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彼女の今世
閑話 セシル・アリリエットⅤ
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反対に廻り続けていた歯車は、お姉様の死によってようやく止まった。
そして壊れてしまった。
修復不可能な──残された者には喉を焼きつくすような後悔を負う結果となって。
◆◆◆
お姉様の死は速やかに皇家によって発表された。
皇宮に呼ばれた貴族達の前で、アルバート陛下の側近ルドルフは厳かに告げた。
『──皇妃リーティア・ルーキアは肺の病により薨去された』と
私はその発表を聞いて思わず笑いそうになった。
それは歪んだ笑みだった。
(あんなに虐げていたのに薨去ですって)
「薨去」とは敬う対象──皇家の者の死に対して使う言葉だ。
あんなに酷いことをされ、まともな生活をしていなかったのに。敬われてなかったのに。世間的には、表向きには、敬う対象で。最上級の言葉が使われているのだ。
馬鹿馬鹿しくて、私は皇妃の訃報を載せた新聞を片っ端から破り、火に焚べて燃やした。
お姉様の死が公になるとアリリエット家にも弔問しに来る貴族が後を絶たなかった。
仮にもお姉様は公爵家の令嬢だったのだ。表舞台に立たなかった皇妃だとしても、それだけで弔問客は足を運ぶ。
「この度は……お悔やみ申し上げます。公爵夫人」
「どうもありがとうございます」
顔色を伺いながら、思ってもいないようなお悔やみの言葉を貴族達は口にする。
お母様は掠れた声で決まり文句を機械的に返す。その顔は黒いヴェールで隠れていて表情は分からない。
お母様はお姉様の訃報を知り、くずおれたあの日から寝る時以外黒いドレスを着て、黒いヴェールを被っている。いわゆる喪服だ。
私も似たような服装だが、唯一違うのはお母様のヴェールは私よりも分厚い、腰まであるということ。
帝国ではヴェールが長く、分厚いほど死者に哀悼していることを意味する。
そうはいってもお母様のヴェールは通常の範疇を超えていて。貴族達はその長さに目を大きく開く者が多かった。
それもそのはず、両親は可愛がる様子を彼らに見せたことなど一度もなかったから。
「で、では、失礼……致します」
重く、淀んだ、悲しみの邸宅。何かを感じとるのだろう。弔問に訪れた貴族達は例外なくそそくさと帰っていく。
太陽が静かに沈み、今日もまた泣き声が響く夜がやってくる。
「お母様」
「……セシル」
ゆっくりとお母様が振り向く。
「夕食にしましょう? 何か口に入れないと」
「いいえ。いらないわ食べたくないの」
弱々しく首を横に振る。
お母様は食事をほとんど取らなくなってしまった。侍女達がどうにかして食べてもらおうと、調理人に掛け合って好みの料理を出すのだが、それさえ手をつけない。
「でもお母様が倒れてしまうわ」
そうなったら元も子もない。
「それでいいの。倒れても構わない。喉を通らないし……あの子だって虐げられてっ」
多分、お母様なりの贖罪なのだろう。
ぎゅうっと胸元をお母様は掴む。何度も何度も癖になるほど繰り返された仕草は、くっきりしたしわを服に作っていた。
「リーティアお姉様は……きっと望んでいないわ」
言ってから後悔した。お母様には今、その名前は禁句なのだ。
ハッとした時にはもう遅い。今日何度目か分からないが瞳に涙をため、震えた唇でお母様は言葉を紡ぐ。
「ダメなのよ。毎夜出てくるの。私を責め立てる今のリーティアとまだ無邪気だった二歳くらいのリーティアが交互に」
お母様は崩れ落ちるようにソファに座る。
「二歳……二歳よ? それ以降のリーティアは出てこないの。朗らかに笑って、寄ってきてくれるあの子が想像出来ないの」
顔を覆い、声は嗚咽に変わる。手は震え、かぶりをふり、同調するように蝋燭の炎が揺れる。
「……貴女も夢に途中で出てくるの。でも、貴女の方は小さかった時だけではなく、大きくなった容姿で微笑みかけてくれるわ」
剥ぎ取るようにお母様はヴェールを脱いだ。それはふわりと一瞬舞って、床に落ちた。
