蝉と幽霊がないていた、夏

Ryo

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砂山

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 猫が爪を研ぐのを真似して、砂の上に爪を立てた。平らな砂に、十本の指を第二関節まで食い込ませ、そのまま両手を身体に引き寄せる。十本の溝ができた。繰り返して砂を慣らす。午後五時三十七分。

 ほぐれた砂を少量両手で囲って押し固める。できたのは小さな山。その山の周りにまた両手で砂を囲って押し固める。少しだけ成長した山になる。

 何年か前、学校で砂の団子と土の団子を作って、どちらが壊れにくいかを実験した。クラスを六つの班に分けて、一班で砂の団子と土の団子を一組作って八日後。何故か自分の班だけ砂の団子が壊れずに残っていた。担当教師はものすごく忌々しげな顔をしてそれを見ていた。理論的には密度の高い泥の団子のほうが残っているはずで、実験でもその結果を求めていることは一目瞭然なのだが、様々な要因が重なってそうならなかったのは仕方のないことだと思う。

 つまり、砂で作った団子も城も山も、等しく壊れやすいのは常識なので、こうして砂山を作るときは、山が小さいうちから押し固めて丈夫な土台を作らなくてはならない。砂遊びなんて、少なくとも丸一年以上した覚えがなかったが、体験に基づいた記憶というものは得てして頑丈らしい。

 単純作業を繰り返してできたそれは、膝までぐらいの高さは多分あるはずだ。今までで一番時間をかけて作った、今までで一番大きな砂の山。午後六時十二分。

 砂場はすっかり木の影に入ってしまっていたが、公園はまだまだ明るかった。冬の昼間のようだ。辛気臭い明るさは、笑えないギャグを言って笑わそうとする父親に似ていて、疲れる。冬はきらいではないのに、そう考えると、なんて苦くすえた匂いのする嫌な季節なのだろう。

 そんなことを考えていたせいかどうかは知らない。気がつけば、右手で脇にどけてあった乾いた白い砂をすくい、湿った黒い砂の山の上へ落としていた。細かい砂の粒が舞い上がる。砂の山はすっかり雪化粧をされていた。午後六時十七分。

 ただ、公園の蝉はそんなことにいちいち遠慮なんてしてくれない。砂の山が黒いせいで、乾いた砂がケーキにかかっている粉砂糖のように白く見える。それでもやつらは、やれミンミン、やれツクツクホウシとなき喚く。季節感だの情緒だの、「いとをかし」だの「あはれなり」だのがあったものではない。

 今は、夏。

 一度砂山の裏側、つまり、時計塔がある側に回り込んで、山のどてっ腹を抉り取る。砂で山を作ったら、次に必ず穴を掘る。砂遊びという儀式の中に、必ず組み込まれているうちの一つだ。少なくとも、始業式や入学式の最後に校歌を歌うことに比べたら、ずっと当たり前なそれ。

 爪と肉との間――ここを紙で切ったときには、いっそ死にたくなった――に、硬い砂の粒がめり込んでゆくのを確かに感じながら、山の中から砂を掻き出した。

 砂山の中ほどまで穴が届いただろうと見当をつけ、今ではすっかり踏み固められている元の位置へ戻った。ここから向こう側へ掘り進めれば、穴はめでたく開通する。人差し指を、人を指す形にして、こちら側の砂山のどてっ腹に突き刺した。砂山の中で指を鉤状にして砂を掻き出す。

 何か……。

 蝉がなくのが聞こえる。そして何かが聞こえた。くぐもって微かな、何かは、何だ? 公園には他に、誰もいない。強いてさっきまでとの違いを挙げるなら、時計塔の下に、黄緑色の物が落ちているぐらいだった。カマキリだと思う。けれど、視力〇、八の裸眼ではその正体を見極めることはかなわない。ただ、さっき感じた何かが、あのカマキリらしき物とは違うことだけは確実……な気がする。

 何かはたまに聞こえていたが、蝉の声がうるさすぎる。蝉相手に「やかましい!」と怒鳴り散らしそうになった。今の子供はキレやすいというのは有名ではないか。科学的根拠もあるというのだから、それはもはや折り紙付きなのだ。
 砂山に穴を穿ちながら耳をそばだてた。そして、ようやく気付いた。

 泣き声だ。

 すすり泣く声が聞こえてくる、砂の山の穴から。

 首をひねって穴の中を覗いてみた。黒い砂が詰まっていた。耳を近づけてみた。泣き声はさらにはっきりと聞こえた。声は言っていた。「悲しい、悲しい」と。

 さて。

 これは俗に言う心霊現象というやつなのだろうか。それとも、塾通いのストレスによる幻聴なのだろうか。どちらにせよ、好ましい事態ではない。だが、そんなことが理解できたところで何の助けにもならないのだ。

 穴の奥で、もう一度砂を掻いた。あと一度ぐらいで、この穴は向こう側へ開通する計算だ。向こう側が、いつの間にか「向こう側」に繋がってしまった危険性は否めない。

 まだ、今なら、ビデオの逆回しよろしく穴に砂を詰め込んで、何事もなかったかのようなフリができる。あるいは今すぐ立ち上がって、この砂山の頂に足を乗せれば、一撃で始末がつく。

 迷っていると、向こう側から聞こえてくる泣き声が、声を詰まらせた。仕方がないので鼻から深く息を吸い込んで鼻から盛大に出し、もう一度右手の人差し指を人を指す形にすると、安っぽい勇気でもって穴の奥の湿った砂に突き刺した。

 午後六時二十九分。

 人差し指の先が、湿った砂よりも冷たかったので、慌てて手を穴から引っ込めた。奥からは人差し指の直径と同じ大きさの穴から白い光が差し込んでいた。間抜けだ。その間抜けな穴から、冷たい空気が流れ込んできた。設定温度が夏の間はいつも十八度な、塾のクーラーの風よりも冷たい空気には覚えがあった。

 冬だ。

 相変わらず蝉はうるさいのに、小さな砂山の中に充満した空気は、せいぜい十度とかそんなものだろう。向こう側の泣き声は、また「悲しい」と言った。間違いない、泣いているのは子供だ。

 不思議なことに、怪談で聞くような恐怖感はなかった。冬の空気が流れ込んでくるせいで涼しいとは思うが、背筋が凍るとか、鳥肌が立つとか、そういったことは一切ない。何かにたとえるなら、夏、学校から帰って直行したキッチンで水分補給ついでに開けっ放しにした冷蔵庫の冷気で涼んでいるときの涼しさである。そこに省エネという文字はない。だから――だから?――大胆な行動に出てしまったのだろう。

 光が差し込む穴の直径を、握りこぶし大に広げた。それから頭を低くして穴の中を覗き込む。下になった右の頬に、しっとりと冷たい砂の感触がした。そんなことはどうでもいい。つまり、穴の向こうに何があったかというと、手があった。
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