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1章.奪われた花嫁は海の藻屑に

09.奪われた花嫁は海の藻屑に

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『あの男はダメだ』

ふと、王子の言葉が脳裏に浮かんだ。
怒涛のように過ぎた王宮での営みの中、求婚してくれたマルスを想うココリーネに、レオン王子はそう言った。

『止めておけ』

もしかしたら、王子は何もかもご存じだったのかもしれない。

『ココ、俺のものになれ』』

この上なく優しく、けれど強引で、レオン王子はココリーネが抗うことを許さなかった。今、目の前で何もかもが泡沫うたかたの夢と弾けて消えていく中、未だ感じる下腹部の違和感だけが妙にリアルだ。

でも。だからといって。

『考えれば分かること』だ。
何が嘘で何が本当か。そこにどんな意味があるのか。
富豪の駆引。王族の戯れ。信じたいと思う自分は愚かなのだ。

ココリーネはそっと身をひるがえして牧場の入り口に戻った。そこにはまだ、王城から連れてきた馬が待っていてくれた。感謝を伝えて再び乗ると、丘を下り街を抜けて王都を囲む巨大な森に分け入った。もはや自分が行けるところはどこにもない。

暗い雲に覆われた空には月も星も見えず、森の中は暗がりに沈んでいる。まるでココリーネの心そのもので、森の動物たちも今は沈黙でココリーネを見守っている。

気がつけば、泉に来ていた。
毎朝水汲みに通い、森と共鳴して歌った。動物たちが集まり、戯れて過ごした。ココリーネ・リンシャの人生で、唯一幸せを感じられた時間。

この泉には古い言い伝えがある。
かの昔、恋人に裏切られた娘が泉に身を投げると、その涙が龍を生み、娘は龍と共に天に昇ったという。そこから泉は水龍の泉と呼ばれ、龍神様が悲しみを癒し、天に連れて行ってくれる、すなわち成功に導いてくれると伝えられている。龍神様のご加護は、水の恵みから五穀豊穣、商売繁盛、子孫繁栄、など今でも広く信じられている。

ココリーネは龍神様に祈りを捧げた。
この身を捧げますことをどうぞお許しください。他には何もないのです。

辺りは怖いくらい静まり返っていた。祈りを終え泉に足を踏み入れると、いつもは冷たい水が、温かく包み込んでくれるのを感じる。ココリーネの虚しく乾いた心がじんわりと潤されていく。干ばつに喘ぐ大地に恵みの雨が降るように。

ココリーネの瞳から涙が転がり落ちた。
なぜ泣けてくるのか分からない。自分のことを不幸だとは思っていなかった。与えられたものを享受し、慎ましく誠実に生きてきたつもりだった。でも、…

『待て、早まるなっ!!』

自分を必要としてくれる人はどこにもいない。
この世界で生きていく場所が見つけられない。

『ココリーネ、俺はお前を、…』

龍神様、どうか。
身勝手な私をお許しください。この身をお受け取り下さい。

『…愛しているんだ』

ココリーネの涙は水龍の泉に落ち、その奥深くまで浸透していく。未だ誰も見たことのない深い深い泉の底。そこに眠る水龍王リヴァイアサンは、その夜、長い長い時の狭間で、ふと気まぐれに、ちっぽけな少女を受け取った。
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