41 / 44
番外編.そんなふたりの初めては【前編】
しおりを挟む 初めて会った相手にする話ではなかった。ユウさんは言葉を失っている。そりゃそうだ。ここは相談所でもメンタルヘルスでもなければただの居酒屋だ。
気持ちが不安定だからか、やけに人の視線を感じる。まるで店中の客が自分に注目しているような。この店に客は二人しかいないのに。
漢梅サワーを飲み干し、カバンから財布を取り出す。長居は無用だ。お通し込みで千円いかないのはありがたい。店内の空気を悪くしてしまった以上、もう二度と来れないが。
別に救いを求めているわけじゃない。ただ、心に溜まった毒を吐き捨てたかっただけ。被害者ぶってはいるが、姫川琉璃からすればわたしだって先輩と同罪なのだ。わたしが元彼にアポイントをとらなければ、ここまで世間を騒がすことはなかった。彼女の芸能生命を奪うこともなかった。
悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。
「……梅茶漬け、お待ち」
「え?」
黒い焼き物の茶碗に、白米と薬味、真ん中にちょこんと載った梅干し。梅と出汁のいいにおいが鼻孔をくすぐる。
「あの、これは……」
「ゆき……あちらの客からだ」
ユウさんの視線を追うと、カウンターの死角から青年がひょっこりと顔を出した。
「どうも」
青年につられて、わたしも会釈する。
「ここのお茶漬け、シメなのに食べごたえがあっておすすめなんですよ。さっきからうるさくしちゃってたお詫びも兼ねて」
驚いた。声ははきはきして、身なりも整っていて、絵に描いたような好青年だった。おまけに声が大きかったという自覚もある。大学生だろうか。
ナンパ……ではないか。わたしの知っている「あちらのお客様から一杯」とは違う。
「漢梅サワーを飲んでたので梅は食べられると思ったんですが、もしかして苦手でした?」
「あ、いや」
改めてお茶漬けと向き合う。
小盛りのご飯の上に、白ごまと梅干し。千切った海苔は炙ってあるのか、香ばしい。
おいしそう。食欲が湧くなんていつ以来だろう。
「いただくわ。ありがとう」
「いえいえ」
青年はにこりと微笑み、カウンターの奥に戻った。
「いただきます」
小さなレンゲでご飯と出汁をすくう。ふぅふぅと冷ましてから、ゆっくりと一口。
昆布と鰹の風味が広がる。見た目に反し、しっかりとした味付け。でも濃すぎずさっぱりして、クセがない。ほのかに漂う梅の香りが爽やかだ。ご飯もふんわりしている。
優しい味って、こういうのを指すのだろうか。
今度は梅干しをほぐし、しっかり混ぜ込む。口の中で唾がぎゅっと出てきた。食べると強い酸味が舌を刺激する。それを白出汁が包み込み、旨みを重ねている。白ごまのつぶつぶ食感も楽しい。
「おいしいです」
「そうか、よかった」
「特にこの梅干しが、酸っぱいんだけど甘みもあって」
「ああ、それは駅前の漬物屋で買っているんだ。自分でも作ったことはあるんだが、ここの味には勝てなくてな」
ユウさんが屈託のない笑みを見せる。年相応で、可愛らしい。
「ちなみに、お通しをお茶漬けに入れてもうまいぞ」
ごくり、と喉が鳴る。
言われた通り、残った身欠きにしんを投入し、軽く混ぜる。
三度、口の中へ。
ぶわっ、と味の波が押し寄せてくる。
ご飯の甘み、梅干しの酸味、出汁の滋味に、にしんのコクと塩味が加わって、舌を通じて脳へと味を刻み込んでいく。口内が空っぽになるのが惜しくて、レンゲを運ぶ手が自然と動いてしまう。
そうだ、わたしはお腹が空いていたんだ。
空っぽの胃袋に、お茶漬けを次々にくべていく。
額にうっすらにじむ汗が心地よい。身体だけでなく心も温まっていく感じがした。
あっという間に茶碗の中身はなくなった。出汁まで飲みきって、完食だ。
「おいしかったですか?」
後ろに立っていたのは、梅茶漬けをご馳走してくれた青年だった。会計を済ませたのか、開いた財布とレシートを片手に握っている。
「ええ、とても。久しぶりに食事を楽しんだわ」
「それはよかった」
わたしの顔は自然とほころんでいた。一杯のお茶漬けで、これほどに気持ちが軽くなるなんて。
