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彼女の今世
閑話 セシル・アリリエットIV
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「──お父様、立ってください。アルバート陛下の御前ですよ」
焔を隠し、淡々と告げれば、生気を失った虚ろな目がこちらに向く。
「わたしは──取り返しのつかないことを」
地面から手が離れ、宙を彷徨う。まるでそこにはいない誰かを掴むように。虚空を握る。
「後悔したところで遅いです。だってお姉様は、リーティアは、貴方の娘は、この世にいませんもの」
今度は突き刺すようではなく、優しく言葉を紡いだ。
だけどお父様は耳を塞ぐ。
その言葉は聞きたくないとばかりに。
目の前にいる人物はただ、己の過ちを自覚して、今更ながら目に見えない鋭利な刃物で、心を滅多刺しにされている状態。
その手助けをした私は、お父様に嘘の慰めさえ送れなかった。
──いくら待っても動く気配がない。
仕方なくお父様の手を取って立ち上がらせる。だが今にも再び地面に座り込んでしまいそうなほど、足に力が入っていない。
お父様は元の位置に座り直し、手を額に当てて俯く。奥歯を強くかみ締めたのか、ギリっと擦れる音がした。
酷く痛悔しているのはその姿から感じ取れる。しかし、それだけなのだ。
ようやく自分が何を失ったのか。こぼしてしまったのか。どこで道を誤ってしまったのか。
娘という愛のかたちを、最愛を、家族を。
自覚するだけでは足りない。罪と贖罪が釣り合わない。
それは陛下も同じだ。むしろ生きていく上で必要な生活基準さえ整えられなかった陛下の方が重い。
「陛下、どうするおつもりで?」
まともに口を聞けないお父様を一旦放置し、矛先をアルバート陛下に戻す。手から伝う血は止まっているようだが、汚れた手を拭かず、そのまま放置している。
「何をだ?」
「どう、貴族に、民に、発表するのですか。こんな栄養失調などと……まともに受け取る者がいるのでしょうか」
──笑わせてくれる。
お姉様は虐げられていたとはいえ、家系図に名を書き連ねた時点で皇族だ。皇族の死は例外なく、死因とともに発表される。
現に鐘は鳴り響き、誰かが亡くなったことはこの城にいる者には知られてしまっている。
発表後、十日間は城のいたる窓から黒幕が下ろされ、死者と生者の入れ替わる時間帯──夕刻に追悼の鐘が鳴り響く。
つまり貴族はもちろん、平民にまでお姉様の死因は知れ渡るのだ。
こんな、ありえない、栄養失調などという思わず笑ってしまう死因が。
──死人に口なし
本来、皇后になるはずであった公爵家の娘が皇妃として嫁ぎ、虐げられた挙句に亡くなる。
字面だけでも格好の笑い種だ。皇帝を侮辱することは出来ないから、全てリーティアお姉様が悪いということになって降りかかる。
このままでは弄ばれてしまう。それだけは避けなければならない。
名誉は──守らなければ。
「──偽装する。病の名前を変えて……喀血していたから肺の病だとするつもりだ」
ここまで虐げて来たのだから、てっきり死因もそのまま発表すると思っていた私は、少し動揺した。
「そうですか。それなら安心……とは言えませんがお姉様が酷く言われるのを少しは防げます」
「あとはこれをそなたに」
渡されたのはアルバート陛下の隣にあった一冊の書物。それほど分厚くはない。
「……日記? これは誰の────まさか」
いま、ここで渡されるということは。そういうことなのだろうか。でも、お姉様は公爵邸でこんなものを付けてなんて……。
パラパラと捲っていくと見慣れた……とはいかないが知っている筆跡が目に飛び込む。懐かしいそれは、私の心臓を大きく跳ねさせる。
慌てて持ち主の名前を探す。ようやく見つけたそれを震える指先でなぞる。
視界が水に入った時のようにぼやける。
──リーティア・アリリエット
狂いのない、軽やかな、だけど洗練された文字がそこにあった。
「陛下、これはどこに?」
「机の上に置かれていた。数少ない遺品だろうから、引き渡そうと」
「読まれて?」
「ああ、確認のためにな」
中身は他愛もないことも書かれていたが、孤立状態だったお姉様のことだ。ほとんどはアルバート陛下に対する辛烈な文章から、こちらの心臓掴まれ、苦しくなるような内容ばかり。