「それで、二歳のリーティアが無邪気に『どうして愛してくれなかったの? 笑いかけてくれなかったの? わたしは────お母様の娘じゃないの? セシルだけがお母様の娘なの?』って言われて……毎朝そこで目が覚めるのよ」
涙が滝のように伝い落ちる。毎日泣きすぎてお母様の瞳は腫れていた。
「私は……起きて、考えるの。だけど何も理由が思いつかないのよ。あの子の親なのに。貴女には出来ていたのに。何故リーティアには出来なかったのか、言えないのよ。最低よね」
自嘲を浮かべたお母様はヴェールを拾って握りしめ、同意を求めるように私を見た。
「それでも、食べてください。倒れられては困ります。明日は──葬式が執り行われるので」
多くの帝国民は知らない。
彼女の本当の死因を。
そして何があったのかを。
貴族達は薄々察しているだろう。
リーティアお姉様は表舞台に立たなかった。立てなかった。
それだけで容易に皇宮での皇妃の立ち位置は分かるから。
私はお母様の手を取り立ち上がらせる。
「旦那さまは?」
「お父様は仕事です」
「そう……」
お父様は何かにとりつかれたかのように仕事をこなしている。大方忙しければお姉様のことを思い出さなくてすむからだろう。
食堂につき、自席に座る。
夕食は静かなものだった。給仕の者はもちろんのこと、お母様も私も一言も言葉を発さないから。
窓は開いているはずなのに、重苦しい空気が垂れ込む。
「──ご馳走様でした」
そう言って半分も食べきれてない料理を残し、席を立った。そのまま自室に行き、就寝の準備をする。
寝台に寝そべるが、眠気がやってこない。仕方がないので上半身を起こす。
「あしたお姉様は葬られる」
氷の膜によって守られ、腐ることもなく、棺の中で永遠の眠りにつくのだ。
死は多くの人にとっては辛いことだ。愛する──大切な人のぬくもりを失うのだから。
だが、お姉様にとっては救いだったのかもしれない。
日記の端に「早く死にたい。こんな苦しい世界は嫌だ」と走り書きがあった。
(まだ、十九歳なのに。花盛りで、一番幸せな時期になるはずだったのに)
結婚は多くの女性にとって人生の幸せだ。愛する人と結ばれて、子を生して、穏やかな家庭を築く。
どこから捻れてしまったのだろう。お姉様はこの家に居場所が無くても、アルバート陛下と──好きな人と結婚すれば、幸せを掴めたはずだったのに。
レリーナが現れてから、時折優しく目を細めて、お姉様を見ていた陛下はいなくなってしまった。
残ったのは長年婚約者だった相手を、邪魔物扱いする非道な人格。
式を挙げたあの日も、新婦に向けるにはありえない凍った瞳。
(ぜんぶ、全部あの女のせい)
現れなければ。見つからなければ。陛下の隣に立っていたのはお姉様で。
あんな惨い死に方なんて、こんな若くして──
沢山泣いたはずなのにじわりと涙が滲んでくる。
私もお母様たちと同様に毎日自分を責めて、後悔して、懺悔して、泣いている。
(ああ)
きっとどうしようもないこの気持ちは生きている限り消えることはないのだろう。
私は靴も履かずに廊下に出た。
真っ暗な廊下。ビュウッと何処からか入ってきた風が通り過ぎ、風が来た方向を何となく見て、私は固まった。
(え、開いてる)
軋みながら奥の部屋──リーティアお姉様が生前使っていて、今は鍵がかけられてるはずのドアが開いたのだ。
私は引き寄せられるように向かった。
(どうして? 侍女達が昼間、掃除でもしたのかしら)
ドアを閉める前に中に入る。
この部屋に以前入ったのはいつだっただろうか。覚えていないほど過去のことだ。
お姉様が居た時は入れなかったし、嫁いだ後も後ろめたくて足を踏み入れられなかった。
質素で物がほとんど置かれていないお姉様の部屋は、嫁いだ時そのままで保存されている。
時折換気のために窓が開けられたり、掃除するために人が入ったりするが……。
「何も……置いてない」
小難しい本以外何も。私の部屋には誕生日に貰った縫いぐるみやドレスや宝飾品で溢れているのに。
お姉様は皇宮に自分の持ち物をほとんど持っていかなかったはずなのに。
