6 / 44
06.ガマ王太子の素顔③
しおりを挟む
「アヤメ」
ゆらゆら揺れる意識の中で、自分を呼ぶ太子様の優しい声が聞こえる。
低く響く優しい声。柔らかく沁みる声。甘くかすれた声。
こんな風に自分の名前を呼んでもらったことはなかった。
父も母も美しく利発な姉姫たちを可愛がり、器量も覚えも悪い自分は徐々に彼らの目に入らなくなった。
「すまない。無理をさせたな」
ゆりかごのように優しく揺られて移動する。アヤメを支える大きくてしっかりとした腕。そっと労わるような足取り。包み込まれる清く爽やかな匂い。
温かく包まれる。背中を撫でてくれる。大きな手。力強い手。安心する。
こんな風に誰かに抱きしめてもらったことはなかった。
まるで大切なもののように。壊れないように。傷つけないように、そっと。確かに。
熱気と喧騒から遠ざかり、静かな夜気に触れる。安らぐ。和らぐ。なんという慈しみに包まれた空気だろう。
幸福にたゆたっていたアヤメは、やがて、ふわりと柔らかく心地よい布団らしきものの上に横たえられた。
太子様。ごめんなさい、私、…
そこでようやく我に返る。祝宴の途中で寝こけるとはなんたる醜態。父王が知ったら蹴り飛ばされるに違いない。
必死で目を開けようとするも、強い力に阻まれたように瞼が動かない。どうにも睡魔に抗えない。こんな風に気を緩めてしまうことなんて今までなかった。なのに、どうして、この人に触れられるとこんなに安心してしまうんだろう。
「大丈夫だ。ゆっくり休め」
太子様の手がわずかに頬に触れて、アヤメが無意識に擦り寄ると、弾かれたように温もりが離れた。
行ってしまう。
遠ざかる温もりに寂しさが込み上げて、アヤメは必死にしがみ付いた。
「…、かないで」
こんな風に、自分から何かを欲したことはなかった。
ただ、捨てられないために必死だった。
わがまま言わないから。もっと働くから。何でもするから。重いもの、汚いもの、全部引き受けるから。
だからどうか。要らないって言わないで。お姉さまたちみたいに愛されなくていい。どうかどうか。ここにいさせて。
「…アヤメ?」
ガマニエルは、自分の上着をがっちりつかんで離さない小さな娘に困惑しきっていた。
息を止めてそっと覗き込むと、静かに寝息を立てている。
…寝てる。寝てるよな。
静かに息を吐き出し、嫁いできたばかりの花嫁の寝顔を眺めた。そっと額に手を当てると、閉じた瞼がかすかに震え、まつ毛の奥に涙が光る。痩せた頬にもうっすらと涙の跡が見えた。
文明を衰退させた欲深で愚かな王が支配するボッチャリ国。
滅亡の危機に瀕して自慢の娘たちを他国に嫁がせるも売れ残った3番目の姫。なるほど、確かに容姿に目を引くところは何もない。日に焼けた肌。痩せこけた身体。整わぬ目鼻立ち。この娘は、捨てられるようにここに来た。この湿った蛙の化け物が統治する妖怪の国に。
ガマニエルは小さくため息を吐いた。
満月に似た月の光が窓から差し込み、憂いをたたえる王子の姿を浮かび上がらせる。
絹糸のように艶やかな月色の髪。象牙のように透き通った肌。高く通った鼻筋。
海より深く澄んだ藍色の瞳。長くしなやかに伸びた手足。すらりと引き締まった身体。
「…まだ。目を覚ますなよ」
ガマニエルは月明かりの下、そっと伸ばした指先でアヤメの柔らかい髪を撫でた。
愛らしく笑い、安心しきって自分の腕の中に収まり、無防備に泣く。自分を恐れることも嫌悪することもしない。こんなことは予想していなかった。こんなはずではなかった。
「すまない、アヤメ」
妻を娶らねばならなかった。この不気味な妖怪に嫁ぐものが必要だった。
『それでもお前の許に来ようという殊勝な娘の腸を我に差し出すのだ』
自分は、この純真で愛らしい娘を殺さなければならない。その腸を差し出さなければならない。
