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1章. ゆい
machi.18
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「…彼だったのね」
杏子師長に、神妙な顔をさせてしまった。
なんて答えればよいのかわからず、うつむいたまま黙っていた。
杏子師長は、妊娠がわかった時助けてくれた女性支援事業代表理事・北野紘子先生の娘さんで、看護師を務めながら、多くの女性たちを見守ってくれている。
非常階段で揉めていた私たちに気付いてやってきた師長は、
後で必ず連絡をさせると悠馬に約束し、私を仕事に戻らせた。
その後、師長は地下の洗濯室まで来て、私にメモを渡してくれた。
「立ち入ったことは、聞かないわ。ただ、…もし何か問題が発生したら事業の方で介入できる。忘れないで、あなたは一人じゃない」
杏子師長の聡明な目に、私はどのように映っているのだろう。
流されるままの愚かな女に映っているのだろうか。
手元に残されたメモを見る。
メモには、携帯電話の番号が記されていた。
悠馬の、字。
大学で一緒に講義を受けて以来、
久しぶりに見た悠馬の字。
意味のない数字の羅列が、愛しくて怖い。
悠馬、私のこと覚えてた。
「ゆい」って…
悠馬のあの低くて甘い声が、私の名前を呼んだ。
現実味がなくて、足元がふわふわする。
キス、…してくれた。
唇に触れてみる。
優しいキス。
観覧車でした初めてのキスと同じような、優しいキス。
…震えるキス。
悠馬が震えていたように感じたのは、…
…多分、私が震えていたんだ。
地下の洗濯室で洗い上がったタオル類をまとめ、
台車を押して屋上まで上がる。
屋上の空気は冷たく澄んでいて、頭の芯を覚醒させた。
…怖い。
現実を見なければいけなくなる。
干したタオルが風にはためく。
屋上からは、町が一望できる。
立ち並ぶビル、蛇行する車、せわしなく行きかう人々。
私はもう、ただ悠馬を好きでいた大学生じゃない。
流行りの服もお化粧品も持っていない。
すり切れたスニーカーで翔と荷物を乗せた自転車をこぐ。
テレビもパソコンもない部屋で、
調理と洗濯と保育園で使うものを準備する。
映画や美容院やレストランに行く代わりに
病院と保育園とスーパーを往復する。
作業着で清掃したり洗濯したり、
荷物を運んでごみや汚物を片付ける。
大都市の中で、日常に埋もれている存在。
悠馬はもう、選んでいる。
一生を誓いあった人と結婚している。
あのきれいな人を選んで、
買い物したり、料理したり、
あの人と、毎日を積み重ねて、
あの優しいキスをしたり、溶けるくらい抱き合ったり、
あの人と歳を重ねていく…
薄れたと思っていた痛みが、その存在を強烈に主張する。
どうして、今、会っちゃったんだろう。
現実に直面するよりも
思い出だけを大事にして、きれいなまま鍵をかけて、
時々それを心の糧にできれば、十分だったのに。
悠馬に届かない現実なんて、知りたくなかったのに。
どうしてキスなんて、しちゃったんだろう。
悠馬のことしか考えられなくなるのに…
杏子師長に、神妙な顔をさせてしまった。
なんて答えればよいのかわからず、うつむいたまま黙っていた。
杏子師長は、妊娠がわかった時助けてくれた女性支援事業代表理事・北野紘子先生の娘さんで、看護師を務めながら、多くの女性たちを見守ってくれている。
非常階段で揉めていた私たちに気付いてやってきた師長は、
後で必ず連絡をさせると悠馬に約束し、私を仕事に戻らせた。
その後、師長は地下の洗濯室まで来て、私にメモを渡してくれた。
「立ち入ったことは、聞かないわ。ただ、…もし何か問題が発生したら事業の方で介入できる。忘れないで、あなたは一人じゃない」
杏子師長の聡明な目に、私はどのように映っているのだろう。
流されるままの愚かな女に映っているのだろうか。
手元に残されたメモを見る。
メモには、携帯電話の番号が記されていた。
悠馬の、字。
大学で一緒に講義を受けて以来、
久しぶりに見た悠馬の字。
意味のない数字の羅列が、愛しくて怖い。
悠馬、私のこと覚えてた。
「ゆい」って…
悠馬のあの低くて甘い声が、私の名前を呼んだ。
現実味がなくて、足元がふわふわする。
キス、…してくれた。
唇に触れてみる。
優しいキス。
観覧車でした初めてのキスと同じような、優しいキス。
…震えるキス。
悠馬が震えていたように感じたのは、…
…多分、私が震えていたんだ。
地下の洗濯室で洗い上がったタオル類をまとめ、
台車を押して屋上まで上がる。
屋上の空気は冷たく澄んでいて、頭の芯を覚醒させた。
…怖い。
現実を見なければいけなくなる。
干したタオルが風にはためく。
屋上からは、町が一望できる。
立ち並ぶビル、蛇行する車、せわしなく行きかう人々。
私はもう、ただ悠馬を好きでいた大学生じゃない。
流行りの服もお化粧品も持っていない。
すり切れたスニーカーで翔と荷物を乗せた自転車をこぐ。
テレビもパソコンもない部屋で、
調理と洗濯と保育園で使うものを準備する。
映画や美容院やレストランに行く代わりに
病院と保育園とスーパーを往復する。
作業着で清掃したり洗濯したり、
荷物を運んでごみや汚物を片付ける。
大都市の中で、日常に埋もれている存在。
悠馬はもう、選んでいる。
一生を誓いあった人と結婚している。
あのきれいな人を選んで、
買い物したり、料理したり、
あの人と、毎日を積み重ねて、
あの優しいキスをしたり、溶けるくらい抱き合ったり、
あの人と歳を重ねていく…
薄れたと思っていた痛みが、その存在を強烈に主張する。
どうして、今、会っちゃったんだろう。
現実に直面するよりも
思い出だけを大事にして、きれいなまま鍵をかけて、
時々それを心の糧にできれば、十分だったのに。
悠馬に届かない現実なんて、知りたくなかったのに。
どうしてキスなんて、しちゃったんだろう。
悠馬のことしか考えられなくなるのに…
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