を覗いたアルヴァロが「これは……」と呟いた。
「どうしたの……え」
膝に乗せてもらって見えた光景に絶句する。
遠くに見える街がどす黒い煙に覆われていた。火事という訳ではなさそうだが、時折なにかの光が爆発するようにちかちかと瞬いている。
近づくにつれ、獣の咆哮のようなものが耳に届いた。
「あの光は騎士団のものだろう……思っていたより苦戦しているな。悠長にしている場合ではなさそうだ」
(いや……あんなん、無理やろ。どうやって解決しろって言うねん……)
言葉を失ったネレスの頭に、アルヴァロが軽い口付けを落とす。
「恐れることはない、大丈夫だ。あの程度なら私が一掃できる」
「えっ……?」
「ノベルト! 街の端まで着いたら上空に留まりながら北を向け!」
声を張り上げたアルヴァロに、外にいる御者が「はっ!」と答える。それから彼はネレスを持ち上げ、シムフィの膝の上に移動させた。
「うえっ、エッ!?」
「少し扉を開けるから、落ちないようネレスを抱えていてくれ」
「ん」
(待って待って待って何も分からん! 流石にこれはあかんやろ!)
シムフィに後ろからぎゅっと抱きしめられるような形になり、ネレスはじわじわと頬を染めた。手を繋ぐことにやっと慣れてきたというのに、密着されるなんて無理だ。
後頭部に当たる柔らかいものの正体を考えないようにしながら「ォア゛…………」とカエルの潰れたような声を絞り出す。
しかし、異性(同性)との密着に緊張していられたのはそこまでだった。
アルヴァロが左側の扉を開け放つ。冷たい風が吹きつけて身をすくめた。彼は扉の枠に手を掛けながら右腕を突き出し、静かに呟く。
「ディエエ・トゥエド、リオエ・キオド」
その瞬間、小さく羽ばたくような音がした。ネレスの瞳には何も映っていない。けれど空気の流れが渦巻き、波打ち、アルヴァロに収束していく感覚が肌に伝わる。
「オプスサウェ・ムサエテウェ」
ひときわ大きく空気が波打った、直後。
突然遠くの上空に無数の輝く杭が現れ、落下していった。数秒遅れて地鳴りのような凄まじい轟音と獣の断末魔が響きわたる。
柔らかな風が吹いた。街全体を覆っていた黒い煙が容易く押し流され、西に広がっている森まで追いやられていく。それで、全てが終わった。
「――は?」
ほんの数秒の出来事だった。
それだけで、街は太陽の光を浴びて輝き、前線の獣は一匹残らず消え去ったのだ。
小さく息を吐いたアルヴァロが扉を閉め、ネレスを持ち上げて自分の膝の上に座らせる。
「広範囲だったからさすがに補助呪文を使ったが、これでしばらくは保つ」
ぽかんと口を開けたままのネレスを覗き込み、彼は面白そうに「恐れることはなかっただろう?」と笑った。強大な魔法を扱った長い指で、柔らかな頬をぷにぷにとつつく。
ネレスは目を見開いたまま震える声で尋ねた。
「パ――お父様……何者……?」
「私は君の父親だ。それ以外の何者でもない。君のためだけのお父様だよ」
質問の答えになっていない。
ネレスは呆然としたまま(パパ上、ヤバ強くて……親馬鹿で……強いんだな……)と訳の分からないことを考えた。
馬車はどうやら前線に降り立ったらしい。ひとりで出て行こうとしたアルヴァロをネレスは引き止めた。
「ワ、私も行く……!」
「……大丈夫か? あの状況だと負傷した騎士たちもいるはずだ。見ていて楽しいものではないが」
「い、いい……だいじょぶ……!」
あんなものを見せられたら、アルヴァロの傍が一番安全だと思うに決まっているだろう。
シムフィが弱いなどと思っている訳ではない。ただ、ついさっきまで魔獣が蔓延っていた戦地でアルヴァロから離れているのは怖かったのである。
(そ、それに手伝ってほしいって言われたしな……いやもうどこに手伝う必要があるのか分からんけど……)
目を逸らしながらアルヴァロの手を握り続けるネレスに、彼は「分かった、ではふたりともおいで」と頷いた。
馬車の外はひどい惨状だった。建物は破壊されてガレキの山になっている場所もあり、バリケードの裏には倒れている騎士たちが何人もいた。鎧を纏っていない者たちが忙しそうに走り回っているが、彼らも騎士団の人間だろうか。
地上へ降り立ったアルヴァロたちに向かって、緑色のコートを羽織り鎧を身につけた男が駆け寄ってきた。目の前で立ち止まり、勢いよく胸に手を当てて敬礼する。
「お初にお目にかかります! ヴァセラル第二騎士団長、エドアルド・ラクルスです。この度はご助力いただき感謝いたします、バラエナ辺境伯」
エドアルドと名乗る精悍な顔つきをした金髪の男は、力強くアルヴァロに視線を向けていた。
「お会いできて光栄だ、エドアルド卿。随分と苦戦していたようだが、被害状況は?」
「まだ正確には数え切れていませんが、一般の死傷者が50名ほど。騎士団の者は半数が戦闘に出られない状態です。……あと数日で壊滅していたところでした。ご療養中だというのに来てくださって、本当にありがとうございます」
「……療養していたつもりはないが……いや、いい。魔術師はいないのか?」
尋ねたアルヴァロに、エドアルドは苦笑して「魔術師は基本的に中部から出られないので……」と答える。
呆れたように肩をすくめ、アルヴァロは溜息を吐いた。
「とりあえず一掃したが、数日後にはまた魔獣が現れるはずだ。私は――」
そう言いかけたところで、他の騎士の叫び声が届いてきた。
「くそっ、薬が足りない! 誰かもっと持ってきてくれ!」
「――……薬?」
ネレスはぽつりと呟いた。
全身の血の気が引いていく。光魔法以外での治療は許されていないはずではなかっただろうか。薬という存在自体が許されていない、はずでは。
でなければ、いったい何のためにネレスは……?
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