この身に刻まれた呪いと引き換えに。この国を覆う忌まわしい呪いと引き換えに。
雲が動き月光が翳る。
暗闇に閉ざされた王城の居室で、苦悩にうずくまるガマニエルに、月の煌めく美男子の面影は欠片もない。そこにはもう、目を背けたくなるほど醜悪で不気味な化け物しかいなかった。
ゆらゆら揺れる意識の中で、自分を呼ぶ太子様の優しい声が聞こえる。
低く響く優しい声。柔らかく沁みる声。甘くかすれた声。
こんな風に自分の名前を呼んでもらったことはなかった。
父も母も美しく利発な姉姫たちを可愛がり、器量も覚えも悪い自分は徐々に彼らの目に入らなくなった。
「すまない。無理をさせたな」
ゆりかごのように優しく揺られて移動する。アヤメを支える大きくてしっかりとした腕。そっと労わるような足取り。包み込まれる清く爽やかな匂い。
温かく包まれる。背中を撫でてくれる。大きな手。力強い手。安心する。
こんな風に誰かに抱きしめてもらったことはなかった。
まるで大切なもののように。壊れないように。傷つけないように、そっと。確かに。
熱気と喧騒から遠ざかり、静かな夜気に触れる。安らぐ。和らぐ。なんという慈しみに包まれた空気だろう。
幸福にたゆたっていたアヤメは、やがて、ふわりと柔らかく心地よい布団らしきものの上に横たえられた。
太子様。ごめんなさい、私、…
そこでようやく我に返る。祝宴の途中で寝こけるとはなんたる醜態。父王が知ったら蹴り飛ばされるに違いない。
必死で目を開けようとするも、強い力に阻まれたように瞼が動かない。どうにも睡魔に抗えない。こんな風に気を緩めてしまうことなんて今までなかった。なのに、どうして、この人に触れられるとこんなに安心してしまうんだろう。
「大丈夫だ。ゆっくり休め」
太子様の手がわずかに頬に触れて、アヤメが無意識に擦り寄ると、弾かれたように温もりが離れた。
行ってしまう。
遠ざかる温もりに寂しさが込み上げて、アヤメは必死にしがみ付いた。
「…、かないで」
こんな風に、自分から何かを欲したことはなかった。
ただ、捨てられないために必死だった。
わがまま言わないから。もっと働くから。何でもするから。重いもの、汚いもの、全部引き受けるから。
だからどうか。要らないって言わないで。お姉さまたちみたいに愛されなくていい。どうかどうか。ここにいさせて。
「…アヤメ?」
ガマニエルは、自分の上着をがっちりつかんで離さない小さな娘に困惑しきっていた。
息を止めてそっと覗き込むと、静かに寝息を立てている。
…寝てる。寝てるよな。
静かに息を吐き出し、嫁いできたばかりの花嫁の寝顔を眺めた。そっと額に手を当てると、閉じた瞼がかすかに震え、まつ毛の奥に涙が光る。痩せた頬にもうっすらと涙の跡が見えた。
文明を衰退させた欲深で愚かな王が支配するボッチャリ国。
滅亡の危機に瀕して自慢の娘たちを他国に嫁がせるも売れ残った3番目の姫。なるほど、確かに容姿に目を引くところは何もない。日に焼けた肌。痩せこけた身体。整わぬ目鼻立ち。この娘は、捨てられるようにここに来た。この湿った蛙の化け物が統治する妖怪の国に。
ガマニエルは小さくため息を吐いた。
満月に似た月の光が窓から差し込み、憂いをたたえる王子の姿を浮かび上がらせる。
絹糸のように艶やかな月色の髪。象牙のように透き通った肌。高く通った鼻筋。
海より深く澄んだ藍色の瞳。長くしなやかに伸びた手足。すらりと引き締まった身体。
「…まだ。目を覚ますなよ」
ガマニエルは月明かりの下、そっと伸ばした指先でアヤメの柔らかい髪を撫でた。
愛らしく笑い、安心しきって自分の腕の中に収まり、無防備に泣く。自分を恐れることも嫌悪することもしない。こんなことは予想していなかった。こんなはずではなかった。