しばらくの間日記を読み、顔を上げた私はアルバート陛下を睨みつける。読み進めるうちに彼に対する怒りが私の中で増していた。
ここに綴られている内容が本当ならば、お姉様は想像していたよりも酷い仕打ちを受けていたようだから。
「これに書かれている事柄は全て本当の出来事でしょうか」
「──本当だ。最低なことをしたとは思う」
「〝とは〟って何様のつもりです? 陛下がしたことは最低なことでしかないんですよ。それ以外の何物でもない。殺しているのですからっ!」
言葉が牙を剥く。私は叫ぶように言った。
持っていた日記を陛下に叩きつけそうになり、握る力を強める。
誤魔化さず、素直に認めてもらえたのはいいことなのかもしれない。まあ情状酌量には少しもなり得ないが。
「お取り込み中失礼致します。陛下、そろそろ」
ノックをして入ってきたのはルドルフという男。お姉様の日記の中にも登場している悪だ。
感情を制御出来ず、キッと睨みつける。
彼は日記の中身を知らないのか、びくりと肩をふるわせた。
「ああ、分かった。私はこれで失礼させてもらうが、何か他に言いたいことは?」
立ち上がった陛下は顔だけをこちらに向けた。
「では一つだけ。私は──」
アルバート陛下に近づき、不敬を承知で耳元で毒づいた。
『──貴方を、愚かな皇帝を、妻を殺した夫を、絶対に許さない』と
陛下は表情をピクリとも変えなかった。凪いでいる瞳がそこにはある。
最後まで何を考えているのか分からない陛下は、とても深い──底が見えない深淵を向けて、私に言ったのだ。
『──好きにしろ』と
◇◇◇
抜け殻のようなお父様を無理やり馬車に押し込み、皇宮を後にする。
公爵邸のエントランスに馬車を横付けると何やら騒がしい。
「どうしたの。何故こんなに人が集まって」
「お嬢様お帰りなさいませ。これには少々事情がありまして。立て込んでいるのです。後でご説明……」
「──私の娘は何処?!!!」
ヒステリックな叫び声が響き渡った。
「お母……さまなの?」
取り乱し、侍女たちの制止を振り切って外に出ようとしている一人の女性がそこにはいた。
誰かが着替えさせたのだろう。昼間のドレスからネグリジェに変わり、お団子にして後ろで纏めていた髪は乱れて、結われていない。
「ねえ、どこ……どこなの」
「奥様落ち着いてください。セシルお嬢様ならたった今お帰りに────」
侍女が伸ばした手をお母様は無造作に振り払い、金切り声を上げた。
勢いをつけすぎて、ふらりとよろける。
「違うわっ! もうひとりの、わたしの、むすめッ」
「皇妃殿下はここにおりませんよ」
諭すように教える。
「皇妃? ううん、わたしの娘は皇后になるのよ。とっても自慢のむすめ、なの、そうでしょ? セシル」
一瞬光が戻り、また潰えた。私、ではなくて私の中にリーティアお姉様を見出そうとしているかのような。お父様とおなじ虚ろな眼差し。
お母様は分かっているのだ。
知っているのだ。
聞いたのだ。
もう──お姉様はこの世にいないことを。
けれど、その現実を受け入れたくなくて、偽りだと思い込みたくて、こんな行動に出てしまっている。
「では、亡骸を見ますか? 今から行っても陛下は見せてくださるでしょう」
伺いしてはいないが、陛下は拒まないだろうと何故か確信していた。
「見ない……わ。見たら現実になってしまう。否定できなくなってしまう。見なければそれは──本当ではないのよ。瞞しなの。幻よ。周りが作った嘘」
伝い落ちる雫と共に光が蘇る。そして私に縋り付く。ここにはいない人に向かって懺悔するように。
「愛して、なかったわけではないの。むしろ大好きよ。愛しているわ。だから厳しく、リーティアを完璧にすればいいのだと。それがあの子にとっても良い事だと」
私のドレスを握る力が強くなる。
「ああ、こんなに早く逝ってしまうなら、あの子に何も出来ずに会えなくなってしまうなら、話せないなら、あんなもっとちゃんと────」
お母様は右手をドレスから離して左胸を鷲掴む。
「こんな、悲しくて、後悔して、心臓が抉られるくらいなら────皇家に嫁がせなければよかった」
ひくりと喉を引きつらせながらお母様はうわ言を続ける。
「どうしてどうしてどうしてッ?!! 今になって、こんな、哀しくて! 接し方を間違えた罰なの? 私のせいなの? ねえッッッ! だれ……か……教えて……よぉ」
切り裂くように言葉を紡ぎ、顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