「こんな……部屋だったの?」
人が生活していたとは思えないほど質素である。月明かりだけがこの部屋の装飾品のようなくらいに。
不思議なことに窓が開いている。夜風によって、寝台の赤薔薇が刺繍されたカーテンがはためいている。
刺繍をなぞる。繊細なそれは何十時間もかけて作られていることが手に取るようにわかる。
「何で薔薇なのよお母様」
私はこのカーテンの刺繍がお母様の物だと知っていた。
「……愛してるじゃないですか。ここに、証拠があるのに」
赤薔薇の花言葉は『愛情』だ。きっとそれで薔薇を選んだのだろう。
誕生を待ち望んでいるから細かい刺繍を刺しているのだ。望まない、愛してない子供ならば、下手したら数ヶ月かかるようなものを作ったりしない。ましてや部屋に取り付けるだなんて。
いつからか表に出てこなくなった慈しみがそこにはあった。
また風が窓から入ってきて、カーテンが揺れる。
お姉様は気が付いていただろうか。このカーテンがお母様によって作られたことを。
(多分、知らなかったでしょうね。お姉様は事務的な会話しかしてなかったし)
私だって、お母様から刺繍を習い始めて知ったのだ。自室にある白百合のカーテンが彼女の作品だと。
バルコニーに出る。下の花壇には花が咲いていない。使われていないのだ。
次に空を眺めた。この世界を祝福しているかのような満天の星空。
何だか酷く心を締め付けられて、早足に部屋に戻った。
そして吐露する。
「神さま……お願い。一度でいいから、リーティアお姉様に……会わせて。ごめんなさいって言わせて欲しいよ」
自己満足なのはわかっている。己の後悔を少しでも減らしたい自己中心的なものだ。
それでも数秒、一言だけでいいから直接言いたいのだ。例え叶わないと分かっていても、願ってしまう。
──大切なものは無くしてから分かる。
言葉通りだ。お母様も、お父様も、私も。そして忌々しいが──アルバート陛下も。
運命の針は反対に廻って粉々に砕け散ってしまったのだから。
「うう……おねぇ……さまぁ……」
後悔が大波のように襲いかかってくる。
私は声をあげて泣いた。カーテンを握りしめながら、疲れてお姉様の寝台で寝てしまうまでずっと。
そして壊れてしまった。
修復不可能な──残された者には喉を焼きつくすような後悔を負う結果となって。
◆◆◆
お姉様の死は速やかに皇家によって発表された。
皇宮に呼ばれた貴族達の前で、アルバート陛下の側近ルドルフは厳かに告げた。
『──皇妃リーティア・ルーキアは肺の病により薨去された』と
私はその発表を聞いて思わず笑いそうになった。
それは歪んだ笑みだった。
(あんなに虐げていたのに薨去ですって)
「薨去」とは敬う対象──皇家の者の死に対して使う言葉だ。
あんなに酷いことをされ、まともな生活をしていなかったのに。敬われてなかったのに。世間的には、表向きには、敬う対象で。最上級の言葉が使われているのだ。
馬鹿馬鹿しくて、私は皇妃の訃報を載せた新聞を片っ端から破り、火に焚べて燃やした。
お姉様の死が公になるとアリリエット家にも弔問しに来る貴族が後を絶たなかった。
仮にもお姉様は公爵家の令嬢だったのだ。表舞台に立たなかった皇妃だとしても、それだけで弔問客は足を運ぶ。
「この度は……お悔やみ申し上げます。公爵夫人」
「どうもありがとうございます」
顔色を伺いながら、思ってもいないようなお悔やみの言葉を貴族達は口にする。
お母様は掠れた声で決まり文句を機械的に返す。その顔は黒いヴェールで隠れていて表情は分からない。
お母様はお姉様の訃報を知り、くずおれたあの日から寝る時以外黒いドレスを着て、黒いヴェールを被っている。いわゆる喪服だ。
私も似たような服装だが、唯一違うのはお母様のヴェールは私よりも分厚い、腰まであるということ。
帝国ではヴェールが長く、分厚いほど死者に哀悼していることを意味する。
そうはいってもお母様のヴェールは通常の範疇を超えていて。貴族達はその長さに目を大きく開く者が多かった。
それもそのはず、両親は可愛がる様子を彼らに見せたことなど一度もなかったから。
「で、では、失礼……致します」
