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彼女の今世
episode36
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黄昏時の外はとてもいい天気で、少しだけ風が吹いていた。
前を歩くセシルが時折私が着いてきているか振り返る度に「着いてきているわ」と答えながら、アナベルが押してくれている車いすは、カラカラと音を立てて庭を進んでいく。
「もう。あんなに振り向いていたらセシルが転ぶと思わない?」
何度目かの振り返りに返事をして、アナベルに向かって言うと、彼女は笑った。
「セシルお嬢様はとても嬉しいのですよ。普段はリーティアお嬢様と一緒に居られなくても、怪我をして普段のスケジュールをこなすことが出来なくなれば一緒にいてくれると思っているのかと」
「そうね……最近はあまり……」
前世ほどではないが今世でも公爵令嬢として立派な淑女になるために教養・勉学共に手を抜くことは出来ない。新しく覚える物はほとんど無いのだが、一日の大半がそれで消えていく。
加えて一ヶ月前から、学園に入学もしたので格段にセシルと一緒にいる時間は減っていた。
「思い切って減らそうかしら……お父様達も減らしていいと言っていたし」
「差し出がましいですが、リーティアお嬢様は頑張りすぎです。その分を他のことに興味を向けた方が良いです!」
「アナベルまでそんなことを言うのね」
思わず苦笑いすると彼女は不思議そうに首を傾げた。きっと何故私がこのような表情をするのか分からないのだろう。
実は彼女に言われる前に、両親からも言われたのだ。
『完璧なのに何故まだ習うのか。もっと好きなことをしていいんだよ』と
言われるまでこれが普通では無いと微塵も考えていなかった。だって前世では当たり前の生活だったのだ。朝起きて、真夜中近くまで勉強する繰り返しの日々が。
前の両親は満足しなかった。もっと上へ、もっと貴方なら出来る。それは終わりのない階段を上っているようで……耐えるしかないと思った。全ては私のためだと。
だから自分の好きなことをする時間を持つのは許されないと思っていた。ましてや勉強以外に興味を持つなんて言語道断。
だけど過去と今は違う世界であるし、周りが言うのであれば減らすのもいいかもしれない。そう思った私はまず、アナベルに聞いてみることにした。
「興味を持つとしたら何が楽しいかしら」
「そうですね。お嬢様は手先が器用ですから刺繍とかいかがですか。細かい刺繍もできるようになれば色々な模様が刺せますので楽しいと思います」
頭の中で想像してみる。確かに自分が考えた絵柄が真っ白な布の上に浮かび上がっていくのを見るのは楽しいかもしれない。というのも、私は刺繍をしたことがないのだ。
理由は単純にカリキュラムに刺繍が入っていなかったから。令嬢に生まれたからには嗜む程度にはできないといけないはずの刺繍。それがなぜ入ってなかったのかは分からない。
ここからは私の推測でしかないが、おそらく私に求められていたのは公務・執務がこなせる頭脳だけだったのだろう。そう考えればカリキュラムに刺繍が入ってなかったのも納得出来る。だって刺繍は別にできなくても公務や執務に支障はないから。
「……やってみようかしら」
「でしたら奥様に教えていただくのがいいでしょう」
「お母様に?」
「ええ。奥様は社交界でも刺繍で右に出る者はいないと言われているほどの腕前ですので」
「私、お母様が刺繍している姿をあまり見かけないわ」
にこにこ笑いながら四阿にあるベンチに座って、私達を見守っているお母様しか想像できない。
「リーティアお嬢様やセシルお嬢様の前では、娘達にとっては興趣が薄いわ。とおやりになられませんから……ですが、お嬢様方は毎日奥様の作品を見ていますよ」
刺繍を施すものといえば、ハンカチやテーブルクロス等の小物や日用品だろう。だけど普段使っているハンカチは既製品であることを知っているし、テーブルクロスには刺繍は施されていなかったはず。