「……して、主よお返しください……わたしの娘を。かえし……てぇ……」
そのままお母様の慟哭は、彼女の喉が枯れるまで辺りを包んだのだった。
焔を隠し、淡々と告げれば、生気を失った虚ろな目がこちらに向く。
「わたしは──取り返しのつかないことを」
地面から手が離れ、宙を彷徨う。まるでそこにはいない誰かを掴むように。虚空を握る。
「後悔したところで遅いです。だってお姉様は、リーティアは、貴方の娘は、この世にいませんもの」
今度は突き刺すようではなく、優しく言葉を紡いだ。
だけどお父様は耳を塞ぐ。
その言葉は聞きたくないとばかりに。
目の前にいる人物はただ、己の過ちを自覚して、今更ながら目に見えない鋭利な刃物で、心を滅多刺しにされている状態。
その手助けをした私は、お父様に嘘の慰めさえ送れなかった。
──いくら待っても動く気配がない。
仕方なくお父様の手を取って立ち上がらせる。だが今にも再び地面に座り込んでしまいそうなほど、足に力が入っていない。
お父様は元の位置に座り直し、手を額に当てて俯く。奥歯を強くかみ締めたのか、ギリっと擦れる音がした。
酷く痛悔しているのはその姿から感じ取れる。しかし、それだけなのだ。
ようやく自分が何を失ったのか。こぼしてしまったのか。どこで道を誤ってしまったのか。
娘という愛のかたちを、最愛を、家族を。
自覚するだけでは足りない。罪と贖罪が釣り合わない。
それは陛下も同じだ。むしろ生きていく上で必要な生活基準さえ整えられなかった陛下の方が重い。
「陛下、どうするおつもりで?」
まともに口を聞けないお父様を一旦放置し、矛先をアルバート陛下に戻す。手から伝う血は止まっているようだが、汚れた手を拭かず、そのまま放置している。
「何をだ?」
「どう、貴族に、民に、発表するのですか。こんな栄養失調などと……まともに受け取る者がいるのでしょうか」
──笑わせてくれる。
お姉様は虐げられていたとはいえ、家系図に名を書き連ねた時点で皇族だ。皇族の死は例外なく、死因とともに発表される。
現に鐘は鳴り響き、誰かが亡くなったことはこの城にいる者には知られてしまっている。
発表後、十日間は城のいたる窓から黒幕が下ろされ、死者と生者の入れ替わる時間帯──夕刻に追悼の鐘が鳴り響く。
つまり貴族はもちろん、平民にまでお姉様の死因は知れ渡るのだ。
こんな、ありえない、栄養失調などという思わず笑ってしまう死因が。
──死人に口なし
本来、皇后になるはずであった公爵家の娘が皇妃として嫁ぎ、虐げられた挙句に亡くなる。
字面だけでも格好の笑い種だ。皇帝を侮辱することは出来ないから、全てリーティアお姉様が悪いということになって降りかかる。
このままでは弄ばれてしまう。それだけは避けなければならない。
名誉は──守らなければ。
「──偽装する。病の名前を変えて……喀血していたから肺の病だとするつもりだ」
ここまで虐げて来たのだから、てっきり死因もそのまま発表すると思っていた私は、少し動揺した。
「そうですか。それなら安心……とは言えませんがお姉様が酷く言われるのを少しは防げます」
「あとはこれをそなたに」
渡されたのはアルバート陛下の隣にあった一冊の書物。それほど分厚くはない。
「……日記? これは誰の────まさか」
いま、ここで渡されるということは。そういうことなのだろうか。でも、お姉様は公爵邸でこんなものを付けてなんて……。
パラパラと捲っていくと見慣れた……とはいかないが知っている筆跡が目に飛び込む。懐かしいそれは、私の心臓を大きく跳ねさせる。
慌てて持ち主の名前を探す。ようやく見つけたそれを震える指先でなぞる。
視界が水に入った時のようにぼやける。
──リーティア・アリリエット
狂いのない、軽やかな、だけど洗練された文字がそこにあった。
「陛下、これはどこに?」
「机の上に置かれていた。数少ない遺品だろうから、引き渡そうと」
「読まれて?」
「ああ、確認のためにな」
中身は他愛もないことも書かれていたが、孤立状態だったお姉様のことだ。ほとんどはアルバート陛下に対する辛烈な文章から、こちらの心臓掴まれ、苦しくなるような内容ばかり。
しばらくの間日記を読み、顔を上げた私はアルバート陛下を睨みつける。読み進めるうちに彼に対する怒りが私の中で増していた。
ここに綴られている内容が本当ならば、お姉様は想像していたよりも酷い仕打ちを受けていたようだから。