やっぱりこのままじゃ終われない。
先輩の言うことが間違っていないとしても、自分の目指す道とは違うのだ。誰もがわたしを否定したって、わたしは自分を信じたい。信じる道を、信じたい。
わたしは自然と、手を差し出していた。
青年は一瞬戸惑う様子を見せたが、おごったことへの感謝と受け取ったのか、握り返してくれた。ああ、酔ってるな、わたし。上半身が少しふらついた。
「おっと」
手を連結していたため、青年もバランスを崩してしまい、財布を落としてしまう。
「ごめんなさい、すぐに拾うね!」
いけない。これじゃあ若い子に絡んでいるだけのやっかいな酔っ払いだ。わたしは身を屈め、椅子の下に滑り込んだ長財布に手を伸ばす。すぐ近くには、お札入れから飛び出したと思われる名刺もあった。
「ごめんね、これで全部?」
「はい、ありがとうございます」
長財布と名刺をそれぞれ差し出す。青年はにこやかに受け取って、もう一度会釈をしてから店を出ていった。
「口ではああ言っていたが、完全に吹っ切れてはいないか」
青年を見送るユウさんの目は、なぜか心配そうだった。
わたしが尋ねるのは少々野暮なようだ。彼にも辛い過去があるのだろうか。あるいは今も、しがらみに囚われているのかもしれない。次にこの店で会うことがあったら、もっと話してみたいな。
食の好み。
学校のこと。あるいは仕事のこと。
他のおすすめメニュー。
それと。
どうして、あなたが望海すみかの名刺を持っているのか。
気持ちが不安定だからか、やけに人の視線を感じる。まるで店中の客が自分に注目しているような。この店に客は二人しかいないのに。
漢梅サワーを飲み干し、カバンから財布を取り出す。長居は無用だ。お通し込みで千円いかないのはありがたい。店内の空気を悪くしてしまった以上、もう二度と来れないが。
別に救いを求めているわけじゃない。ただ、心に溜まった毒を吐き捨てたかっただけ。被害者ぶってはいるが、姫川琉璃からすればわたしだって先輩と同罪なのだ。わたしが元彼にアポイントをとらなければ、ここまで世間を騒がすことはなかった。彼女の芸能生命を奪うこともなかった。
悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。
「……梅茶漬け、お待ち」
「え?」
黒い焼き物の茶碗に、白米と薬味、真ん中にちょこんと載った梅干し。梅と出汁のいいにおいが鼻孔をくすぐる。
「あの、これは……」
「ゆき……あちらの客からだ」
ユウさんの視線を追うと、カウンターの死角から青年がひょっこりと顔を出した。
「どうも」
青年につられて、わたしも会釈する。
「ここのお茶漬け、シメなのに食べごたえがあっておすすめなんですよ。さっきからうるさくしちゃってたお詫びも兼ねて」
驚いた。声ははきはきして、身なりも整っていて、絵に描いたような好青年だった。おまけに声が大きかったという自覚もある。大学生だろうか。
ナンパ……ではないか。わたしの知っている「あちらのお客様から一杯」とは違う。
「漢梅サワーを飲んでたので梅は食べられると思ったんですが、もしかして苦手でした?」
「あ、いや」
改めてお茶漬けと向き合う。
小盛りのご飯の上に、白ごまと梅干し。千切った海苔は炙ってあるのか、香ばしい。
おいしそう。食欲が湧くなんていつ以来だろう。
「いただくわ。ありがとう」
「いえいえ」
青年はにこりと微笑み、カウンターの奥に戻った。
「いただきます」
小さなレンゲでご飯と出汁をすくう。ふぅふぅと冷ましてから、ゆっくりと一口。
昆布と鰹の風味が広がる。見た目に反し、しっかりとした味付け。でも濃すぎずさっぱりして、クセがない。ほのかに漂う梅の香りが爽やかだ。ご飯もふんわりしている。
優しい味って、こういうのを指すのだろうか。
今度は梅干しをほぐし、しっかり混ぜ込む。口の中で唾がぎゅっと出てきた。食べると強い酸味が舌を刺激する。それを白出汁が包み込み、旨みを重ねている。白ごまのつぶつぶ食感も楽しい。
「おいしいです」
「そうか、よかった」
「特にこの梅干しが、酸っぱいんだけど甘みもあって」