「分からないわ。なにかしら?」
「ヒントはお嬢様が起きて一番か二番目に視界に入るものです」
そうなると──
「もしかして、ベッドに付いているカーテンのこと?」
起きた時に目に入るものと言ったら天蓋とそれしかない。確か青薔薇と荊の刺繍が施されていたはずだ。
「正解です! リーティアお嬢様には青薔薇をモチーフにしたもの、セシルお嬢様に対しては鈴蘭ですね。どちらも奥様が心を込めてお作りになったものですよ」
まるで自分の事のように嬉しそうにするアナベルは上機嫌のまま車いすを押す。
「ねえ、どうしてお母様は青薔────」
「おねえさま、何をお話ししているの? もうついたよ!」
クイッと袖を少し引っ張られ、意識を正面に戻すと、不思議そうに小首を傾げたセシルがこちらを見ていた。
「ほらほら、前を見て!」
「前……? ええ見るわ……」
そこでようやく彼女の案内したかった目的地に着いたことを知る。
セシルが横に移動し、視界にいっぱいに左右に広がる木立。その真ん中を絨毯のように一面に広がる青と白の花弁。花びらは細かく裂いた様な糸状のみずみずしい葉に覆われ、花弁を優しく包み込んでいるように見えた。
風が吹けば甘い匂いが辺りを包む。
「これは……ニゲラの花?」
前かがみになって1輪だけ手折る。花の匂いをかぐとやはり霧のような淡い甘い匂い。
「そのようですね。おそらく誰かが落としたタネがそのまま芽を出して増えていったのだと思います」
アナベルがさりげなく補足してくれる。
「おねえさま、気に入った?」
「ええとっても素敵ね」
まさか公爵邸の敷地内にこんな場所があったなんて。この場所は落ち着いた雰囲気で、外の喧騒が聞こえない。それが私の好みにピッタリで、邸の中で一番好きな場所になりそうな予感がした。
「良かった。じゃあ、これもあげるね!」
「これ……は?」
少しだけつま先立ちになったセシルは、後ろに隠し持っていたらしい何かを車いすに座っている私の頭にかぶせ、にっこりと笑ったのだった。
前を歩くセシルが時折私が着いてきているか振り返る度に「着いてきているわ」と答えながら、アナベルが押してくれている車いすは、カラカラと音を立てて庭を進んでいく。
「もう。あんなに振り向いていたらセシルが転ぶと思わない?」
何度目かの振り返りに返事をして、アナベルに向かって言うと、彼女は笑った。
「セシルお嬢様はとても嬉しいのですよ。普段はリーティアお嬢様と一緒に居られなくても、怪我をして普段のスケジュールをこなすことが出来なくなれば一緒にいてくれると思っているのかと」
「そうね……最近はあまり……」
前世ほどではないが今世でも公爵令嬢として立派な淑女になるために教養・勉学共に手を抜くことは出来ない。新しく覚える物はほとんど無いのだが、一日の大半がそれで消えていく。
加えて一ヶ月前から、学園に入学もしたので格段にセシルと一緒にいる時間は減っていた。
「思い切って減らそうかしら……お父様達も減らしていいと言っていたし」
「差し出がましいですが、リーティアお嬢様は頑張りすぎです。その分を他のことに興味を向けた方が良いです!」
「アナベルまでそんなことを言うのね」
思わず苦笑いすると彼女は不思議そうに首を傾げた。きっと何故私がこのような表情をするのか分からないのだろう。
実は彼女に言われる前に、両親からも言われたのだ。
『完璧なのに何故まだ習うのか。もっと好きなことをしていいんだよ』と
言われるまでこれが普通では無いと微塵も考えていなかった。だって前世では当たり前の生活だったのだ。朝起きて、真夜中近くまで勉強する繰り返しの日々が。
前の両親は満足しなかった。もっと上へ、もっと貴方なら出来る。それは終わりのない階段を上っているようで……耐えるしかないと思った。全ては私のためだと。
だから自分の好きなことをする時間を持つのは許されないと思っていた。ましてや勉強以外に興味を持つなんて言語道断。
だけど過去と今は違う世界であるし、周りが言うのであれば減らすのもいいかもしれない。そう思った私はまず、アナベルに聞いてみることにした。
「興味を持つとしたら何が楽しいかしら」
「そうですね。お嬢様は手先が器用ですから刺繍とかいかがですか。細かい刺繍もできるようになれば色々な模様が刺せますので楽しいと思います」
頭の中で想像してみる。確かに自分が考えた絵柄が真っ白な布の上に浮かび上がっていくのを見るのは楽しいかもしれない。というのも、私は刺繍をしたことがないのだ。
理由は単純にカリキュラムに刺繍が入っていなかったから。令嬢に生まれたからには嗜む程度にはできないといけないはずの刺繍。それがなぜ入ってなかったのかは分からない。
ここからは私の推測でしかないが、おそらく私に求められていたのは公務・執務がこなせる頭脳だけだったのだろう。そう考えればカリキュラムに刺繍が入ってなかったのも納得出来る。だって刺繍は別にできなくても公務や執務に支障はないから。
「……やってみようかしら」
「でしたら奥様に教えていただくのがいいでしょう」
「お母様に?」
「ええ。奥様は社交界でも刺繍で右に出る者はいないと言われているほどの腕前ですので」
「私、お母様が刺繍している姿をあまり見かけないわ」
にこにこ笑いながら四阿にあるベンチに座って、私達を見守っているお母様しか想像できない。
「リーティアお嬢様やセシルお嬢様の前では、娘達にとっては興趣が薄いわ。とおやりになられませんから……ですが、お嬢様方は毎日奥様の作品を見ていますよ」
刺繍を施すものといえば、ハンカチやテーブルクロス等の小物や日用品だろう。だけど普段使っているハンカチは既製品であることを知っているし、テーブルクロスには刺繍は施されていなかったはず。
「分からないわ。なにかしら?」
「ヒントはお嬢様が起きて一番か二番目に視界に入るものです」
そうなると──
「もしかして、ベッドに付いているカーテンのこと?」
起きた時に目に入るものと言ったら天蓋とそれしかない。確か青薔薇と荊の刺繍が施されていたはずだ。
「正解です! リーティアお嬢様には青薔薇をモチーフにしたもの、セシルお嬢様に対しては鈴蘭ですね。どちらも奥様が心を込めてお作りになったものですよ」
まるで自分の事のように嬉しそうにするアナベルは上機嫌のまま車いすを押す。
「ねえ、どうしてお母様は青薔────」
「おねえさま、何をお話ししているの? もうついたよ!」
クイッと袖を少し引っ張られ、意識を正面に戻すと、不思議そうに小首を傾げたセシルがこちらを見ていた。
「ほらほら、前を見て!」
「前……? ええ見るわ……」
そこでようやく彼女の案内したかった目的地に着いたことを知る。
セシルが横に移動し、視界にいっぱいに左右に広がる木立。その真ん中を絨毯のように一面に広がる青と白の花弁。花びらは細かく裂いた様な糸状のみずみずしい葉に覆われ、花弁を優しく包み込んでいるように見えた。
風が吹けば甘い匂いが辺りを包む。
「これは……ニゲラの花?」
前かがみになって1輪だけ手折る。花の匂いをかぐとやはり霧のような淡い甘い匂い。
「そのようですね。おそらく誰かが落としたタネがそのまま芽を出して増えていったのだと思います」
アナベルがさりげなく補足してくれる。
「おねえさま、気に入った?」
「ええとっても素敵ね」
まさか公爵邸の敷地内にこんな場所があったなんて。この場所は落ち着いた雰囲気で、外の喧騒が聞こえない。それが私の好みにピッタリで、邸の中で一番好きな場所になりそうな予感がした。
「良かった。じゃあ、これもあげるね!」
「これ……は?」
少しだけつま先立ちになったセシルは、後ろに隠し持っていたらしい何かを車いすに座っている私の頭にかぶせ、にっこりと笑ったのだった。
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