重く、淀んだ、悲しみの邸宅。何かを感じとるのだろう。弔問に訪れた貴族達は例外なくそそくさと帰っていく。
太陽が静かに沈み、今日もまた泣き声が響く夜がやってくる。
「お母様」
「……セシル」
ゆっくりとお母様が振り向く。
「夕食にしましょう? 何か口に入れないと」
「いいえ。いらないわ食べたくないの」
弱々しく首を横に振る。
お母様は食事をほとんど取らなくなってしまった。侍女達がどうにかして食べてもらおうと、調理人に掛け合って好みの料理を出すのだが、それさえ手をつけない。
「でもお母様が倒れてしまうわ」
そうなったら元も子もない。
「それでいいの。倒れても構わない。喉を通らないし……あの子だって虐げられてっ」
多分、お母様なりの贖罪なのだろう。
ぎゅうっと胸元をお母様は掴む。何度も何度も癖になるほど繰り返された仕草は、くっきりしたしわを服に作っていた。
「リーティアお姉様は……きっと望んでいないわ」
言ってから後悔した。お母様には今、その名前は禁句なのだ。
ハッとした時にはもう遅い。今日何度目か分からないが瞳に涙をため、震えた唇でお母様は言葉を紡ぐ。
「ダメなのよ。毎夜出てくるの。私を責め立てる今のリーティアとまだ無邪気だった二歳くらいのリーティアが交互に」
お母様は崩れ落ちるようにソファに座る。
「二歳……二歳よ? それ以降のリーティアは出てこないの。朗らかに笑って、寄ってきてくれるあの子が想像出来ないの」
顔を覆い、声は嗚咽に変わる。手は震え、かぶりをふり、同調するように蝋燭の炎が揺れる。
「……貴女も夢に途中で出てくるの。でも、貴女の方は小さかった時だけではなく、大きくなった容姿で微笑みかけてくれるわ」
剥ぎ取るようにお母様はヴェールを脱いだ。それはふわりと一瞬舞って、床に落ちた。
「それで、二歳のリーティアが無邪気に『どうして愛してくれなかったの? 笑いかけてくれなかったの? わたしは────お母様の娘じゃないの? セシルだけがお母様の娘なの?』って言われて……毎朝そこで目が覚めるのよ」
涙が滝のように伝い落ちる。毎日泣きすぎてお母様の瞳は腫れていた。
「私は……起きて、考えるの。だけど何も理由が思いつかないのよ。あの子の親なのに。貴女には出来ていたのに。何故リーティアには出来なかったのか、言えないのよ。最低よね」
自嘲を浮かべたお母様はヴェールを拾って握りしめ、同意を求めるように私を見た。
「それでも、食べてください。倒れられては困ります。明日は──葬式が執り行われるので」
多くの帝国民は知らない。
彼女の本当の死因を。
そして何があったのかを。
貴族達は薄々察しているだろう。
リーティアお姉様は表舞台に立たなかった。立てなかった。
それだけで容易に皇宮での皇妃の立ち位置は分かるから。
私はお母様の手を取り立ち上がらせる。
「旦那さまは?」
「お父様は仕事です」
「そう……」
お父様は何かにとりつかれたかのように仕事をこなしている。大方忙しければお姉様のことを思い出さなくてすむからだろう。
食堂につき、自席に座る。
夕食は静かなものだった。給仕の者はもちろんのこと、お母様も私も一言も言葉を発さないから。
窓は開いているはずなのに、重苦しい空気が垂れ込む。
「──ご馳走様でした」
そう言って半分も食べきれてない料理を残し、席を立った。そのまま自室に行き、就寝の準備をする。
寝台に寝そべるが、眠気がやってこない。仕方がないので上半身を起こす。
「あしたお姉様は葬られる」
氷の膜によって守られ、腐ることもなく、棺の中で永遠の眠りにつくのだ。
死は多くの人にとっては辛いことだ。愛する──大切な人のぬくもりを失うのだから。
だが、お姉様にとっては救いだったのかもしれない。
日記の端に「早く死にたい。こんな苦しい世界は嫌だ」と走り書きがあった。
(まだ、十九歳なのに。花盛りで、一番幸せな時期になるはずだったのに)
結婚は多くの女性にとって人生の幸せだ。愛する人と結ばれて、子を生して、穏やかな家庭を築く。
どこから捻れてしまったのだろう。お姉様はこの家に居場所が無くても、アルバート陛下と──好きな人と結婚すれば、幸せを掴めたはずだったのに。
