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第三章 不穏な侍女生活
絶望と渇望と恋焦がれたその先(1)
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雨音が心地よい微睡みの中、現実と夢の狭間に私はいた。
ぼんやりとした視界の端には黒い影のようなものが映り込む。
その影は絹糸を紡ぐようにぽつりと漏らした。
「──ベル」
慣れ親しんだ声。ああ、これはきっと夢だ。夢の中でユースが私を呼んでいる。久しぶりの前世の名前。懐かしくて嬉しくて。今はテレーゼなのに口元を緩めながら反応してしまった。
「……な、あに。ゆー、す」
すると夢の中の彼は整った容貌をくしゃりと崩し──こちらに手を伸ばしてきたような気がした。
◆◆◆
ユリウスにとってイザベルは、太陽の光を浴びて燦々と輝く真夏の向日葵のような存在だった。
物心付く前から虐げられ、価値のない、死んだ方がマシだと罵倒され続けた中、かろうじて命を繋いでいたユリウスにとって、この世界は色彩のない世界だった。
そんな彩りのない世界を鮮やかな世界にあっという間に塗り替えたのはイザベルだった。
死んだ方がマシだと呟いたユリウスに対して、ならば自分が貴方の生きる理由になる──その言葉がどれほど自分のことを救ったか、きっと彼女は正確に理解していないだろうし、小さい頃の話だ。覚えていなかっただろう。
イザベルの周りは一際輝いて見え、卑屈で怯えてばかりだった自分を陽の当たる場所に引っ張りあげてくれた。
感情を隠すことがとことん下手で悲しいことがあるとすぐ涙を零し、嬉しいことがあればにこにこと機嫌が良い。
むうっとふくれっ面な表情は怒っているはずなのに愛らしいという感想しか抱かないほど可愛らしく、「ユース」と彼女が授けてくれた愛称を涼やかな鈴の音の声で呼んでもらえるのは自分だけに与えられた特権だ。
いつからかは分からない。もしかしたら初めて出逢ったあの日、既に一目惚れしていたのかもしれないし、毎日欠かさず「大好きよ」と一心に伝えてくれた日々の中でゆっくりと彼女に懸想していったのかもしれない。
過程は些細なものだ。どちらにせよ、ユリウスにとってイザベルは唯一無二の存在で替えはない。あの地獄のような宮から自分を見つけ出し、救い出してくれたイザークと共に大切で死ぬ気で守りたいと思うほど大好きな──たった二人だけの家族であり、愛する人なのだから。
なのに、自分のせいで大好きな人達を殺してしまった。
──雨音がする。
曇天の空。しとしとと振り続ける雨は一週間続いている。
窓に打ち付ける雨音によって浅い眠りから目覚めたユリウスはうっすらとその瞳を開いて体を起こした。
皇帝の寝室といえば世間では贅を尽くした豪華絢爛な部屋だと思われているだろうが、ユリウスの部屋はそうではなかった。
家具として元から取り付けられていたソファやテーブルやクローゼット、自室でも書類仕事ができるよう設置された執務机には書類が山積みになっていて天板が隠れている。それと、一人で寝るには大きすぎる寝台と就寝中小物を置くようなサイドテーブル。
部屋にあるのはそれだけだ。私物と呼べるようなものは一切この空間に存在しておらず、寝て、起きて、朝を迎えるためだけの場所。それ以外の用途では使われない。
軽く欠伸をして辺りを見渡す。
「…………」
ユリウスは無言で自身の右手を持ち上げた。三十歳を超えた自身の手にはシワひとつない。
手だけではない、顔はもちろんのこと、身長も────老いを知らない身体になっていた。
「不老」と言えば聞こえはいいが実際のところある意味「呪い」なのだという。
前とは違い、自分の身を蝕んでいた発熱や痛みは伴わない。彼女によって解かれた呪いとはまた違うもの。
苦しむことはない。ただ、周りは歳をとっていくのに自分だけが十八年前と同じ姿。
このことを知っているのは極わずかだ。年齢にそぐわない容貌に初対面の者は驚き、昔から知っている貴族達は最近替え玉なのではないかと疑いの目を向けてくる。
イザベルが処刑されたあの日から自分の時計は内外共に止まってしまった。
「ベル」
返答する者はいない。虚空に溶けた愛称を授けてくれた人は、今や閉じた瞳の裏に姿を現すのみだ。
──会わせて欲しい。
彼女がこの世を去ってから約二十年。一日たりとも忘れたことは無いし、忘れたくは無い。なのに、声も顔も年々朧気になっていく。
「君がいなくなってから随分長い時が過ぎた」
イザベルの命が絶たれた時、最初ユリウスはその場で自害しようと思った。彼女のいない世界なんて生きている価値はない。恩を返す前に恩人であるイザークも逝ってしまった。ならば、後を追ってもいいだろうと、頭の中はそれで埋まった。
幸い戦場から駆けつけたので剣を持っていた。剣で胸を貫けばすぐに逝ける。
だが、柄に手をかけたとき思ったのだ。どうせ死ぬなら、何故イザベルが死ななければならなかったのか。その理由を明らかにしてからでも遅くないのではないかと。
