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春は巡って
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「──貴方、執務は終わったのですか? 今日は無理かと思いましたのに」
こちらに向かってくる人影を見つけ、東屋に座っていたエレーナは、メイリーンとリリアンの制止も聞かずに立ち上がる。
「まだ残っているが……そんな早く歩いてはダメじゃないか。もし転んだらどうするんだい?」
エレーナが駆け寄った相手は彼女を優しく抱きしめた。額に柔らかい感触が落ちる。
彼女を抱きしめた者──愛する夫のエレーナに向ける視線は、見守っている周りが恥ずかしくなってしまうほど優しかった。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。転びそうになったらメイリーンがものすごい速さで防いでくれるから」
ふふっと笑いながらメイリーンを見れば、彼女は「私を当てにしないでください。もちろんその時は全力で防ぎますが」と眉間に皺を寄せた。
「万が一のことがあったら大変だ。座りなさい」
「はいはい」
手を握って二人は東屋に戻る。
エレーナを先に座らせ、ひざ掛けを乗せる。そしてリチャードは隣に腰かけた。
「体調は大丈夫なのか? 朝はつらそうだっただろう」
「キースの時に比べたらそんなに酷くないし、外に出たら気分が良くなったわ」
大きくなってきている膨らみを愛おしそうに撫でれば、周りの雰囲気が温かくなる。まるで陽だまりの中にいるような感じ。
「レーナの言葉は信用ならない。メイリーン、午前中レーナは何をしていた」
(完全にこの件に関して信用されていないわね)
軽く睨んでも無視される。
「そうですねぇ」
「ダメよ、言わないで」
慌て始めたエレーナをちらりと見やり、しばし考えた後、メイリーンは口を開いた。
「王妃様は陛下が出て行った後も、ベッドの上から起き上がれず、昼食も一口手をつけただけです。ここに来るまではずっとお休みになられていました」
ほら、言わないことはないとリチャードは肩を竦めた。
「体調が悪いなら寝ていないとダメだろう?」
よく見れば青白い。結婚指輪が光る左手を握ると冷たいような気がする。心配になったリチャードは、自分の手で妻の左手を温めた。
「疲れている貴方の前では元気だと振る舞いたかったのよ。安心させたくて」
責められているように感じ、肩を落としながら檸檬果汁を入れた白湯を飲む。
「そう振舞って前回倒れたじゃないか。何も無かったから良かったものの、父上と母上は大騒ぎ。ルイス公爵達を呼び出そうとして大変だったことを忘れたとは言わせないよ」
「あの時は……私が悪かったわ」
ほんの二ヶ月前のことだ。いつにも増して悪阻が酷く、横になっていても辛かった時のこと。
体調が悪いのを隠し通して執務をこなしていたら、急にふらりと来てリチャードの前で倒れてしまったのだ。
次に目が覚めるとそこは寝台の上。見慣れた天蓋が真上にあった。
慌てふためくお義母様とお義父様、それに自分の手を握って心配げに覗き込むリチャードの姿が見えて、やってしまったと思った。
「起きたかい?」
色んな感情が混ざっているのだろう。向けられた微笑みはぎこちなかった。
「──ごめんなさい」
それしか言えなかった。徐々に執務を減らした分、彼の仕事量が増えて疲れているはずなのに、本来なら必要のない心配もかけてしまった。
「ほんとだよ。今、君の身体は一人のものではないんだ」
久しぶりに夫が怒っている。今回は自分のせいなので何も言い返せない。
「お腹の子は……」
右手で膨らみに触れる。
「心配ないよ。元気だと侍医が診断を下した。だからといって無茶をしていい理由にはならないけどね」
「よかった」
安堵の息がもれる。倒れる前、頭によぎったのだ。これでもし、流れてしまったらどうしようかと。
「母上大丈夫?」
その声に、顔をもっと下に向ける。リチャードと同じ紺碧の瞳に、金髪の、愛くるしい息子が自分を見つめていた。
「ああ、貴方にも心配をかけたわ。お母様は大丈夫よ」
「ならいいんだ」
近寄るように促して、少し上半身を起こして額にキスをする。そして軽く抱きしめた。
「じゃあキース、お前は寝る時間だ。お父様と一緒に部屋に戻ろうね」
「……嫌だ母上といる!」
ぎゅっとシーツを握って動かない。
「レーナは休まないといけないんだ。ほら、行くよ」
「かまって欲しい訳じゃない。母上のそばにいたいだけ」
「その気持ちは分かるが……」
お手上げだとばかりに夫はすぐ折れてしまった。リチャードは息子に甘いのだ。代わりにエレーナ以外の女性陣があの手この手を使い、説得した。
渋々リチャードの手を取った息子の頭を優しく撫でて送り出す。
それからというもの、隙あればリチャードはエレーナと一緒にいようとするし、キースに至ってもエレーナの傍から離れない。メイリーンやリリアンを筆頭に、その他自分付きの侍女達はそれを容認し、一人にさせてくれなかった。
むしろメイリーンなんて積極的に息子をエレーナの部屋に連れてくる。
『──キース殿下がいらっしゃれば王妃様は無理に動き回りませんから。私達が今、一番大切なのはエレーナ様の体調。殿下は母であるエレーナ様といたい。両者に利益があるのです。そうでなければ、例え王子殿下であろうとも追い返しますよ』
問いただせば至極当然という風にそんなことを言ってきた。
そもそもの発端は自分が無理をして倒れたこと。だから強くは出られない。エレーナに対する心配からだと言われてしまえば、口を閉ざすしかない。
それでも内心ずっとモヤモヤしていたエレーナは、久しぶりに会った友人達にここぞとばかりに吐き出した。
するとエレーナに同情する友人はいなくて、「完璧な体制で流石だわ」と笑われてしまったのだった。
こちらに向かってくる人影を見つけ、東屋に座っていたエレーナは、メイリーンとリリアンの制止も聞かずに立ち上がる。
「まだ残っているが……そんな早く歩いてはダメじゃないか。もし転んだらどうするんだい?」
エレーナが駆け寄った相手は彼女を優しく抱きしめた。額に柔らかい感触が落ちる。
彼女を抱きしめた者──愛する夫のエレーナに向ける視線は、見守っている周りが恥ずかしくなってしまうほど優しかった。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ。転びそうになったらメイリーンがものすごい速さで防いでくれるから」
ふふっと笑いながらメイリーンを見れば、彼女は「私を当てにしないでください。もちろんその時は全力で防ぎますが」と眉間に皺を寄せた。
「万が一のことがあったら大変だ。座りなさい」
「はいはい」
手を握って二人は東屋に戻る。
エレーナを先に座らせ、ひざ掛けを乗せる。そしてリチャードは隣に腰かけた。
「体調は大丈夫なのか? 朝はつらそうだっただろう」
「キースの時に比べたらそんなに酷くないし、外に出たら気分が良くなったわ」
大きくなってきている膨らみを愛おしそうに撫でれば、周りの雰囲気が温かくなる。まるで陽だまりの中にいるような感じ。
「レーナの言葉は信用ならない。メイリーン、午前中レーナは何をしていた」
(完全にこの件に関して信用されていないわね)
軽く睨んでも無視される。
「そうですねぇ」
「ダメよ、言わないで」
慌て始めたエレーナをちらりと見やり、しばし考えた後、メイリーンは口を開いた。
「王妃様は陛下が出て行った後も、ベッドの上から起き上がれず、昼食も一口手をつけただけです。ここに来るまではずっとお休みになられていました」
ほら、言わないことはないとリチャードは肩を竦めた。
「体調が悪いなら寝ていないとダメだろう?」
よく見れば青白い。結婚指輪が光る左手を握ると冷たいような気がする。心配になったリチャードは、自分の手で妻の左手を温めた。
「疲れている貴方の前では元気だと振る舞いたかったのよ。安心させたくて」
責められているように感じ、肩を落としながら檸檬果汁を入れた白湯を飲む。
「そう振舞って前回倒れたじゃないか。何も無かったから良かったものの、父上と母上は大騒ぎ。ルイス公爵達を呼び出そうとして大変だったことを忘れたとは言わせないよ」
「あの時は……私が悪かったわ」
ほんの二ヶ月前のことだ。いつにも増して悪阻が酷く、横になっていても辛かった時のこと。
体調が悪いのを隠し通して執務をこなしていたら、急にふらりと来てリチャードの前で倒れてしまったのだ。
次に目が覚めるとそこは寝台の上。見慣れた天蓋が真上にあった。
慌てふためくお義母様とお義父様、それに自分の手を握って心配げに覗き込むリチャードの姿が見えて、やってしまったと思った。
「起きたかい?」
色んな感情が混ざっているのだろう。向けられた微笑みはぎこちなかった。
「──ごめんなさい」
それしか言えなかった。徐々に執務を減らした分、彼の仕事量が増えて疲れているはずなのに、本来なら必要のない心配もかけてしまった。
「ほんとだよ。今、君の身体は一人のものではないんだ」
久しぶりに夫が怒っている。今回は自分のせいなので何も言い返せない。
「お腹の子は……」
右手で膨らみに触れる。
「心配ないよ。元気だと侍医が診断を下した。だからといって無茶をしていい理由にはならないけどね」
「よかった」
安堵の息がもれる。倒れる前、頭によぎったのだ。これでもし、流れてしまったらどうしようかと。
「母上大丈夫?」
その声に、顔をもっと下に向ける。リチャードと同じ紺碧の瞳に、金髪の、愛くるしい息子が自分を見つめていた。
「ああ、貴方にも心配をかけたわ。お母様は大丈夫よ」
「ならいいんだ」
近寄るように促して、少し上半身を起こして額にキスをする。そして軽く抱きしめた。
「じゃあキース、お前は寝る時間だ。お父様と一緒に部屋に戻ろうね」
「……嫌だ母上といる!」
ぎゅっとシーツを握って動かない。
「レーナは休まないといけないんだ。ほら、行くよ」
「かまって欲しい訳じゃない。母上のそばにいたいだけ」
「その気持ちは分かるが……」
お手上げだとばかりに夫はすぐ折れてしまった。リチャードは息子に甘いのだ。代わりにエレーナ以外の女性陣があの手この手を使い、説得した。
渋々リチャードの手を取った息子の頭を優しく撫でて送り出す。
それからというもの、隙あればリチャードはエレーナと一緒にいようとするし、キースに至ってもエレーナの傍から離れない。メイリーンやリリアンを筆頭に、その他自分付きの侍女達はそれを容認し、一人にさせてくれなかった。
むしろメイリーンなんて積極的に息子をエレーナの部屋に連れてくる。
『──キース殿下がいらっしゃれば王妃様は無理に動き回りませんから。私達が今、一番大切なのはエレーナ様の体調。殿下は母であるエレーナ様といたい。両者に利益があるのです。そうでなければ、例え王子殿下であろうとも追い返しますよ』
問いただせば至極当然という風にそんなことを言ってきた。
そもそもの発端は自分が無理をして倒れたこと。だから強くは出られない。エレーナに対する心配からだと言われてしまえば、口を閉ざすしかない。
それでも内心ずっとモヤモヤしていたエレーナは、久しぶりに会った友人達にここぞとばかりに吐き出した。
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