レリーナが現れてから、時折優しく目を細めて、お姉様を見ていた陛下はいなくなってしまった。
残ったのは長年婚約者だった相手を、邪魔物扱いする非道な人格。
式を挙げたあの日も、新婦に向けるにはありえない凍った瞳。
(ぜんぶ、全部あの女のせい)
現れなければ。見つからなければ。陛下の隣に立っていたのはお姉様で。
あんな惨い死に方なんて、こんな若くして──
沢山泣いたはずなのにじわりと涙が滲んでくる。
私もお母様たちと同様に毎日自分を責めて、後悔して、懺悔して、泣いている。
(ああ)
きっとどうしようもないこの気持ちは生きている限り消えることはないのだろう。
私は靴も履かずに廊下に出た。
真っ暗な廊下。ビュウッと何処からか入ってきた風が通り過ぎ、風が来た方向を何となく見て、私は固まった。
(え、開いてる)
軋みながら奥の部屋──リーティアお姉様が生前使っていて、今は鍵がかけられてるはずのドアが開いたのだ。
私は引き寄せられるように向かった。
(どうして? 侍女達が昼間、掃除でもしたのかしら)
ドアを閉める前に中に入る。
この部屋に以前入ったのはいつだっただろうか。覚えていないほど過去のことだ。
お姉様が居た時は入れなかったし、嫁いだ後も後ろめたくて足を踏み入れられなかった。
質素で物がほとんど置かれていないお姉様の部屋は、嫁いだ時そのままで保存されている。
時折換気のために窓が開けられたり、掃除するために人が入ったりするが……。
「何も……置いてない」
小難しい本以外何も。私の部屋には誕生日に貰った縫いぐるみやドレスや宝飾品で溢れているのに。
お姉様は皇宮に自分の持ち物をほとんど持っていかなかったはずなのに。
「こんな……部屋だったの?」
人が生活していたとは思えないほど質素である。月明かりだけがこの部屋の装飾品のようなくらいに。
不思議なことに窓が開いている。夜風によって、寝台の赤薔薇が刺繍されたカーテンがはためいている。
刺繍をなぞる。繊細なそれは何十時間もかけて作られていることが手に取るようにわかる。
「何で薔薇なのよお母様」
私はこのカーテンの刺繍がお母様の物だと知っていた。
「……愛してるじゃないですか。ここに、証拠があるのに」
赤薔薇の花言葉は『愛情』だ。きっとそれで薔薇を選んだのだろう。
誕生を待ち望んでいるから細かい刺繍を刺しているのだ。望まない、愛してない子供ならば、下手したら数ヶ月かかるようなものを作ったりしない。ましてや部屋に取り付けるだなんて。
いつからか表に出てこなくなった慈しみがそこにはあった。
また風が窓から入ってきて、カーテンが揺れる。
お姉様は気が付いていただろうか。このカーテンがお母様によって作られたことを。
(多分、知らなかったでしょうね。お姉様は事務的な会話しかしてなかったし)
私だって、お母様から刺繍を習い始めて知ったのだ。自室にある白百合のカーテンが彼女の作品だと。
バルコニーに出る。下の花壇には花が咲いていない。使われていないのだ。
次に空を眺めた。この世界を祝福しているかのような満天の星空。
何だか酷く心を締め付けられて、早足に部屋に戻った。
そして吐露する。
「神さま……お願い。一度でいいから、リーティアお姉様に……会わせて。ごめんなさいって言わせて欲しいよ」
自己満足なのはわかっている。己の後悔を少しでも減らしたい自己中心的なものだ。
それでも数秒、一言だけでいいから直接言いたいのだ。例え叶わないと分かっていても、願ってしまう。
──大切なものは無くしてから分かる。
言葉通りだ。お母様も、お父様も、私も。そして忌々しいが──アルバート陛下も。
運命の針は反対に廻って粉々に砕け散ってしまったのだから。
「うう……おねぇ……さまぁ……」
後悔が大波のように襲いかかってくる。
私は声をあげて泣いた。カーテンを握りしめながら、疲れてお姉様の寝台で寝てしまうまでずっと。
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