だから真相を明らかにするまでもう少しの間、この世界に身を置くことにしたのだ。
ぼんやりとした視界の端には黒い影のようなものが映り込む。
その影は絹糸を紡ぐようにぽつりと漏らした。
「──ベル」
慣れ親しんだ声。ああ、これはきっと夢だ。夢の中でユースが私を呼んでいる。久しぶりの前世の名前。懐かしくて嬉しくて。今はテレーゼなのに口元を緩めながら反応してしまった。
「……な、あに。ゆー、す」
すると夢の中の彼は整った容貌をくしゃりと崩し──こちらに手を伸ばしてきたような気がした。
◆◆◆
ユリウスにとってイザベルは、太陽の光を浴びて燦々と輝く真夏の向日葵のような存在だった。
物心付く前から虐げられ、価値のない、死んだ方がマシだと罵倒され続けた中、かろうじて命を繋いでいたユリウスにとって、この世界は色彩のない世界だった。
そんな彩りのない世界を鮮やかな世界にあっという間に塗り替えたのはイザベルだった。
死んだ方がマシだと呟いたユリウスに対して、ならば自分が貴方の生きる理由になる──その言葉がどれほど自分のことを救ったか、きっと彼女は正確に理解していないだろうし、小さい頃の話だ。覚えていなかっただろう。
イザベルの周りは一際輝いて見え、卑屈で怯えてばかりだった自分を陽の当たる場所に引っ張りあげてくれた。
感情を隠すことがとことん下手で悲しいことがあるとすぐ涙を零し、嬉しいことがあればにこにこと機嫌が良い。
むうっとふくれっ面な表情は怒っているはずなのに愛らしいという感想しか抱かないほど可愛らしく、「ユース」と彼女が授けてくれた愛称を涼やかな鈴の音の声で呼んでもらえるのは自分だけに与えられた特権だ。
いつからかは分からない。もしかしたら初めて出逢ったあの日、既に一目惚れしていたのかもしれないし、毎日欠かさず「大好きよ」と一心に伝えてくれた日々の中でゆっくりと彼女に懸想していったのかもしれない。
過程は些細なものだ。どちらにせよ、ユリウスにとってイザベルは唯一無二の存在で替えはない。あの地獄のような宮から自分を見つけ出し、救い出してくれたイザークと共に大切で死ぬ気で守りたいと思うほど大好きな──たった二人だけの家族であり、愛する人なのだから。
なのに、自分のせいで大好きな人達を殺してしまった。
──雨音がする。
曇天の空。しとしとと振り続ける雨は一週間続いている。
窓に打ち付ける雨音によって浅い眠りから目覚めたユリウスはうっすらとその瞳を開いて体を起こした。
皇帝の寝室といえば世間では贅を尽くした豪華絢爛な部屋だと思われているだろうが、ユリウスの部屋はそうではなかった。
家具として元から取り付けられていたソファやテーブルやクローゼット、自室でも書類仕事ができるよう設置された執務机には書類が山積みになっていて天板が隠れている。それと、一人で寝るには大きすぎる寝台と就寝中小物を置くようなサイドテーブル。
部屋にあるのはそれだけだ。私物と呼べるようなものは一切この空間に存在しておらず、寝て、起きて、朝を迎えるためだけの場所。それ以外の用途では使われない。
軽く欠伸をして辺りを見渡す。
「…………」
ユリウスは無言で自身の右手を持ち上げた。三十歳を超えた自身の手にはシワひとつない。
手だけではない、顔はもちろんのこと、身長も────老いを知らない身体になっていた。
「不老」と言えば聞こえはいいが実際のところある意味「呪い」なのだという。
前とは違い、自分の身を蝕んでいた発熱や痛みは伴わない。彼女によって解かれた呪いとはまた違うもの。
苦しむことはない。ただ、周りは歳をとっていくのに自分だけが十八年前と同じ姿。
このことを知っているのは極わずかだ。年齢にそぐわない容貌に初対面の者は驚き、昔から知っている貴族達は最近替え玉なのではないかと疑いの目を向けてくる。
イザベルが処刑されたあの日から自分の時計は内外共に止まってしまった。
「ベル」
返答する者はいない。虚空に溶けた愛称を授けてくれた人は、今や閉じた瞳の裏に姿を現すのみだ。
──会わせて欲しい。
彼女がこの世を去ってから約二十年。一日たりとも忘れたことは無いし、忘れたくは無い。なのに、声も顔も年々朧気になっていく。
「君がいなくなってから随分長い時が過ぎた」
イザベルの命が絶たれた時、最初ユリウスはその場で自害しようと思った。彼女のいない世界なんて生きている価値はない。恩を返す前に恩人であるイザークも逝ってしまった。ならば、後を追ってもいいだろうと、頭の中はそれで埋まった。
幸い戦場から駆けつけたので剣を持っていた。剣で胸を貫けばすぐに逝ける。
だが、柄に手をかけたとき思ったのだ。どうせ死ぬなら、何故イザベルが死ななければならなかったのか。その理由を明らかにしてからでも遅くないのではないかと。
だから真相を明らかにするまでもう少しの間、この世界に身を置くことにしたのだ。
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