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time.87

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「でもね、私はほんの少し、手を貸しただけなの。
社用車の番号、会議室への出入り、ロッカーの合い鍵。
ヒントをあげたら、後は彼らが勝手にやった。

ここちゃん、恨まれてるんだよ。
けなげに頑張ってる子なんて、みんな嫌いなんだよ」

まりな先輩が微笑みを消して、
キャンディを握りしめた手を柵の向こうに伸ばした。

広げた手のひらから、小さな塊が深い夜の闇に落ちていく。

希望は、跡形もなく、あまりにも簡単に消えていった。
最初からそんなもの、どこにもなかったかのように。

「でも。だからって、…」

そりゃあ会社の皆さんには迷惑かけてばかりで、疎まれているのは知っていたけど。

そんなに。
そんなに。許せないことしたかな。

「いらないものは、処分しなきゃね」

まりな先輩がまるで悪びれた様子もなく、淡々と言い放った。

何を言っても話が通じない気がした。

おしゃれで、可愛くて、優しくて、
大人で、仕事が出来て、気配り上手。

大好きだったまりな先輩はどこにもいない。
でも、確かに。
先輩に救われたこともたくさんあった。
それは嘘じゃなかったのに。

「チーフ、…」

チーフは何も言わずに、支えるように私の背後に立っている。
後ろから私の身体に腕を回しているのは、多分私が逃げないように。

「ごめんね? ここちゃんが恋した高野さんは、私のことが好きなの」

優しく抱きしめてくれたこの腕も。
心から安心して目を閉じた腕も。
この腕があれば何もいらないと思ったことも。

『何があっても、お前の味方でいてやる』

全部。嘘じゃなかったのに。

チーフは否定しなかった。
何も言ってくれなかった。

ただ。
私の身体に回した腕に、ほんの少しだけ力が入った。

「下で、…梨子さんが、待ってます」

声がかすれた。
喉の奥に声が貼りついて、上手く息が出来なくて、
精一杯振り絞った声は、かすかで弱弱しかった。

他に言うべきことも、聞きたいことも、沢山あったはずなのに。

よりにもよって、そんなことしか出てこないなんて。
最後に伝えるのが、そんなことになるなんて。

やっぱり私は、バカなんだな。

「お前、…」

チーフの低い声は、聞こえないほど小さく、無機質に響いたけれど、
腕にまた、さっきよりも強く力がこもった。

「ここっ‼」

静寂を破って、屋上に千晃くんの声がこだました。
チーフにがっちり押さえられていて、振り返ろうとしても背後が見えない。

「早くっ」

焦ったように顔を歪めたまりな先輩の声と、

「高野さんっ‼ ここは高いところが、…」

息を切らせて近づいてくる千晃くんの声と、
複数の足音が聞こえたのと、

ほぼ同時に。

「常盤っ‼ 後は頼む‼」

チーフが私を抱き上げて、空に飛んだ。

ガラスの柵を軽々と乗り越えて。
深い夜の闇に包まれた空へ。

眼下一面に広がる宝石を散りばめたような街明かりの中へ。

耳元で風がうなって、平衡感覚がなくなって、
目も開けられなくて、悲鳴すらまともに上げられなかった。

風圧で自分の身体がバラバラに砕け散った気がした。

私の身体に回されたチーフの力強い腕だけが命綱で、
押しつぶされそうなほど強く強く抱きしめられていた。

そこに愛があるかのように。
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