「すまない、アヤメ」
妻を娶らねばならなかった。この不気味な妖怪に嫁ぐものが必要だった。
『それでもお前の許に来ようという殊勝な娘の腸を我に差し出すのだ』
自分は、この純真で愛らしい娘を殺さなければならない。その腸を差し出さなければならない。
この身に刻まれた呪いと引き換えに。この国を覆う忌まわしい呪いと引き換えに。
雲が動き月光が翳る。
暗闇に閉ざされた王城の居室で、苦悩にうずくまるガマニエルに、月の煌めく美男子の面影は欠片もない。そこにはもう、目を背けたくなるほど醜悪で不気味な化け物しかいなかった。
0
お気に入りに追加
56
あなたにおすすめの小説
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

【書籍化・取り下げ予定】あなたたちのことなんて知らない
gacchi
恋愛
母親と旅をしていたニナは精霊の愛し子だということが知られ、精霊教会に捕まってしまった。母親を人質にされ、この国にとどまることを国王に強要される。仕方なく侯爵家の養女ニネットとなったが、精霊の愛し子だとは知らない義母と義妹、そして婚約者の第三王子カミーユには愛人の子だと思われて嫌われていた。だが、ニネットに虐げられたと嘘をついた義妹のおかげで婚約は解消される。それでも精霊の愛し子を利用したい国王はニネットに新しい婚約者候補を用意した。そこで出会ったのは、ニネットの本当の姿が見える公爵令息ルシアンだった。書籍化予定です。取り下げになります。詳しい情報は決まり次第お知らせいたします。
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
私を幽閉した王子がこちらを気にしているのはなぜですか?
水谷繭
恋愛
婚約者である王太子リュシアンから日々疎まれながら過ごしてきたジスレーヌ。ある日のお茶会で、リュシアンが何者かに毒を盛られ倒れてしまう。
日ごろからジスレーヌをよく思っていなかった令嬢たちは、揃ってジスレーヌが毒を入れるところを見たと証言。令嬢たちの嘘を信じたリュシアンは、ジスレーヌを「裁きの家」というお屋敷に幽閉するよう指示する。
そこは二十年前に魔女と呼ばれた女が幽閉されて死んだ、いわくつきの屋敷だった。何とか幽閉期間を耐えようと怯えながら過ごすジスレーヌ。
一方、ジスレーヌを閉じ込めた張本人の王子はジスレーヌを気にしているようで……。
◇小説家になろうにも掲載中です!
◆表紙はGilry Drop様からお借りした画像を加工して使用しています

【完結】私はいてもいなくても同じなのですね ~三人姉妹の中でハズレの私~
紺青
恋愛
マルティナはスコールズ伯爵家の三姉妹の中でハズレの存在だ。才媛で美人な姉と愛嬌があり可愛い妹に挟まれた地味で不器用な次女として、家族の世話やフォローに振り回される生活を送っている。そんな自分を諦めて受け入れているマルティナの前に、マルティナの思い込みや常識を覆す存在が現れて―――家族にめぐまれなかったマルティナが、強引だけど優しいブラッドリーと出会って、少しずつ成長し、別離を経て、再生していく物語。
※三章まで上げて落とされる鬱展開続きます。
※因果応報はありますが、痛快爽快なざまぁはありません。
※なろうにも掲載しています。
【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件
三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。
※アルファポリスのみの公開です。

【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる