王子殿下の慕う人

夕香里

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逃げ惑う

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呼気が荒くなってきた。走るのもそろそろ限界だ。

(よっよし、取り敢えず試さないよりはマシ)

走りながら顔だけは後ろを振り向いた。

「あ! あそこに人狼がいる!」

──子供騙しにもならない。

(こんなのひっかかるはずないわよね)

「え? スタンレーには人狼がいるのか」

エレーナは無駄だと思ったが、彼らには効果抜群だったらしい。一瞬足を止めて周囲を確認している。
思わず呆気にとられてしまう。

(ひっ引っかかるの!? 本に出てくるお決まりの言葉よ?!)

それも一瞬のこと。すぐに騙されたと知り、男達は額に青筋を立てた。

「てめぇ女のくせに騙しやがったな。からかって楽しかぁ?」

「ごっごめんなさいごめんなさい許して……っ!」

涙声になりながら走る。

誰かが放った矢が足を掠め、表面の皮膚がぱっくり切れた。どくどくと生暖かい液体がつたい始める。

後ろを見ると弓を引いているのか、キラリと光るものが見えた。

「ええぇい! 傷つけてもいい、殺してでも、矢にアレを使ってもいいから逃がすな! 放て!」

ビュッと背後で風を切る音がした。ほぼ同時に左腕が熱くなる。矢がエレーナの皮膚を抉ったのだ。

痛みに顔が引きつる。手を添えれば手が赤黒く染った。

これまで事件等に巻き込まれず生きてきたエレーナは、こういう弓や刃物による怪我に慣れていない。無意識に走るスピードを緩め、男達との距離が詰まっていく。

「捕まえたぞ。てめぇほんとに手間を掛けさせやがってよォ」

「いやっ!」

男に髪の毛を掴まれ、引っ張られる。揉み合った末にリボンの結び目が解け、腰ほどまである髪がはらりとかかった。

「暴れんなっ! クソっ」

ガンっと鈍い音がして、視界がチカチカとし、真っ白になる。どうやら生えていた木に頭を強打させられたらしかった。

髪の毛から手はまだ離してくれてくれていない。けれど3人はいたはずの男は1人しか居ない。あとのふたりが来てしまったら本当にエレーナは逃げられなくなってしまう。

(どうしよう……この髪さえなければ……)

上手く回らない頭を無理やり回転させる。傷ついた左腕は何故か燃えるように熱く、火傷したみたいだった。

長い髪は男たちがエレーナを捕まえやすくする物になってしまっていた。結ぶ時間などないので邪魔でしかない。

(……そうだ、これなら隙はつくれる)

1つの案が浮かんだ。躊躇している暇はない。

急にポケットを漁り始めたエレーナを男は不審がる。

「てめぇなにを……」

「私は……あなた達に捕まるわけにはいかないのよ!」

両手で握りしめたモノを振り上げた。鋭い刃は月の光に照らされて鈍く光った。ジャキリと何かを裂く音がする。

金の髪が宙を舞ってあちら側とこちら側、一瞬両者とも視界を奪われる。

先に動いたエレーナは、少しでも足しになるようにおぼつかない手つきで、よろけながら男の手に刃を向けて切りつける。

「いってぇな! なんなんだこの女!」

捕捉から逃れたエレーナは再び転げるように走り出した。ようやく追いついたらしい2人組の男の怒号が耳をつらぬく。

(時間稼ぎにしかならない……どうしよう。もう嫌だ)

体力的にも、体格的にも、見つかった時点で無謀であった。それでも逃げなければ最悪の結果になってしまう。メイリーンが逃がしてくれたのに、彼女の苦労が意味をなくしてしまう。

右髪がちらりと視界に入る。
不自然に切られた己の髪は斜めになっていた。

(多分メイリーンだったら易々と撒いてしまうんだろうな)

こんな髪を切るなんてしなくても、上手く逃げてしまうだろう。
自分自身が不甲斐なくて気分が沈む。

エレーナはできる限り障害物のある場所を走った。そうすることで自分もだが、相手も足を取られると思ったからだ。

「──視界が!」

パッと開けた場所が見えてくる。明るい。

先ほどの男達の言葉からここがスタンレー国内であることは分かったが、詳細な場所は知らなかった。
なので地形に明るくないエレーナは、村か何か人がいる場所に出たのかと思った。そうだとしたら助けを呼べるかもしれない。

期待はすぐに裏切られた。

「うそ……崖なの?」

月明かりが入らない森から、木々が消えたことによって明るくなっていただけだったのだ。
思わずへたりこんだエレーナは崖下を覗く。

高さは……3階建てくらいだろうか。下には草木が生い茂っていて、傍には清流があり、向こう側にはまだ森が続いていた。

「残念だったなぁ」

ジリジリと男たちが近づいてくる。

「刺すわよ! 来ないでっ」

短刀を突き出す。

「お嬢ちゃんに殺せるのか? 弱いくせによぉ」

クスクスと笑われる。完全に舐められていた。

(ああ、なんでこんなことに私は巻き込まれているの? 何かした覚えはないのに!)

ハンカチを拾わなければ。
天幕にいかなければ。
ヴォルデ侯爵に言われたように、1人にならなければ。

全部仮定の話だ。未来なんて誰にも分かりっこない。自分の選択肢がこの結果を招いたのだ。

手が震え、じわりと涙が出て、ギリギリのところまで後ろに後退する。

「泣いたって意味ないさ。ほら、こっちへおいで。痛いことはしないから」

「行くわけないでしょ!」

今もまだ足と腕からは血が伝い落ちていた。走っているうちに傷口が広がったようで、先程よりも多く流れている。

流しすぎたのか、それとも走りすぎて酸素が体に巡ってないのか、ふらふらする。

捕まるより先に、素人のエレーナから見れば出血死しそうな勢いだった。

(どうせ捕まるなら……死ぬしか待っていないなら……)

「嬢ちゃん、刃物を置いてくれよ」

「────いいわ」

持っていた短刀が地面に突き刺さった。両手を上げて立ち上がる。エレーナは一か八かの賭けに出ることにした。

「いい子だ。おいで」

慎重に男達は近づいてくる。
手が差し伸べられる。
エレーナはその手を取ろうと震える己の手を差し出し────

「なーんてね。貴方たちに捕まるくらいならここで死んでやる」

思いっきり叩き落とす。

驚く男達の目の前で、地面を蹴った。
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