「これに書かれている事柄は全て本当の出来事でしょうか」
「──本当だ。最低なことをしたとは思う」
「〝とは〟って何様のつもりです? 陛下がしたことは最低なことでしかないんですよ。それ以外の何物でもない。殺しているのですからっ!」
言葉が牙を剥く。私は叫ぶように言った。
持っていた日記を陛下に叩きつけそうになり、握る力を強める。
誤魔化さず、素直に認めてもらえたのはいいことなのかもしれない。まあ情状酌量には少しもなり得ないが。
「お取り込み中失礼致します。陛下、そろそろ」
ノックをして入ってきたのはルドルフという男。お姉様の日記の中にも登場している悪だ。
感情を制御出来ず、キッと睨みつける。
彼は日記の中身を知らないのか、びくりと肩をふるわせた。
「ああ、分かった。私はこれで失礼させてもらうが、何か他に言いたいことは?」
立ち上がった陛下は顔だけをこちらに向けた。
「では一つだけ。私は──」
アルバート陛下に近づき、不敬を承知で耳元で毒づいた。
『──貴方を、愚かな皇帝を、妻を殺した夫を、絶対に許さない』と
陛下は表情をピクリとも変えなかった。凪いでいる瞳がそこにはある。
最後まで何を考えているのか分からない陛下は、とても深い──底が見えない深淵を向けて、私に言ったのだ。
『──好きにしろ』と
◇◇◇
抜け殻のようなお父様を無理やり馬車に押し込み、皇宮を後にする。
公爵邸のエントランスに馬車を横付けると何やら騒がしい。
「どうしたの。何故こんなに人が集まって」
「お嬢様お帰りなさいませ。これには少々事情がありまして。立て込んでいるのです。後でご説明……」
「──私の娘は何処?!!!」
ヒステリックな叫び声が響き渡った。
「お母……さまなの?」
取り乱し、侍女たちの制止を振り切って外に出ようとしている一人の女性がそこにはいた。
誰かが着替えさせたのだろう。昼間のドレスからネグリジェに変わり、お団子にして後ろで纏めていた髪は乱れて、結われていない。
「ねえ、どこ……どこなの」
「奥様落ち着いてください。セシルお嬢様ならたった今お帰りに────」
侍女が伸ばした手をお母様は無造作に振り払い、金切り声を上げた。
勢いをつけすぎて、ふらりとよろける。
「違うわっ! もうひとりの、わたしの、むすめッ」
「皇妃殿下はここにおりませんよ」
諭すように教える。
「皇妃? ううん、わたしの娘は皇后になるのよ。とっても自慢のむすめ、なの、そうでしょ? セシル」
一瞬光が戻り、また潰えた。私、ではなくて私の中にリーティアお姉様を見出そうとしているかのような。お父様とおなじ虚ろな眼差し。
お母様は分かっているのだ。
知っているのだ。
聞いたのだ。
もう──お姉様はこの世にいないことを。
けれど、その現実を受け入れたくなくて、偽りだと思い込みたくて、こんな行動に出てしまっている。
「では、亡骸を見ますか? 今から行っても陛下は見せてくださるでしょう」
伺いしてはいないが、陛下は拒まないだろうと何故か確信していた。
「見ない……わ。見たら現実になってしまう。否定できなくなってしまう。見なければそれは──本当ではないのよ。瞞しなの。幻よ。周りが作った嘘」
伝い落ちる雫と共に光が蘇る。そして私に縋り付く。ここにはいない人に向かって懺悔するように。
「愛して、なかったわけではないの。むしろ大好きよ。愛しているわ。だから厳しく、リーティアを完璧にすればいいのだと。それがあの子にとっても良い事だと」
私のドレスを握る力が強くなる。
「ああ、こんなに早く逝ってしまうなら、あの子に何も出来ずに会えなくなってしまうなら、話せないなら、あんなもっとちゃんと────」
お母様は右手をドレスから離して左胸を鷲掴む。
「こんな、悲しくて、後悔して、心臓が抉られるくらいなら────皇家に嫁がせなければよかった」
ひくりと喉を引きつらせながらお母様はうわ言を続ける。
「どうしてどうしてどうしてッ?!! 今になって、こんな、哀しくて! 接し方を間違えた罰なの? 私のせいなの? ねえッッッ! だれ……か……教えて……よぉ」
切り裂くように言葉を紡ぎ、顔を覆い、その場に崩れ落ちた。
「……して、主よお返しください……わたしの娘を。かえし……てぇ……」
そのままお母様の慟哭は、彼女の喉が枯れるまで辺りを包んだのだった。
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