「ああ、それは駅前の漬物屋で買っているんだ。自分でも作ったことはあるんだが、ここの味には勝てなくてな」
ユウさんが屈託のない笑みを見せる。年相応で、可愛らしい。
「ちなみに、お通しをお茶漬けに入れてもうまいぞ」
ごくり、と喉が鳴る。
言われた通り、残った身欠きにしんを投入し、軽く混ぜる。
三度、口の中へ。
ぶわっ、と味の波が押し寄せてくる。
ご飯の甘み、梅干しの酸味、出汁の滋味に、にしんのコクと塩味が加わって、舌を通じて脳へと味を刻み込んでいく。口内が空っぽになるのが惜しくて、レンゲを運ぶ手が自然と動いてしまう。
そうだ、わたしはお腹が空いていたんだ。
空っぽの胃袋に、お茶漬けを次々にくべていく。
額にうっすらにじむ汗が心地よい。身体だけでなく心も温まっていく感じがした。
あっという間に茶碗の中身はなくなった。出汁まで飲みきって、完食だ。
「おいしかったですか?」
後ろに立っていたのは、梅茶漬けをご馳走してくれた青年だった。会計を済ませたのか、開いた財布とレシートを片手に握っている。
「ええ、とても。久しぶりに食事を楽しんだわ」
「それはよかった」
わたしの顔は自然とほころんでいた。一杯のお茶漬けで、これほどに気持ちが軽くなるなんて。
やっぱりこのままじゃ終われない。
先輩の言うことが間違っていないとしても、自分の目指す道とは違うのだ。誰もがわたしを否定したって、わたしは自分を信じたい。信じる道を、信じたい。
わたしは自然と、手を差し出していた。
青年は一瞬戸惑う様子を見せたが、おごったことへの感謝と受け取ったのか、握り返してくれた。ああ、酔ってるな、わたし。上半身が少しふらついた。
「おっと」
手を連結していたため、青年もバランスを崩してしまい、財布を落としてしまう。
「ごめんなさい、すぐに拾うね!」
いけない。これじゃあ若い子に絡んでいるだけのやっかいな酔っ払いだ。わたしは身を屈め、椅子の下に滑り込んだ長財布に手を伸ばす。すぐ近くには、お札入れから飛び出したと思われる名刺もあった。
「ごめんね、これで全部?」
「はい、ありがとうございます」
長財布と名刺をそれぞれ差し出す。青年はにこやかに受け取って、もう一度会釈をしてから店を出ていった。
「口ではああ言っていたが、完全に吹っ切れてはいないか」
青年を見送るユウさんの目は、なぜか心配そうだった。
わたしが尋ねるのは少々野暮なようだ。彼にも辛い過去があるのだろうか。あるいは今も、しがらみに囚われているのかもしれない。次にこの店で会うことがあったら、もっと話してみたいな。
食の好み。
学校のこと。あるいは仕事のこと。
他のおすすめメニュー。
それと。
どうして、あなたが望海すみかの名刺を持っているのか。
0
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。

【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~
紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。
※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。
※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。
※なろうにも掲載しています。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】
皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」
「っ――――!!」
「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」
クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。
******
・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる