王子殿下の慕う人

夕香里

文字の大きさ
上 下
141 / 150
番外編

ふたりが3人になった日(1)

しおりを挟む


 それは春うららな心地よい日だった。


「王太子妃様、エレーナ様」
「んっうぅ、待って、また私寝てた?」

 優しく身体を揺すられて微かに瞳を開ける。そこには心配そうにエレーナを覗き込む侍女の姿があった。

「数分の間だけです。ですが…………」

 彼女の視線が下を向く。それに釣られて目線を落とす。

「あっ! ま、まずい書類がっ」

 持っていた万年筆からインクがこぼれ、黒く汚していた。慌ててキャップをして書類を取るが既に遅い。インクに塗りつぶされ読めなくなっている。

 これはもう一度文官達に作ってもらわないといけない。久しぶりの失敗に、書類を両手で持ちながら項垂れてしまう。

 落ち込むエレーナに侍女はそっと声をかけた。

「──差し出がましいですが、一度侍医に診てもらった方がいいかと。王太子妃様は最近眠ってしまうことが多い気がします」

 彼女の言う通り、きちんと夜寝ているのに昼間に猛烈な眠気が自分を襲う。大抵の場合気が付いたら寝ていて、そばにいる人に起こしてもらうことが多かった。

「そうね……時間ができたら診てもらう。あ、この書類、汚してしまったからもう一枚作って欲しいと伝えに行ってくれる?」
「かしこまりました。それと、既に昼食の準備が完了したと給仕の者が」
「まあ! すぐに行くわ。教えてくれてありがとう」

 侍女が出ていくのを見送ってから、エレーナも食堂に移動しようと重い腰を上げた。

(何だか最近身体が重いのよね。太ったかしら? だるさもあるし、本当に一度診てもらった方がいいかも。寒暖差が激しかったから……風邪かしら?)

 考えながら食堂の中に入る。いつもの席に座れば何を言うまでもなく、料理が運ばれてきた。
 どうやら今日の昼食はエレーナの好物であるパスタ料理と野菜を煮たスープらしい。

 だが、中々エレーナの手は進まなかった。

「王太子妃様、お口にあいませんでしょうか」

 スプーンをスープに差し込み、軽く睨みつけているエレーナを見兼ねた給仕係の者が尋ねる。

「ううん。とっても美味しいわ」

 にっこり笑って否定すれば、安堵したように壁に寄る。

 お腹はすいていたが何故だか食べたくない。ひと匙掬って口をつけるが、体は食べるのを拒絶する。
 無理やり喉に流し込むと軽い吐き気がエレーナを襲い、スプーンをそっと置いた。

(…………大変だわ。こんなに美味しそうなのに食べたくないだなんて。本格的に体調が悪いのかも。でも、お料理を残すのは作ってくれた人達に申し訳ない)

 それに周りの者を心配させてしまう。そうなるとエレーナを置いて周りが大騒ぎするのが目に見えていた。

 周りを心配させるか、無理やり全部食べるか。究極の選択に迫られる。

「いただきます」

 結局エレーナは後者を取った。

 意を決してフォークでパスタを丸めて口に含む。塩檸檬で味付けされたパスタはさっぱりしていて今の時期にピッタリだった。
 いつもならこの塩気が大好きなのに、今日はそれが旨みを邪魔しているように感じる。

 うまく飲み込めず、水で胃の中に押し込んだ。パスタとスープを交互に口に運び、どちらも残り半分ほどになったところで限界がくる。

「ご、めんなさい。お腹がいっぱいでこれ以上……食べられなさそう。下げてもらえるかしら?」

 ハンカチを口に押し当てながら言い終える前に席を立つ。たった今、胃の中に収めた昼食がせり上がってくる。
 嘔吐きそうになりながら、御手洗いに駆け込んだ。後ろから侍女達の声が聞こえた気がしたが、それに返答する余裕はなかった。

「う、おえっ……気持ち悪い」

 熱いものが喉まできて、洗面台に全てを吐き出すといくらか気分が良くなる。正面の鏡をみれば、青白い自分が映っていた。

「──王太子妃様、いらっしゃいますか」
「リリアン?」

 何度か嘔吐いた後、聞き慣れた声に顔を上げた。

「はい私です。王太子妃様の気分が悪そうだと呼び出されまして……大丈夫ですか?」

 入ってきたリリアンは洗面台に手を付いてしゃがみこんでいるエレーナに駆け寄り、慣れた手つきで背中をさする。

「ごめんなさい。貴女、他に仕事があったのに」

 この時間はいつも午後のティータイムの支度をしているはずだ。

 今朝なんて「採れたてのブルーベリーをふんだんに使ったパイを焼くので楽しみにしててくださいね」と会話していたのだ。

「私の事よりご自身の身体を心配してください。直ぐに侍医をお呼び致します。まずはお部屋に戻りましょう」
「うん。だけど……歩けそうにないわ」

 頭はクラクラするし、胃の内容物を全て吐き出したはずだがまだムカムカしている。

「ではメイリーンさんを連れてきますね。騎士の方でもいいですけど、後々のことを考えて彼女の方がいいと思うので」

 よろしいですか? と聞かれたので返事をする代わりに小さく頷いた。お手洗いを飛び出したリリアンは数分でメイリーンを連れて戻ってきた。

「倒れられたって何事ですか! すぐに部屋に戻りましょう」
「ええお願い……あっ! まだ目を通してない書類が……」

 今日の分をまだ捌ききっていないことを思い出す。
 だが、メイリーンは眉を寄せた。

「そんなもの他の者に任せてしまえばいいのですよ。主と同じようにギルベルトや文官に押し付けましょう。もっと手を抜くことを覚えてください。ほら、戻りますよ」

 そう言ってメイリーンは軽々とエレーナを抱き抱えた。

「メイリーンもごめんなさい。手間をかけさせてしまったわ」
「気にしないでください。私の本来の仕事は王太子妃であるエレーナ様を守ることですから」

 安心させるようにメイリーンは優しく言った。

「ところでエレーナ様は何故あそこに?」
「昼食を食べたら気持ちが悪くなってしまって……元々体調が悪かったみたい」
「そうですか。体調不良の際は絶対にお知らせくださいと言っていたのに……お説教は後にして取り敢えず診察してもらいましょう」

 スタスタと歩き、自室まで着くと寝台にゆっくり下ろされる。
 部屋の中は少し肌寒い。無意識に肌をさすれば、それに気がついたリリアンが上着を肩にかけてくれる。

 先に連絡が行っていたのだろう。すぐに現れた侍医がエレーナに気づき頭を下げた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】騎士団長の旦那様は小さくて年下な私がお好みではないようです

大森 樹
恋愛
貧乏令嬢のヴィヴィアンヌと公爵家の嫡男で騎士団長のランドルフは、お互いの親の思惑によって結婚が決まった。 「俺は子どもみたいな女は好きではない」 ヴィヴィアンヌは十八歳で、ランドルフは三十歳。 ヴィヴィアンヌは背が低く、ランドルフは背が高い。 ヴィヴィアンヌは貧乏で、ランドルフは金持ち。 何もかもが違う二人。彼の好みの女性とは真逆のヴィヴィアンヌだったが、お金の恩があるためなんとか彼の妻になろうと奮闘する。そんな中ランドルフはぶっきらぼうで冷たいが、とろこどころに優しさを見せてきて……!? 貧乏令嬢×不器用な騎士の年の差ラブストーリーです。必ずハッピーエンドにします。

【完結】さよなら私の初恋

山葵
恋愛
私の婚約者が妹に見せる笑顔は私に向けられる事はない。 初恋の貴方が妹を望むなら、私は貴方の幸せを願って身を引きましょう。 さようなら私の初恋。

【完結】8年越しの初恋に破れたら、なぜか意地悪な幼馴染が急に優しくなりました。

大森 樹
恋愛
「君だけを愛している」 「サム、もちろん私も愛しているわ」  伯爵令嬢のリリー・スティアートは八年前からずっと恋焦がれていた騎士サムの甘い言葉を聞いていた。そう……『私でない女性』に対して言っているのを。  告白もしていないのに振られた私は、ショックで泣いていると喧嘩ばかりしている大嫌いな幼馴染の魔法使いアイザックに見つかってしまう。  泣いていることを揶揄われると思いきや、なんだか急に優しくなって気持ち悪い。  リリーとアイザックの関係はどう変わっていくのか?そしてなにやら、リリーは誰かに狙われているようで……一体それは誰なのか?なぜ狙われなければならないのか。 どんな形であれハッピーエンド+完結保証します。

【コミカライズ2月28日引き下げ予定】実は白い結婚でしたの。元悪役令嬢は未亡人になったので今度こそ推しを見守りたい。

氷雨そら
恋愛
悪役令嬢だと気がついたのは、断罪直後。 私は、五十も年上の辺境伯に嫁いだのだった。 「でも、白い結婚だったのよね……」 奥様を愛していた辺境伯に、孫のように可愛がられた私は、彼の亡き後、王都へと戻ってきていた。 全ては、乙女ゲームの推しを遠くから眺めるため。 一途な年下枠ヒーローに、元悪役令嬢は溺愛される。 断罪に引き続き、私に拒否権はない……たぶん。

伯爵令嬢は、愛する二人を引き裂く女は悪女だと叫ぶ

基本二度寝
恋愛
「フリージア様、あなたの婚約者のロマンセ様と侯爵令嬢ベルガモ様は愛し合っているのです。 わかりませんか? 貴女は二人を引き裂く悪女なのです!」 伯爵家の令嬢カリーナは、報われぬ恋に嘆く二人をどうにか添い遂げさせてやりたい気持ちで、公爵令嬢フリージアに訴えた。 彼らは互いに家のために結ばれた婚約者を持つ。 だが、気持ちは、心だけは、あなただけだと、周囲の目のある場所で互いの境遇を嘆いていた二人だった。 フリージアは、首を傾げてみせた。 「私にどうしろと」 「愛し合っている二人の為に、身を引いてください」 カリーナの言葉に、フリージアは黙り込み、やがて答えた。 「貴女はそれで構わないの?」 「ええ、結婚は愛し合うもの同士がすべきなのです!」 カリーナにも婚約者は居る。 想い合っている相手が。 だからこそ、悲恋に嘆く彼らに同情したのだった。

【完結】この胸が痛むのは

Mimi
恋愛
「アグネス嬢なら」 彼がそう言ったので。 私は縁組をお受けすることにしました。 そのひとは、亡くなった姉の恋人だった方でした。 亡き姉クラリスと婚約間近だった第三王子アシュフォード殿下。 殿下と出会ったのは私が先でしたのに。 幼い私をきっかけに、顔を合わせた姉に殿下は恋をしたのです…… 姉が亡くなって7年。 政略婚を拒否したい王弟アシュフォードが 『彼女なら結婚してもいい』と、指名したのが最愛のひとクラリスの妹アグネスだった。 亡くなった恋人と同い年になり、彼女の面影をまとうアグネスに、アシュフォードは……  ***** サイドストーリー 『この胸に抱えたものは』全13話も公開しています。 こちらの結末ネタバレを含んだ内容です。 読了後にお立ち寄りいただけましたら、幸いです * 他サイトで公開しています。 どうぞよろしくお願い致します。

手放したくない理由

ねむたん
恋愛
公爵令嬢エリスと王太子アドリアンの婚約は、互いに「務め」として受け入れたものだった。貴族として、国のために結ばれる。 しかし、王太子が何かと幼馴染のレイナを優先し、社交界でも「王太子妃にふさわしいのは彼女では?」と囁かれる中、エリスは淡々と「それならば、私は不要では?」と考える。そして、自ら婚約解消を申し出る。 話し合いの場で、王妃が「辛い思いをさせてしまってごめんなさいね」と声をかけるが、エリスは本当にまったく辛くなかったため、きょとんとする。その様子を見た周囲は困惑し、 「……王太子への愛は芽生えていなかったのですか?」 と問うが、エリスは「愛?」と首を傾げる。 同時に、婚約解消に動揺したアドリアンにも、側近たちが「殿下はレイナ嬢に恋をしていたのでは?」と問いかける。しかし、彼もまた「恋……?」と首を傾げる。 大人たちは、その光景を見て、教育の偏りを大いに後悔することになる。

なにをおっしゃいますやら

基本二度寝
恋愛
本日、五年通った学び舎を卒業する。 エリクシア侯爵令嬢は、己をエスコートする男を見上げた。 微笑んで見せれば、男は目線を逸らす。 エブリシアは苦笑した。 今日までなのだから。 今日、エブリシアは婚約解消する事が決まっているのだから。

処理中です...